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2010年10月29日 (金)

大急ぎで見た「学習院と文学~雑誌『白樺』の生まれたところ・・」展

 10月23日の「歴史教育シンポジウム」の会場には、少しばかり早めについた。会場の受付に置いてあった「学習院と文学」のはがきに目が留まったので、同じ研究棟北2号館1階の大学史料館展示室での展示会に急いだ。こじんまりした展示ではあるが、学習院とゆかりのある文学者たちの生涯を辿るものだった。大きく4つのコーナーに分かれていた。

白樺同人が過ごした学習院:
 有島生馬、木下利玄、志賀直哉、武者小路実篤、児島喜久雄、柳宗悦らの学園生活   の写真や肖像、絵画、色紙などの作品

白樺の種たち:
 学習院国語科教師の清水文雄に見いだされた三島由紀夫、中等科からの文学仲間、東文彦・徳川義恭3人の 同人誌『赤絵』、彼らが盛んに交わした書簡、三島の初期の初版本、白樺同人戯曲上演の演劇研究会のプログラムなど

学習院ゆかりの文学者:
 学習院大学文学部フランス文学科で教鞭をとりながら、多岐にわたる作家活動を続けた福永武彦、辻邦生のゼミナール写真、講義ノート、全集

もうひとつの友情物語:
 辻邦生と旧制松本高等学校の学生寮で出遭った北杜夫との友情とその往復書簡

 『白樺』創刊が1910年なので100年になる。韓国併合の年でもあったのである。実篤の描く独特の絵は、色紙等の愛好者も多く有名であるが、画家ではない直哉の描く人物画、利玄の描く精密なフクロウなどを初めて見た。三島の才能を見出した教師の存在、中等部時代から文才を発揮した三島、そして夭折することになる二人の同行者東・徳川の存在を知った。二人の作家を擁したフランス文学科、さらにその一人の辻と北の出会いなど興味深いものがあった。ちょうど始まった担当者のギャラリートークを最後まで聞けなかったのは残念だった。

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2010年10月28日 (木)

ある歴史教育シンポジウムに参加して~「韓国併合」をどう伝えるのか

 会場が目白の学習院大学だったこともあって、次のシンポジウムに出かけてみた。高校の先生の実践レポートもあるというのも魅力だった。日本歴史学協会では、毎年歴史教育のシンポジウム実施しているらしい。私はもちろん初めての飛び込みである。

シンポジウム:「韓国併合」100年と歴史教育(日本歴史学協会主催)
日時:2010年10月23日(土)13:30~17:30
姜徳相(滋賀県立大学名誉教授) 「錦絵と日本の対韓ナショナリズム」
加納格(法政大学教授) 「ロシア帝国と極東問題」
関原正裕(埼玉県立越谷北高校教諭) 「日清・日露戦争と韓国併合の授業」
場所:学習院大学 北2号館10階大会議室

この日の学習院大学は、目白寄りの西門に「オープンキャンパス」の横断幕が掲げられ、あたりは受験生や保護者でにぎわっていた。北2号館は、正門から入ってすぐの木立の中の白い木造建て、北別館(旧図書館・現史料館。1909年建造、国登録有形文化財)の奥だった。参加者は60人ほどだったか。

