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2010年7月25日 (日)

『樺美智子 聖少女伝説』の書評が掲載されました

以下は、『図書新聞』最新号(1面)に私が寄せた書評である。このブログの625日にはすでに、とても「プライベートな感想」を記したが、今回はもとよりやや硬いものとなっている。何ほどが通じるのか不安でもあり、あるいはとてつもなく平凡になってしまっているかもしれない。併せてご覧いただければと再録した。ホームページ「今週の図書新聞」からも会員登録により、バックナンバーを含めて読むことができる。

http://toshoshimbun.jp/books_newspaper/week_article.php

『樺美智子 聖少女伝説』

 等身大の活動家から何を引き継ぐべきか

 偶像化への異議申立て、なるか 

副題の「聖少女伝説」、帯の「60年安保 悲劇の英雄(ヒロイン)の素顔」の文言にも見られるように、没後五〇年、六〇年安保世代を当て込んだような出版元の宣伝が目についた。が、本書の著者は、資料や関係者の証言に添う形で、樺美智子の実像に迫り、「60年安保闘争の唯一の死者として、伝説の人物として、聖化され、美化され」(14頁)半世紀を越えることへの異議申立てを試みたと言えよう。

本書は6章からなり、12章では、一九三七年生れの美智子の恵まれた生い立ちと一九五七年東京大学に入学、二〇歳で日本共産党に入党し、活動家としての出発までが描かれる。3章・4章では、共産党内の分派活動家たちによる「共産主義者同盟」(ブント)へ参加、一九六〇年六月一五日の死の直前までが検証される。教養学部時代は、地域の労働者の勤務評定反対運動などを支え、国史学科へ進む。警職法反対闘争に加えて、日米安保改定反対運動が国民的にも盛り上りを見せるなか、美智子は、一九六〇年一月岸首相の訪米阻止のため空港食堂に籠城、検挙を体験、政治的な使命感をさらに強めることになる。5章「六月一五日と、その後」6章「父母の安保闘争」では、美智子の死の前後と周辺の動向が検証される。その死をめぐっては、国会構内での学生・警官隊の動き、解剖結果の死因―圧死か扼死―を巡る対立、実在しない至近学生の証言報道などの問題が提起される。「国民葬」の経緯や活動家のその後などと遺された両親の苦悩と各々の死まで担った政治的な役割についてたどる。

美智子自身の思想形成、当時の学生運動における革新政党や分派による主導権争いなどに触れている部分はあえて割愛した。まじめで勉強好きな女子学生が自覚的に傾倒してゆく社会主義的思想、正義感や使命感が格別強かった青年の行動を、私は否定することができない。同時に、二年ほど年下にあたる評者には、六〇年の日米安保改定反対闘争の結末が樺美智子の死だけに集約され、当時の多くの市民たちの多様な行動や声が掻き消されてしまうことに危惧を覚えたのも事実である。

「聖少女伝説」化がなされた過程への考察が、本書ではやや不明確なのが気になった。伝説形成の基底には二つの要素が絡み合っているのではないか。まず、一九六〇年六月一七日の朝刊に掲げられた「暴力を排し 議会主義を守れ」という在京新聞七社共同宣言について、本書では「新聞論調は全学連に批判的であった」(241頁)とあっさりとしか触れられていない。この「共同宣言」に象徴されるマス・メデイアの大きな転換、マス・メディアの責任が問われるべきだろう。宣言の「その事の依ってきたる所以を別として」「この際、これまでの争点をしばらく投げ捨て」の文言に見られるように、「事件の原因を探求し、責任の所在を突きとめ、解決の道を明らかにすべきジャーナリズムの基本姿勢を放棄」し、時の政府を免罪し、暴力批判という形で大衆運動を抑圧する側にまわった、という重大な転機(小和田次郎ほか『戦後史の流れの中で 総括安保報道』 現代ジャーナリズム出版会 一九七〇年 二六九頁)への自覚や反省が薄れていることを指摘したい。五月一九日の暴力的な日米安保改定強行採決を目の当たりにした国民の危機感が高まるなか、政府、財界からのマス・メディア工作・統制、さらには自主規制さえ露骨になった事実と皇太子の婚約に始まる皇室慶事祝賀モードへの流れの結果でもあった。以降、マス・メディアは、六月一九日に条約が自然承認された後の「挫折感」がことさら強調され、さらに今日まで「新日米安保条約」の内容自体についての論議が遠ざけられ、樺美智子の追悼と偶像化を一種の逃避として利用してきた欺瞞性はなかったか。

