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2010年6月27日 (日)

20世紀メディア研究所の研究会(第55回 特集・プランゲ文庫所蔵資料による占領期研究)に参加して

研究所の会員登録をしているので、研究会のお知らせは毎回メールで頂く。日程や体調で見逃すことが多いのだが、今回は参加することができ、収穫も多かった。近年では、第50回のCIA特集の時以来である。(プログラム)

  日時  2010年6月26日(土)午後2時~午後5時
  場所  早稲田大学 1号館 401教室
    司会  土屋礼子(早稲田大学)
 <特別報告>
  ・ マクヴェイ山田久仁子(ハーバード・イェンチン図書館):
     ハーバード在学中の鶴見俊輔氏旧蔵の本について
 <プランゲ文庫所蔵資料による占領期研究占領期データベースの効用>
  1 占領期データベースの現況報告:山本武利(早稲田大学)
  2 下田太郎(栃木県歴史文化研究会員):
     プランゲ文庫所蔵栃木県内発行雑誌・新聞について
       ──「疎開」と「上京」をキーワードに
  3 鈴木貴宇(早稲田大学オープン教育センター):
     占領期の東京風景を読む:プランゲ文庫所蔵視覚資料より
  4 杉森典子(カラマズー大学):
     新聞の皇室敬語簡素化への占領の影響
      ──CCD検閲、国語審議会、宮内省の方針とその実際

 

 私がもっとも聴きたいと思ったのは杉森氏の報告の「占領期の皇室敬語」についてであった。いずれについても正式な報告や論文が公表されるのだろうけれど、簡単な報告と感想を述べておきたい。

 

山田氏の報告:鶴見俊輔旧蔵の書籍がハーバード・イェンチン図書館収蔵図書の中に<War Dep’t>の押印のもと、1949年に受け入れられている事実についてと今わかっている50冊近い図書についてであった。イェチン図書館には、中国語、日本語はじめ東アジアの図書が集められているというが、鶴見旧蔵の書籍が受け入れられた経緯や網羅的な検索でないのでまだほかにもあるかもしれず全体像がまだ分からない。中には船上で読了した日付をはじめ、傍線・朱線・感想などの書き込みがあって、当時の鶴見の読書遍歴が知れて興味深い。多くは岩波文庫であったり、ロシア文学作品であったり、哲学書であったりで、鶴見氏ご本人にも確認したいがまだできていない、ということであった。

山本先生の報告:占領期データベースの現況ということで、昨年中断した雑誌・新聞データベース関連の日本学術振興会科学研究費が今年採択されたということだった。ほんとうは国の規模で、国会図書館のようなところでしなければならない基本的な仕事ながら、「仕分け」されるなどとんでもないことだと思った。なお、研究所の出版活動として岩波から刊行中の『占領期雑誌資料大系・文学編』の売行きが今一つ、と心配されていた。全53万円、個人では考えてしまう。年表や索引のある第5巻くらいは購入できるかなとは思う。研究所メンバーによるCIACIEに関する研究会もこの秋から公開するそうだ。山本先生は来年早稲田の定年とのこと、後任として、この日の司会の土屋礼子氏がすでに着任されている。

 

下田氏の報告:占領期における栃木県内の新聞・雑誌の状況をプランゲ文庫利用による調査・分析だった。東京に近いということもあって、戦時中から「疎開」した東京人による文化活動、「上京」による影響などを主なタイトルについて分析していた。なかでも短歌雑誌、とくに右翼的な雑誌が検閲の対象となっていることに触れていた。私もかつて、横手一彦氏作成のリストをもとに、全国レベルでの短歌雑誌の検閲状況について調べたことがある。民族・皇国主義的な影山正治系の短歌雑誌が多く対象となり、他には、原爆を詠んだ作品、占領軍を詠んだ作品などが何らかのチェックを受けていることが分かった。にもかかわらず、現実に国会図書館所蔵の雑誌では元の原稿のままであったりすることもままあった。その経緯などを知りたいと思いながら、また、検閲に実際に従事した日本人の、検閲を受けた雑誌の編集者や執筆者の証言も知りたいと思った。「ときすでに遅し」かもしれない、などと聴きながら考えていた。

 

鈴木氏の報告:報告者は近代日本文学の若手研究者で、戦後文学の研究が占領期に撮られて写真の「風景」によって補完される側面があるのではないかというのが動機だったと理解した。プランゲ文庫にあった写真資料、時事通信社とサンニュースフォトスが配信した写真ファイル、時事180枚、サン98枚を対象にしている。写真とキャプションがセットとなって保管されている場合が多いが、検閲を経たものなのか、提出されたものなのか、実際に新聞に発表されたものなのか否かの照合などは今後の仕事だという。時事のものは、事件性にかかわる写真が少なく、日常風景が多い。サンのものには海外情報が多く、皇族の写真、占領軍と日本人の交流に関するもの多い。共通点としては抑留者の帰還、戦後の新風俗・文化に関するものなどが多い、とのことだった。また、「占領軍と日本人の交流」風景は写真としては多くはないのだが、「絵本」に現れている例などが報告された。昭和20年代、私が小学生のころ、我が家では、夕刊は駅頭の新聞売りから買うものだった。5分ほどの駅まで、買いに行かせられたこともあった。写真の多い「サン」は、年の離れた兄たちや父が好んで見ていたような記憶もある。母は商店の主婦としてのやりくりがあったのだろうか「ウチは新聞(朝刊)を二つとっているし、三時のオヤツを欠かさないから、よそみたいにお金がたまらない」(?!)などと嘆いていたことなどを思い出すのだった。

 

杉森氏の報告:表題での論文は、ボストン大学に博士論文として提出されたとのこと。

1872年から2009年までの「朝日新聞」(前身の「東京日日新聞」も含む)の天皇誕生日の記事の動詞に使われた敬語形態素の頻度を数量的に調べ、4つのエポックの内の占領初期(194647年)の急激な減少(簡素化)に着目、その変化の要因を ①新聞社の編集方針②国語政策、国語審議会の「これからの敬語」など ③占領軍の検閲方針 ④宮内省の意向 ⑤関係者のインタビュー、から検証している。いずれの場合も、活字になっている資料や先行研究はもちろんだが、当時の日米の関係者のインタビューを実現しているという、太平洋を越えてのフットワークのよさに感心した。結論的には、①②③において皇室敬語に関する文書は見当たらず、インタビューにおいてもかかわったという証言はなかった。ただ、④において、1946年(?)の本多猶一郎の「宮中改革案」における敬語についての問題提起は確認できたが、1947年の宮内省と報道関係との間に基本的な了解があったという裏付けが取れていないということであった。質疑のなかで、占領軍は皇室敬語自体にはあまり関心を持っていなかったのではないか、それよりも占領軍、マッカーサーなどへの不都合な情報検閲に重点を置いていたのではないか、などの意見も出されていた。

 

 朝日新聞においては、平成に入ってからの皇室敬語の減少と1993年の動詞の敬語の廃止が一つのエポックではあったが、今日でも、新聞・テレビなどでの皇室敬語は依然として存在し、使用されている。が、とくにテレビなどでは、アナウンサーはじめコメンテイターやタレントが皇室への敬語に戸惑い、混乱している様子をよく見かける。天皇制、皇室制度自体が現代人にとっては非常にあいまいな存在の中、当然の現象といえよう。皇室敬語は、もはや一人歩きはできず、皇室行政、政権、マス・メディア、受け手たる国民の皇室観・天皇観を総体的に映す鏡のような気がするだけに、興味深い。しかし、学校教育における「日の丸・君が代」の画一や強制のような道をとる危険性がないとは言えない、と思うのだった。

 