 討論に先立つ3人の報告は、素人の私にはどれも新鮮で興味深いものだったが、姜氏は、「錦絵の主題の変遷に見る日本の国や民衆の朝鮮観」をテーマに、日本の朝鮮蔑視の形成過程を話された。レジメがなかったので、以下は私のメモによる。江戸時代、朝鮮通信使外交が停止される1811年までは、日朝の友好関係や文化交流は良好で、民衆レベルにおいても、通信使を歓迎する様子が錦絵にもたびたび描かれていた。それがいつなぜ変わったのか。朝鮮がテーマとなる錦絵には、神功皇后の新羅征討、豊臣秀吉・加藤清正の朝鮮出兵などがあるが、江戸時代末期、19世紀前半は神功皇后の錦絵が多くなり、1850~60年には加藤清正のトラ狩りの錦絵が多くなって、数の上で逆転する。古事記や日本書紀に依拠する朝鮮を属国だとする前提と尊王思想と結びつき、討幕を実現した明治政府の支配層の底流には征韓論が定着し始めたが、民衆までは巻き込むことができなかった。そこで、明治政府は、教育においても教科書に上記の錦絵などを取り込み、朝鮮の属国化、蔑視の思想を浸透させ、地方の神社では神功皇后由来を強調し、国民の朝鮮蔑視の思想を普及させたという。朝鮮支配をめぐっての日清戦争において、直前からの朝鮮国内の内戦や抗日運動、戦場となった朝鮮については、日本国民の朝鮮蔑視の下地を大いに利用し、勝利に導いた。その間に犯した日本の朝鮮への暴虐は、「日本のジェノサイド」として記憶にとどめるべきである。という趣旨のことを、時には声を震わせ、熱情的に語ったのだった。

 次の加納氏は、朝鮮をめぐる日露関係を中心に、韓国併合に至る過程が時系列で詳しく、ロシアはもちろん、清国、ヨーロッパ諸国の対応を丁寧に辿るのだった。教科書だったら数行のところ、情報が多すぎて私には消化不良だったかもしれない。 

 最後の関原氏のレポートでは、「高校日本史」の「学習指導要領」改訂(2009年3月告示)、「解説」改訂(2009年12月)の前後の差異、教科書「詳説日本史B」(山川出版社)の「日清戦争」、「日露戦争・韓国併合」部分の記述と問題点を検証、教室で生徒に配布した教材のプリントを資料に、関原氏の授業の流れと留意点、プリントと板書の実際が説明された。教科書記述の分量のバランスと不備が指摘された。

 「解説」では、
①わが国が独立を保ち近代国の基盤を形成しえたが背景と明治維新の意義に気付かせる
②欧米諸国以外ではいち早く憲法を持ったことに気付かせる
③諸外国と結んだ条約を比較するなどして朝鮮などアジア近隣諸国に対して欧米諸国と同じような姿勢をとる結果になったことにも着目させる
④日清日露戦争前後に我が国が資本主義国家としての基礎を確立したことを踏まえ、戦争への過程や韓国併合、満州への勢力拡大などを通じ植民地支配を進めてきたことを、国内政治の動向や国際環境と関連させながら考察させる。特に日露戦争の勝利がアジア諸民族の独立や近代化に刺激を与えたことに気付かせる

 となっている。関原氏は、③④において、「韓国併合」が朝鮮の人々に何をもたらしたかの視点が抜け落ちていることが不備だという。すなわち教科書の叙述を見ると、1894年朝鮮王宮占拠、東学農民軍の第2次蜂起・鎮圧、日清戦争の主戦場が朝鮮であったこと、戦局の推移とともに勝利を絶賛するが、戦争の加害、・被害、悲惨さなど、戦争の実態が伝えられていないことなどを指摘した。日清戦争における朝鮮民衆の虐殺、物資の略奪がなされた事実、皇国意識によって朝鮮への優越感が助長されていったことにも言及された。 

 私の理解では、こんな概略だった。討議の時間になった。私は、関原氏の報告を聞いている間、数か月前に読んだ加藤陽子著『それでも日本人は戦争を選んだ』を思い出していた。現役の高校生との質疑形式で著者が日本の近代史を語り進めてゆくものだった。ただ、その基調にあるのは、通読する限り、それぞれの戦争が「仕方がない」「必然」だったというニュアンスが伝わってくる内容に、とても苛立った覚えがよみがえった。著者の問題提起、発問、それにこたえる高校生たちの応答や疑問を引き取る形で進められるものだったから、一層その感を強くしたのかもしれない。ハーバードのサンデル教授の講義をテレビで見たときの感想にも似て。

 会場の質問も少なそうだったので、思い切って加藤陽子教授の上記著作についての感想を聞いてみた。ちょっと残念だったのだが、関原氏は、書店で話題の書として立ち読みをしてみたが、自分の考えとは相容れないことが分かったので、買いもせず、それ以上読むこともなかった…とのことだった。また、会場からは、質問の答えになるかどうかといって「山川の日本史Bの教科書の執筆者に加藤陽子さんの名前がありますよ」と教えてくださった人がいた。

