祭のあとの佐原をゆく~疎開地ふたたび(1)
連日の雨模様が不安だったが、体育の日は、予報通りみごとな秋晴れとなった。連休で帰省していた長女を交えての小旅行となった。これまでもなかなか実現できなかった、佐原行き。前夜、ネット記事や雑誌のコピーを頼りに、おおよその予定を立てた。だが、家族3人の思惑は、それぞれだったようで、連れ合いは、水郷や古い街並みの風情を楽しみたかったようだし、長女は、水郷や小野川沿いをひたすら歩いて日常の、運動不足を解消したいようだった。私は母親の生家があった、この地での疎開暮しの跡をもう一度確認したかった。
どうして「香取市」に変えたのだろう
久しぶりに降り立つ佐原駅、南口のすぐ目の前がタクシー会社、左手に交番、3・4軒先の角はもう観光案内所である。手ごろな観光地図をと思い、手にしたリーフレットは、「20円です」という。ウーン、駅や旅行会社でタダでももらえそうなものなのに~。利根川遊覧の船は運航の由、道の駅「水の郷さわら」へと、まず踏切を渡る。利根川へのだだ広い道路を進む。鉄道と利根川に挟まれたこの地帯は小野川沿いの古い街並みとは違って新開地で、かつては駅に接近して、佐原港(1947年着工)があったはずであるが、いまでは埋め立てられ(1976年完了)、市の施設が並ぶ。さらに川へと向かうと、目立つのが新しい佐原市役所、いや香取市役所の建物だ。なぜ香取市(2006年~)なの?と、私でさえやや違和感があったし、市役所を勤めあげた従兄も、退職後の市名変更には憮然としていたのを思い出す。市役所前が佐原中学校で、塀の回りには、合唱部や運動部の県大会、全国大会出場者や入賞者の生徒名がほんとうに大きな字で張り巡らされているのにはカルチャー・ショックを受ける。素朴な褒章制度だが、これで士気が上がるのだろうか。
道の駅、川の駅「さわら」から船に乗る
土手に上がると、広い河川敷とゆったりとした利根川が一望できる。左手には水郷大橋が、さらにそのかなたには見えるのは筑波山のはずだ。筑波の二つの峰がくっきりと見えるはないか。家族は、「またァ~」といかにもいい加減なことをいっているようなリアクションである。遊覧ヘリコプターが発着しているのも、小野川水門の先の道の駅・船乗り場の奥になる。遊覧飛行とはいかないが、船長さんお勧めのBコースで水郷大橋までの往復30分(1000円)に乗り込む。船室の幅は一間もなく、船べりにもたれて脚をのばせる程度だ。祭りの間は雨だったし、昨日は増水していて船は出なかったそうだ。今日も「一二橋めぐり」の舟の方は運休しているとのこと。客は私たち三人かとおもいきや小学生の兄弟二人だけで乗り込んできた。「ボクたちだけで?どこの小学校から?」と問えば、「佐原小学校」と小声で答える。地元の子も乗るんだ。動き出すと、川の水が胸もとまで迫ってくる感じだが、遠くではカヌーやモーターボートが行き交う広い利根川の川風を切って遡る。右手には横利根閘門が近づき、目の前で見ると巨大で頑強そうな水門は、暴れ川坂東太郎と人間との攻防を見るような思いだった。本流に戻り、千葉県と茨城県を分かつ水郷大橋をくぐり、Uターン。船から降りた小学生兄弟が駆け寄って行った先には、孫を迎えるお年寄りが待っていたようだった。
母の生家は、水郷大橋の下に建造された両総用水の水揚げ場付近の岩が崎にある。疎開で私たち一家が身を寄せた頃は、裏山を背に控え、前は一面の田んぼだった。裏山の清水や隣接の墓地周辺、二つあった蔵が遊び場だった。私たちは母屋の庇の一間に、一つの蔵の2階には母の妹一家が東京の蒲田から疎開してきていた。生家の母の長兄はすでに他界していて、兄嫁が農家を継いで、3人の子どもを育てながら取り仕切っていた。そこへ突然の二組の東京からの疎開家族、疎開というより、私たちは難民に近い。よくぞ世話をしてくれたな、といま思うと胸が熱くなる。現在は従兄と次の世代が住まっているはずだが、今回も立ち寄る時間がなさそうだ。
「吉庭」のランチのあとは小野川沿いに
道の駅での買い物は、まだ先があるので控えめにして、小野川沿いにしばらく下り、線路を渡り、開運橋から右に折れるとすぐに「山田うなぎ」の看板、そのすぐ近くに、船着き場で予約した「ロテスリー吉庭」があった。入ってみると、すでに満席に近かった。これからがウォーキングの本番だからとビールを控えた。バイキング方式のランチ(休日2200円)は、地産地消をモットーにした創作料理とのことだが、一同、ヘルシーを肝に銘じながらもいろいろ楽しんだ。
真夏のような日差しのなか、さらに小野川沿いに伊能忠敬旧居跡まで、気ままに歩きはじめた。両岸には、柳が風に揺れ、道から川へ降りる階段、船着き場が定距離に造られている。かつては川沿いの商店が日常的に利用していたのだろう。いまは、街並み遊覧の船が往来する。中橋、共栄橋と進み、蔵造りの店構えが続く。現在も営業を続ける店、営業はしていないが、なかを覗かせてくれる店、新しい専門店などが続く。「木の下旅館」「近久旅館」がのれんを下げ、その対岸には蔵造りのつくだ煮屋「正上」が観光客でにぎわっている。忠敬橋の脇、忠敬旧居跡の庭は広いというわけではないが、農業用水が流れ、蔵も残っている。200年前の家、55歳から日本全国を歩いた忠敬が使用した測量器具などが展示され、その苦労に思いを馳せる。川向かいの新しい記念館の前では、昨日までの祭りや山車の後片付けに余念のない町内の人びとにも遭う。さらに樋橋まで進み、戻った忠敬橋の両たもとの雑貨の中村屋商店、植田屋荒物店を覗き、忠敬通りを、こんどは香取神宮を目指し歩く。旧三菱銀行のレンガ造りは、清水建設創業者の設計という。いまは、街並み交流館となり、観光案内の拠点にもなっている。すずめ焼きの麻生屋、新しい店なのだろうか、20本以上の骨を持つ色とりどりの和傘を造って1050円で売っている店もある。
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