また、当時「新日米安保条約」に反対した人々のなかには、高度経済成長の担い手となり、その恩恵を享受する過程で、贖罪をするかのように樺美智子を美化する人も少なくない。美智子への称賛を惜しまなかった活動家や知識人たちが、保守派の論客になったり、会社経営や大学行政に携わったりしながら、その一方で「伝説化」に加担している場面に出会うことにもなる。また、当時、まったくの傍観者であったか、無関心であった人たちまでが、たんなる感傷やノスタルジィに駆られて、その偶像化に酔うこともある。こうした風潮が、今日まで「日米軍事同盟」の本質的な論議を回避し、沖縄の基地を放置し、「抑止力」なる幻想をいまだに引きずる要因になってはいないだろうか。

筆者は、現代の若者たちに、一九六〇年前後、日本の未来を真剣に考えていた青年たちや市民たちの等身大の姿を伝えたいと思った。本書が、自身を含め、多くの読者が自らの足跡を真摯に省み、今後なにをすべきなのかを考える一冊になればと願う。

(『図書新聞』2010731日号所収)

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2010年7月13日 (火)

佐倉市都市マスタープランの見直しへ、市民の意見を反映するというけれど

なぜ、院生が入って来るの?

「こうほう佐倉」を見て、711日(日)志津コミュニティセンターでの「都市マスタープラン策定地区懇話会」に申し込み、出かけてみた。会場を変えて3回ほど開催するらしい。今日は先月に続く2回目だ。たしか毎回50人程度参加者を募集していた。

受付で参加者数を聞いてみると、市民の方は20人ほどですとのこと。会場に入るといきなり、あなたは3班です、と決まった席に案内される。4つのグループに分かれていて、珍しく若い人もちらほら、20人ではきかぬ賑わいである。

都市計画課長からあいさつがあって、課の職員7人が参加、マスタープラン策定懇話会の小泉秀樹委員長のもとワークショップ方式で進め、ついては小泉先生の指導を受けている、大学院学生と「ものづくり大学?」の院生も各班に参加してもらい、進行ほかを手伝ってもらうとの説明があった。市民と行政の「懇話会」になぜ学生が参加するのか、事前に予告もなかったし、何か唐突な気がして、質問した。「参加の学生は、この会ではどういう位置づけなのか。策定懇話会委員長の先生が参加するのは分かるが、その教え子たちが、住民でもないのに参加し、進行など会を運営するのは、唐突だし、違和感を覚える」といえば、委員長が「それはですね」と説明しかけるので、私は「行政の方にお尋ねしているのです」といえば、課長は「参加といっても、職員だけではできないことを、手伝ってもらうだけですから問題ないです」とのことだった。職員ができないって、7人もいてどういうことなのか、私は釈然としないままだった。ほんとうに足りなければ、アルバイトを雇うべきだ。私たちのグループは、2人の院生、2人の策定懇話会の委員と都市計画課の職員1人、純然たる「市民」は私を含めて4人らしい。   

なぜ、ワークショップ方式なの?

