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2010年6月 7日 (月)

ポーランド、ウィーンの旅(5)ウィーンの戦跡を中心に

 

5月18日(火) 

レジスタンス資料室(DOM)に、今しばらく

 

 朝から小雨ではあったが、まずはケルントナー通り界隈にあるハイドンの住居跡、シューベルト未完成作曲の家などを探す。ウィーン市認定の史跡であることを示す国旗とパネルが目印だ。建物の壁や柱に掲げてあるのだが、つい見落とすことが多い。ドンナーの泉があるノイエル広場の南端には、皇帝墓所となっているカプツイナー教会があった。またケルントナーに戻り、シュテッフルというデパートあたりにモーツアルト終焉の地があるというが、目印が見つからずじまいだった。

 

 そして、シュテファン寺院前に戻って、旧市庁舎のレジスタンス資料室(DOM)を目指す。旧市庁舎はすぐに見つかるのだが、ひとまわりしても資料室が分からない。ともかく中庭に入ったが、病院の待合室にまで紛れ込んでしまった。人に尋ね、ようやく入館することができた。要するに今は雑居ビルになっていたのである。反ナチスへの抵抗の歴史が実に分かりやすくコンパクトにまとめられていた。アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所見学の後だけに、理解もしやすかったのかもしれない。1時間近く見入っていたのだが、入館者は私たち以外誰もいなかった。入館料はなし。アーカイブは、階上にありますが、と係りの青年は教えてくれるが、その方は失礼をする。旧市庁舎の裏手の古い教会は、マリア・アム・ゲシュターデ教会という。この教会や界隈は最近本ブログでも紹介した、テレビで見た『恋人までの距離』にも登場していたらしいが、もう記憶にない。

 

犠牲者記念碑、ユダヤ広場とモリツィン広場

 そして、近くのはずのユダヤ広場とユダヤ博物館を探すのだが、これもかなり迷った末、年輩の女性にたずねたところ、従いていらっしゃいという。あなた方は信者か、とも質される。あとで気付くのだが杖をついているではないか。申しわけない気持ちながら、路地を曲がると、探していた広場の白いモニュメントがぱっと目に入った。何度も何度も頭を下げてお礼をし、思わす双方から固い握手となり、別れたのであった。彼女は指に包帯を巻いていた。病院にでも行く途中だったのだろうか。いさんで、博物館に入った。入り口には、ユダヤ人の著名な人々、見上げてすぐわかるのはヨハン・シュトラウス、アイザック・スターン、ニール・セダカ、ボブ・ディランらの肖像画が垂れ幕となって天井から下げられていた。2階には中世の遺跡の模型が床いっぱいに造られていたが、展示はそれだけだったのである。他は、幾つかの分館での展示になっているという。ユダヤ広場の白いボックスはよく見ると、ぎっしり本が詰まった書棚を模した石に囲まれた家は、ショアーによる犠牲者の追悼記念碑で、その台座のプレートには65000人の名前が記されている。その広場に面した、レストランで昼食をするが、賑やかな一団はビジネスマンたちだろうか。なかなか、センスのある、感じのよい店で、食後、私が忘れた大事な手帖をとっておいてくれた店でもある。

ウィーンで最古というルプレヒト教会、傍らの階段を下りてゆくとドナウ運河沿いの細長い公園に出る。モリツィン広場、そこから見上げるルプレヒト教会は、蔦の絡まる正面の塔に大きな赤白の国旗のリボンが掛けられている。モリツィン広場は大戦中ナチスの秘密警察ゲシュタポ本部として接収されたホテルがあったところで、ここだけでも数百人が虐殺され、ここから強制収容所に送られたユダヤ人も多いという。犠牲者、そして犠牲者の碑を建てた人々を思うと胸が痛い。

 

(モルツィン広場からルプレヒト教会を望む)

