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2010年7月 4日 (日)

想い出の場所、想い出の歌<川崎市登戸>

依頼により寄稿しました旧作の「自歌自註」(?)です。

・観覧車めぐる丘まで枯れ草のひといろ身に余るほどの明るさ        

 池袋の実家を出てマンションに引越し、明日から出勤という夜、高熱を出してしまった。朝、職場への連絡の手立てがない。電話の架設工事が遅れていたのだ。ケータイやパソコンなどなかった時代である。当時の私は、すでに一〇年も前に母を亡くし、前年に父を亡くし、家業を継いだ兄たち家族も四人に増え、実家を離れることにしたのだ。その心細さは格別で、「自立」の道のきびしさが身にしみる朝、枯れ草の明るさが切なかった。

一九七〇年代の初め、周辺には、まだ梨畑も水田も残っていた。休日には多摩川の土手を走ることもあった。住所は「登戸」だったが、最寄りの駅は、小田急「向が丘遊園」で、通勤時の電車の混みようは大変なものだった。二度目の職場だった国立国会図書館での仕事の面白さがわかり掛けた頃だった。多摩川の鉄橋を渡るとき、定年までこうして通い続けるのかな、と思ったものだ。縁あって結婚したが、夫の職場は名古屋だった。私の仕事が名古屋で見つかるまではと、週末になると私が名古屋へ行ったり、夫が登戸に来たりの生活が始まった。検診で予定日を伝えられたのが駅向うの稲田登戸病院だった。半年後に出産を控え、仕事を失うかもしれない不安が募るなか、名古屋からの採用通知を手にしたのも、この登戸だった。三月三一日まで勤務し、その日の新幹線で名古屋に向かい、四月一日には新しい職場に出勤していた。

向が丘遊園は二〇〇二年に、病院は二〇〇六年に閉じられたという。読売ランドの観覧車は、いま、あの窓から見えるだろうか。(『短歌』20107月号所収)

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