ポーランド、ウィーンの旅(4)ウィーンから二つのツアーに参加して
5月16日(日)
アルベティーナ広場も雨だった
いうのも憚れるのだが、ウィーンは4回目になるが、知らないことが多すぎる。
今回の宿は、カイザリン・エリザベート、シュテファン寺院のすぐ近くで、なかなか雰囲気のあるホテルですからと代理店で勧められた。オペラ座の方からみてケルンストナー通りの右側のH&Mを曲がるとすぐのところにある。フランツ・ヨーゼフⅠ世の皇后の名にちなんだ、歴史を感じるホテルだった。私たちがこれまで利用して来たのは、ザハ、マリオット、ブリストルで、並べてみると、結構気張ったなあ、の思いもする。エリザベートのフロントには、年輩の男性が控えていたし、鍵もカード式ではない。といっても磁気を利用しているが、ホルダーがとてつもなく重い。入り口が二重の扉になっているのも重厚さを感じる。今回のウィーンは少しラクをしようと、明日のバッハウ渓谷遊覧と今晩のホイリゲ・ツアーを取り入れた。
ツアーの集合場所はアルベティーナ美術館のエスカレーター前、雨宿りの人や修学旅行風の中学生でにぎわっていたが、これまた若い引率の教師も結構騒々しい。日本語のツアー案内を持っている女性の二人連れをみつけた。やがて現れたのは、年輩の日本人男性ガイドで、きょうはこの4人なので、バンで行きますよ、とのこと。グリンツィングまでの道中を丁寧に案内してくれるので、私たちの頭もだんだんウィーンモードに切り替わっていく。思い出すこと、まったく知らなかったこと、とくに音楽については詳しい様子。そのTさんは、ウィーン大学文学部出身で滞在36年といい、リタイア後?この仕事を楽しんでいる風情であった。
案内されたホイリゲは、これまで、2回ほどの自力で?見つけたお店とは趣が異なり、BACH-HENGLの文字が読める。内外の要人が訪ねているようで、アランドロン、プーチン、ブッシュらの写真が所狭しと壁いっぱいに貼られてあった。“ジョッキ”一杯のワインとコース料理を十分楽しむことができた。ワインは到底のみきれる量ではなかった。同行のお二人は東京にお住まいの母娘で、娘さんは海外が初めてで、次はパリに向かうという。お母さんの方はだいぶ旅慣れている様子だった。隣の大きな部屋から日本の童謡などのアコーデオンが聞こえてきたので、のぞいてみると日本人の団体が先客のようだった。
店を出ると、ようやく暮れかけ、中庭の灯りが雨に滲み、マロニエの落花が、テーブルや足元をピンク色に染めていた。市内の宮殿での40分ほどのコンサートもツアーにはおり込まれていた。ホテルまで送ってくれるかなと思いきや集合場所に降ろされるが、小ぶりになった雨は、程よく酔いが回った私たちにはむしろ気持ちがよかったのかもしれない。
(グリンツィングのホイリゲの夜)
5月17日(月)
バッハウ渓谷ツアー~偶然とはいえ
心配だった天候もなんとか曇り空でホッとする。集合場所のウィーン西駅に着いたものの指定の場所とは違って戸惑った。工事中の駅を半回りしたところに、あった!集合場所の写真にあるアーチが見えた。横断歩道を渡ると手を振る女性がいるではないか。今日の現地ガイドさんらしい。名前を確かめられ、「もうひと組の方はすでにお待ちです」と流ちょうな日本語になぜか安心するのだった。
この日のツアーは夫婦二組の4人ということで、ガイドさんの自己紹介で始まり、一通りの挨拶が済んだところで、同行のご夫妻のご主人の方が「D君だよね。ボク教養で同じクラスだったBだけど」と話しかけられたつれあいは「え?Bくん?」ということで、二人は大学の同学部の同期だったのである。偶然とはいえ、世の中狭い、の思いしきりではあった。二人は卒業以来ということであったが、共通の友人たちの消息などに花が咲く。Bさんは2年前に会社を退職された由、すでに悠々自適の暮らしのご様子だった。女同士もすぐに打ち解けて、道中、子どもたちのこと、ペットのこと、転勤先のことなどなどで話は盛り上がる。
列車はウィーンの森を抜けて、遊覧船に乗るメルクまでは、約1時間余り、この間、ガイドのMさんには、色々聞くことができた。オーストリアの政治、経済、教育、福祉など全般にわたったが、とくにBさんは、年金・医療・住宅事情などについて質問され、Mさんは丁寧に答えてくれるので、これまで疑問に思っていたこと、日本との相異などが少しづづ分かって来るのだった。Mさんは、ウィーン大学日本語学科出身で、観光の仕事に就きたかった由、難関な資格試験にパスして、この仕事を15年続けているそうだ。大学に入るのは楽だが卒業するのはむずかしく、専攻を変えずに日本語学科を卒業したのは、20人の内3人ほどだったという自らの体験を語っていた。Mさんは車中からのケータイで現地と連絡、心配だった川の増水もなく、遊覧船は動いているとの確認をとっていた。
メルク修道院への坂道