Rudoruhukyoukai

軍事史博物館(HGM)へたどりつく 

歩いてすぐのシュバルデン駅からUに乗り、ウイーン南駅まで行かなければならない。南駅は今大改造中で、昨年から閉鎖中だという。一つ手前の駅で降りて、バスに乗った。なるほど、あたりは大掛かりな工事中で、再開発の暁はどうなることか。かつてシェーンブルグ宮殿へ行くときに降りた駅はあとかたもない。軍事史博物館は、それとは反対側の公園を突っ切ればと何人かに教えてもらうのだが、不安である。原語が分からない上、英語にしてもarmyなのかmilitaryなのか・・・。Heeresgeschichtliches Museum(HGM)という。かつてはナチスドイツ軍の本部が置かれていたところというが、立派な建物が幾棟かあって、そのアーチをくぐったところにあった。博物館の概要を見ると、ぼう大な展示なので、閉館までの時間がない今、まず20世紀以降、第1次世界大戦以降に限ることにした。

 ありがたいことに、各展示室の入口には、各国語のA4裏表の解説が置いてあり、日本語もあったのだ。結局二部屋しか見られなかったのだが、最初の部屋「共和国と独裁者~オーストリア1918年から1945年」は見ごたえがあった。

 

ここも見学者はほとんどなかったが、一人の初老の男性、軍事オタクとでもいうのか、フラッシュ撮影は禁止だというのに、一台のドイツ製?のジープを、車の下にもぐったり、ドアを開けたりて、舐めるようにカメラを向けている人がいた。ときどき見回りに来る係員には何食わぬ顔をして、通り過ぎるのを待っていた。

 

1次大戦終結に伴うオーストリア・ハンガリー帝国の崩壊から、最後の皇帝の国外亡命、国内の政治勢力の対立・混乱の中から国家社会主義によるドルフス独裁政権を経、シューシュニッヒ政権下、ドイツナチス軍による強引な併合が進められていた。1933年、法的に併合、オーストリア国家がなくなり、第2次大戦ではロシア軍とたたかい、1940年以降は、ドイツナチスの支配下で、多くの犠牲者を出すことになる過程が、克明に描かれる。戦車、武器、飛行機、軍服、文書、新聞雑誌、写真、映画、ポスター、絵画、オブジェなどなどが発するメッセージは、ひと色ではないが、私たちが受け止めるべきものは重い。なかでも私が興味深く思ったのは、展示場の幾つかの太い柱に貼られてある、ナチスによるプロパガンダ用のポスターであり、レジスタンス運動のためのポスターの類だった。外国人の私たちにも分かりやすい内容だったからであろう。ナチスとて一挙に人々の心をとらえたわけではない。財政再建、雇用の拡大・・・。先を見極める力と目を持たねばならないと思う。

閉館後の中庭のベンチで食すチョコレートと持ちあるいていたリンゴは、歩き疲れた身には格別の味だった。

Gunnjihakubutukann

再びアルベルティーナ広場へ

 

 カールスプラッツまで戻り、再びアルベルティーナ広場へ行くことにした。今朝、見学したレジスタンス資料館で、ウィーンに着いた日、ホイリゲ・ツアーの集合場所だったアルベルティーナ広場には、ユダヤ人犠牲者のモニュメントがあることを知った。集合の折、ガイドは目の前にあったモニュメントには一切触れなかった。ここには、針金に縛られて石畳にはいつくばってタワシで道路を磨く石像がある。背が高い石のモニュメントンの蔭にその石像はあった。今朝の資料館では、一列に並んだユダヤ人が、ドイツ兵に見張られながらタワシで道路を磨いている写真があった。それを取り囲むウィーン市民たちも写されていたのだ。ユダヤ人にとっては屈辱の姿であろう。それを模した石像だったのである。まだまだ、暮れない広場を帰路につくのだった。今夕は、ホテルへの道すがら、中華料理店にて、私は久しぶりにタンメンと少々の点心を食し、ホテル近くのカフェ、ハイナーにて、アップルシュトゥルーデルというリンゴのパイ包み?を買い込み、熱い緑茶でのデザートとなった。

 ウィーン最後の、この旅、最後の夜となった。(続く)

(モニュメントの間に見える、道路をタワシで洗うユダヤ人石像)

Dourowomigaku

(レジスタンス資料室での展示写真)Dourowomigakusyasin

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