『樺美智子 聖少女伝説』(江刺昭子 文芸春秋2010年5月)を読んで、思うこと
50年後のいま
思いがけず書評の依頼を受けて読むことになった。1960年当時刊行の樺美智子関係文献を地元図書館で検索、遺稿集『人しれず微笑まん』だけは入手しておきたいと思ったが、出版元は電話がつながらず、「日本の古本屋」にも在庫がなかった。ところが、6月15日朝一番のメールは、「探求」を掛けていたその遺稿集の在庫を知らせる古書店からだった。
樺さんが亡くなって50年のこの日のマス・メデイアといえば、夜半にかけてのワールドカップ、カメルーン戦で、日本が初戦を突破したと沸いていた。NHKの夜7時のテレビニュースは、力士の野球賭博関連がトップで「ハンデ師」など野球賭博の仕組みにまで言及し、2番目がサッカーというスポーツ紙さながらの様相であった。国会は一切の会期延長を拒んだ与党民主党によって最終日16日を迎えようとしていた。
たしかに、ことしの6月15日前後の新聞には、本書の出版に絡めての関連記事が散見された。多くは本書の著者と当時の活動家や関係者の取材にもとづいた記事だった。1937年生まれの樺さんよりは5歳若い著者の江刺さんは、サブタイトルの「聖少女伝説」とか、帯にある「60年安保 悲劇のヒロインの素顔」の文字の蔭から、「60年安保闘争の唯一の死者として、伝説の人物として、聖化され、美化され」半世紀を越えることへの異議申立てを試みたと言えよう。本人の遺した記録や足跡、家族や関係者の取材や証言、数々の資料から、実像に迫ろうとする努力は分かったが、それはどこまで功を奏したか。
実像に迫れたのか
本書は6章からなる。1・2章では、美智子の文化的にも経済的にも恵まれた家庭に育ち、自治会活動にも熱心な高校時代、一浪を経て、一九五七年東京大学に入学、二〇歳で日本共産党に入党し、活動家のスタートを切るまでが描かれる。3章・4章では、共産党内の分派活動家たちによる「共産主義者同盟」(ブント)へ参加、1960年6月15日の死の直前までが検証される。教養学部時代は、目黒区で地域の労働者の勤務評定反対運動などを支え、国史学科へ進む。警職法反対闘争に加えて、安保改定反対運動が国民的にも盛り上りを見せるなか、美智子は、1960年1月岸首相の安保条約改定調印のための訪米を阻止するため羽田空港食堂に籠城、検挙を体験して、政治的な使命感をさらに強める過程に迫る。5章「六月一五日と、その後」6章「父母の安保闘争」では、美智子の死の前後と周辺の動向が検証され、その死をめぐっては、国会構内での学生・警官隊の動き、解剖結果の死因―圧死か扼死―を巡る対立、実在しない至近学生の証言報道などの問題が提起され、疑問は疑問として残す。「国民葬」の経緯や活動家のその後やふいに娘を奪われた両親の苦悩と各々の死まで長きにわたって担わされた政治的な役割についてたどる。
50年前の6月は
書評の方は、別途読んでいただくこととして・・・。この本を読んでいて、やはりよみがえるのは、当時の自分の姿だった。60年安保を体験した世代の人々が振り返るとき、その多くは、6月15日、自分はどこでなにをしていたか、何を考えていたかから語り出すという。樺さんの死の衝撃は重かっただけに、彼女たちの心情に寄り添えるものなら寄り添いたいと感傷的になるのも否定できなかった。
私といえば、大学に入学しても専攻の法律の勉強に身が入らないまま、「短歌」のサークルに入り、夜は映画青年気取りで、シナリオ作家協会の教室に通っていた。6月15日の夜も、夕方にはデモ行進の列から離れ、当時霞町にあった教室で授業を受け、夕食のために入った近くの店のテレビで事件を知った。
帰宅すると、私の整理ダンスの引き出しが乱れていた。女子学生死亡のニュースを聞いた家族がその女子学生の着衣の色のセーターを探したというのだ。私には受験浪人時代、ある新聞に、当時の勤評反対・警職法反対闘争の報道に接しながら、そうした活動に参加できない受験生の悩みを訴えた投書が載り、肩書に付した予備校宛や新聞社に共感の手紙や脅迫状がたくさん届いて、家族を心配させた前歴があったのだ。予備校では、校長室に呼ばれ、「受験生が何を考えているのか、全学連が予備校に押しかけてきたらどうするのか」と説教をされ、手紙などの束を渡されるのだった。模試の度、廊下に張り出される席次を思い、ただただ、身を縮めて引き下がるしかなかった。大学に入ると、自由になった分、私の関心は拡散してしまうのだが、政府の安保条約改定への一連の暴力的な強硬策と改定阻止運動の盛り上がりに無関心ではいられなくなった、というのがノンポリだった私のスタンスだった。
