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2010年9月29日 (水)

インターネットの中の短歌情報<番外編>歌集剽窃疑義その後

 前記事でも触れた風間祥「銀河最終便」を久しぶりにアクセスすると、インターネットの中の短歌情報(4)(5)の記事に触れた歌集「RERA」の剽窃疑義の問題について、次のような記事(2010年9月24日)があるのを発見しました。冒頭部分のみを引用しましたので、詳しくは下記までアクセスしていただければと思います。

http://sho.jugem.cc/?day=20100924

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詳細については何も語らない誰も触れたくないことの幾つか

2010.09.24 Friday

『短歌と天皇制』(*内野光子著)という著作を持つひとならばこそ逃げることなく 

*『RERA』は改訂版が発行されたが。

ある意味で改竄・証拠隠滅ととられかねない一つの決定

それでもう無かったことになるのです 狭い社会ゆえの黙認

(以下略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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 2首目は、私にとって面映ゆいばかりですが、私の記事への数少ない反応の一つでした。ネット上で遠慮がちに申立てをされた村上さん。一方『RERA』の著者は、第1歌集で現代歌人協会賞を受賞、大きな結社に所属し、出版元のオーナーもたしか同じ結社ではなかったでしょうか。疑義のある歌集を出した著者と出版社の個別の問題というより、歌壇の対応、風間さんが指摘されるように「狭い社会ゆえの黙認」が問題のような気がします。

 

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インターネットの中の短歌情報~楽しく、役に立つ私流ネット検索(5)気になる歌人のブログなど

            

前回で触れた、村上きわみ氏のブログやツイッターからの剽窃疑義があった六花書林刊の松木秀歌集『RERA』について、その後も歌壇ではあまり問題になっていないようだ。そんな中で、インターネット歌壇の草分けの一人枡野浩一氏がこの問題についてかなり早い時期に言及していることを、読者からご教示いただいた。

だれかの「つぶやき」をそのまま短歌化してその元のつぶやきを明記しないみたいなことを彼は時々やるのだ。それはまずい。

私も短歌化は時々やるけれど必ず元ネタがわかるようにします。また「短歌化」と明記します。(「短歌化とパクリと同案多数」枡野浩一公式ブロブ『枡野書店』二〇一〇年六月二二日)

http://masuno.de/blog/2010/06/22/post-189.php

この日の書き込みは長く、続いて、氏の身辺で、近年生じた剽窃、同案多数、本歌取りなどの実例をあげ、「短歌化」という概念を通じて、他人から得た着想や表現などを借用する場合の最小限度のルールを示している。枡野の自作「つり皮の輪がデカければ首つりの綱になるのに夕焼け小焼け」が「吊り皮で首が吊れると気がついてつぎつぎ肩をのぼる赤ちゃん」(松木秀)の一首になったことには「どうして迂闊にもここまで『そのまんま』の短歌作品を歌集に収録しちゃうかなあ・・・」と嘆く。私は、枡野氏の短歌やパフォーマンスをあまり好まないので、そのブログも「お気に入り」に掲げながらあまりアクセスすることをせず、「敬遠」しがちではあったが、まじめにことをきちっと見ている一面のあることを知った。

「しばらくお休みする」とした村上きわみ「gedo日記」も読めるようになったし、四月のある日から一時途絶えた荻原裕幸「ogihara.com」も何事もなかったように再開した。また、三月の休止宣言から数ヵ月後には、風間祥「銀河最終便」も再開したのを知ってなぜかホッとするのだった。

小さな研究会でときどき会う阿木津英氏も「阿木津英の仕事」などのブログを持つ。そこでは、過去の論文やエッセイを遡って登載したり、最近の論著を収録したりしているが、必ずしも網羅的にはなっていない。一方、最近「あきつ・あんてな」を新設、ここでは短歌には直接関係しないと思われがちながら、彼女が深く関心を持つ政治的経済的なトピックスを取り上げ、他のサイトからコピーしたり、再編集したりした記事を紹介し、自身の見解を吐露する。彼女と私の見解とは異にすることもあるのだが、狭い短歌の世界に汲々として怒ることを忘れている歌人たちには耳が痛いのではないか。ただ、最近、一人の読者から、政治的経済的ネタもいいが、「もうそろそろ文学のお話を願えませんか」とのコメントが付いたのを受け、氏は、ほんとうは「歌一首を読んでいいねーと、みんなで愛でることができる方を望む」けれど、「リクツではなく自分の全身の感覚を働かせること」の重要性を説く。私も、歌人の政治的経済的な論点の提示や論議への参加は、むしろ自然体で、積極的になされるべきだろうと思う。世の歌人たちは、とくに政治的発言や説明責任を巧みに回避しながら、短歌表現の曖昧性に逃げ込むパターンが多いのではないか。

これからのコミュニケーションツールとしてのインターネット、ホームページ、ブログ、ツイッターは、進化し続けるのだろう。そこに何を盛り込むべきかのソフト面での充実は、何よりも発信者の、それを支える受け手、読者の双肩にかかっているといえよう。(『ポトナム』2010年10月号所収)

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2010年9月20日 (月)

