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2010年10月15日 (金)

祭のあとの佐原をゆく~疎開地ふたたび(2)

馬市場跡の疎開暮し

 そこからは、歩道のない、車も多い狭い道をひたすら香取神宮へと歩く。地図では20~30分の距離に見えるのだが、いまだ残暑の炎天下はきつかった。ようやく県立佐原高校前に出る。今年は創立110周年の垂れ幕も見える。ここも、運動部や文化部の大会入賞者の名前が大きく貼り出された幕が塀を覆う。佐原高校は、疎開中の次兄が、その旧制中学校時代に入学、通学した。疎開した私たち一家は、数か月後、前述の母の生家を出て、この学校近くの仁井宿にあった馬市場の管理人室に転居した。馬もいなくなり、市場が開かれることもなく、ちょうど一人住まいの管理人が亡くなった後を、紹介してくれる人があったらしい。そのいきさつは、ついに聞きそびれ、知らずじまいであった。つっかえ棒が何か所かにあり、今にも崩れそうな2階建ての家だったが、私たちにはありがたい住まいだった。広い土間と10畳くらいの和室、市場となる広場に面した板敷きの部屋、そこから2階への階段があったが、危ないから決して登ってはいけないと、私たち子どもには言い聞かされていた。原っぱの先には馬がつながれ、賑わっていたこともあったのだろう、屋根だけの長い厩に馬塞(マセ)が備えられていた。亡くなった管理人が植えたというサヤエンドウが、つぎからつぎへと実って、私たちの口に入った。疎開ものの食糧難は、子ども心にもひしひしと伝わってきた。母はわずかな着物や服を近くの農家へ行って米やイモに替えた。まだ、父は、池袋の薬局を薬専に通う長兄と守っていた。時たま訪ねてくる父親の土産もせいぜい森永のミルクキャラメルのようなものだった。師範学校出の母に農作業の経験はなかったが、馬市場の原っぱの端から耕し始め、トマト、キウリ、サツマイモ、トウモロコシ、カボチャなど、収穫した記憶がある。兄たちが肥料にと「おわい桶」を畑へ運んでいる姿を覚えている。水も隣接の農家との共同の井戸から運んだ。飲み水も台所の水も汲みおきだった。近くの親しくなった農家のお年寄りが家族に内緒でと、畑に残っているクズの人参やジャガイモのありかをそっと教えてくれ、母とバケツを持って拾いに行ったこともある。そういえば、お風呂は、その農家の終い湯をいただいていた。あの親切だった森田のおばあちゃんは・・・。昭和40年代に、次兄とこの辺りを訪ねたことはあったが、もうすでに敗戦前後の面影はなかったことを思い出す。
 そんなことを思いめぐらしながら、車の往来を避け、ときどきレンタサイクルの観光客に追い越されたりしながら、香取神宮への道を歩いた。鳥居を過ぎてもなかなかたどり着かず、お豆腐屋さんで道を聞き、お蕎麦屋さんで確かめ、街から50分以上は歩いたような気がする。「お母さん、歩くのが早いね」と後ろの二人に冷やかされながら、「ダテに太極拳とウォーキングをしてはいないよ」とばかりに勢いづくのであった。しかし、駐車場と参道の賑わいが見え、砂利道の参道に入ると、どっと疲れが出た。30分ほどで佐原駅行きのバスが出るというが、「つぎの便にしようよ」と弱音を吐く。境内をゆっくりとめぐり、深い杜の水辺に一息つくのだった。1700年建造の本殿の桧皮葺き屋根の風情と杉の古木、まだ色づかないながらも大樹が多い桜や紅葉、銀杏の葉のそよぎを見上げながら、持参のお茶を飲み干すのだった。