 現在の教科書の一端をプリントのコピーで知り、読んでみると、戦争の記述はほとんどが「勃発」始まり、「戦局」の推移に終始することが多いのに気付いた。これだけ読んでいたのでは、なぜ戦争が起こったのか、戦地の実態や兵士の実情が見えてこないだろう。姜氏は、司馬遼太郎は朝鮮史の現実を知らず、朝鮮の犠牲の上に成り立った日本のナショナリズムを語っているに過ぎない、と漏らしていた。関原氏は、開国から日清・日露戦争に至る日本近代史像について、司馬遼太郎が描く『坂の上の雲』は、植民地になるか、富国強兵により帝国主義国に並ぶか、二つの方法しかなく、日本が後者の道を選び、国際的地位を向上させたというサクセスストーリーに仕上げているが、教師としては、生徒たちに「別の道」を考えさせたい、と結んでいた。

 会場を出ると、目白の森はすでに暮れ、オープンキャンパス終了の放送が流れていた。大学卒業後、ともかく2年間働いた、最初の職場が学習院大学だった。青春の思い出に浸るには、やや重いシンポジウムであった。 

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2010年10月27日 (水)

節度を失ってゆく歌人たちが怖い~河野裕子追悼をてがかりに

 河野裕子さんが猛暑のただ中に亡くなり、この秋の歌壇の総合誌は、競うように追悼号を組み、追悼文が目白押しである。河野さんの短歌にはエネルギッシュな表現力があふれ、男性からも女性からも好もしく思われる配慮に満ちた発想に感嘆することも多かった。その作品の接し方によって人それぞれの追悼の仕方があって、ひそかに偲びたいと思っている人も多いのではなかったか。しかし、現在の追悼フィーバーはなんなのだろう。まるで芸能人なみの、華やかで、戦略的な一連の追悼イベントを苦々しく思うのは私だけだろうか。

 河野さんは毎日新聞「毎日歌壇」の4人の選者の一人だった。亡くなる直前まで選歌をされていたとかで、没後も何週間か河野選歌が続いた。そして、1010日(日)の「毎日歌壇」の篠弘選11首すべてが河野裕子追悼歌だったのである。「毎日歌壇」は投稿者が選者を選ぶ方式だったはずだ。特選の「水源のごとき歌人のみまかりて昏き器のいよよ静まる(豊中市 水野正明)」には「河野さんの代表歌をふまえた清適な挽歌」の短評が付されていた。以下10首の中には「背の君と歌会始にならばれし和服姿のかの裕子さん(川崎市 川崎文恵)」というのもあった。事前に篠弘選のみが「河野追悼特集」を通告していたわけではないだろう。他の選者はいつも通りの選歌であった。投稿作品に追悼歌が多かったといっても、少しやりすぎではないのか。投稿者も読者も不意を突かれた感じだろう。河野追悼で「毎日歌壇」を盛り上げようとしたのか。あるいは河野さんの遺族の夫、永田和宏さんへのお悔やみの意であったのか。歌壇の核にもなりそうな結社「塔」への配慮、歌壇におけるポピュリズムへの迎合などが垣間見える。

 そして、さらに驚いたのが、1025()の朝日新聞「朝日歌壇」の永田和宏選者が河野追悼歌の1首「逝きし人の体温伝はる歌を読む『葦舟』もうすぐ終りのページ(大津市 嶋寺洋子)」を一番最後にすべり込ませていたのである。いくら身内がかわいいから?と、これはないだろうと思う。かりにも全国紙の「歌壇」である。一番人気の「歌壇」でもある。

この2件に共通するのは、数百万の読者、その一部でもある「歌壇」愛読者、短歌愛好家たちのいわば共通領域を私物化していることにはならないか、懸念は広がるばかりである。