ある講演会のあとで~雁屋哲氏にお会いして

思いがけない展開で、「美味しんぼ」の原作者雁屋哲氏と数人の会食の席に、私もご一緒できることなった。

918日、調布(市文化会館たづくり)での安川寿之輔氏「日韓併合と福沢諭吉~坂の上の雲は明るい明治か~」の講演会にオーストラリアから帰国後間もない雁屋氏が参加された。講演会後の会が企画され、お誘いを受けた。もとはといえば、「坂の上の雲」批判つながり、福沢諭吉批判つながりで、安川氏と雁屋氏が最近知り合い、中塚明氏・安川氏と共著を刊行したばかりの連れ合いがその会に誘われ、安川氏がマンガ『日本人と天皇』の著もある雁屋氏に拙著『短歌と天皇制』『現代短歌と天皇制』を紹介されて、私もお誘いを受けたという次第だった。

雁屋氏の本は、マンガ『日本人と天皇』(いそっぷ社 2001年、のち講談社α文庫)刊行後間もなく入手、読んでいたくらいだった。大学サッカー部を舞台に、スポーツやその周辺にただよう「天皇制」の残滓をひとりの部員が理解者と共に払しょく、改革してゆき、チームとしても強くなってゆくストーリだった。よく調べてあるマンガだな、と思い、参考文献の多さにも驚いたことを思い出す。それでもグルメマンガぐらいにしか考えていなかった「美味しんぼ」、断片的に雁屋氏のことについては読んだことはあっても、「美味しんぼ」までにはいたらなかった。

お誘いを受けてから、文庫の「美味しんぼ」、新刊の「美味しんぼ」を書店で探したりした。そして、ブログ「美味しんぼ日記」にもたどりつき、氏の関心の広さと探求の深さにあらためて驚いた。20数年前、「美味しんぼ」が爆発的人気を得た直後、お子さんの教育を考えてオーストラリアに移住したこと、以来、仕事はシドニーで、年に数か月、日本に帰国して取材や資料収集などの仕事をこなすという。

会食は原宿の「S」という和食のお店。雁屋氏、安川氏、関係の新聞社、雑誌社、出版社の方々と私たち二人。談論風発ながら、日本の近現代史とくに、当日の安川氏の講演のテーマだった福沢諭吉から始まり、日朝関係、教育、戦争責任、天皇制、メディアの役割などをめぐって、雁屋氏の基本的な姿勢を伺う展開になった。雁屋氏は理系の出身で、論理的、実証的であることを旨とし、曖昧な、感情的な対応には手きびしい。例えば、福沢諭吉信奉者や擁護論者には、福沢の著作をしっかり読んではいないことが多い、日本の、天皇の戦争責任を断ずるためには、日本の旧植民地での暴虐や政策の実態を知ること、日本の識者の変わり身の早いことなどを強調される。近く、福沢諭吉についても書く構想があるそうだ。

そうした議論の合間に、運ばれてくる料理、一品一品にいたるコメントや給仕の方・料理人の方との素材や産地、料理法までのやり取りが聞いてとれるのだった。私にとっては初めてで、格別美味しかったのが、すっぽんのスープ、猪肉の角煮、ぎんなんのてんぷらの小どんぶり、パッションフルーツのゼリーなどだった。。雁屋氏の「美味しんぼ」105冊目の新作は、食の安全をテーマに10月に発売される。次には国家的な公害、ダムについても執筆の由、その創作・研究意欲とに大いに刺激を受けた一夜であった。

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2010年9月19日 (日)

「田中一村 新たなる全貌」へ行ってきました

 917日、千葉市女性センターでのハーモニー歌会の帰りに、仲間のお一人と千葉市立美術館へ寄った。新聞等での紹介記事が続く中、12日のNHK日曜美術館でも放映されたというのも、後になって聞いた。1980年代NHKの日曜美術館が火付け役で「一村、一村」とブームにもなり、数年前には映画になり、生誕100年の大きな展覧会もあったような気がする。会場は、案の定、込み合っていた。以前、シャガール展だったか、閑散としていたのに。

 「一村」とは
田中一村(19081977)は、生前はなかなか評価されずに、50歳になって、心機一転して奄美大島に渡った日本画家で、私は、新聞で見たカラーの植物画の構図や色調がアンリー・ルソーに似ているような気がして、確かめてみたかった。

 会場に入ると、かなり大規模な展覧会だった。大きく東京時代、千葉時代、奄美時代の3章構成で、栃木に生まれ、彫刻家だった父、田中稲村は、一村の幼少時より絵画の才能に着目、「米邨」とも名乗らせたという。78歳で短冊・色紙に描く蛍や松、梅の図は子どものものとは思えなかった。上京し、芝学園中学校から南画をよくし、東京美術学校日本画科に入学するが、横山大観の指導のもと、同期には東山魁夷など錚々たるメンバーが集まっていたらしい。3か月足らずで退学する理由は、家庭の事情や周囲の才能へ気後れか人間関係か色々だったのかもしれない。以降は、独学で、上海画壇様式に傾斜、書も篆刻も模していた。書も隷書風のセンスあるものに思えた。

 