進行係だという隣席の院生が、2色のポストイットをもってそわそわして「自己紹介を兼ねまして、各人佐倉の『ここが好きな○○です』とこのピンクの紙に書いてください」という。市民の4人は一瞬「?」とけげんな表情だ。ああ、これがワークショップとやららしいが、大人を相手に少し幼稚過ぎないかとも思い、いちばんにあたった私は「そんなこと考えてもいないし、好きなところやいいところがありませんから書きません」という。「何か一つくらいあるでしょう」みたいなことを言うので、「住民でもないあなたにそんなことは言われたくない」と少々毒づいたりした。「市民」の一人は「こんな風な会とは思っていなかった。マスタープランの見直しというから、読んでみてあまりにもおかしなところがあったので、こうして意見を書いてきた」とプリントアウトしたものを職員に手渡していた。参加の市民はまじめなのだ。「緑がまだ残っているところがいい」と書く人もいた。そして「今度は、佐倉のここが嫌いだというところ、ここを直してほしいところを青い紙に書いてください」といい、もう1人の院生が、大きな模造紙に十字を書いて、横に良い点・悪い点、縦に現在・将来と書き、控えているではないか。シナリオ通りの進め方である。私も、仕方なく、というか抵抗のしようもなく、直してほしいこと、許せないこと、なくしてほしいことを書き出したというわけだ。「市民」の方々からもいろいろ出ていた。多くは環境問題、生活の足の確保たる交通問題に集中した。

休憩に入ったところで、参加の院生について、職員や院生本人に尋ねてみた。策定懇話会委員長は東京大学工学系研究科都市工学専攻の准教授とのこと、「ものづくり大学院」院生というのは都市持続再生学コースに在籍している社会人の院生のことらしい。彼らは、夜間と土曜日を利用して、勤務しながら学んでいる人たちでもある。その個人的な意欲は可としたいが、多分委員長の准教授は、佐倉市の都市マスタープラン策定見直し過程に密着、参画することをケーススタディの一つとみなしているのではないか。佐倉市は、それをいいことに「お手伝いいただいて」いるのではないか。私は、委員長や委員長の個人的な人脈の院生たちの運営や誘導により、ワークショップという一定の枠の中で、市民の意見や要望が安易にまとめられていくことに危惧を覚えた。ワークショップなどという方式をとることによって、市民のストレートな意見が妙に取りまとめられたり、逆に拡散されたりしないかが不安となった。

この日の会の後半、各班の取りまとめ発表にあたっても、そんな不安が増幅した。いろいろ出た要望や意見を誰が主体となって実現していくのか、を表にまとめましょう、という。表には、市民・行政・企業・専門家・NPO他などが横軸に示される。テーマごとに単独でできること、協働でできること、などが確認されていく。「専門家」あるいは「有識者」というのが曲者で、多くの場合、行政や企業の代弁だったりするので、市民の意見反映のバリアになることが多いので、私は不要論に近い。国や自治体の審議会、専門家会議、有識者会議、第三者委員会などと称されるものがなんとあてにならないことか。あて職だったり、あちこちの委員を兼務したり、名誉職と心得ていたりと、本来の機能を果たすことが少ないのではないか。行政にとっては責任逃れか、職務放棄に、もっぱら活用されているのでないか。また、院生はまた「この班の一言キャッチフレーズを考えてください」としきりに迫るが、無理してまとめることもないのでは、というのが大方の「市民」の意見であった。シナリオ通りに進まなかったのは結果的に私たちの班だけのようだった。委員長の先生は、この班もこの問題が「人気なんですねえ」なんて覗き込むので、「人気?私たちはもっと真剣ですよ、人気なんて言ってもらっては困ります」といえば「すいません、関心が高いんですね」とジーパンのスニーカー先生はおっしゃるのである。