沿道のマロニエ、ライラック、アジサイなどの花を愛でながら、この辺りはどの家でも実の成る木を植えてます、とMさんは名産にもなっている小さな実をつけたアンズの枝を引き寄せて見せてくれる。丘の上の修道院はきらびやかな二つの塔とドームが晴れてきた空に輝きを増す。黄色い建物の高い窓の一つに黒い細長い旗が垂れていた。修道士が亡くなると、あのように弔意を表わすということだった。建物は、10世紀、ハーベンベルク家のレオポルドⅠ世がベネディクト派修道院を建設したことに始まり、曲折を経つつもバロック様式による大改修が行われたのが18世紀で、宗教的、文化的な中心になったという。
まず、私たちはベネディクトの間に案内され、Mさんから、ベネデイクト派の成り立ちについてレクチャーを受ける。基本的な知識もないまま聞くものだから、なかなか記憶にとどまらない。が、この派の戒律は「祈り、労働、学習」にあるといい、「労働する」ことが尊ばれた。修道士たちは修道院を出て昼間は学校や施設で働き、生産に携わった。自らの荘園を持っていた上、農民たちからの税により財政的には豊かな教団であると強調する。国やハプスブルグ家からも目を掛けられていたので、博物館の展示に見られるように豪華のものが多いです、と。高位聖職者の庭を抜けて、100m以上もある長い廊下を経て、展示室に入ると、豪華さの象徴として宝石がちりばめられた「メルクの十字架」や金製の品々が現れる。また、図書室には、天井のフレスコ画、寄木細工の本棚、そこにぎっしり詰まった手書き本や古版本などは16,000点もあるといい、所蔵は10万冊にも及ぶそうだ。ちょうど12時のミサが始まるという教会に入り、控室にかしこまっていたが、5分ほどで先を促され、パイプオルガンの傍を通って、やがて明るいバルコニーに出た。ドナウ川を望む眺めには、一気に緊張感から解放させられたような気分になるのだった。
庭園には、かつてゲストの食堂として利用されたパビリオンもあって、四季折々の木々や花々が描かれている壁の豪華さが目を引いた。私たちもいよいよレストランでの昼食、飲み物は迷ったが、アンズのネクターを水割りで頂戴した。Bさんご夫妻のジョッキのビールを横目で見ながら。船着き場への道で、この修道院を眺めると、なるほど大きな岩石の上に建っているのがよくわかるのだった。
(メルク修道院のテラスから)
バッハウ渓谷のクルーズ
今回の旅行の一つの楽しみでもあった。メルクからクレムス行きの遊覧船でドゥルンシュタインへ。甲板に上がり、少しゆったりした気分でスケッチブックを広げた。岸に迫る古城や崖の頂きの教会などを眺めながらのコーヒーも悪くない。つれあいはさっそく白ワインを頼んでいた。Bさんご夫妻は、甲板に出ることもなく、もっぱらワインをたしなまれていた由、Mさんといえば、本を読んだり、数独パズルに挑戦されているようだった。甲板には、中学生たちが多数出て、おしゃべりやトランプなどを楽しんでいるようで、渓谷の景色にはまるで無関心のようであった。ちょうどこの時期、試験が終わって、小・中学校とも遠足の季節なのだそうだ。
途中、シュピッツという船着き場から多くの客が乗り込んだ。メルクを発って約1時間半でドゥルンシュタイン着、あたりの斜面は葡萄畑である。船着き場からすぐに洞穴のような地下階段を上ってゆくと、家が迫った細い通りに出る。中世そのままの街ですよ、というMさんの声に思わず振り返るのだった。無人駅のドゥルンシュタイン、ウィーン行きの発車時刻ぎりぎりだったのだが、少々列車が遅れたので、Mさんは胸をなで下ろしていたようだった。
今日の旅もいよいよ終盤、Bさんご夫妻は、今夕、ホイリゲに出かける由、ハイリゲンシュタットで下車という。
Mさん、お疲れさまでした。Bさんたちとの思いがけない、楽しかった旅も終わる。
私たちもひとまず、下車、ガイドのMさんの話にも出てきた、1920年代社会民主党市政の時代に盛んに建てられた市営住宅の一つ、カール・マルクス・ホーフを見て置こういうことになった。駅前から1キロにも及ぶ1400戸近い、この市営住宅は等間隔に設けられた大きなアーチが通路となって庭や道路に抜けられる。庭はかなりゆとりのある造りだし、道路には自転車専用道路が設けられている。ただ、この時期の市営住宅の1戸当たりの広さはかなり狭いらしい。また、家賃といえば、月収1500ユーロの世帯で、500ユーロというのが標準的な数字ともいう。これに光熱費などが加算されるから、教育・医療などの出費が少ないにしても、家計的にはかなりきびしいのではないか。現在でもウィーン市内の住宅の内3分の1が市営住宅の由、みな、Mさんから、きょう聞いたばかりである。ここでも駅近辺では大掛かりな工事が進められていた。
(ドゥルンシュタインの葡萄畑)
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