 今回は、占領期を体験してない世代、また、海外で研究を進めている研究者の報告は心強く思えた。 

 

 

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2010年6月25日 (金)

インターネットの中の短歌情報~楽しく、役に立つ私流ネット検索(3) 出版社のホームページ、ブログの役割とは

           

さきに、短歌関係出版社としては後発の青磁社のHPを紹介したが、他の幾つかを概観してみよう。

⑧ながらみ書房
ホームページは、2009730日の更新でストップしている。自社による前川佐美雄賞、ながらみ書房出版賞、ながらみ現代短歌賞の受賞者一覧と2006年以降の『短歌往来』の各月号の目次を見ることができる。なお、新しい出版情報は、「短歌blog往来」のブログでみることができるが、やはり少なくとも最新の『短歌往来』各月号目次は更新しておいてほしい。

⑨短歌研究社
 『短歌研究』の目次の一覧は1998年から見られるようなっているようなのだが、最近の23年はともかく少し古くなると特集一覧となり、さらに目次を開こうとすると、エラーだったり、リンク無効だったりで目次にたどり着けない。平成元年からのバックナンバーはすべて在庫があるそうだ。自社の短歌研究新人賞、現代短歌評論賞、短歌研究賞の受賞者一覧が収録されている。一覧ながら、賞の沿革が若干分かって興味深い。ただし、選考委員、応募数までの記録はない。むしろ個人運営の①短歌ポータルの方が詳細だ。他に、出版物リストがあるが、多分在庫目録なのだろう。著者別の索引も整備中というが、これも対象が不明確で、もちろん網羅性はない。『年鑑』誌上で続けている「結社誌・同人誌主要論文一覧・抄出集」などのデータは貴重だが、それをうまく活用できないか。あと少し手を加えることによって、国立国会図書館、国文学資料館などが書誌作成の対象としていない短歌総合誌、結社誌、同人誌などの記事・論文目録の作成ができないか、と思う。

⑩角川学芸出版
『短歌』の出版元である。最新号の目次は見られるが、バックナンバーは、同社共通のバックナンバーサイトで2006年以降分が表紙の画像と在庫の有無だけが分かる。力を入れているのは角川短歌賞と角川全国短歌大賞らしい。前者の受賞者一覧と現在の応募要項が示される。ここのメインは、『短歌』編集部杉岡中編集長の短歌をめぐるブログ「流れる日々」で、編集部に出入りする歌人たちや編集長が参加したイベントなどを中心とした写真入りの日誌である。『短歌』誌上のグラビア、座談会、選考会などに登場する歌人たちの動向が伝えられる。いわば著名歌人、今をときめく歌人たちの笑顔と楽屋話で綴られている。今回初めて閲覧したが、宣伝とはいえ、こういうものが喜ばれているのかもしれない。しかし、短歌総合誌のホームページなり、ブログだったら、もっとほかにやるべきことはないのかと、ちょっとがっかりした。一方では、かつて『短歌』も担っていた『年鑑』における「短歌年表」作成のような地味な書誌的作業を放棄してしまって久しい。先行研究文献に目を通さない、あえて無視する論文やエッセイの書き手たち、手近で間に合わせる不心得を助長することにももなりかねない。

⑪短歌新聞社
 
月刊の『短歌新聞』『短歌現代』の出版元で、最新号の収容記事タイトルを見ることができる。『現代』の方には特集名のみの、2年間ほどさかのぼっての一覧がある。出版の歌集歌書の内、文庫や双書などのシリーズものは一覧となっており、新刊本や全歌集、「好評本」「古き良き本」などフロントページに載っているものは、著者、書名索引の対象らしい。また、一部ながら、解題が付されているので便利で助かる。多くの単行の歌集歌書となると確認できず、埋没してしまっている。(続く)
(『ポトナム』20107月号所収)

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『樺美智子 聖少女伝説』(江刺昭子 文芸春秋2010年5月)を読んで、思うこと

50年後のいま

思いがけず書評の依頼を受けて読むことになった。1960年当時刊行の樺美智子関係文献を地元図書館で検索、遺稿集『人しれず微笑まん』だけは入手しておきたいと思ったが、出版元は電話がつながらず、「日本の古本屋」にも在庫がなかった。ところが、615日朝一番のメールは、「探求」を掛けていたその遺稿集の在庫を知らせる古書店からだった。

樺さんが亡くなって50年のこの日のマス・メデイアといえば、夜半にかけてのワールドカップ、カメルーン戦で、日本が初戦を突破したと沸いていた。NHKの夜7時のテレビニュースは、力士の野球賭博関連がトップで「ハンデ師」など野球賭博の仕組みにまで言及し、2番目がサッカーというスポーツ紙さながらの様相であった。国会は一切の会期延長を拒んだ与党民主党によって最終日16日を迎えようとしていた。

たしかに、ことしの615日前後の新聞には、本書の出版に絡めての関連記事が散見された。多くは本書の著者と当時の活動家や関係者の取材にもとづいた記事だった。1937年生まれの樺さんよりは5歳若い著者の江刺さんは、サブタイトルの「聖少女伝説」とか、帯にある「60年安保 悲劇のヒロインの素顔」の文字の蔭から、「60年安保闘争の唯一の死者として、伝説の人物として、聖化され、美化され」半世紀を越えることへの異議申立てを試みたと言えよう。本人の遺した記録や足跡、家族や関係者の取材や証言、数々の資料から、実像に迫ろうとする努力は分かったが、それはどこまで功を奏したか。

実像に迫れたのか

本書は6章からなる。12章では、美智子の文化的にも経済的にも恵まれた家庭に育ち、自治会活動にも熱心な高校時代、一浪を経て、一九五七年東京大学に入学、二〇歳で日本共産党に入党し、活動家のスタートを切るまでが描かれる。3章・4章では、共産党内の分派活動家たちによる「共産主義者同盟」(ブント)へ参加、1960615日の死の直前までが検証される。教養学部時代は、目黒区で地域の労働者の勤務評定反対運動などを支え、国史学科へ進む。警職法反対闘争に加えて、安保改定反対運動が国民的にも盛り上りを見せるなか、美智子は、19601月岸首相の安保条約改定調印のための訪米を阻止するため羽田空港食堂に籠城、検挙を体験して、政治的な使命感をさらに強める過程に迫る。5章「六月一五日と、その後」6章「父母の安保闘争」では、美智子の死の前後と周辺の動向が検証され、その死をめぐっては、国会構内での学生・警官隊の動き、解剖結果の死因―圧死か扼死―を巡る対立、実在しない至近学生の証言報道などの問題が提起され、疑問は疑問として残す。「国民葬」の経緯や活動家のその後やふいに娘を奪われた両親の苦悩と各々の死まで長きにわたって担わされた政治的な役割についてたどる。

50年前の6月は

書評の方は、別途読んでいただくこととして・・・。この本を読んでいて、やはりよみがえるのは、当時の自分の姿だった。60年安保を体験した世代の人々が振り返るとき、その多くは、615日、自分はどこでなにをしていたか、何を考えていたかから語り出すという。樺さんの死の衝撃は重かっただけに、彼女たちの心情に寄り添えるものなら寄り添いたいと感傷的になるのも否定できなかった。

私といえば、大学に入学しても専攻の法律の勉強に身が入らないまま、「短歌」のサークルに入り、夜は映画青年気取りで、シナリオ作家協会の教室に通っていた。615日の夜も、夕方にはデモ行進の列から離れ、当時霞町にあった教室で授業を受け、夕食のために入った近くの店のテレビで事件を知った。