なぜ、マスタープランに力が入り、現実問題の解決を回避するのか

そもそも、今回見直すというマスタープランは、20013月に、20年後を目標に、「佐倉市都市マスタープラン」として策定されたものである。当時、174000人だった佐倉市の人口が、10年後の2010年に21万になるという数値を聞いたとき、佐倉市に10数年住まい、現状を見ていれば、素人でも信じられない「希望的観測」だったので、自治会の仲間や環境問題に取り組んでいる仲間たちとその杜撰さを笑ってしまったことがあった。人口予測は一つの象徴的な数字に過ぎなかった。案の定、その後、何回かの下方修正がなされたが、現実には、2010年時の人口は175900人、1.1%増に過ぎない。なぜ見直すのかといえば、2001年以降、マスタープランの「上位計画」である、「第3時佐倉市総合計画・基本構想」の200512月改訂、「佐倉市都市計画都市計画区域の整備、開発及び保全方針」の20072月改訂との整合性も迫られ、さらに20065月には「都市計画法」の一部が改正され、従来の市街化調整区域を外し市街化区域拡大の路線からコンパクトシティ、既成市街地の再生、魅力ある市街地形成へとシフトしたことにもよる。要するに、少子・高齢化、過疎化、コミュニティの崩壊に直面して、にっちもさっちもいかなくなったのである。マスタープランに限らず、「絵に描いた餅」に化したのを認めないわけにはいかなくなったのである。しかし、私たちの今日の班の「市民」の方々も強調するように、市内のどこの雑木林も竹林化し、駅前のパチンコ屋1軒のやりたい放題を規制できない行政は期待できないという思いは、私もここ十数年、近隣の環境問題に取り組むようになって、行政の怠慢に乗じた開発業者のやりたい放題、両者の癒着をいやというほど見せられてきた。法律がなければ規制できない、と運用で出来ることを回避し、本来行政のやるべきことを業者がかわりにやってくれるのだから、少々のことは大目に見たいといった、住宅行政、道路行政、福祉行政、防犯・防災対策など、また、指定管理者制度によってほんとうのサービスが向上したかも疑わしい。今回の見直しについても、地区別懇話会の意見を市長に上げ、市長からの報告を受けて懇話会は提言、素案縦覧の上、公聴会を開催、都市計画審議会に付され、市長への答申を経て、議会報告、計画決定という手続きがとられる。こうした過程の中で、いわゆる行政の将来構想、総合計画、マスタープラン等と呼ばれるものが、外部のシンクタンク頼みだったり、今回のように外部委員との必要以上の互恵関係が生じたりすることが横行するのだと思う。こうした総論的な計画や手続きに時間をかけるより、各論である、現実の問題解決にひとと時間を投入、創意工夫をしてほしいのだが。

会の終了後、「あなたの質問はわからないところもあるが、勇気ある発言だったと思う。発想が近いかもしれない」と、声をかけてくれた市民の方もいらした。会場で発言していただけたら、もっとありがたかったのだけれどなあと帰路につくのだった。私って、突拍子もないないことを主張しているわけでもないのになあ、と冷房に痛めつけられた身を湯船に沈める夜となった。午後1時半から定刻を過ぎた5時半過ぎまでの長丁場ではあった。

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2010年7月 4日 (日)

想い出の場所、想い出の歌<川崎市登戸>

依頼により寄稿しました旧作の「自歌自註」(?)です。

・観覧車めぐる丘まで枯れ草のひといろ身に余るほどの明るさ        

 池袋の実家を出てマンションに引越し、明日から出勤という夜、高熱を出してしまった。朝、職場への連絡の手立てがない。電話の架設工事が遅れていたのだ。ケータイやパソコンなどなかった時代である。当時の私は、すでに一〇年も前に母を亡くし、前年に父を亡くし、家業を継いだ兄たち家族も四人に増え、実家を離れることにしたのだ。その心細さは格別で、「自立」の道のきびしさが身にしみる朝、枯れ草の明るさが切なかった。

一九七〇年代の初め、周辺には、まだ梨畑も水田も残っていた。休日には多摩川の土手を走ることもあった。住所は「登戸」だったが、最寄りの駅は、小田急「向が丘遊園」で、通勤時の電車の混みようは大変なものだった。二度目の職場だった国立国会図書館での仕事の面白さがわかり掛けた頃だった。多摩川の鉄橋を渡るとき、定年までこうして通い続けるのかな、と思ったものだ。縁あって結婚したが、夫の職場は名古屋だった。私の仕事が名古屋で見つかるまではと、週末になると私が名古屋へ行ったり、夫が登戸に来たりの生活が始まった。検診で予定日を伝えられたのが駅向うの稲田登戸病院だった。半年後に出産を控え、仕事を失うかもしれない不安が募るなか、名古屋からの採用通知を手にしたのも、この登戸だった。三月三一日まで勤務し、その日の新幹線で名古屋に向かい、四月一日には新しい職場に出勤していた。

向が丘遊園は二〇〇二年に、病院は二〇〇六年に閉じられたという。読売ランドの観覧車は、いま、あの窓から見えるだろうか。(『短歌』20107月号所収)

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