『敗戦とラジオ』再放送(11月7日、夜10時~)を見て(1)あの頃のラジオを思い出しつつ
今年の8月15日ETV特集を見逃してしまった。再放送もうっかり忘れるところだった。録画も取り損ね、これも加齢現象の一つかとやや気落ちしているところなのだ。
番組の「敗戦とラジオ」は、GHQの検閲下で、NHKの先輩たちがいかに頑張ったのかの視点で、現在のスタッフが、当時の放送人たちが残した記録やインタビューによって描いたものだ。世相や政治を風刺コントや歌で批判したという「日曜娯楽版」(1947年10月12日~1952年6月8日)が、被占領下のNHK放送における抵抗の軌跡のように、一条の光のように、語り継がれるのだった。が、果たしてそれだけで完結してしまってよかったのだろうか。「NHKにもこんな歴史があった」という郷愁が色濃く漂っていた。その先の、今の放送人や視聴者たちがそこから何を学び、このメデイアの激変、メデイアの危機に直面して何をなすべきかの緊張感に欠けているように思われたからである。素材の提供という緩やかなメッセージで終わってしまったのが残念だった。ないものねだりでなく、視聴者としても考えさせられる番組だった。
私も「日曜娯楽版」の「冗談音楽」のオープニングや「僕は特急の機関士で」などが口をついて出てくるほどだから、子供ながら聴いていた世代なのだろう。やはり、「鐘の鳴る丘」(1947年7月5日~1950年12月29日)、「向う三軒両隣り」(1947年7月1日~1953年4月10日)「三太物語」(1950年4月30日~1951年10月28日)などの記憶の方が鮮明だ。クイズの「二十の扉」(1947年11月1日~1960年4月2日)、「話の泉」(1946年12月3日~1964年3月31日)、 「私は誰でしょう」「とんち教室」(いずれも1949年1月3日~?)などにもよく耳を傾けていたことが思い出される。そこに登場する回答者の柴田早苗、石黒敬七って何をしている人だろうね、と大人たちが話しているのを聞いたこともある。
しかし、夜の番組は、しばしば、停電に見舞われ、表に飛び出すと、近所の人たちも、すでにトランスのある電柱の下に集まっている。ご近所にKさんという電気関係の技師がいて、誰かが呼びに走ると、Kさんは不自由な足を引きずって現れ、皆の期待を集めて電柱に登るのだった。停電の範囲が見極められ、電力会社の人を待つまでもなく、使い過ぎで飛んだヒューズを替えてくれていたのだろうか、多くの場合は、ぱっと明かりがついて、ゆっくりと電柱を降りてくるK さんを、大人たちは感謝の意を表し、私たち子どもたちは尊敬のまなざしで、迎えるのだった。末っ子が私と同学年の3姉妹の父親でもあった。勝手に電柱に登るなんて、今では考えられない、そんな風景が日常茶飯の時代であった。
日曜の朝の「音楽の泉」(1949年9月11日~)の堀内敬三の語り口なども忘れがたい。毎朝7時前には「私たちの言葉」(1945年11月1日~、←建設の声1945年9月25日)という投書番組もあった。「ひるのいこい」で、リクエストの音楽を流しながら、通信員のたよりを読み上げる甘い語り口の声の持ち主は誰だったのか。・・・・
*( )内の年月は、番組の放送期間で、『日本放送史(全3巻)』(日本放送協会放送史編修室編 日本放送協会刊 1965年)で調べ、わかる範囲で補っている。
上記の『日本放送史』の年表によれば、1945年9月22日、GHQから日本政府に示された、いわゆる「ラジオ・コード」による検閲が開始し、日本政府による検閲は、ほぼ同時に廃止となる。情報局が廃止されたのが1945年末であった。GHQによる放送の「事前検閲」は、民間検閲局CCDが担当し、民間情報教育局CIEは「指導」を実施した。1947年8月1日より「事後検閲」となったが、1949年10月18日まで続いた。各種の無線統制が撤廃されるのは、1952年4月28日の対日講和条約発効、独立まで待たねばならなかった。
番組「敗戦とラジオ」では、戦時下の番組製作スタッフやアナウンサーなどの証言からは「誇張が過ぎる」「偏り過ぎる」「これでよいのか」「自主規制せざるを得なかった」などの悔恨の念を拾いあげていた。敗戦後については、CIEが直接制作にあたった番組も紹介された。その内容がいかにも押しつけがましかったのだろう、聴き手の多くには「奇妙で、苦痛を感じる」として不評を買った、という。敗戦前は政府や軍部、敗戦後はGHQによる介入と検閲のもとでの現場での息苦しさには変わりがなかったのではないか。やがて1950年6月25日、朝鮮戦争が始まった時点で、情報統制や電波情報戦のなかのNHKへの圧力が一段と高まる中の出来事として、次の2件が紹介された。(続く)
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