千葉時代
1938年、一村30歳で、千葉市千葉寺町に移り住み、20年間、周辺の田園風景をひたすら描き続ける。当時の地図も展示されていて、私たちの歌会会場の女性センターは千葉市ハーモニープラザの一部だし、プラザは千葉寺の隣だし、プラザの前の青葉の森公園は、かつての畜産試験場やグランドがあったところだ。私たちも時々吟行に出かける四季折々楽しめる公園になっている。そうした縁のある千葉寺周辺のかつてののどかな田園風景がさまざまな技法や角度から繰り返し描かれている。初公開でもあるという何冊かのスケッチブック、一部が欠けた一枚ものもある。そこには木々や草花、多くはオナガ、トラツグミ、ウグイス、キツツキなどの小鳥や軍鶏など多く描かれていた。

半折ほどのナンテンの実の赤のみが強調された墨絵風の「南天図」、紅葉の極彩色の鮮やかな「秋色」、画面いっぱいに描かれた若葉の蔭にひっそりとトラツグミが嘴と尾っぽをのぞかせている「新緑虎鶫」、荷車や軍鶏を取り巻く農村の人々の服装やしぐさが懐かしくもある「千葉寺風景 荷車と農夫」「農村風景」、一転して版画や切り絵風の「千葉寺杉並木」など、バラエティに富んだ画法を試みた千葉時代の前半。制作年をあえて記さなかったという。敗戦後は、日展や院展等の公募展に挑戦するが、独学のためかいっこうに入選しなかったらしい。敗戦直後、川端龍子の青龍展に出品した「白い花」は、私がとりわけ好きな作品である。花は、花でも、新緑の枝にびっしりと花様の「ガク」をつけたヤマボウシガが描かれている。我が家の小庭にも一本のヤマボウシがあって、同じような光景を目にしているからだろうか。

Isson_2

奄美時代
1955年、関係者の支援を受けて実現した四国・九州旅行では、スケッチに加えて、二眼レフのカメラによる撮影が加わり、多くの作品を生み出した。それがきっかけになって1958年には奄美大島へ転居し、中央画壇とも決別、新たなスタートを切ることになる。描く対象もソテツ、アダン、パパイヤ、ビンロウ樹、クワズイモだったり、蝶や蛾であったり、南国の魚たちに変り、精密画やだいたんな装飾的な構図をも試みるようになったのではないか。何度か千葉に戻っては、襖絵や肖像画なども描いていたようである。千葉時代以降、制作年を明記しないようにもなったらしい。奄美では、会場の年表によれば、近くの紬工場の染めつけの仕事で生計を立て、病弱でもあったためか、働いては制作、仕事を辞めては制作するという暮らしぶりだったようだ。

没後30年余

1977年、独身のまま奄美で亡くなる。1980年代になって、冒頭に述べたように注目されるようになり、2001年には田中一村記念美術館がオープンした。没後も関係者や支援者によってひそかに持ち続けられ、愛されてきた証のように、多くの作品が美術館に寄贈され、今回の美術展には個人蔵の作品も多い。

文芸の世界での、独学、自律性が世間的な時流や栄達からいかに遠いかを思い起こさせる田中一村展であった。

テレビ番組表を見ていたら、今晩、日曜美術館の再放送があるらしい。番組のホストが姜尚中氏に代ってから、めっきり見なくなってしまった。私の周辺にはあの声のファンがいるのだが、私にはどうもあの重苦しさとタレントになり切ってしまった研究者の姿を見るのがやりきれないから、つい遠のくのかも知れない。

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2010年9月16日 (木)

書庫の片隅から見つけた、私の昭和(5)1945年前後の教科書の中の「万葉集」「短歌」

 

 

 春以来、書庫(物置?)の資料の整理が頓挫してしまった。古本屋さん数店に7~8個の段ボールを送った。着払いだったり、宅急便代がこちら持ちだったりしたが、買上げ価格が情けないほどの額だったことが、整理の意欲を失わせたのかもしれない。「遺品整理」で家族に迷惑がかからないように「老前整理」の大切さをわかっているのだけれど、進まない。涼しくなったらまた考えよう(本稿を書き始めたころは、例年にない猛暑だったのに、すでに秋はそこまで?)

 

 捨てかねているものに、「教科書」がある。1940年代生まれの私の、1970年代生まれの長女の教科書がバラバラと出てくるわ、出てくるわ・・・、しかし、教科別に並べてみると、もちろん網羅的ではない。どういうわけか、1933年生まれの次兄の教科書まで現れた。実家を建てなおすとき、長兄から「要るものがあったら、持って行って」といわれ、そのドサクサにごっそりと我が家に運び込んだものだろう。その兄たちもすでにいない。すでに家を出ている長女は、「とって置いて」というばかりで見向きさえしない。「送りつけるぞ」と脅かすのだが。

 

 捨てる前に、社会科では近現代の戦争・憲法・天皇、国語では万葉集・短歌の扱い、音楽などなどが気になるところだった。手元の資料でどれほどたどれるものかどうか、ほそぼそながら作業を開始してみた。裏付けをとらねばならないのだが、ひとまずの報告としたい。まずは国語の教科書の「万葉集」「短歌」から見てみよう。

*旧仮名はそのままに、漢字は使用のPCで変換できる限り旧字としたが、大方は新字という半端な表記にとどまった。


1.
1945
年敗戦直後の中学校の国語教科書

①中等國文一 著作兼発行者:文部省 昭和181214日発行 191210日修正発行  90頁(36銭)35

②中等國文二 著作兼発行者:文部省 昭和19822日発行 83頁(34銭)35

③中等國文三 著作兼発行者:文部省 昭和181231日発行 191215日修正

発行 108頁(40銭)