もっとも、利用できるものは何でも利用するのが現代の流儀なのかもしれないが、文芸の世界でもあからさまになっていくのは、さびしい限りであった。とにかく世の中に話題を提供して、短歌の復興?歌壇の活性化?を大義名分に「頑張る」人たち、それに踊る人たちからは目を背けたい思いである。かつても、永田和宏・河野裕子夫妻の歌会始の選者就任、また、永田・河野一家のプライバシー放擲などについて書いたことがあるが、彼らに限らず、「年間回顧」などで、執筆者自らの歌集を注目作としたり、自らの結社同人の業績を過大評価したり、アンソロジー収録にあたって自らの系譜の歌人たちを多く収録したりすることが歌壇に横行するのが日常茶飯なのだから、何を言っても仕方がないのかもしれない。節度を失ってゆく歌人たちが怖い。

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2010年10月15日 (金)

祭のあとの佐原をゆく~疎開地ふたたび(2)

馬市場跡の疎開暮し

 そこからは、歩道のない、車も多い狭い道をひたすら香取神宮へと歩く。地図では20~30分の距離に見えるのだが、いまだ残暑の炎天下はきつかった。ようやく県立佐原高校前に出る。今年は創立110周年の垂れ幕も見える。ここも、運動部や文化部の大会入賞者の名前が大きく貼り出された幕が塀を覆う。佐原高校は、疎開中の次兄が、その旧制中学校時代に入学、通学した。疎開した私たち一家は、数か月後、前述の母の生家を出て、この学校近くの仁井宿にあった馬市場の管理人室に転居した。馬もいなくなり、市場が開かれることもなく、ちょうど一人住まいの管理人が亡くなった後を、紹介してくれる人があったらしい。そのいきさつは、ついに聞きそびれ、知らずじまいであった。つっかえ棒が何か所かにあり、今にも崩れそうな2階建ての家だったが、私たちにはありがたい住まいだった。広い土間と10畳くらいの和室、市場となる広場に面した板敷きの部屋、そこから2階への階段があったが、危ないから決して登ってはいけないと、私たち子どもには言い聞かされていた。原っぱの先には馬がつながれ、賑わっていたこともあったのだろう、屋根だけの長い厩に馬塞(マセ)が備えられていた。亡くなった管理人が植えたというサヤエンドウが、つぎからつぎへと実って、私たちの口に入った。疎開ものの食糧難は、子ども心にもひしひしと伝わってきた。母はわずかな着物や服を近くの農家へ行って米やイモに替えた。まだ、父は、池袋の薬局を薬専に通う長兄と守っていた。時たま訪ねてくる父親の土産もせいぜい森永のミルクキャラメルのようなものだった。師範学校出の母に農作業の経験はなかったが、馬市場の原っぱの端から耕し始め、トマト、キウリ、サツマイモ、トウモロコシ、カボチャなど、収穫した記憶がある。兄たちが肥料にと「おわい桶」を畑へ運んでいる姿を覚えている。水も隣接の農家との共同の井戸から運んだ。飲み水も台所の水も汲みおきだった。近くの親しくなった農家のお年寄りが家族に内緒でと、畑に残っているクズの人参やジャガイモのありかをそっと教えてくれ、母とバケツを持って拾いに行ったこともある。そういえば、お風呂は、その農家の終い湯をいただいていた。あの親切だった森田のおばあちゃんは・・・。昭和40年代に、次兄とこの辺りを訪ねたことはあったが、もうすでに敗戦前後の面影はなかったことを思い出す。
 そんなことを思いめぐらしながら、車の往来を避け、ときどきレンタサイクルの観光客に追い越されたりしながら、香取神宮への道を歩いた。鳥居を過ぎてもなかなかたどり着かず、お豆腐屋さんで道を聞き、お蕎麦屋さんで確かめ、街から50分以上は歩いたような気がする。「お母さん、歩くのが早いね」と後ろの二人に冷やかされながら、「ダテに太極拳とウォーキングをしてはいないよ」とばかりに勢いづくのであった。しかし、駐車場と参道の賑わいが見え、砂利道の参道に入ると、どっと疲れが出た。30分ほどで佐原駅行きのバスが出るというが、「つぎの便にしようよ」と弱音を吐く。境内をゆっくりとめぐり、深い杜の水辺に一息つくのだった。1700年建造の本殿の桧皮葺き屋根の風情と杉の古木、まだ色づかないながらも大樹が多い桜や紅葉、銀杏の葉のそよぎを見上げながら、持参のお茶を飲み干すのだった。