帰宅すると、私の整理ダンスの引き出しが乱れていた。女子学生死亡のニュースを聞いた家族がその女子学生の着衣の色のセーターを探したというのだ。私には受験浪人時代、ある新聞に、当時の勤評反対・警職法反対闘争の報道に接しながら、そうした活動に参加できない受験生の悩みを訴えた投書が載り、肩書に付した予備校宛や新聞社に共感の手紙や脅迫状がたくさん届いて、家族を心配させた前歴があったのだ。予備校では、校長室に呼ばれ、「受験生が何を考えているのか、全学連が予備校に押しかけてきたらどうするのか」と説教をされ、手紙などの束を渡されるのだった。模試の度、廊下に張り出される席次を思い、ただただ、身を縮めて引き下がるしかなかった。大学に入ると、自由になった分、私の関心は拡散してしまうのだが、政府の安保条約改定への一連の暴力的な強硬策と改定阻止運動の盛り上がりに無関心ではいられなくなった、というのがノンポリだった私のスタンスだった。

618日の夜半には、いわゆる「反主流派」の大学自治会の指示に従って、議事堂には近づけないまま砂利の広場にしゃがみこみ、時間はいたずらに過ぎるばかりだった。菓子パンをクラスメートと分け合ったのを覚えている。ナチスによる国会議事堂放火事件のように挑発に乗ってはいけないと戒める友人もいた。演説を聞くともなく聞き、その夜は疲れるほど歌うこともなく、終電近い地下鉄で一人帰宅したのではなかったか。

それから5年後

私は国会議事堂近くの職場で働いていた。卒業後2度目の職場であったが、相変わらず気が多くて、昼休みとなれば、書道サークルでの稽古や皇居1周のジョギングに励むようになっていた。これは実らなかったが、法律の勉強を再開したいなどと考えることもあった。それでも、毎年、615日の昼休みには、連れ立つこともなく一人で、議事堂を大きく一回りし、通勤途上の南通用門、決して開くことのない、鉄条網がめぐらされている門の前に足を止めた。たまたま職場に近かったからという理由しか見つからないのだが、自分を省みるよい機会だったかもしれない。国会周辺は、その時の政情やイベントで、装甲車が立て込むこともあるが、そうでなくとも数台は必ず待機しているのを目の当たりにした。退職するまでの、10年余、そんなことが続いた。今でもときどき、議員会館や国立国会図書館に出かけることがある。装甲車が常に待機して守る国会議事堂とは何なのだろう。最近、ヨーロッパ諸国を訪れて思うのは、国会議事堂の、あの「無防備」な開放的なたたずまいである。ウィーンやベルン、ベルリンやブダペスト・・・、議事堂前の広場で遊ぶ家族連れ、階段やアプローチに憩う人々、あるいは見学のための長い行列、日本では見かけることのない光景であった。

さらに数年後は

さらに数年後の1969年、私大の2部に通っていた同期の同僚が、全学連の活動で捕えられ、休職処分となった。日常的には活発と言われていた職場の労働組合の処分への対応が、あまりにもセクト的で冷淡だったことに失望したこともあった。処分撤回を求めていた、その同僚が廊下の片隅に出勤する日が続き、職場が重く緊張した時代もあった。その同僚も去り、さらに、その数年後、私は出産を控え、連れ合いの勤務地に転居、転職したのだった。

そして、いま

参議院選挙の公示とサッカーのデンマーク戦勝利が重なった上、選挙の争点は「消費税増税」に移り、沖縄の基地問題はまた後退してしまった感がある。なぜ日本に米軍基地があるのか、に立ち返らなければならないというのに。

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2010年6月21日 (月)

インターネットの中の短歌情報~楽しく、役に立つ私流ネット検索(2)名古屋発信の歌人のブログ

⑤加藤孝男のサイバー備忘録

bunbu.exblog.jp(運営者加藤孝男)

  「文武を極める」と命名したブログとして、二〇〇五年一〇月に開かれた。運営者は、「まひる野」所属の名古屋の東海学園大学人文学部に勤める日本近代文学の研究者である。ブログでは、幼い愛娘が核となった家庭生活や大学での教育・研究を軸にしたキャンパスライフとともに、武術にも励む歌人の暮らしが綴られている。東海学園大学がまだ短大だった頃、図書館に勤めていた筆者は、氏とはすれ違いで、一度もお会したことがない。時代こそ違うが、わたしのかつての生活圏とかなり重なるところがある。登場する先生たち、図書館や労組の人たちの中に、知る人もいる。よく立ち寄る料理店やスーパーなど、なつかしい名前も登場する。大学となって名古屋市郊外に第二キャンパスができたけれど、人文学部は天白区平針の旧短大キャンパスにある。私の職場だった円形の図書館も健在で、いちばん古い建物になっているという。大学のホームページでは、図書館職員が頑張っている様子が『図書館だより』などに見てとれる。

  氏は二〇〇八年に『近代短歌史の研究』(明治書院)を刊行、私は、とくに戦後短歌史の部分を興味深く読んだ。戦前・戦後の短歌のアンソロジーの流れをきちんとおさえつつ、分析している論文に関心を持った。各アンソロジー(編者)によって選出された茂吉の『白き山』の作品をめぐって、アンソロジーの可能性を探っている点が新鮮だった。また、『短歌雑誌八雲』の評価をめぐっても、冷静な視点が生きていた。

  氏の関心は広いが、短歌関係では、最近、与謝野鉄幹と朝鮮の閔妃暗殺事件との関係を探った論文を完成させたようで、私もぜひ読みたいものと思っている。

 ⑥竹の子日記(運営者:鈴木竹志)

  『短歌往来』連載の「歌誌漂流」では結社誌・同人誌によく目を通してのレビューを楽しませてもらっている。ブログは、高校教師としての日常とあまり気張らない読書人としての記録や名古屋圏の歌壇情報が主である。私にはすでに縁遠くなってしまった教育現場だが、近頃の高校生たちの教育環境や教師たちの職場事情ものぞかせる。生徒への愛情や同僚へ気配りも行き届き、教師たちの「我慢強さ」も語られるが、いったい何が起こっているのだろうか。私などには、多分相当ストレスになるであろうことにも、泰然とした風がうかがわれる。あと一年で定年を迎えるらしい。

⑦WAKA(運営者加藤治郎)

「ある歌人の ふうがわりな日々」の副題を持つブログだ。氏は、荻原裕幸氏らと短歌とインターネットの世界を結んだリーダー的存在だ。このブログの前身でもある「鳴尾日記」(二〇〇一年一月~)の最終日、二〇〇五年六月四日には次のような記述がある。

ここに来て、「未来」(毎月)、「毎日歌壇」(毎週)、「うたうクラブ」(毎季)と選歌の仕事が増えた。選歌人生が始まったのだ。40代半ばである。第二の人生とまでは言わないが、何かが変わった気がする。

「未来」の選歌欄メンバーによるグループ「彗星集」を立ち上げ、ネット上の情報交換やリアルな歌会を実施、雑誌『新彗星』も二〇〇八年五月に創刊、昨年三号を刊行した。結社誌の中の「同人誌」の形成に「政治的意図」が見え隠れし、「毎日歌壇」のメール投稿開始などに見られる、師である岡井譲りの「気負い」と「上から目線」が、やや気になるところではある。(続く)

(『ポトナム』20106月号所収)

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2010年6月 8日 (火)

「自歌自註」というほどではありませんが

  自分の短歌を自分で注釈するようなチャンスはあまりなかったように思います。それに、自分の手を離れた作品にあれこれ説明することには、もともと積極的にはなれないでいます。そんな中、依頼により、次のような文章を書きました。なお、『短歌』の7月号には<想い出の場所、想い出の歌>として、次の一首にかかわり、想い出の場所「登戸(川崎市)」について書いています。おついでの折、ご覧いただければと思います。