 

1933年生まれの次兄が使用したと思われる。1945年疎開先の千葉県佐原中学校(現香取市)に入学、19467月、21学期に東京池袋の焼跡のバラックに一家で戻り、次兄は、私立中学校に編入したはずだ。①の裏表紙には佐原中学校名・学年・クラスと名前が次兄の筆跡で書かれ、②の裏表紙の記名には編入先の私立中学校名が書かれている。価格については、カッコ内が奥付に刷り込まれたものだが、新価格はゴム印で押されていた。③の裏表紙には、どういうわけか、佐原中学校名・学年・クラスと次兄より2歳年長の従兄の名前が書かれていた。物不足の折、次兄は従兄の教科書を譲り受けたのではなかったか。ゴム印の価格表示は見られなかった。その従兄は、最後の旧制中学校の名残だったのか、たしか中学4年修了で東京の大学に進学したのではなかったか。

 

2.教科書の中の短歌教材

上記3冊における万葉集ならびに短歌が教材になっている部分を拾い、若干のコメントを付してみた。

中等國文一(「目録」では1~12章に分かれている)

一 富士の高嶺 萬葉集:

山部赤人による富士山を詠んだ長歌とつぎの反歌のみ記される。

・田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける

 

十一 朝のこヽろ 橘曙覧:

・神國の神のをしへを千よろづの國にほどこせ神の國人

・天地も広さくはヽるこヽちしてまづ仰がるヽ青雲のそら

・すくすくと生ひたつ麦に腹すりて燕飛び来る春の山はた

 (春よみける歌の中に)

・日の光いたらぬ山の洞のうち火ともし入りてかね堀りいだす

 (人あまたありてかね掘るわざものしをるところ見めぐりありきて)

・赤裸の男子むれゐてあらがねのまろがり砕く槌うちふりて(同上)

・黒けぶりむらがりたヽせ手もすまに吹きとろかせばなだれ落つる

などを含む11首が並ぶ。

 

なお、「六 戦國の武士 常山紀談」の題名は読めるが、2532頁、「九 武士気質 藩翰譜」の冒頭2頁と末尾の1頁を除く5772頁の2か所が、手でちぎったと思われる痕跡がある。どういう経緯なのか、今はわからないが、いわゆる「墨塗り」の替わりに教師が切り取らせたものだろうか。ちなみに、「戦国の武士」は「人間五十年」の小題を付し「永禄三年五月、今川義元大軍を率ゐ、織田信長を討つ」の文章で始まっている。「九 武士気質」は、伊達政宗の上杉討伐時のエピソードで始まる。

万葉集からは、有名な赤人の長歌と短歌のみが収録されていた。橘曙覧(18121868)には歌集『志濃夫廼舎歌集』があるが、山村での質素な暮らしの中で国学と作歌に専念する。短歌への信念は「いつはりの巧みを言ふな誠だにさぐれば歌はやすからむもの」の1首にも集約され、「たのしみは・・・○○のとき」という「独楽吟」の50首余は平明で、親しみやすい。教科書収録の短歌は、時局がら偏った選択であることが明白であるが、上記の後半3首は、越前の銀山に出かけた折の連作のなかの3首であって銀山で働く男たちの様をよく観察している作品に思えたが、時の政府や教師たちは、ここで労働や生産の大切さを学ばせようとしたのだろうか。

 

中等國文二111章に分かれている)

一 わたつみ 萬葉集:

・わたつみの豊旗雲に入日さしこよひの月夜あきらけくこそ(中大兄皇子)

・熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今ごぎ出でな(額田王)

のほか、柿本人麻呂、高市黒人、大伴家持ら覉旅の歌とともに、作者不詳の次の

ような歌を含め9首が並ぶ。

 

・大海に島もあらなくに海原のたゆたふ浪に立てるしら雲
(筑紫に遺さるヽ防人の歌)


四 すヽきの穂:

・秋の日に光かヽやくすヽきの穂こヽの高屋にのぼりて見れば(良寛)

・ふく風に動く菜の花おともなく岡べに静けき朝ぼらけかな(大隈言道)

・えみしらを討ち平げて勝鬨の声あげそむ春は来にけり(平賀元義)

近世の歌人3人の各数首づつあわせて11首が並ぶ。

 

 この学年では、万葉集のポピュラーな旅の歌と近世短歌の平明な歌が並ぶ。想像に反して、防人の歌が前面に出ることも、国を思う歌が並ぶこともなかった。上記元義の歌の詞書に「嘉永七年正月一日この春は亜墨利加の賊来るよし女童どものいひ騒ぐをきヽて」とあるのが時局を反映しているかに思えた程度であった。「平家物語」「太平記」「駿台雑話」「蘭学事始」などの古典とともに徳富健次郎「一門の花」、久保田俊彦「湖畔の冬」、中谷宇吉郎「馴鹿橇」、富田高慶「尊徳先生の幼時」という散文、河合又平「眞賢木」という詩も、いずれも墨塗りないし削除の対象にはならなかったようである。

