「自歌自註」というほどではありませんが
自分の短歌を自分で注釈するようなチャンスはあまりなかったように思います。それに、自分の手を離れた作品にあれこれ説明することには、もともと積極的にはなれないでいます。そんな中、依頼により、次のような文章を書きました。なお、『短歌』の7月号には<想い出の場所、想い出の歌>として、次の一首にかかわり、想い出の場所「登戸(川崎市)」について書いています。おついでの折、ご覧いただければと思います。
・観覧車めぐれる丘まで枯れ草のひといろ身にあまるほどの明るさ(1972年)
①<日本の色を詠む>
茜
・夕雲をほのかに染めてひっそりと海に没る日よ人間にたとえる(1971年)
・人間の落葉図鑑あるならばいかなる色して地に還りゆく(2000年)
末っ子の私が両親やきょうだいとの別れを経て、遺されてしまうのも摂理にちがいない。母の五十年忌も過ぎてしまった。そして、今は身近な人々との別れがふいにやってくる。やがて来る自ら終末を思うとき、人間の終の姿の大切さを思う。冒頭の二首にはその多様さを、また多くの選択肢が残されたような、多分にまだ「若い」余裕の感さえある。第二歌集『野の記憶』(2004年)から引いた。いずれも具体的な「色」は登場しないが、今の私にはさほどの選択肢がないことがわかってくる。
茜というのだろうか、その濃淡もある。茜草の根を乾燥させて染料を採る。布地を染めるには何度も何度も染めを重ねていくそうだ。私はむしろ、山の端や海の彼方に消え入る落日が周辺をわずかに染める茜色が好きだ。前田千寸『日本色彩文化史』の「色相の分化一覧」には、赤は、蘇芳・紅花・茜の三つに分化するように書かれていた。どの色も魅力的に思えるが、落日や落葉に似合うのは茜色ではないか。
ムンク「叫び」のフィヨルドに迫る血を流したような空、クリムト「アッター湖」の紅葉、エゴン・シ―レ「四本の木」の間に沈む太陽、どれも私には少し遠い気がする。
(『ポトナム』2010年6月号所収)
②<この一首、わたしの作歌ポイント>
・廃業にいたれる店のシャッターに沿いて灯れる自販機いくつ(2006年)
薬や雑貨を商う店に生まれた私は、身近な店の廃業を人ごとには思えない。閉店に挨拶の張り紙を読み、ここに暮らしていた人たちの無事を願うが、自販機の明るさがかえって辛い。
(『梧葉』2009年春号)
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コメント
6月25日「短歌現代」読んでみました。
遠かった 隣人が
少し近くに感じられました。
投稿: デイーチャ猫のママ | 2010年6月26日 (土) 11時57分
きょうは雨 隣人の歌の辞書を引く
シュプレヒコール コンメンタール
投稿: デイーチャ猫ママ | 2010年6月 9日 (水) 13時59分