6月18日の夜半には、いわゆる「反主流派」の大学自治会の指示に従って、議事堂には近づけないまま砂利の広場にしゃがみこみ、時間はいたずらに過ぎるばかりだった。菓子パンをクラスメートと分け合ったのを覚えている。ナチスによる国会議事堂放火事件のように挑発に乗ってはいけないと戒める友人もいた。演説を聞くともなく聞き、その夜は疲れるほど歌うこともなく、終電近い地下鉄で一人帰宅したのではなかったか。
それから5年後
私は国会議事堂近くの職場で働いていた。卒業後2度目の職場であったが、相変わらず気が多くて、昼休みとなれば、書道サークルでの稽古や皇居1周のジョギングに励むようになっていた。これは実らなかったが、法律の勉強を再開したいなどと考えることもあった。それでも、毎年、6月15日の昼休みには、連れ立つこともなく一人で、議事堂を大きく一回りし、通勤途上の南通用門、決して開くことのない、鉄条網がめぐらされている門の前に足を止めた。たまたま職場に近かったからという理由しか見つからないのだが、自分を省みるよい機会だったかもしれない。国会周辺は、その時の政情やイベントで、装甲車が立て込むこともあるが、そうでなくとも数台は必ず待機しているのを目の当たりにした。退職するまでの、10年余、そんなことが続いた。今でもときどき、議員会館や国立国会図書館に出かけることがある。装甲車が常に待機して守る国会議事堂とは何なのだろう。最近、ヨーロッパ諸国を訪れて思うのは、国会議事堂の、あの「無防備」な開放的なたたずまいである。ウィーンやベルン、ベルリンやブダペスト・・・、議事堂前の広場で遊ぶ家族連れ、階段やアプローチに憩う人々、あるいは見学のための長い行列、日本では見かけることのない光景であった。
さらに数年後は
さらに数年後の1969年、私大の2部に通っていた同期の同僚が、全学連の活動で捕えられ、休職処分となった。日常的には活発と言われていた職場の労働組合の処分への対応が、あまりにもセクト的で冷淡だったことに失望したこともあった。処分撤回を求めていた、その同僚が廊下の片隅に出勤する日が続き、職場が重く緊張した時代もあった。その同僚も去り、さらに、その数年後、私は出産を控え、連れ合いの勤務地に転居、転職したのだった。
そして、いま
参議院選挙の公示とサッカーのデンマーク戦勝利が重なった上、選挙の争点は「消費税増税」に移り、沖縄の基地問題はまた後退してしまった感がある。なぜ日本に米軍基地があるのか、に立ち返らなければならないというのに。
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コメント
初めまして。僕は元新聞記者のフリーライターで、かっての全共闘運動の活動家です。慶応大学の68、9年の全共闘運動と、そのシンパで、1973年に新宿区のアパートの階段の踊り場から転落して24歳で他界してしまった美少女の思い出を「美少女伝説」という作品に書き、3月に新左翼系の出版社である世界書院から「情況新書」の1冊として刊行しました。
この人は、戦前の大物政治学者の河合栄治郎・東大教授のお孫さん、民社党のブレーンだった関嘉彦・都立大名誉教授(故人)の娘さんでした。
「70年の樺美智子さん、神話の少女」にしたくて書きました。樺さんのように、政治行動の中で落命したわけではありませんが、60年代末のラディカリスムの影響を強く受けた生き方をしている中で、事故死した人です。樺さんに関心のある方なら共感していただけるのではないか、と思いますむ。アマゾンですぐ購入できます。
作品中にIさんとして登場する主人公の親友の同級生は、72年に文化出版局にはいり、ミセスの編集などで20年間、仕事をしており、今はフリーライターで、著作もあります。江刺さんの後輩に当たる人です。御紹介させていただきました。
投稿: 山田宏明 | 2011年5月 6日 (金) 19時17分