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2010年6月27日 (日)

20世紀メディア研究所の研究会(第55回 特集・プランゲ文庫所蔵資料による占領期研究)に参加して

研究所の会員登録をしているので、研究会のお知らせは毎回メールで頂く。日程や体調で見逃すことが多いのだが、今回は参加することができ、収穫も多かった。近年では、第50回のCIA特集の時以来である。(プログラム)

  日時  2010年6月26日(土)午後2時~午後5時
  場所  早稲田大学 1号館 401教室
    司会  土屋礼子(早稲田大学)
 <特別報告>
  ・ マクヴェイ山田久仁子(ハーバード・イェンチン図書館):
     ハーバード在学中の鶴見俊輔氏旧蔵の本について
 <プランゲ文庫所蔵資料による占領期研究占領期データベースの効用>
  1 占領期データベースの現況報告:山本武利(早稲田大学)
  2 下田太郎(栃木県歴史文化研究会員):
     プランゲ文庫所蔵栃木県内発行雑誌・新聞について
       ──「疎開」と「上京」をキーワードに
  3 鈴木貴宇(早稲田大学オープン教育センター):
     占領期の東京風景を読む:プランゲ文庫所蔵視覚資料より
  4 杉森典子(カラマズー大学):
     新聞の皇室敬語簡素化への占領の影響
      ──CCD検閲、国語審議会、宮内省の方針とその実際

 

 私がもっとも聴きたいと思ったのは杉森氏の報告の「占領期の皇室敬語」についてであった。いずれについても正式な報告や論文が公表されるのだろうけれど、簡単な報告と感想を述べておきたい。

 

山田氏の報告:鶴見俊輔旧蔵の書籍がハーバード・イェンチン図書館収蔵図書の中に<War Dep’t>の押印のもと、1949年に受け入れられている事実についてと今わかっている50冊近い図書についてであった。イェチン図書館には、中国語、日本語はじめ東アジアの図書が集められているというが、鶴見旧蔵の書籍が受け入れられた経緯や網羅的な検索でないのでまだほかにもあるかもしれず全体像がまだ分からない。中には船上で読了した日付をはじめ、傍線・朱線・感想などの書き込みがあって、当時の鶴見の読書遍歴が知れて興味深い。多くは岩波文庫であったり、ロシア文学作品であったり、哲学書であったりで、鶴見氏ご本人にも確認したいがまだできていない、ということであった。

山本先生の報告:占領期データベースの現況ということで、昨年中断した雑誌・新聞データベース関連の日本学術振興会科学研究費が今年採択されたということだった。ほんとうは国の規模で、国会図書館のようなところでしなければならない基本的な仕事ながら、「仕分け」されるなどとんでもないことだと思った。なお、研究所の出版活動として岩波から刊行中の『占領期雑誌資料大系・文学編』の売行きが今一つ、と心配されていた。全53万円、個人では考えてしまう。年表や索引のある第5巻くらいは購入できるかなとは思う。研究所メンバーによるCIACIEに関する研究会もこの秋から公開するそうだ。山本先生は来年早稲田の定年とのこと、後任として、この日の司会の土屋礼子氏がすでに着任されている。

 

下田氏の報告:占領期における栃木県内の新聞・雑誌の状況をプランゲ文庫利用による調査・分析だった。東京に近いということもあって、戦時中から「疎開」した東京人による文化活動、「上京」による影響などを主なタイトルについて分析していた。なかでも短歌雑誌、とくに右翼的な雑誌が検閲の対象となっていることに触れていた。私もかつて、横手一彦氏作成のリストをもとに、全国レベルでの短歌雑誌の検閲状況について調べたことがある。民族・皇国主義的な影山正治系の短歌雑誌が多く対象となり、他には、原爆を詠んだ作品、占領軍を詠んだ作品などが何らかのチェックを受けていることが分かった。にもかかわらず、現実に国会図書館所蔵の雑誌では元の原稿のままであったりすることもままあった。その経緯などを知りたいと思いながら、また、検閲に実際に従事した日本人の、検閲を受けた雑誌の編集者や執筆者の証言も知りたいと思った。「ときすでに遅し」かもしれない、などと聴きながら考えていた。