・観覧車めぐれる丘まで枯れ草のひといろ身にあまるほどの明るさ(1972年)

①<日本の色を詠む>

茜      

・夕雲をほのかに染めてひっそりと海に没る日よ人間にたとえる1971年)

・人間の落葉図鑑あるならばいかなる色して地に還りゆく2000年)

末っ子の私が両親やきょうだいとの別れを経て、遺されてしまうのも摂理にちがいない。母の五十年忌も過ぎてしまった。そして、今は身近な人々との別れがふいにやってくる。やがて来る自ら終末を思うとき、人間の終の姿の大切さを思う。冒頭の二首にはその多様さを、また多くの選択肢が残されたような、多分にまだ「若い」余裕の感さえある。第二歌集『野の記憶』(2004年)から引いた。いずれも具体的な「色」は登場しないが、今の私にはさほどの選択肢がないことがわかってくる。

茜というのだろうか、その濃淡もある。茜草の根を乾燥させて染料を採る。布地を染めるには何度も何度も染めを重ねていくそうだ。私はむしろ、山の端や海の彼方に消え入る落日が周辺をわずかに染める茜色が好きだ。前田千寸『日本色彩文化史』の「色相の分化一覧」には、赤は、蘇芳・紅花・茜の三つに分化するように書かれていた。どの色も魅力的に思えるが、落日や落葉に似合うのは茜色ではないか。

ムンク「叫び」のフィヨルドに迫る血を流したような空、クリムト「アッター湖」の紅葉、エゴン・シ―レ「四本の木」の間に沈む太陽、どれも私には少し遠い気がする。

(『ポトナム』20106月号所収)

②<この一首、わたしの作歌ポイント>

・廃業にいたれる店のシャッターに沿いて灯れる自販機いくつ2006年)

 薬や雑貨を商う店に生まれた私は、身近な店の廃業を人ごとには思えない。閉店に挨拶の張り紙を読み、ここに暮らしていた人たちの無事を願うが、自販機の明るさがかえって辛い。

(『梧葉』2009年春号)

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2010年6月 7日 (月)

ポーランド、ウィーンの旅(6)ウィーン、またの日に

519 

シュテファン寺院の周辺で 

 今回は、美術館というところには寄らなかった。が、美術史美術館のカフェにだけはもう一度寄ってみたい、プラター公園に一度も行ったことがないし、アウルガルテンにも是非と思っていたが、叶わないまま、ウィーンを去らねばならない。ケルントナー通りに出たとたん、向いの店のウインドにお見かけしたような二人連れ、Bさんご夫妻だった。「やあやあ」「今日帰るんでしたね」「アイスランドの火山爆発の影響はなそうですね」「ニュースでも言わなくなりましたね」「お気をつけて」と別れるのだった。私たちは、まず、地図を頼りに、シュテファン寺院の東の路地を進むと、モーツアルトハウスが見つかった。まだまだ、開館の時間には間があるので、入り口の写真だけ撮る。モーツアルトが1784年から87年まで一家で暮らした家だ。

 ドーム小路からブルート小路をたどる。ジンガー通りに出て、ドイツ騎士団の館、ベートーベンの旧居を目指す。モーゼの泉のあるフランツィスカーナ教会前の広場には、ゴミ収集車が数台錯綜していた。若い女性に、地図を見せて尋ねてみると、どうもアーチ状の抜け道を通って進むらしい。自転車の女性は地元の人だろうと尋ねれば、地図上はまさにここだけど、と首をひねる。あちこちの小路には、カフェのテーブルやいすが重ねられ、昨夜の雨に打たれたのか、わびしい朝の光景ではあった。もう仕方がないとあきらめて、大通りに出ることにする。途中、建物の表札を見ながら、ここは、ジャーナリストたちの会の事務所らしい、どこかのプロフェッサーの住まいらしい、などと憶測を楽しみながら、中庭へと失礼することもある。アンカー時計の見えるホーハーマルクトに出た。実は一昨日もあるレストランを探しに、この辺をうろうろしたことがあったのだ。仕掛け時計のある、この空中の渡り廊下は、旧アンカー保険会社の社屋ビルをつなぐものだったという。いま、地図をよく見ると、きのう、めぐり廻った旧市庁もすぐ近くにあったのだった。あまり「収穫」はない散策ではあったが、シュテファン寺院近くの本屋さんTYROLIAでカレンダーでも買って帰ることにした。 

 今度こそ、事前の調査を綿密にして、効率よくウィーンめぐりをしたいとひそかに期するのだった。 

 今回、ダイヤモンド社の「地球の歩き方」、昭文社の「個人旅行」シリーズのガイドブックのほかに、各施設のカタログ、ウィーンでは、次の2冊が役に立った。

 

①山口俊明『ウィーン旧市街 とっておきの散歩道』(地球の歩き方Gem Stoneシ リーズ) ダイヤモンド社 2008年) 

②松岡由季『ウィーン 美しい都のもう一つの顔』(観光コースでないシリーズ) 

 高文研 2004年)

(どこの中庭だったか)

Nakaniwa

(シナゴーグが近い、遠くに警官が立つ)

Sinagogugatikai 

(フランツイスカーナー教会)Mozenoizumi_2

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ポーランド、ウィーンの旅(5)ウィーンの戦跡を中心に

 5月18日(火) 

レジスタンス資料室(DOM)に、今しばらく

 朝から小雨ではあったが、まずはケルントナー通り界隈にあるハイドンの住居跡、シューベルト未完成作曲の家などを探す。ウィーン市認定の史跡であることを示す国旗とパネルが目印だ。建物の壁や柱に掲げてあるのだが、つい見落とすことが多い。ドンナーの泉があるノイエル広場の南端には、皇帝墓所となっているカプツイナー教会があった。またケルントナーに戻り、シュテッフルというデパートあたりにモーツアルト終焉の地があるというが、目印が見つからずじまいだった。

 そして、シュテファン寺院前に戻って、旧市庁舎のレジスタンス資料室(DOM)を目指す。旧市庁舎はすぐに見つかるのだが、ひとまわりしても資料室が分からない。ともかく中庭に入ったが、病院の待合室にまで紛れ込んでしまった。人に尋ね、ようやく入館することができた。要するに今は雑居ビルになっていたのである。反ナチスへの抵抗の歴史が実に分かりやすくコンパクトにまとめられていた。アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所見学の後だけに、理解もしやすかったのかもしれない。1時間近く見入っていたのだが、入館者は私たち以外誰もいなかった。入館料はなし。アーカイブは、階上にありますが、と係りの青年は教えてくれるが、その方は失礼をする。旧市庁舎の裏手の古い教会は、マリア・アム・ゲシュターデ教会という。この教会や界隈は最近本ブログでも紹介した、テレビで見た『恋人までの距離』にも登場していたらしいが、もう記憶にない。

 

犠牲者記念碑、ユダヤ広場とモリツィン広場

 そして、近くのはずのユダヤ広場とユダヤ博物館を探すのだが、これもかなり迷った末、年輩の女性にたずねたところ、従いていらっしゃいという。あなた方は信者か、とも質される。あとで気付くのだが杖をついているではないか。申しわけない気持ちながら、路地を曲がると、探していた広場の白いモニュメントがぱっと目に入った。何度も何度も頭を下げてお礼をし、思わす双方から固い握手となり、別れたのであった。彼女は指に包帯を巻いていた。病院にでも行く途中だったのだろうか。いさんで、博物館に入った。入り口には、ユダヤ人の著名な人々、見上げてすぐわかるのはヨハン・シュトラウス、アイザック・スターン、ニール・セダカ、ボブ・ディランらの肖像画が垂れ幕となって天井から下げられていた。2階には中世の遺跡の模型が床いっぱいに造られていたが、展示はそれだけだったのである。他は、幾つかの分館での展示になっているという。ユダヤ広場の白いボックスはよく見ると、ぎっしり本が詰まった書棚を模した石に囲まれた家は、ショアーによる犠牲者の追悼記念碑で、その台座のプレートには65000人の名前が記されている。その広場に面した、レストランで昼食をするが、賑やかな一団はビジネスマンたちだろうか。なかなか、センスのある、感じのよい店で、食後、私が忘れた大事な手帖をとっておいてくれた店でもある。

