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2010年9月16日 (木)

書庫の片隅から見つけた、私の昭和(5)1945年前後の教科書の中の「万葉集」「短歌」

 

 

 春以来、書庫(物置?)の資料の整理が頓挫してしまった。古本屋さん数店に7~8個の段ボールを送った。着払いだったり、宅急便代がこちら持ちだったりしたが、買上げ価格が情けないほどの額だったことが、整理の意欲を失わせたのかもしれない。「遺品整理」で家族に迷惑がかからないように「老前整理」の大切さをわかっているのだけれど、進まない。涼しくなったらまた考えよう(本稿を書き始めたころは、例年にない猛暑だったのに、すでに秋はそこまで?)

 

 捨てかねているものに、「教科書」がある。1940年代生まれの私の、1970年代生まれの長女の教科書がバラバラと出てくるわ、出てくるわ・・・、しかし、教科別に並べてみると、もちろん網羅的ではない。どういうわけか、1933年生まれの次兄の教科書まで現れた。実家を建てなおすとき、長兄から「要るものがあったら、持って行って」といわれ、そのドサクサにごっそりと我が家に運び込んだものだろう。その兄たちもすでにいない。すでに家を出ている長女は、「とって置いて」というばかりで見向きさえしない。「送りつけるぞ」と脅かすのだが。

 

 捨てる前に、社会科では近現代の戦争・憲法・天皇、国語では万葉集・短歌の扱い、音楽などなどが気になるところだった。手元の資料でどれほどたどれるものかどうか、ほそぼそながら作業を開始してみた。裏付けをとらねばならないのだが、ひとまずの報告としたい。まずは国語の教科書の「万葉集」「短歌」から見てみよう。

*旧仮名はそのままに、漢字は使用のPCで変換できる限り旧字としたが、大方は新字という半端な表記にとどまった。


1.
1945
年敗戦直後の中学校の国語教科書

①中等國文一 著作兼発行者:文部省 昭和181214日発行 191210日修正発行  90頁(36銭)35

②中等國文二 著作兼発行者:文部省 昭和19822日発行 83頁(34銭)35

③中等國文三 著作兼発行者:文部省 昭和181231日発行 191215日修正

発行 108頁(40銭)

 

1933年生まれの次兄が使用したと思われる。1945年疎開先の千葉県佐原中学校(現香取市)に入学、19467月、21学期に東京池袋の焼跡のバラックに一家で戻り、次兄は、私立中学校に編入したはずだ。①の裏表紙には佐原中学校名・学年・クラスと名前が次兄の筆跡で書かれ、②の裏表紙の記名には編入先の私立中学校名が書かれている。価格については、カッコ内が奥付に刷り込まれたものだが、新価格はゴム印で押されていた。③の裏表紙には、どういうわけか、佐原中学校名・学年・クラスと次兄より2歳年長の従兄の名前が書かれていた。物不足の折、次兄は従兄の教科書を譲り受けたのではなかったか。ゴム印の価格表示は見られなかった。その従兄は、最後の旧制中学校の名残だったのか、たしか中学4年修了で東京の大学に進学したのではなかったか。

 

2.教科書の中の短歌教材

上記3冊における万葉集ならびに短歌が教材になっている部分を拾い、若干のコメントを付してみた。

中等國文一(「目録」では1~12章に分かれている)

一 富士の高嶺 萬葉集:

山部赤人による富士山を詠んだ長歌とつぎの反歌のみ記される。

・田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける

 

十一 朝のこヽろ 橘曙覧:

・神國の神のをしへを千よろづの國にほどこせ神の國人

・天地も広さくはヽるこヽちしてまづ仰がるヽ青雲のそら

・すくすくと生ひたつ麦に腹すりて燕飛び来る春の山はた

 (春よみける歌の中に)

・日の光いたらぬ山の洞のうち火ともし入りてかね堀りいだす

 (人あまたありてかね掘るわざものしをるところ見めぐりありきて)

・赤裸の男子むれゐてあらがねのまろがり砕く槌うちふりて(同上)

・黒けぶりむらがりたヽせ手もすまに吹きとろかせばなだれ落つる

などを含む11首が並ぶ。

 

なお、「六 戦國の武士 常山紀談」の題名は読めるが、2532頁、「九 武士気質 藩翰譜」の冒頭2頁と末尾の1頁を除く5772頁の2か所が、手でちぎったと思われる痕跡がある。どういう経緯なのか、今はわからないが、いわゆる「墨塗り」の替わりに教師が切り取らせたものだろうか。ちなみに、「戦国の武士」は「人間五十年」の小題を付し「永禄三年五月、今川義元大軍を率ゐ、織田信長を討つ」の文章で始まっている。「九 武士気質」は、伊達政宗の上杉討伐時のエピソードで始まる。

