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2010年10月28日 (木)

ある歴史教育シンポジウムに参加して~「韓国併合」をどう伝えるのか

 会場が目白の学習院大学だったこともあって、次のシンポジウムに出かけてみた。高校の先生の実践レポートもあるというのも魅力だった。日本歴史学協会では、毎年歴史教育のシンポジウム実施しているらしい。私はもちろん初めての飛び込みである。

シンポジウム:「韓国併合」100年と歴史教育(日本歴史学協会主催)
日時:2010年10月23日(土)13:30~17:30
姜徳相(滋賀県立大学名誉教授) 「錦絵と日本の対韓ナショナリズム」
加納格(法政大学教授) 「ロシア帝国と極東問題」
関原正裕(埼玉県立越谷北高校教諭) 「日清・日露戦争と韓国併合の授業」
場所:学習院大学 北2号館10階大会議室

この日の学習院大学は、目白寄りの西門に「オープンキャンパス」の横断幕が掲げられ、あたりは受験生や保護者でにぎわっていた。北2号館は、正門から入ってすぐの木立の中の白い木造建て、北別館(旧図書館・現史料館。1909年建造、国登録有形文化財)の奥だった。参加者は60人ほどだったか。

 討論に先立つ3人の報告は、素人の私にはどれも新鮮で興味深いものだったが、姜氏は、「錦絵の主題の変遷に見る日本の国や民衆の朝鮮観」をテーマに、日本の朝鮮蔑視の形成過程を話された。レジメがなかったので、以下は私のメモによる。江戸時代、朝鮮通信使外交が停止される1811年までは、日朝の友好関係や文化交流は良好で、民衆レベルにおいても、通信使を歓迎する様子が錦絵にもたびたび描かれていた。それがいつなぜ変わったのか。朝鮮がテーマとなる錦絵には、神功皇后の新羅征討、豊臣秀吉・加藤清正の朝鮮出兵などがあるが、江戸時代末期、19世紀前半は神功皇后の錦絵が多くなり、1850~60年には加藤清正のトラ狩りの錦絵が多くなって、数の上で逆転する。古事記や日本書紀に依拠する朝鮮を属国だとする前提と尊王思想と結びつき、討幕を実現した明治政府の支配層の底流には征韓論が定着し始めたが、民衆までは巻き込むことができなかった。そこで、明治政府は、教育においても教科書に上記の錦絵などを取り込み、朝鮮の属国化、蔑視の思想を浸透させ、地方の神社では神功皇后由来を強調し、国民の朝鮮蔑視の思想を普及させたという。朝鮮支配をめぐっての日清戦争において、直前からの朝鮮国内の内戦や抗日運動、戦場となった朝鮮については、日本国民の朝鮮蔑視の下地を大いに利用し、勝利に導いた。その間に犯した日本の朝鮮への暴虐は、「日本のジェノサイド」として記憶にとどめるべきである。という趣旨のことを、時には声を震わせ、熱情的に語ったのだった。

 次の加納氏は、朝鮮をめぐる日露関係を中心に、韓国併合に至る過程が時系列で詳しく、ロシアはもちろん、清国、ヨーロッパ諸国の対応を丁寧に辿るのだった。教科書だったら数行のところ、情報が多すぎて私には消化不良だったかもしれない。 

 最後の関原氏のレポートでは、「高校日本史」の「学習指導要領」改訂(2009年3月告示)、「解説」改訂(2009年12月)の前後の差異、教科書「詳説日本史B」(山川出版社)の「日清戦争」、「日露戦争・韓国併合」部分の記述と問題点を検証、教室で生徒に配布した教材のプリントを資料に、関原氏の授業の流れと留意点、プリントと板書の実際が説明された。教科書記述の分量のバランスと不備が指摘された。

 「解説」では、
①わが国が独立を保ち近代国の基盤を形成しえたが背景と明治維新の意義に気付かせる
②欧米諸国以外ではいち早く憲法を持ったことに気付かせる
③諸外国と結んだ条約を比較するなどして朝鮮などアジア近隣諸国に対して欧米諸国と同じような姿勢をとる結果になったことにも着目させる
④日清日露戦争前後に我が国が資本主義国家としての基礎を確立したことを踏まえ、戦争への過程や韓国併合、満州への勢力拡大などを通じ植民地支配を進めてきたことを、国内政治の動向や国際環境と関連させながら考察させる。特に日露戦争の勝利がアジア諸民族の独立や近代化に刺激を与えたことに気付かせる

 となっている。関原氏は、③④において、「韓国併合」が朝鮮の人々に何をもたらしたかの視点が抜け落ちていることが不備だという。すなわち教科書の叙述を見ると、1894年朝鮮王宮占拠、東学農民軍の第2次蜂起・鎮圧、日清戦争の主戦場が朝鮮であったこと、戦局の推移とともに勝利を絶賛するが、戦争の加害、・被害、悲惨さなど、戦争の実態が伝えられていないことなどを指摘した。日清戦争における朝鮮民衆の虐殺、物資の略奪がなされた事実、皇国意識によって朝鮮への優越感が助長されていったことにも言及された。 

 私の理解では、こんな概略だった。討議の時間になった。私は、関原氏の報告を聞いている間、数か月前に読んだ加藤陽子著『それでも日本人は戦争を選んだ』を思い出していた。現役の高校生との質疑形式で著者が日本の近代史を語り進めてゆくものだった。ただ、その基調にあるのは、通読する限り、それぞれの戦争が「仕方がない」「必然」だったというニュアンスが伝わってくる内容に、とても苛立った覚えがよみがえった。著者の問題提起、発問、それにこたえる高校生たちの応答や疑問を引き取る形で進められるものだったから、一層その感を強くしたのかもしれない。ハーバードのサンデル教授の講義をテレビで見たときの感想にも似て。

 会場の質問も少なそうだったので、思い切って加藤陽子教授の上記著作についての感想を聞いてみた。ちょっと残念だったのだが、関原氏は、書店で話題の書として立ち読みをしてみたが、自分の考えとは相容れないことが分かったので、買いもせず、それ以上読むこともなかった…とのことだった。また、会場からは、質問の答えになるかどうかといって「山川の日本史Bの教科書の執筆者に加藤陽子さんの名前がありますよ」と教えてくださった人がいた。

 現在の教科書の一端をプリントのコピーで知り、読んでみると、戦争の記述はほとんどが「勃発」始まり、「戦局」の推移に終始することが多いのに気付いた。これだけ読んでいたのでは、なぜ戦争が起こったのか、戦地の実態や兵士の実情が見えてこないだろう。姜氏は、司馬遼太郎は朝鮮史の現実を知らず、朝鮮の犠牲の上に成り立った日本のナショナリズムを語っているに過ぎない、と漏らしていた。関原氏は、開国から日清・日露戦争に至る日本近代史像について、司馬遼太郎が描く『坂の上の雲』は、植民地になるか、富国強兵により帝国主義国に並ぶか、二つの方法しかなく、日本が後者の道を選び、国際的地位を向上させたというサクセスストーリーに仕上げているが、教師としては、生徒たちに「別の道」を考えさせたい、と結んでいた。

 会場を出ると、目白の森はすでに暮れ、オープンキャンパス終了の放送が流れていた。大学卒業後、ともかく2年間働いた、最初の職場が学習院大学だった。青春の思い出に浸るには、やや重いシンポジウムであった。 

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