 

 ウィーンで最古というルプレヒト教会、傍らの階段を下りてゆくとドナウ運河沿いの細長い公園に出る。モリツィン広場、そこから見上げるルプレヒト教会は、蔦の絡まる正面の塔に大きな赤白の国旗のリボンが掛けられている。モリツィン広場は大戦中ナチスの秘密警察ゲシュタポ本部として接収されたホテルがあったところで、ここだけでも数百人が虐殺され、ここから強制収容所に送られたユダヤ人も多いという。犠牲者、そして犠牲者の碑を建てた人々を思うと胸が痛い。

(モルツィン広場からルプレヒト教会を望む)

Rudoruhukyoukai

 

軍事史博物館(HGM)へたどりつく 

歩いてすぐのシュバルデン駅からUに乗り、ウイーン南駅まで行かなければならない。南駅は今大改造中で、昨年から閉鎖中だという。一つ手前の駅で降りて、バスに乗った。なるほど、あたりは大掛かりな工事中で、再開発の暁はどうなることか。かつてシェーンブルグ宮殿へ行くときに降りた駅はあとかたもない。軍事史博物館は、それとは反対側の公園を突っ切ればと何人かに教えてもらうのだが、不安である。原語が分からない上、英語にしてもarmyなのかmilitaryなのか・・・。Heeresgeschichtliches Museum(HGM)という。かつてはナチスドイツ軍の本部が置かれていたところというが、立派な建物が幾棟かあって、そのアーチをくぐったところにあった。博物館の概要を見ると、ぼう大な展示なので、閉館までの時間がない今、まず20世紀以降、第1次世界大戦以降に限ることにした。

  ありがたいことに、各展示室の入口には、各国語のA4裏表の解説が置いてあり、日本語もあったのだ。結局二部屋しか見られなかったのだが、最初の部屋「共和国と独裁者~オーストリア1918年から1945年」は見ごたえがあった。

ここも見学者はほとんどなかったが、一人の初老の男性、軍事オタクとでもいうのか、フラッシュ撮影は禁止だというのに、一台のドイツ製?のジープを、車の下にもぐったり、ドアを開けたりて、舐めるようにカメラを向けている人がいた。ときどき見回りに来る係員には何食わぬ顔をして、通り過ぎるのを待っていた。

1次大戦終結に伴うオーストリア・ハンガリー帝国の崩壊から、最後の皇帝の国外亡命、国内の政治勢力の対立・混乱の中から国家社会主義によるドルフス独裁政権を経、シューシュニッヒ政権下、ドイツナチス軍による強引な併合が進められていた。1933年、法的に併合、オーストリア国家がなくなり、第2次大戦ではロシア軍とたたかい、1940年以降は、ドイツナチスの支配下で、多くの犠牲者を出すことになる過程が、克明に描かれる。戦車、武器、飛行機、軍服、文書、新聞雑誌、写真、映画、ポスター、絵画、オブジェなどなどが発するメッセージは、ひと色ではないが、私たちが受け止めるべきものは重い。なかでも私が興味深く思ったのは、展示場の幾つかの太い柱に貼られてある、ナチスによるプロパガンダ用のポスターであり、レジスタンス運動のためのポスターの類だった。外国人の私たちにも分かりやすい内容だったからであろう。ナチスとて一挙に人々の心をとらえたわけではない。財政再建、雇用の拡大・・・。先を見極める力と目を持たねばならないと思う。

閉館後の中庭のベンチで食したチョコレートと持ち歩いていたリンゴは、歩き疲れた身には格別の味だった。

 

Gunnjihakubutukann

 

再びアルベルティーナ広場へ

 カールスプラッツまで戻り、再びアルベルティーナ広場へ行くことにした。今朝、見学したレジスタンス資料館で、ウィーンに着いた日、ホイリゲ・ツアーの集合場所だったアルベルティーナ広場には、ユダヤ人犠牲者のモニュメントがあることを知った。集合の折、ガイドは目の前にあったモニュメントには一切触れなかった。ここには、針金に縛られて石畳にはいつくばってタワシで道路を磨く石像がある。背が高い石のモニュメントンの蔭にその石像はあった。今朝の資料館では、一列に並んだユダヤ人が、ドイツ兵に見張られながらタワシで道路を磨いている写真があった。それを取り囲むウィーン市民たちも写されていたのだ。ユダヤ人にとっては屈辱の姿であろう。それを模した石像だったのである。まだまだ、暮れない広場を帰路につくのだった。今夕は、ホテルへの道すがら、中華料理店にて、私は久しぶりにタンメンと少々の点心を食し、ホテル近くのカフェ、ハイナーにて、アップルシュトゥルーデルというリンゴのパイ包み?を買い込み、熱い緑茶でのデザートとなった。

 ウイーン最後の、この旅最後の夜となった。(続く)

 

(モニュメントの間に見える、道路をタワシで洗うユダヤ人石像)

Dourowomigaku

 

 

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2010年6月 6日 (日)

ポーランド、ウィーンの旅(4)ウィーンから二つのツアーに参加して

516日(日) 

 

アルベティーナ広場も雨だった 

 いうのも憚れるのだが、ウィーンは4回目になるが、知らないことが多すぎる。

 今回の宿は、カイザリン・エリザベート、シュテファン寺院のすぐ近くで、なかなか雰囲気のあるホテルですからと代理店で勧められた。オペラ座の方からみてケルンストナー通りの右側のH&Mを曲がるとすぐのところにある。フランツ・ヨーゼフⅠ世の皇后の名にちなんだ、歴史を感じるホテルだった。私たちがこれまで利用して来たのは、ザハ、マリオット、ブリストルで、並べてみると、結構気張ったなあ、の思いもする。エリザベートのフロントには、年輩の男性が控えていたし、鍵もカード式ではない。といっても磁気を利用しているが、ホルダーがとてつもなく重い。入り口が二重の扉になっているのも重厚さを感じる。今回のウィーンは少しラクをしようと、明日のバッハウ渓谷遊覧と今晩のホイリゲ・ツアーを取り入れた。

 ツアーの集合場所はアルベティーナ美術館のエスカレーター前、雨宿りの人や修学旅行風の中学生でにぎわっていたが、これまた若い引率の教師も結構騒々しい。日本語のツアー案内を持っている女性の二人連れをみつけた。やがて現れたのは、年輩の日本人男性ガイドで、きょうはこの4人なので、バンで行きますよ、とのこと。グリンツィングまでの道中を丁寧に案内してくれるので、私たちの頭もだんだんウィーンモードに切り替わっていく。思い出すこと、まったく知らなかったこと、とくに音楽については詳しい様子。そのTさんは、ウィーン大学文学部出身で滞在36年といい、リタイア後?この仕事を楽しんでいる風情であった。

  案内されたホイリゲは、これまで、2回ほどの自力で?見つけたお店とは趣が異なり、BACH-HENGLの文字が読める。内外の要人が訪ねているようで、アランドロン、プーチン、ブッシュらの写真が所狭しと壁いっぱいに貼られてあった。“ジョッキ”一杯のワインとコース料理を十分楽しむことができた。ワインは到底のみきれる量ではなかった。同行のお二人は東京にお住まいの母娘で、娘さんは海外が初めてで、次はパリに向かうという。お母さんの方はだいぶ旅慣れている様子だった。隣の大きな部屋から日本の童謡などのアコーデオンが聞こえてきたので、のぞいてみると日本人の団体が先客のようだった。