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正文堂書店といえば


 参道の店先につながれている犬の姿に、留守番の犬を思い出し、佐原駅発4時11分の上りには乗りたいと、神宮前3時47分発の循環バスに乗る。道の駅までもバスではあっという間だった。忠敬橋を経て、駅に向かうバスの車窓からは「正文堂書店」も見届けた。正文堂には、子ども心に痛い思い出があった。疎開中の次兄が、友人から借りた自転車で本屋に立ち寄り、店先に停めていた自転車が倒れ、店の正面のガラス戸を割ってしまったのだった。詳しいことは、その後も聞けなかったのだが、当然のことながら親たちは、弁償しなければならなくなって、次兄はずいぶんとしょげていた。敗戦の後か前かも私の記憶は定かではない。両親は、即金では支払えず、当時信用金庫に勤めていた母の弟にも相談していたらしい。ガラス自体も品不足だったろうし、私たち一家にとっては、とてつもなく高額だったらしいことはわかるのだった。
 正文堂書店は、1880年(明治13)建造、現在は、千葉県有形文化財となっている。「正文堂」の看板は、1896年(明治29)、巌谷修(1834~1905年)の筆になる。巌谷は、明治政府の官吏から貴族院議員になり、書家でもあった。巌谷小波の父であったことも今回知った。バスから見た限り、本屋さんは営業をしていないように見えた。1999年、地域の生活クラブのボランティアグループの方に誘われて、佐原にオープンしたばかりの高齢者のグループホームを見学に来たことがある。その時のスナップを見ると、「黒切りそば」を食している小堀屋本店内、まだ営業中の正文堂書店とその看板などを写した数枚があった。

佐原国民学校で何が起こっていたのか

 次兄から聞いていた話で、気にかかっていた1件があった。いわゆる「佐原事件」と称される、太平洋戦争下、佐原近郊に墜落した米軍機から脱出した米兵を虐待し、日本の軍人と民間人が裁かれた事件だ。中学生だった次兄は、捕えられた米兵が校庭の真ん中に引きずり出され、日本兵と町民たちも加わって、米兵を竹や棒で殴り、失神すると水を掛け、また殴るという虐待を続けているのを目撃したというのだ。調べなくては、と呟いているのを聞いたことがある。定年退職後まもなく急逝した次兄はどこまで調べていたのだろうか。今回、次のような資料*で調べてみると、ある程度、全容が分かってきた。詳しくはその資料にあたってほしいが、次のようであった。

 *福林徹「横浜BC級戦犯裁判で裁かれた搭乗員処刑事件」『本土空襲の墜落米軍機と捕虜飛行士』(POW研究会・研究報告)に収録の〈千葉県佐原町事件>による。この「研究報告」が利用した『GHQ法務局調査課報告書』(英文)は、未見である。 1945年6月23日午後、米軍のP51が千葉県香取郡久賀村(当時)山中に墜落、S中尉がパラシュートで脱出したが負傷、152師団司令部が置かれていた佐原国民学校に連行され、軍人や集まった民間人から暴行を受け、数時間後に死亡した、という事件である。殴打でぐったりするとカンフル注射をしてまた殴打するということが群衆の前で繰り返された。遺体は寺宿の浄国寺の無縁墓地に埋葬された。BC級戦犯横浜法廷では、152師団の参謀長が懲役40年、少佐と3人の中尉が懲役5年、民間人4人が懲役1年の刑が下された。師団長の中将、高級副官の少佐、佐原町民7人は直接の関与は認められないと無罪となった(裁判期間1948年4月12日~5月13日)。 