 

中等國文三112章に分かれている)

一 宇智の大野 萬葉集:

中皇命による長歌とつぎの反歌が1頁に収められている。

・たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその深草野

 

六 磯もとどろに(源実朝)

・五月雨に水まさるらし菖蒲草うれ葉かくれて刈る人ぞなき(菖蒲)

・木の葉散り秋も暮にしかた岡のさびしき森に冬は来にけり(秋の歌)

・大海の磯もとどろに寄する波われてくだけてさけて散るかも

 (あら磯に波の寄るを見てよめる)

・山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも
    (太上天皇御書を下し預りけるときの歌)

を含む10首が並ぶ。


十二 明治天皇御製:

・國といふくにのかがみとなるばかりみがけますらを大和だましひ(鏡)

・暑しともいはれざり戦の場にあけくれ立つひとおもへば
(をりにふれて 明治三十八年)

・とつくにの人もよりきてかちいくさことほぐ世こそうれしかりけれ(同上)

・えぞのおく南の島のはてまでもおひしげらせよわがをしへ草(同上)

・外國にかばねさらしヽますらをの魂も都にけふかへるらむ(凱旋の時)

・ますらをも涙をのみて國のためたふれし人のうへをかたりつ

 (をりにふれて 明治三十九年)

・ひろくなり狭くなりつヽ神代よりたえせぬものは敷島の道(道)

を含めた15首は読めるが、この章に全体で何首収録されているかは不明である。

 

目録(目次)によれば、手元の教科書は、「十 心の小径」途中95頁から、「十一 学者の苦心」全部と「十二 明治天皇御製」の途中104頁までが、例によって切り取られている。明治天皇の御製は105頁から最終頁の108頁に収められた15首が読める。

 

3.切り取られた明治天皇の短歌

「中等國文三」には、「明治天皇御製」の章がある御。明治天皇は生涯で10万首に近い短歌を作ったとされる。これまで歌集や鑑賞の書は幾度か公刊されてきた。歌集としては、教科書編纂時までには、天皇没後11年、『明治天皇御集』(入江為守他編 文部省 1922年)が刊行され、編纂過程で、総歌数93032首とされ、その内、1687首が収録された。つぎに、『明治天皇御製集 昭憲皇太后御歌集』(『現代短歌全集』別巻)(佐々木信綱編 改造社1929年)がある。ちなみに、1945年以降では、つぎの二歌集がある。『新輯明治天皇御集』(甘露寺受長、入江相政・木俣修他編 明治神宮1964年、 明治天皇8936首収録)、『新抄 明治天皇御集 昭憲皇太后御集』(甘露寺受長他編、角川書店 1967年、明治天皇1404首収録)が刊行されている。(木俣修「明治天皇―作歌十万首の歌人」『評論明治対象の歌人たち』明治書院 1971年、『田所泉『歌くらべ明治天皇と昭和天皇』創樹社 1999年、参照)生涯に詠んだ歌の数からしても類歌が多い。私が読んだものに限っても、「いくさ」や「外国」というより「海外領土」について歌ったものが多く、木俣や田所が引く歌の中でも日露戦争における戦況、軍人や兵を歌うことも多くなる。上記中等教科書「三」における日露戦争時の歌やつぎのような韓国併合や清国末期の歌と日本政府の外交・軍事政策の歌との違和感は拭いようもない。

・へだてなくしたしむ世こそうれしけれとなりのくにもことあらずして
(隣 一九〇七年)

・おもふことなるにつけてもしのぶかなもとゐさだめしひとのいさをを
(をりにふれたる 一九一〇年)

 ・おのづからおのがこころもやすからず隣の國のさわがしき世は

 (をりにふれたる 一九一二年)

上記二首目は、安重根に撃たれた伊藤博文を偲んだものとされる。

 

切り取られた部分に収録された明治天皇の「御製」はどんな歌が何首あったのかは、いずれ、図書館などで削除されていない教科書を閲覧しなければと思う。いまでこそ、歴史を一通り学び、明治天皇の短歌を客観的に読めば、「よく言うよ」のような感想が述べられるけれども、当時の教師は、これを教材に何を教えていたのかを思うと、思想や教育の自由がない恐ろしさが迫って来る。そして、敗戦後は一転してGHQの指令により、墨塗りをさせたり、破り捨てさせたりした教師の戸惑いと心情はいかなるものであったろうか。現代にあっても、検定教科書、指導要領、一片の通達による管理体制などの実態を知ると、決して過去の問題ではないはずであることも分かって来る。

 

 

4.教科書の中の「万葉集」

「中等國文」の各巻、いずれも巻頭に万葉集が配されていることは、戦後教育を受けた私たちの感覚からすると、国語教科書としてはかなり特異に思えた。が、収録の作品は、いわゆる「名歌」とされる作品でもあり、なじみのある作者でもあり、あまり突出したようには感じられなかった。