  店を出ると、ようやく暮れかけ、中庭の灯りが雨に滲み、マロニエの落花が、テーブルや足元をピンク色に染めていた。市内の宮殿での40分ほどのコンサートもツアーにはおり込まれていた。ホテルまで送ってくれるかなと思いきや集合場所に降ろされるが、小ぶりになった雨は、程よく酔いが回った私たちにはむしろ気持ちがよかったのかもしれない。

(グリンツィングのホイリゲの夜)

Hoirige

517日(月)

 

バッハウ渓谷ツアー~偶然とはいえ 

 心配だった天候もなんとか曇り空でホッとする。集合場所のウィーン西駅に着いたものの指定の場所とは違って戸惑った。工事中の駅を半回りしたところに、あった!集合場所の写真にあるアーチが見えた。横断歩道を渡ると手を振る女性がいるではないか。今日の現地ガイドさんらしい。名前を確かめられ、「もうひと組の方はすでにお待ちです」と流ちょうな日本語になぜか安心するのだった。 

この日のツアーは夫婦二組の4人ということで、ガイドさんの自己紹介で始まり、一通りの挨拶が済んだところで、同行のご夫妻のご主人の方が「D君だよね。ボク教養で同じクラスだったBだけど」と話しかけられたつれあいは「え?Bくん?」ということで、二人は大学の同学部の同期だったのである。偶然とはいえ、世の中狭い、の思いしきりではあった。二人は卒業以来ということであったが、共通の友人たちの消息などに花が咲く。Bさんは2年前に会社を退職された由、すでに悠々自適の暮らしのご様子だった。女同士もすぐに打ち解けて、道中、子どもたちのこと、ペットのこと、転勤先のことなどなどで話は盛り上がる。 

 列車はウィーンの森を抜けて、遊覧船に乗るメルクまでは、約1時間余り、この間、ガイドのMさんには、色々聞くことができた。オーストリアの政治、経済、教育、福祉など全般にわたったが、とくにBさんは、年金・医療・住宅事情などについて質問され、Mさんは丁寧に答えてくれるので、これまで疑問に思っていたこと、日本との相異などが少しづづ分かって来るのだった。Mさんは、ウィーン大学日本語学科出身で、観光の仕事に就きたかった由、難関な資格試験にパスして、この仕事を15年続けているそうだ。大学に入るのは楽だが卒業するのはむずかしく、専攻を変えずに日本語学科を卒業したのは、20人の内3人ほどだったという自らの体験を語っていた。Mさんは車中からのケータイで現地と連絡、心配だった川の増水もなく、遊覧船は動いているとの確認をとっていた。

 

メルク修道院への坂道 

 沿道のマロニエ、ライラック、アジサイなどの花を愛でながら、この辺りはどの家でも実の成る木を植えてます、とMさんは名産にもなっている小さな実をつけたアンズの枝を引き寄せて見せてくれる。丘の上の修道院はきらびやかな二つの塔とドームが晴れてきた空に輝きを増す。黄色い建物の高い窓の一つに黒い細長い旗が垂れていた。修道士が亡くなると、あのように弔意を表わすということだった。建物は、10世紀、ハーベンベルク家のレオポルドⅠ世がベネディクト派修道院を建設したことに始まり、曲折を経つつもバロック様式による大改修が行われたのが18世紀で、宗教的、文化的な中心になったという。 

 まず、私たちはベネディクトの間に案内され、Mさんから、ベネデイクト派の成り立ちについてレクチャーを受ける。基本的な知識もないまま聞くものだから、なかなか記憶にとどまらない。が、この派の戒律は「祈り、労働、学習」にあるといい、「労働する」ことが尊ばれた。修道士たちは修道院を出て昼間は学校や施設で働き、生産に携わった。自らの荘園を持っていた上、農民たちからの税により財政的には豊かな教団であると強調する。国やハプスブルグ家からも目を掛けられていたので、博物館の展示に見られるように豪華のものが多いです、と。高位聖職者の庭を抜けて、100m以上もある長い廊下を経て、展示室に入ると、豪華さの象徴として宝石がちりばめられた「メルクの十字架」や金製の品々が現れる。また、図書室には、天井のフレスコ画、寄木細工の本棚、そこにぎっしり詰まった手書き本や古版本などは16,000点もあるといい、所蔵は10万冊にも及ぶそうだ。ちょうど12時のミサが始まるという教会に入り、控室にかしこまっていたが、5分ほどで先を促され、パイプオルガンの傍を通って、やがて明るいバルコニーに出た。ドナウ川を望む眺めには、一気に緊張感から解放させられたような気分になるのだった。

 庭園には、かつてゲストの食堂として利用されたパビリオンもあって、四季折々の木々や花々が描かれている壁の豪華さが目を引いた。私たちもいよいよレストランでの昼食、飲み物は迷ったが、アンズのネクターを水割りで頂戴した。Bさんご夫妻のジョッキのビールを横目で見ながら。船着き場への道で、この修道院を眺めると、なるほど大きな岩石の上に建っているのがよくわかるのだった。

(メルク修道院のテラスから)

Terasukara

 

 バッハウ渓谷のクルーズ 

 今回の旅行の一つの楽しみでもあった。メルクからクレムス行きの遊覧船でドゥルンシュタインへ。甲板に上がり、少しゆったりした気分でスケッチブックを広げた。岸に迫る古城や崖の頂きの教会などを眺めながらのコーヒーも悪くない。つれあいはさっそく白ワインを頼んでいた。Bさんご夫妻は、甲板に出ることもなく、もっぱらワインをたしなまれていた由、Mさんといえば、本を読んだり、数独パズルに挑戦されているようだった。甲板には、中学生たちが多数出て、おしゃべりやトランプなどを楽しんでいるようで、渓谷の景色にはまるで無関心のようであった。ちょうどこの時期、試験が終わって、小・中学校とも遠足の季節なのだそうだ。

 途中、シュピッツという船着き場から多くの客が乗り込んだ。メルクを発って約1時間半でドゥルンシュタイン着、あたりの斜面は葡萄畑である。船着き場からすぐに洞穴のような地下階段を上ってゆくと、家が迫った細い通りに出る。中世そのままの街ですよ、というMさんの声に思わず振り返るのだった。無人駅のドゥルンシュタイン、ウィーン行きの発車時刻ぎりぎりだったのだが、少々列車が遅れたので、Mさんは胸をなで下ろしていたようだった。

 今日の旅もいよいよ終盤、Bさんご夫妻は、今夕、ホイリゲに出かける由、ハイリゲンシュタットで下車という。

 Mさん、お疲れさまでした。Bさんたちとの思いがけない、楽しかった旅も終わる。

   私たちもひとまず、下車、ガイドのMさんの話にも出てきた、1920年代社会民主党市政の時代に盛んに建てられた市営住宅の一つ、カール・マルクス・ホーフを見て置こういうことになった。駅前から1キロにも及ぶ1400戸近い、この市営住宅は等間隔に設けられた大きなアーチが通路となって庭や道路に抜けられる。庭はかなりゆとりのある造りだし、道路には自転車専用道路が設けられている。ただ、この時期の市営住宅の1戸当たりの広さはかなり狭いらしい。また、家賃といえば、月収1500ユーロの世帯で、500ユーロというのが標準的な数字ともいう。これに光熱費などが加算されるから、教育・医療などの出費が少ないにしても、家計的にはかなりきびしいのではないか。現在でもウィーン市内の住宅の内3分の1が市営住宅の由、みな、Mさんから、きょう聞いたばかりである。ここでも駅近辺では大掛かりな工事が進められていた。 