万葉集からは、有名な赤人の長歌と短歌のみが収録されていた。橘曙覧(18121868)には歌集『志濃夫廼舎歌集』があるが、山村での質素な暮らしの中で国学と作歌に専念する。短歌への信念は「いつはりの巧みを言ふな誠だにさぐれば歌はやすからむもの」の1首にも集約され、「たのしみは・・・○○のとき」という「独楽吟」の50首余は平明で、親しみやすい。教科書収録の短歌は、時局がら偏った選択であることが明白であるが、上記の後半3首は、越前の銀山に出かけた折の連作のなかの3首であって銀山で働く男たちの様をよく観察している作品に思えたが、時の政府や教師たちは、ここで労働や生産の大切さを学ばせようとしたのだろうか。

 

中等國文二111章に分かれている)

一 わたつみ 萬葉集:

・わたつみの豊旗雲に入日さしこよひの月夜あきらけくこそ(中大兄皇子)

・熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今ごぎ出でな(額田王)

のほか、柿本人麻呂、高市黒人、大伴家持ら覉旅の歌とともに、作者不詳の次の

ような歌を含め9首が並ぶ。

 

・大海に島もあらなくに海原のたゆたふ浪に立てるしら雲
(筑紫に遺さるヽ防人の歌)


四 すヽきの穂:

・秋の日に光かヽやくすヽきの穂こヽの高屋にのぼりて見れば(良寛)

・ふく風に動く菜の花おともなく岡べに静けき朝ぼらけかな(大隈言道)

・えみしらを討ち平げて勝鬨の声あげそむ春は来にけり(平賀元義)

近世の歌人3人の各数首づつあわせて11首が並ぶ。

 

 この学年では、万葉集のポピュラーな旅の歌と近世短歌の平明な歌が並ぶ。想像に反して、防人の歌が前面に出ることも、国を思う歌が並ぶこともなかった。上記元義の歌の詞書に「嘉永七年正月一日この春は亜墨利加の賊来るよし女童どものいひ騒ぐをきヽて」とあるのが時局を反映しているかに思えた程度であった。「平家物語」「太平記」「駿台雑話」「蘭学事始」などの古典とともに徳富健次郎「一門の花」、久保田俊彦「湖畔の冬」、中谷宇吉郎「馴鹿橇」、富田高慶「尊徳先生の幼時」という散文、河合又平「眞賢木」という詩も、いずれも墨塗りないし削除の対象にはならなかったようである。

 

中等國文三112章に分かれている)

一 宇智の大野 萬葉集:

中皇命による長歌とつぎの反歌が1頁に収められている。

・たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその深草野

 

六 磯もとどろに(源実朝)

・五月雨に水まさるらし菖蒲草うれ葉かくれて刈る人ぞなき(菖蒲)

・木の葉散り秋も暮にしかた岡のさびしき森に冬は来にけり(秋の歌)

・大海の磯もとどろに寄する波われてくだけてさけて散るかも

 (あら磯に波の寄るを見てよめる)

・山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも
    (太上天皇御書を下し預りけるときの歌)

を含む10首が並ぶ。


十二 明治天皇御製:

・國といふくにのかがみとなるばかりみがけますらを大和だましひ(鏡)

・暑しともいはれざり戦の場にあけくれ立つひとおもへば
(をりにふれて 明治三十八年)

・とつくにの人もよりきてかちいくさことほぐ世こそうれしかりけれ(同上)

・えぞのおく南の島のはてまでもおひしげらせよわがをしへ草(同上)

・外國にかばねさらしヽますらをの魂も都にけふかへるらむ(凱旋の時)

・ますらをも涙をのみて國のためたふれし人のうへをかたりつ

 (をりにふれて 明治三十九年)

・ひろくなり狭くなりつヽ神代よりたえせぬものは敷島の道(道)

を含めた15首は読めるが、この章に全体で何首収録されているかは不明である。

 

目録(目次)によれば、手元の教科書は、「十 心の小径」途中95頁から、「十一 学者の苦心」全部と「十二 明治天皇御製」の途中104頁までが、例によって切り取られている。明治天皇の御製は105頁から最終頁の108頁に収められた15首が読める。

 