教科書に限らず、近代日本において「人々に『国民』という意識を喚起する必要」から、数ある古典群の中から、「当初から至宝の地位を与えられ、やがて広範な愛着を集めることになった」として、万葉集がいかに重用されてきたかについては、だいぶ前に『万葉集の発明』(品田悦一著 新曜社 2001年)で読んだ記憶がある。万葉集が「国民歌集」として、現代に至るまで永らえているのはなぜかについてつぎのように分析する。一つは「古代の国民の声があらゆる階層にわたって汲みあげられている」というもので、私たちも作者が「天皇から防人まで」広汎であり、歌風も「素朴で、力強い」などと習った。この点が、「昭和の戦時翼賛体制下では、この側面に内在する政治性が極端に強調され、忠君愛国の象徴としての万葉像が国を挙げて喧伝された」(同書312頁)という。さらに「貴族の歌々と民衆の歌々が同一の民族的文化基盤に根ざしている」と強調されたことをあげる。明治時代の国文学者や歌人、大正・昭和時代の出版文化が支え、同時に教科書・教育現場による支持が厚かったからだろう。

また、植民地、とくに台湾における「国語(日本語)教育」のなかでの万葉集の位置づけは、後の『台湾萬葉集』などとも関連し、私は深い関心を寄せている(拙著「植民地における短歌とは―『台湾万葉集』を手掛かりに」『現代短歌と天皇制』風媒社 2001年)。同じ著者の最近刊『斎藤茂吉』(ミネルヴァ書房 2010年)でも、茂吉を語る上で、近現代における万葉集受容の変容が大きなテーマになっていた。なかでも茂吉の『万葉秀歌』が戦時下のベストセラーとなってゆく秘密を探っていたのが興味深く思われた。学徒出陣世代の恩師から『万葉秀歌』を戦地にまで携えて行ったことを聞いたことがある。

  『万葉集の発明』の著者は、さらに、戦後の国語教育においても「もっぱら文化的に表象される万葉像を取り込み、ナショナル・アイデンティティの再建に利用し」て、万葉集の「二つの側面を使い分けながら時流に対応し、本質的には無傷のまま現在まで生き残ってきたのだった」と結論付ける。戦後については、後日、私との長女の国語教科書を使って、「万葉集」の在りようを検証してみたいと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2010年9月15日 (水)

「奇跡の街、ユーカリが丘」、開発の基本に立ち戻ってほしい~「カンブリア宮殿」を見て

 街なかに「カンブリア宮殿に山万の嶋田社長登場」のポスターが目立つと思っていたら、ついに全戸配布のチラシまではいってきた。山万とはいろいろあった自治会の会員だったし、20数年来の住民でもあるので、913日夜10時、見ないわけにはいかないだろう。折しもその時間は、千葉の北西部は局地的に雷雨に見舞われ、停電も何度か、放送が中断するかもしれないとさえ思った。

 「カンブリア宮殿」(テレビ東京)は特定企業や社長の「ヨイショ」番組と思って見ればそれでいいのかもしれない。これまでも、ときどき覗いていたが、業界の裏話や社長の立志伝情報がメインのようではあった。いつも思うのは、村上龍と小池栄子は、現場にも出掛けず、取材のVTR頼りで、打ち合わせ通りのコメントである。今回の放送で、テレビ番組表には「入居希望殺到!3世代が近くに住める奇跡の街180万円で住み替えが可能」とある。

多摩ニュータウンと比べる?

 番組の冒頭は、1970年代に開発が始まった多摩ニュータウンは、「役人」がつくり、住民が高齢化して廃れてゆくという様子、ほぼ同時期に「一民間企業」によって開発が始められたユーカリが丘がいまでも進化し続けているという様子の対比であった。多摩ニュータウンとユーカリが丘(245ヘクタール、6000世帯、人口17000人)とは規模が違い、多摩ニュータウンに長いこと住んでいる友人が「世間ではまるでゴーストタウンみたいにいわれるんでイヤになっちゃう、便利で住みやすい街よ」と言っていたのを思い出す。色々な街区があって、そうした荒廃もあるに違いない。逆に、ユーカリが丘の住民のなかには、「理想郷みたいにいうけど、とんでもない、問題の多い街ですよ」と返したい人も多いのではないか。

番組では、私たちと同じ町内でも、最近建てられた一画に住む、若い共働きの家族の1週間を追って、交通アクセス、保育、セキュリテイ、買い物、映画館、公園事情などがレポートされ、どんなに住みやすい街であるかが強調される。そんな中で、この開発業者山万は、必要とあらば何でも自前で、鉄道(新交通システム5.1km)までも作ってしまい、さらに、33億をかけて三つの小学校、一つの中学校までを作って、佐倉市に寄付したという解説がされていた。それって、少し違うのでは? 旧法では道路・公園その他のインフラを含めて、小・中学校、自治会館なども開発業者が整備しなければならなかった。近年、都市計画法上、ディベロッパーの負担軽減から小中学校整備は自治体の仕事になったはずだ。山万が自発的に作って寄付したわけではなく、当時は法的な義務だったはずである。そうしたインフラ整備は、当然のことながら、当時の宅地販売価格に積算されていた。我が家も、20数年前にはそれなりの販売価格であったが、今となっては・・・。

儲けよりも住民の幸せ?