  次兄から聞いた話とは若干異なるのだが、資料によれば、校庭に集まった群衆の数は数千人に膨れ上がった、とあるから、「目撃」などできなかったのかもしれない。しかし、その異様な凄惨な現場に居合わせた中学生の次兄は、何を思ったのだろうか。似たような事件は、全国各地で発生していることを知った。日本では、連合国兵士は捕虜としては扱われず、戦争犯罪人として処刑することが横行し、捕えられた兵士たちを、日本の兵士たちの刺殺練習用としていた事例も複数あった。一方、裁かれた日本の軍人・兵士、民間人たちも裁判手続きによるも、不確かな情報で、証拠もなしに処刑された者も多い。いずれも戦争自体の残虐さと人間の極限状況の闇を見る思いである。

寄りたかった諏訪神社だったが
 今回、どうしても寄りたかったのが、伊能忠敬の銅像がある諏訪神社だった。その忠敬の銅像を描いた私の絵が、手元に残っていたのである。私は小学校1年生の1学期だけ佐原小学校に通っていたからだ。その銅像を描いた絵は、B5ほどの薄っぺらな紙のクレヨン画で、画用紙などとはほど遠いものだ。今にも破れそうで、消え入りそうに色も薄い。現に母がしてくれたのだろう、一部裏打ちもしてある。そして、右上の隅に小さな銀色の紙、今では白茶けた「銀賞」が貼ってあるではないか。私が佐原小学校に通っていた唯一の証であるかもしれない。担任の女教師の名も思い出せなくなっている。私の、というより、暮らしもままならない疎開時代の母の、記念の一枚であったかもしれない。つぎに、佐原に行くことがあったら、伊能忠敬の銅像をまた描いてみたいと思うのだった。

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2010年10月14日 (木)

祭のあとの佐原をゆく~疎開地ふたたび(1)

連日の雨模様が不安だったが、体育の日は、予報通りみごとな秋晴れとなった。連休で帰省していた長女を交えての小旅行となった。これまでもなかなか実現できなかった、佐原行き。前夜、ネット記事や雑誌のコピーを頼りに、おおよその予定を立てた。だが、家族3人の思惑は、それぞれだったようで、連れ合いは、水郷や古い街並みの風情を楽しみたかったようだし、長女は、水郷や小野川沿いをひたすら歩いて日常の、運動不足を解消したいようだった。私は母親の生家があった、この地での疎開暮しの跡をもう一度確認したかった。


どうして「香取市」に変えたのだろう

久しぶりに降り立つ佐原駅、南口のすぐ目の前がタクシー会社、左手に交番、34軒先の角はもう観光案内所である。手ごろな観光地図をと思い、手にしたリーフレットは、「20円です」という。ウーン、駅や旅行会社でタダでももらえそうなものなのに~。利根川遊覧の船は運航の由、道の駅「水の郷さわら」へと、まず踏切を渡る。利根川へのだだ広い道路を進む。鉄道と利根川に挟まれたこの地帯は小野川沿いの古い街並みとは違って新開地で、かつては駅に接近して、佐原港(1947年着工)があったはずであるが、いまでは埋め立てられ(1976年完了)、市の施設が並ぶ。さらに川へと向かうと、目立つのが新しい佐原市役所、いや香取市役所の建物だ。なぜ香取市(2006年~)なの?と、私でさえやや違和感があったし、市役所を勤めあげた従兄も、退職後の市名変更には憮然としていたのを思い出す。市役所前が佐原中学校で、塀の回りには、合唱部や運動部の県大会、全国大会出場者や入賞者の生徒名がほんとうに大きな字で張り巡らされているのにはカルチャー・ショックを受ける。素朴な褒章制度だが、これで士気が上がるのだろうか。