3.切り取られた明治天皇の短歌

「中等國文三」には、「明治天皇御製」の章がある御。明治天皇は生涯で10万首に近い短歌を作ったとされる。これまで歌集や鑑賞の書は幾度か公刊されてきた。歌集としては、教科書編纂時までには、天皇没後11年、『明治天皇御集』(入江為守他編 文部省 1922年)が刊行され、編纂過程で、総歌数93032首とされ、その内、1687首が収録された。つぎに、『明治天皇御製集 昭憲皇太后御歌集』(『現代短歌全集』別巻)(佐々木信綱編 改造社1929年)がある。ちなみに、1945年以降では、つぎの二歌集がある。『新輯明治天皇御集』(甘露寺受長、入江相政・木俣修他編 明治神宮1964年、 明治天皇8936首収録)、『新抄 明治天皇御集 昭憲皇太后御集』(甘露寺受長他編、角川書店 1967年、明治天皇1404首収録)が刊行されている。(木俣修「明治天皇―作歌十万首の歌人」『評論明治対象の歌人たち』明治書院 1971年、『田所泉『歌くらべ明治天皇と昭和天皇』創樹社 1999年、参照)生涯に詠んだ歌の数からしても類歌が多い。私が読んだものに限っても、「いくさ」や「外国」というより「海外領土」について歌ったものが多く、木俣や田所が引く歌の中でも日露戦争における戦況、軍人や兵を歌うことも多くなる。上記中等教科書「三」における日露戦争時の歌やつぎのような韓国併合や清国末期の歌と日本政府の外交・軍事政策の歌との違和感は拭いようもない。

・へだてなくしたしむ世こそうれしけれとなりのくにもことあらずして
(隣 一九〇七年)

・おもふことなるにつけてもしのぶかなもとゐさだめしひとのいさをを
(をりにふれたる 一九一〇年)

 ・おのづからおのがこころもやすからず隣の國のさわがしき世は

 (をりにふれたる 一九一二年)

上記二首目は、安重根に撃たれた伊藤博文を偲んだものとされる。

 

切り取られた部分に収録された明治天皇の「御製」はどんな歌が何首あったのかは、いずれ、図書館などで削除されていない教科書を閲覧しなければと思う。いまでこそ、歴史を一通り学び、明治天皇の短歌を客観的に読めば、「よく言うよ」のような感想が述べられるけれども、当時の教師は、これを教材に何を教えていたのかを思うと、思想や教育の自由がない恐ろしさが迫って来る。そして、敗戦後は一転してGHQの指令により、墨塗りをさせたり、破り捨てさせたりした教師の戸惑いと心情はいかなるものであったろうか。現代にあっても、検定教科書、指導要領、一片の通達による管理体制などの実態を知ると、決して過去の問題ではないはずであることも分かって来る。

 

 

4.教科書の中の「万葉集」

「中等國文」の各巻、いずれも巻頭に万葉集が配されていることは、戦後教育を受けた私たちの感覚からすると、国語教科書としてはかなり特異に思えた。が、収録の作品は、いわゆる「名歌」とされる作品でもあり、なじみのある作者でもあり、あまり突出したようには感じられなかった。

教科書に限らず、近代日本において「人々に『国民』という意識を喚起する必要」から、数ある古典群の中から、「当初から至宝の地位を与えられ、やがて広範な愛着を集めることになった」として、万葉集がいかに重用されてきたかについては、だいぶ前に『万葉集の発明』(品田悦一著 新曜社 2001年)で読んだ記憶がある。万葉集が「国民歌集」として、現代に至るまで永らえているのはなぜかについてつぎのように分析する。一つは「古代の国民の声があらゆる階層にわたって汲みあげられている」というもので、私たちも作者が「天皇から防人まで」広汎であり、歌風も「素朴で、力強い」などと習った。この点が、「昭和の戦時翼賛体制下では、この側面に内在する政治性が極端に強調され、忠君愛国の象徴としての万葉像が国を挙げて喧伝された」(同書312頁)という。さらに「貴族の歌々と民衆の歌々が同一の民族的文化基盤に根ざしている」と強調されたことをあげる。明治時代の国文学者や歌人、大正・昭和時代の出版文化が支え、同時に教科書・教育現場による支持が厚かったからだろう。

また、植民地、とくに台湾における「国語(日本語)教育」のなかでの万葉集の位置づけは、後の『台湾萬葉集』などとも関連し、私は深い関心を寄せている(拙著「植民地における短歌とは―『台湾万葉集』を手掛かりに」『現代短歌と天皇制』風媒社 2001年)。同じ著者の最近刊『斎藤茂吉』(ミネルヴァ書房 2010年)でも、茂吉を語る上で、近現代における万葉集受容の変容が大きなテーマになっていた。なかでも茂吉の『万葉秀歌』が戦時下のベストセラーとなってゆく秘密を探っていたのが興味深く思われた。学徒出陣世代の恩師から『万葉秀歌』を戦地にまで携えて行ったことを聞いたことがある。

  『万葉集の発明』の著者は、さらに、戦後の国語教育においても「もっぱら文化的に表象される万葉像を取り込み、ナショナル・アイデンティティの再建に利用し」て、万葉集の「二つの側面を使い分けながら時流に対応し、本質的には無傷のまま現在まで生き残ってきたのだった」と結論付ける。戦後については、後日、私との長女の国語教科書を使って、「万葉集」の在りようを検証してみたいと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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