ここで番組は「村上の疑問」というQAが始まる。「30年以上前の1970年代に、なぜ山万のようなグランドデザインによる街づくりが可能であったか」の理由を問われて、嶋田社長は、自然環境と都市機能の両方を持ち合わせた住宅地をつくり、一度に一挙に販売入居させるのではなく、若い人が住み続けることができる街を目指したといい、必要と思ったら「市場調査」などはやらずに、まず儲けよりも住人の幸せを考える、と答えた。

毎朝、社員の一斉体操が嶋田社長の「力だ、勇気だ、信念だ」という掛け声で終了する社内風景が映し出され、社長の立志伝に移った。街づくりのスタートは、担保に取った未回収金の何分の1にもならない横須賀の山林を「湘南ハイランド」として売り出し大成功をおさめたという。600万の価値しかなかった山林を2億円かけて造成し、販売総額は200億円に達したというバブル期の成功談である。

ユーカリが丘、何が問題なのか?

私は、本ブログにも何本かユーカリが丘開発について書いている。この開発業者山万の「城下町」ともいえる街区に転居してきてすでに二十数年経つ。山万とも長い付き合いになった。

(不便な買い物は続く)
 
そして、7年間ほどは仕事もあって地域への関心は薄いながら、大型のスーパーがなく、今は撤退した京成の隣駅志津駅前のイトーヨーカドーまで、毎週自転車で買い物に行っていたことが忘れられない。それでも、ユーカリが丘駅への道の途中には、魚屋、八百屋、肉屋さんもあったので、そちらで用を済ますこともできた。そうした個人商店も今はいずれも閉店。数年後、ユーカリが丘駅前にサティができてほっとしたのもつかの間、倒産しかけ、なんとか持ち直したのだが、品ぞろえが今一つ。結局、私は生協に入って、買い物難民から何とか脱出したところだ。最近、歩いて56分のところにマックスバリュが24時間営業でオープン、住宅街の真ん中なので、24時間営業は不要と、隣接自治会を中心に設置者の山万とイオンに説明会開催や交渉を重ねた。商業施設スーパーの新設は目の前の323戸のマンション販売の一つの目玉だったのだが、マンション販売は不振、スーパーの集客も振るわず、24時間営業も半年で9時~零時営業に短縮、薬品コーナー・ベーカリーも1年を待たず撤退した。

(強引な開発事業と開発行政)

ユーカリが丘駅周辺、駅の南北の開発が一段落した1990年代の後半、山万は、その東部にあたる市街化調整区域を中心に井野東地域一帯の50ヘクタール弱を土地区画整理組合方式での開発をスタートさせた。私たちの住む町内との隣接区域で、都市計画法に基づく計画書の縦覧や意見書の提出、公聴会開催などの手続きが始まり、自治会が中心で、有志がその都度参加し、自然環境の保全や住民の安全や安心を訴えてきた。しかし、開発面積の3分の2以上が業務代行の山万所有であり、行政と山万との連携は固く、自然環境の破壊、住環境の激変をなかなか食い止めることができないのがわかった。

(住民の気持ちを逆なでされて)
 
その上、境界線の既成住宅地周辺では、道路の向かいの雑木林がある日突然伐採され始めたり、工事用の囲いが外されると、目の先に6mもの盛り土が現れたり、突然のボーリングで外壁に亀裂が入ったりするなどの実害が続発した。造成工事が進むと、少々の雨でも盛り土が崩落したり、造成地から土砂が流れ出したり、いわば産廃の捨て場になっていた山林の造成にあたってはトラック800台分が搬出されたり、公園予定地にプールのような穴を掘り、周辺の産廃物を埋め戻そうしたりする現場を目の当たりにして、近隣の住民はあまりにも杜撰な開発に怒り、行政や山万に抗議をし、修復・改善の要請をした。法令ギリギリの数値で突破するのが得意技でもあった。また、マンションや商業施設の建築計画が発表されると、周辺住宅の日照、震動、騒音、景観などへの配慮がまったくないので、協定書などを結ぶべく自治会や対策協議会が動いた。連日連夜、山万やゼネコンとの交渉が続いた時期もあった。山万は「手前どもも商売でこの仕事をやってますもので」と開き直るのが常だった。担当との話し合いではラチがあかず、嶋田社長との面会を何度か申し込んだが、実現することはなかった。テレビのなかで「住民の幸せ」が大切とにこやかに答えているのは誰なのだろう。

(これからの開発)

 いま、ユーカリが丘では最後の大型開発事業といわれる「井野南土地区画整理事業」が、「井野東土地区画整理事業」に続いている。井野東の方は、終盤に入りながら、都市計画道路の整備や保留地の売却も遅れ、清算時期が延長されている。これまでのかかわりで、道路予定地買収費用ともいわれるべき「公共施設管理者負担金」、予定地一部の遺跡が国の指定を受けたことによる助成金など算定、住民軽視の行政と開発業者との関係などの透明性にも欠けることもわかった。

マンションや戸建て販売にしても、自然や文化的な住環境、交通アクセス、土地・住宅自体の価値を基本にすべきで、いわばどうでもよい「付加」価値を並べたてられても、実をとりたい消費者のこころがどこまで動くかは疑問である。大型入浴施設、別荘利用の特典、田植え体験可能、ペットの足洗い・・・。マンションの屋上近くの「眺望見れます」の大きな横断幕、「見れます」でなくて「見られます」のはずと、とても気になって仕方がないという友人もいる。