(ドゥルンシュタインの葡萄畑)

Budoubatake_2

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2010年6月 4日 (金)

住んでいる町の「社会福祉協議会」の実態を調べてみませんか

私は、自治会役員として数年間かかわった経験や市政への関心から、本ブログにおいても地元の佐倉市社会福祉協議会について何回かの報告をしている。また、関連するのだが、最高裁決定「自治会費に社会福祉協議会会費や日本赤十字社の社資(会費)など募金額を上乗せすることは違憲である」(200843日)に関する記事を書いている(*後掲)。そして、年間を通して、これらの記事へのアクセスが増加の一途をたどっているのだ。とくに4月・5月は、自治会の年度替わりでもあり、自治会・町内会での上記会費・寄付金などの集金の季節でもある。毎年、この時期、アクセスのピークを迎える。

今年も例外ではない。私たちの自治会にも、5月中旬、社会福祉協議会の会員募集と日本赤十字社社資募金のチラシが回ってきた。私は、自治会や町内会がこのような募金活動をすること自体に大いなる疑問を持っている。社協と日赤が他の社会福祉法人や福祉・医療の相互扶助を目的とするNPO法人とは別格で、なぜ地域の自治会・町内会が募集・集金を担わなければならないのかが理解できないでいる。私は何回となく社協や日赤に、次のような意見を面談や電話で提言し続けている。だいたい次のようなやり取りになる。

質問:本来自由意思でなされるべき寄付を、なぜ自治会や町内会を通じて、半強制的に集金するのか。地域によっては、憲法にも抵触する上乗せ集金を黙認しているのか。

回答:社会福祉法の「社協は地域福祉の中核になる」という主旨の条文に基づいて、自由意思による募金をお願いしている。強制はしていない。

質問:自由意思といっても、実態としては、顔見知りの自治会役員や班長が集金を担当し、各戸を領収書持参で訪問し、「少なくともひと口(500円)はお願いします」などと促す例が多い。私たちの自治会も数年前までそうであった。よほど勇気のある家でないと断ることができないでいた。上乗せなど違法な集金方法は禁止すべきではないか。

回答:私たちはあくまで「協力」をお願いするまでで、決して強制はしていない。集金方法については、自治会のやり方にお任せしている。「地域福祉は地域の手で」という趣旨から、募金額については地域に還元している。

質問:佐倉市の2010年度の予算概要の例でいえば、社協の財政規模は年間収入総額約32億円、その内、市からの人件費助成が9500万円、会費寄付収入が2700万円。地域還元といっても、2009年度の決算によれば2170万円の61300万が市内14の地区社協に分配されたに過ぎない。また、共同募金会から2700万円は各施設などに分配される。これらの配分のために人件費1.4億円が支出される。オフィスも市庁舎が提供されているではないか。しかも、恒常的に2億円以上のプール金があるのもおかしい。

回答:社協には、会費や共同募金の分配以外の仕事もいろいろ実施している。毎年5月には、社協の広報紙を新聞に折込みをし(6万部)、予算の公表、使い道についても皆様に説明している。「福祉基金―プール金」については、災害時などの緊急支出に備えている。

質問:新聞の購読者も減少の中、折込み広告をどれだけの市民が目を通すか。広報紙の記事も予算と実績が入り乱れていて分かりにくい。少なくとも自治会回覧のチラシと同時に、社協の予算・決算を広報すべきではないか。集めることばかりに熱心で、その使い道についての広報はおろそかになってはないか。

回答:ご意見として伺って置く。

 大体こんなやり取りが、ここ数年続いている。佐倉市には14の地区社協があり、「地域に還元する」とは、ここに配分することだ。地区社協が、その配分額で何をするかといえば、私の住む地区では、年に数回、広報紙が自治会を通じて全戸配布となり、その中身は、各種イベントのカラーアルバムで、内容がない。各自治会の単位で選出されるボランティアの福祉委員で運営されているようなのだが、自治会役員経験者などに恣意的に声がかけられ、同じ人が10年以上、理事・役員におさまっているのが現状である。ボランティアだったら、何でもありなのだろうか。特定の人たちのたまり場や居場所になって、行政との癒着も見苦しい。

 そこで、これを読まれた方々へのお願いである。社会福祉協議会に少しでも疑問を待たれた方は、自分の住む町の社協の以下を確認してみてください。そのうえで情報交換や意見交換ができればと思う。

①事業内容の実態

②予算・決算書(一般会計、公益事業会計、貸借対照表など)。とくに行政からの助成金、会費収入、積立金、人件費の割合と組織率(会員世帯数/住民世帯数)など

③広報(紙・ホームページ)の経費・内容・配布方法など

④職員の人数、給与、採用方法、とくに行政からの天下りや横滑りの有無など

*本ブログにおける参考記事(福祉、寄付・募金、佐倉市などのカテゴリーで検索可)

2006418日:社会福祉協議会の「移送サービス」は誰のため?

2007831日:「自治会費からの寄付・募金は無効」の判決を読んで

200844日:自治会費への寄付や募金の上乗せ、やっぱり無効

2009127日・129日:赤い羽根募金の行方~使い道を知らないで納めていませんか~その情報操作のテクニック(1)~(3)

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2010年6月 3日 (木)

ポーランド、ウィーンの旅(3)クラクフを歩く

515日(土) 

パウロⅡ世 

今日は、丸一日を市内巡りにあてることにしていた。まずは、ヴァヴェル城だろうということで、中央広場を抜けて歩き始めてすぐに、クラクフ出身のヨハネ・パウロⅡ世の像がある教会があるはずと見回す。見覚えのあるパウロⅡ世の写真など見え隠れするアーチをくぐると、手入れの行き届いた中庭には、パウロⅡ世の写真などを掲げるパネル展示が続いていた。よく見ると、パウロⅡ世の生涯(19202005.4.2)がたどれるような展示で、スキーや山歩きが好きだった青年時代、この大司教宮殿での大司教時代、バチカンへの赴任、ローマ法王への道が示されていた。そして、中庭の中央には、手を広げたパウロⅡ世像が立っていた。クラクフ市民の95%がカトリックであり、その人気は絶大だったらしい。この教会は、クラクフ教会区の管轄本部で正式には「クラクフ大司教座宮殿」というらしい。人の出入りはなく、パウロⅡ世像の前には大小の花環が供えられていた。アーチの下では、パウロⅡ世のコインが自動販売機で買えるようになっていた。

 

聖ペテロ聖パウロ教会 

 やがて小さな広場を越えた、少しにぎやかな通りに教会が続く。いちばん手前の大きな教会は聖ペテロ聖パウロ教会、表の立て看板によれば毎晩コンサートを開催しているらしい。なかに入ると、真ん中ほどの席でチケットを売っていた。8時からというので、早めに夕飯を済ませて出かけてみよう。渡されたリーフレットによれば、クラクフ室内楽団による、モーツアルトの小夜曲、ショパンのノクターン、ヴィヴァルデイの四季・春などポピュラーな曲ばかり、観光客相手なのかもしれないが、気軽に楽しむのも悪くない。すぐ隣の教会への門をくぐると、そこでは、カメラワークの研修会でもやっているのだろうか、十数人の若者たちは本格的なカメラを携え、石積みの塀に這うつる草にレンズを向けていた。講師の助手だろうか、携帯用の丸い銀色の反射板のようなものを、広げたり、閉じたり、傾けたりと余念がない。私もデジカメで撮ってみたが。

  