 

鈴木氏の報告:報告者は近代日本文学の若手研究者で、戦後文学の研究が占領期に撮られて写真の「風景」によって補完される側面があるのではないかというのが動機だったと理解した。プランゲ文庫にあった写真資料、時事通信社とサンニュースフォトスが配信した写真ファイル、時事180枚、サン98枚を対象にしている。写真とキャプションがセットとなって保管されている場合が多いが、検閲を経たものなのか、提出されたものなのか、実際に新聞に発表されたものなのか否かの照合などは今後の仕事だという。時事のものは、事件性にかかわる写真が少なく、日常風景が多い。サンのものには海外情報が多く、皇族の写真、占領軍と日本人の交流に関するもの多い。共通点としては抑留者の帰還、戦後の新風俗・文化に関するものなどが多い、とのことだった。また、「占領軍と日本人の交流」風景は写真としては多くはないのだが、「絵本」に現れている例などが報告された。昭和20年代、私が小学生のころ、我が家では、夕刊は駅頭の新聞売りから買うものだった。5分ほどの駅まで、買いに行かせられたこともあった。写真の多い「サン」は、年の離れた兄たちや父が好んで見ていたような記憶もある。母は商店の主婦としてのやりくりがあったのだろうか「ウチは新聞(朝刊)を二つとっているし、三時のオヤツを欠かさないから、よそみたいにお金がたまらない」(?!)などと嘆いていたことなどを思い出すのだった。

 

杉森氏の報告:表題での論文は、ボストン大学に博士論文として提出されたとのこと。

1872年から2009年までの「朝日新聞」(前身の「東京日日新聞」も含む)の天皇誕生日の記事の動詞に使われた敬語形態素の頻度を数量的に調べ、4つのエポックの内の占領初期(194647年)の急激な減少(簡素化)に着目、その変化の要因を ①新聞社の編集方針②国語政策、国語審議会の「これからの敬語」など ③占領軍の検閲方針 ④宮内省の意向 ⑤関係者のインタビュー、から検証している。いずれの場合も、活字になっている資料や先行研究はもちろんだが、当時の日米の関係者のインタビューを実現しているという、太平洋を越えてのフットワークのよさに感心した。結論的には、①②③において皇室敬語に関する文書は見当たらず、インタビューにおいてもかかわったという証言はなかった。ただ、④において、1946年(?)の本多猶一郎の「宮中改革案」における敬語についての問題提起は確認できたが、1947年の宮内省と報道関係との間に基本的な了解があったという裏付けが取れていないということであった。質疑のなかで、占領軍は皇室敬語自体にはあまり関心を持っていなかったのではないか、それよりも占領軍、マッカーサーなどへの不都合な情報検閲に重点を置いていたのではないか、などの意見も出されていた。

 

 朝日新聞においては、平成に入ってからの皇室敬語の減少と1993年の動詞の敬語の廃止が一つのエポックではあったが、今日でも、新聞・テレビなどでの皇室敬語は依然として存在し、使用されている。が、とくにテレビなどでは、アナウンサーはじめコメンテイターやタレントが皇室への敬語に戸惑い、混乱している様子をよく見かける。天皇制、皇室制度自体が現代人にとっては非常にあいまいな存在の中、当然の現象といえよう。皇室敬語は、もはや一人歩きはできず、皇室行政、政権、マス・メディア、受け手たる国民の皇室観・天皇観を総体的に映す鏡のような気がするだけに、興味深い。しかし、学校教育における「日の丸・君が代」の画一や強制のような道をとる危険性がないとは言えない、と思うのだった。

 

 今回は、占領期を体験してない世代、また、海外で研究を進めている研究者の報告は心強く思えた。 

 

 

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