番組表コメントの「180万円で住み替えが可能」というのは、一人暮らしとなった女性が一戸建ての住宅を手放し、180万円を追加すれば、山万のマンションが買えるという話だった。

井野東開発区域で、中央通りから上記マンションやスーパーへのアクセスが、傾斜10度に近い、新交通システムを跨ぐ陸橋で、その登り口は70人近い児童、多数の中学生の通学路にあたっている。「危険性の認識はない」という山万やゼネコンの交通整理要員は昨年夏までで打ち切られた。信号機がないので、以降はPTAと自治会の有志が手分けをして、登校・下校時の交通見守りがボランテイアで実施されている。降りてくる車、進入する車に頭を下げ、児童の横断を見守るのである。木陰さえないこの交差点、今年の夏休み明けはつらい。

少々長くなったが、これだけは言わせてもらいたかった。番組を見ての感想である。

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2010年9月 7日 (火)

「NHK、ETV特集・60年安保―市民たちの1か月」を見る

ETV特集・シリーズ安保とその時代(3)60年安保―市民たちの1か月

201095日午後10時~1130分放送

 最近、『樺美智子 聖処女伝説』(江刺昭子著 文芸春秋 2010年)を書評する機会があり、すでに本ブログでも625日付で読後の感想を書き、725日にはその書評自体も再録をしている。学生時代に「60年安保」を体験した者として、表題のETV特集を見た。私はノンポリの一学生に過ぎなかったけれど、1時間半の番組を見終わって、「市民たち」の新安保条約可決から自然承認までの「1か月」に焦点をあてたかのような表題に違和感を覚えた。

開拓地を基地にとられた山形の農家の人たち、徴兵制への不安から立ち上がった函館の高校生たち、三井三池争議の炭鉱の労働組合員たち、また戦争に巻き込まれるのはごめんだと大田区や中野区の商店街の人たち、アメリカの施政下にあって日本復帰を願っていた沖縄の人たち、居ても立ってもいられなかった「声なき声の会」の人たちが、同時多発的にやむにやまれず安保反対のデモに参加していた。何かが変わるかもしれないと信じた人々、フランス式デモで見知らぬ人の手のぬくもりに感激したという人々の素朴な気持ちと表情を、番組は、たしかにとらえ、伝えていたと思う。

しかし、番組では、行動的には彼らに先行した、当時の学生活動家たちの面々へのインタビューやコメントがかなりの時間を占めていた。多く「ブント」と称せられた、全学連主流派だった人が登場するときは氏名と在学大学名・学年が示さるのだが、小島弘、葉山岳夫、篠原浩三郎らが、その後どのような道をたどり、現在、何をやっているのかをも示してほしかった。彼らは、当時、安保反対=軍事同盟粉砕の認識で、日本の軍国主義化を阻止するという目標を掲げていた。小島の「弱い大学のラグビー部の連中は、警官隊とぶつかるのを楽しんでいた」とか、葉山の「国会構内突入は、反主流派のハガチー事件への対抗的戦術だった」とかの発言は、自らの行動を落としめ、その無責任さを今に引きずっていることにならないか。そんな言質をとらえるのがこの番組の趣旨ではなかったろう。

さらに、当時の政治家、政党人では、存命者も少なくなり、岸信介内閣の閣僚の一人だった中曽根康弘、赤城宗徳防衛庁長官の秘書だった水野清、安保改定阻止国民会議事務局次長だった伊藤茂らが登場するのだった。彼らの政治的な言動の曲折やブレも相当なものだが、当時学生だったという江田五月や横路孝弘が登場するとどこかひ弱で見劣りがしてしまう。両人とも「社会党」政治家の二世であり、学生運動を経て、弁護士となるのだが、父親の急逝により政治家に転身、その後、たどってきた政治家としての足跡、期せずして衆・参の議長へ上りつめられたのは民主党に拠っていた結果でもある。アメリカとの軍事同盟による核の抑止力などという幻想に惑わされ、いまだに基地を提供し続けるという民主党に拠っていること自体、不思議な夢をみているようだった。

当時の学生たちに遅れて、大学の教授たちが安保反対の活動に参加し始め、新進の研究者だった石田雄は、多くの大学人たちが過去の軍国主義下でおかしてきた過ちへの悔恨が動機であったと語り、60年安保以後、軍事同盟について明確に突き詰めてこなかった反省があって、現在の若者たちに安保の本質を語り続けている映像に、やや救われる思いがするのだった。

60年安保を、今語るのであるならば、他国に例を見ない、偏頗な軍事同盟を今に引きずるに至った経緯を、日本政府の拙劣な政治と外交をたどるべきではなかったのか。60年安保を、かつては燃えていた若者たちの同窓会のセンチメンタリズムで束ねないでほしい、というのが番組への率直な感想であった。

次回は、60年安保に賛成した人々、石原慎太郎らによる「若い日本の会」などをたどるそうだ。これが、NHKの「バランス」のとり方である。なお、今回の番組の末尾にも登場した石原慎太郎は、東京都のど真ん中に横田基地がいまだあることに関連して、アメリカにものが言えない日本の情けなさを「アメリカの妾」と称していた。相変わらずの品の悪さと女性蔑視は治りそうにもない。そこをあえて放送したのは、まるで視聴者を次回につなげるNHKのものほしげな手法に見えてきた。

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