ヴァヴェル城とカティンの森事件追悼 

 ヴァヴェル城が迫り、観光客でにぎわう交差点に出る。その一角に、ワルシャワで見たようなパネル展示が屏風のように並んでいた。やはりカティンの森事件の追悼記念の展示であった。ワルシャワの展示とは写真の選択が異なり、その編集も若干異なっていたが、その発するメッセージは同様に強烈だった。さすが、ここでは立ちどまって見入る人たちもいる。また、この小さな広場の一角には、数メートルもある十字架が立てられ、「1940 KTYN 1990」とあるから20年前に建てられたものだろう。気付きもせずに通り過ぎる人たちが多い。そういえば、このヴァヴェル城大聖堂の地下には歴代の王が眠るが、先日の航空機事故で亡くなったカチンスキ大統領夫妻が葬られたのは異例であったという。前述のように、ワルシャワ、ピウスツキ元帥広場での国葬が10万人規模になったこととあいまって、それまでカチンスキ大統領へのさまざまな批判や疑問も吹っ飛んでしまったという見方もある(宮崎悠「『カチンの森』再現図る熟達」毎日新聞2010421日) 

 私たちはゆるい坂道の方をのぼって、城内に入る。幾つかの青銅色のドームの中で金色のドームが一つ際立っている。ジグムント・チャペルは、ポーランドのルネッサンス建築の傑作とのことだ。きょうは、夏のような暑さで、上着が邪魔なくらいだ。人の流れに沿って城内をめぐり、どこの博物館の入り口にもは列ができているので、旧王宮の中庭のベンチで一休みする。展望台からはヴィスワ川が一望できた。円筒の監視塔直下にあるレストランで、私はスケッチブックを広げるゆとりができ、ともどもようやく念願のカツレツを待つことになった。

 

ヴィスワ川を渡る 

 城の坂道を降りて、川まで歩く。さて、これからどうしようか。対岸にあるのが、日本美術、浮世絵などのコレクションを持つ「マンガ館」だ。映画監督アンジェイ・ワイダらの尽力もあって、死蔵に近かったコレクションが磯崎新設計のこの美術館で日の目を見ることになったという。大きな橋を渡って土手道から美術館に近づいてみる。屋根が緩やかな波型をした長い建物だった。入り口周辺が込み合っている。学会のような雰囲気を漂わすコーヒーブレイクであったらしい。迷いながら展示館に入ってみると、柱が見当たらない曲線の壁から成り立つ展示空間がユニークだが、今は「日本刀剣展」だけで、期待していた浮世絵は広重だけでも2000点以上あるというのに、見られなかったのが残念であった。クラクフと京都が姉妹都市であることから、両国の協力により1994年オープンに至った。ちなみに「マンガ」は、旧コレクターが「北斎漫画」の「マンガ」をミドルネームとして使っていたことに由来するという。平成になっての天皇夫妻訪問記念の書が飾ってあるではないか。川を挟んで見るヴァヴェル城の全貌は、まるで絵はがきの世界で、足を伸ばした甲斐があったと、川風も心地よかった。

(ヴァヴェル城からヴィスワ川を望む)

Vaverujo

カジミエーシュ地区へ 

 ふたたび橋を渡って、大きな通りを道なりに進むと右手はカジミエーシュ地区、いまでもシナゴーグが点在するユダヤ人が多く住んでいる街となる。シナゴーグが近くなると、必ず警備が厳しくなる。街かどにたつ警官ががぜん多くなるのが、ヨーロッパの都市の通例である。ポーランド最古のシナゴーグ(ユダヤ教会)は現在博物館にもなっているが、土曜日はすでに早めに閉館になっていた。近くの広場では、並ぶテントの店がしまいかけていた。ユダヤ文化センターでも毎晩コンサートはやっているらしい。辺りは「シンドラーのリスト」の舞台にもなったという場所だ。その映画は見てはいないが、シンドラーの工場は、川向うだったらしい

(カジミエーシュ地区の水たまり)

Mizutamari_2

(ユダヤ博物館はもう閉まっていた)

Yudayahakubutukann_2

 ヤギェウォ大学へ
 つれあいは、仕事柄、旅先では、よくその地の大学を訪ねるという。今回も、散策する程度なのだがキャンパスにもいろいろな発見があるという。地図を見ながら、川岸の道から市街地に入り、公園やサッカーグランドなどを見やりながら、大学公園に入ったらしい。学生の出入りがある建物に入ると、そこには大学グッズが並ぶ売店があったのだが、きょうは休みらしい。階段下では、扮装した学生たちがたむろし、にぎやかにしていた。中央広場の例の舞台の控室のような様相であった。開学が14世紀という古い大学で、ヨハネ・パウロⅡやコペルニクスもここに学んでいる。コペルニクスに敬意を表し、近くにあったコペルニクス像の前で写真におさまる。まだまだ奥があるようなのだが、「中央広場へ」の標識をみると、私の方が急に疲れが出てしまって、帰路についた。そして中央広場の大学フェスティバルは相変わらずにぎやかで、例の「日の丸」を掲げているテントの前を通ると、浴衣を着ている女子学生がすわっているではないか。さっそく尋ねてみると、ヤギェウォ大学日本学科の学生たちだった。訪れる人たちに、日本語のひらがなを教えてますと、ひらがなの五十音のカードを作っていた。また、箸の持ち方も教えています、と割り箸と塗り箸が置いてあった。日本には来たことがありますか、といえば誰もがありませんと首を振っていた。日の丸のわけがようやくわかり、「頑張ってね」と久しぶりに?日本語が話せて心和むのであった。

 

 夕食は、中央広場から少し入ったROSAホテルのイタリアンの店にした。今までにないおしゃれなレストランで、テーブルセッテイングの花やピアノ演奏も、パンや器のセンスも格別で、料理にも満足し、まだまだ暮れなそうもない広場や街をコンサート会場へと急ぐのだった。 

 

 

5月16日(日)

 

Only Pray 

この日は朝から本降りながら、ポーランドのお土産とて空港だけでというのはさびしいので、少し見て回ろうかと思い、中央広場に出てみるが、開店はほとんどが10時なのだ。午後には、クラクフの空港を発つ。大きな本屋さんも、チョコレート屋さんも、そして博物館などの施設も10時なので、それまでの時間の活用がむずかしい。雨の広場が広く思えると思ったら、きのうまであった大学フェスティバルのテントが全部撤収されていた。広場に面した、大きな教会、聖マリア教会の小さな入り口に吸い込まれるように人が入っていく。私たちも、傘の雨滴を払って入ってみると、すでに通路まで人がいっぱいで、ミサが執り行われていた。今日は日曜でもある。中は広く、奥行きも深い。今朝、ホテルのテレビでも、こうしたミサの中継がされていた。厳粛な祈りや聖歌の合い間に家族連れやお年寄り夫婦、若い人たちもどんどん増えてゆく。私たちにとってもなんとなく心地よい雰囲気ではあったが、そっと抜け出して、入り口を振り返ると“only pray”の看板が掲げてあった。

 

クラクフからウィーンへ飛ぶ 

 雨の中を、少々の土産を買って、軽い昼食を済ませ、車で空港に向かう。市街地を出ると雨はますます激しくなり、路面が未整備のためか、車は2mくらいの水しぶきを両側にはねあげて走る。もちろん反対車線の車からはそれだけの水しぶきをばさばさと受ける。クラクフの街を走る車が、なんとなくすすけているな、と思ってはいたが、これでようやく訳がわかった。洗車したところで、すぐに汚れてしまうからなのだろう。空港のカフェのミルクティをのみながら、人々の往来や周辺の席の人たちを眺めているのもなかなか楽しい。

 

ウィーンのホテルに着いたら、今夜は、ホイリゲへのツアーに参加の予定なのでで、忙しい。

 

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