道の駅、川の駅「さわら」から船に乗る

土手に上がると、広い河川敷とゆったりとした利根川が一望できる。左手には水郷大橋が、さらにそのかなたには見えるのは筑波山のはずだ。筑波の二つの峰がくっきりと見えるはないか。家族は、「またァ~」といかにもいい加減なことをいっているようなリアクションである。遊覧ヘリコプターが発着しているのも、小野川水門の先の道の駅・船乗り場の奥になる。遊覧飛行とはいかないが、船長さんお勧めのBコースで水郷大橋までの往復30分(1000円)に乗り込む。船室の幅は一間もなく、船べりにもたれて脚をのばせる程度だ。祭りの間は雨だったし、昨日は増水していて船は出なかったそうだ。今日も「一二橋めぐり」の舟の方は運休しているとのこと。客は私たち三人かとおもいきや小学生の兄弟二人だけで乗り込んできた。「ボクたちだけで?どこの小学校から?」と問えば、「佐原小学校」と小声で答える。地元の子も乗るんだ。動き出すと、川の水が胸もとまで迫ってくる感じだが、遠くではカヌーやモーターボートが行き交う広い利根川の川風を切って遡る。右手には横利根閘門が近づき、目の前で見ると巨大で頑強そうな水門は、暴れ川坂東太郎と人間との攻防を見るような思いだった。本流に戻り、千葉県と茨城県を分かつ水郷大橋をくぐり、Uターン。船から降りた小学生兄弟が駆け寄って行った先には、孫を迎えるお年寄りが待っていたようだった。

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母の生家は、水郷大橋の下に建造された両総用水の水揚げ場付近の岩が崎にある。疎開で私たち一家が身を寄せた頃は、裏山を背に控え、前は一面の田んぼだった。裏山の清水や隣接の墓地周辺、二つあった蔵が遊び場だった。私たちは母屋の庇の一間に、一つの蔵の2階には母の妹一家が東京の蒲田から疎開してきていた。生家の母の長兄はすでに他界していて、兄嫁が農家を継いで、3人の子どもを育てながら取り仕切っていた。そこへ突然の二組の東京からの疎開家族、疎開というより、私たちは難民に近い。よくぞ世話をしてくれたな、といま思うと胸が熱くなる。現在は従兄と次の世代が住まっているはずだが、今回も立ち寄る時間がなさそうだ。

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「吉庭」のランチのあとは小野川沿いに

道の駅での買い物は、まだ先があるので控えめにして、小野川沿いにしばらく下り、線路を渡り、開運橋から右に折れるとすぐに「山田うなぎ」の看板、そのすぐ近くに、船着き場で予約した「ロテスリー吉庭」があった。入ってみると、すでに満席に近かった。これからがウォーキングの本番だからとビールを控えた。バイキング方式のランチ(休日2200円)は、地産地消をモットーにした創作料理とのことだが、一同、ヘルシーを肝に銘じながらもいろいろ楽しんだ。

真夏のような日差しのなか、さらに小野川沿いに伊能忠敬旧居跡まで、気ままに歩きはじめた。両岸には、柳が風に揺れ、道から川へ降りる階段、船着き場が定距離に造られている。かつては川沿いの商店が日常的に利用していたのだろう。いまは、街並み遊覧の船が往来する。中橋、共栄橋と進み、蔵造りの店構えが続く。現在も営業を続ける店、営業はしていないが、なかを覗かせてくれる店、新しい専門店などが続く。「木の下旅館」「近久旅館」がのれんを下げ、その対岸には蔵造りのつくだ煮屋「正上」が観光客でにぎわっている。忠敬橋の脇、忠敬旧居跡の庭は広いというわけではないが、農業用水が流れ、蔵も残っている。200年前の家、55歳から日本全国を歩いた忠敬が使用した測量器具などが展示され、その苦労に思いを馳せる。川向かいの新しい記念館の前では、昨日までの祭りや山車の後片付けに余念のない町内の人びとにも遭う。さらに樋橋まで進み、戻った忠敬橋の両たもとの雑貨の中村屋商店、植田屋荒物店を覗き、忠敬通りを、こんどは香取神宮を目指し歩く。旧三菱銀行のレンガ造りは、清水建設創業者の設計という。いまは、街並み交流館となり、観光案内の拠点にもなっている。すずめ焼きの麻生屋、新しい店なのだろうか、20本以上の骨を持つ色とりどりの和傘を造って1050円で売っている店もある。

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