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正文堂書店といえば


 参道の店先につながれている犬の姿に、留守番の犬を思い出し、佐原駅発4時11分の上りには乗りたいと、神宮前3時47分発の循環バスに乗る。道の駅までもバスではあっという間だった。忠敬橋を経て、駅に向かうバスの車窓からは「正文堂書店」も見届けた。正文堂には、子ども心に痛い思い出があった。疎開中の次兄が、友人から借りた自転車で本屋に立ち寄り、店先に停めていた自転車が倒れ、店の正面のガラス戸を割ってしまったのだった。詳しいことは、その後も聞けなかったのだが、当然のことながら親たちは、弁償しなければならなくなって、次兄はずいぶんとしょげていた。敗戦の後か前かも私の記憶は定かではない。両親は、即金では支払えず、当時信用金庫に勤めていた母の弟にも相談していたらしい。ガラス自体も品不足だったろうし、私たち一家にとっては、とてつもなく高額だったらしいことはわかるのだった。
 正文堂書店は、1880年(明治13)建造、現在は、千葉県有形文化財となっている。「正文堂」の看板は、1896年(明治29)、巌谷修(1834~1905年)の筆になる。巌谷は、明治政府の官吏から貴族院議員になり、書家でもあった。巌谷小波の父であったことも今回知った。バスから見た限り、本屋さんは営業をしていないように見えた。1999年、地域の生活クラブのボランティアグループの方に誘われて、佐原にオープンしたばかりの高齢者のグループホームを見学に来たことがある。その時のスナップを見ると、「黒切りそば」を食している小堀屋本店内、まだ営業中の正文堂書店とその看板などを写した数枚があった。

佐原国民学校で何が起こっていたのか

 次兄から聞いていた話で、気にかかっていた1件があった。いわゆる「佐原事件」と称される、太平洋戦争下、佐原近郊に墜落した米軍機から脱出した米兵を虐待し、日本の軍人と民間人が裁かれた事件だ。中学生だった次兄は、捕えられた米兵が校庭の真ん中に引きずり出され、日本兵と町民たちも加わって、米兵を竹や棒で殴り、失神すると水を掛け、また殴るという虐待を続けているのを目撃したというのだ。調べなくては、と呟いているのを聞いたことがある。定年退職後まもなく急逝した次兄はどこまで調べていたのだろうか。今回、次のような資料*で調べてみると、ある程度、全容が分かってきた。詳しくはその資料にあたってほしいが、次のようであった。

 *福林徹「横浜BC級戦犯裁判で裁かれた搭乗員処刑事件」『本土空襲の墜落米軍機と捕虜飛行士』(POW研究会・研究報告)に収録の〈千葉県佐原町事件>による。この「研究報告」が利用した『GHQ法務局調査課報告書』(英文)は、未見である。 1945年6月23日午後、米軍のP51が千葉県香取郡久賀村(当時)山中に墜落、S中尉がパラシュートで脱出したが負傷、152師団司令部が置かれていた佐原国民学校に連行され、軍人や集まった民間人から暴行を受け、数時間後に死亡した、という事件である。殴打でぐったりするとカンフル注射をしてまた殴打するということが群衆の前で繰り返された。遺体は寺宿の浄国寺の無縁墓地に埋葬された。BC級戦犯横浜法廷では、152師団の参謀長が懲役40年、少佐と3人の中尉が懲役5年、民間人4人が懲役1年の刑が下された。師団長の中将、高級副官の少佐、佐原町民7人は直接の関与は認められないと無罪となった(裁判期間1948年4月12日~5月13日)。 

  次兄から聞いた話とは若干異なるのだが、資料によれば、校庭に集まった群衆の数は数千人に膨れ上がった、とあるから、「目撃」などできなかったのかもしれない。しかし、その異様な凄惨な現場に居合わせた中学生の次兄は、何を思ったのだろうか。似たような事件は、全国各地で発生していることを知った。日本では、連合国兵士は捕虜としては扱われず、戦争犯罪人として処刑することが横行し、捕えられた兵士たちを、日本の兵士たちの刺殺練習用としていた事例も複数あった。一方、裁かれた日本の軍人・兵士、民間人たちも裁判手続きによるも、不確かな情報で、証拠もなしに処刑された者も多い。いずれも戦争自体の残虐さと人間の極限状況の闇を見る思いである。

寄りたかった諏訪神社だったが
 今回、どうしても寄りたかったのが、伊能忠敬の銅像がある諏訪神社だった。その忠敬の銅像を描いた私の絵が、手元に残っていたのである。私は小学校1年生の1学期だけ佐原小学校に通っていたからだ。その銅像を描いた絵は、B5ほどの薄っぺらな紙のクレヨン画で、画用紙などとはほど遠いものだ。今にも破れそうで、消え入りそうに色も薄い。現に母がしてくれたのだろう、一部裏打ちもしてある。そして、右上の隅に小さな銀色の紙、今では白茶けた「銀賞」が貼ってあるではないか。私が佐原小学校に通っていた唯一の証であるかもしれない。担任の女教師の名も思い出せなくなっている。私の、というより、暮らしもままならない疎開時代の母の、記念の一枚であったかもしれない。つぎに、佐原に行くことがあったら、伊能忠敬の銅像をまた描いてみたいと思うのだった。

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