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2010年12月 3日 (金)

『敗戦とラジオ』再放送(11月7日、夜10時~)を見て(2)あの頃のNHKはよかったのか

  一つは、出雲のラジオ送信所(松江)では、朝鮮戦争開始直後、アンテナの突貫工事が始まり、500wから10kwまでに増強、韓国・朝鮮からの放送を傍受、それを朝鮮半島の米軍に向けて発信していた、という件だ。しかし、上記『日本放送史』に、この件の言及を見出すことができないでいる。聴取者は、受信料を支払いながら、知らないうちにリスクを負わされ、目に見えない電波の形で米軍に貢献していたことになる。また、「日曜娯楽版」は、GHQの検閲下にあって、人気番組の一つとなりながら、皮肉にも、独立直後の1952年6月には、「ユーモア劇場」と名前をかえて再スタートするも1954年6月には終了してしまう。この1件を、『日本放送史』では、番組改編や中止への経緯を次のように記す。

・毎回機知にあふれた冗談音楽で人気をさらい、回を重ねるにしたがい、その風刺性は強まり、いきおい庶民的な人気はますます高まったが、一部にはこれに対する非難の声も強かった。27年6月、この異色ある番組は発展的に解消し「ユーモア劇場」に変わった。
(上巻760頁)
・昭和22年10月からひきつづき放送されていた「日曜娯楽版」は、世相がようやく安定に近づくにつれて、風刺コントの材料も乏しくなり、形式も固定してマンネリズム化も傾向がみえはじめ、内容にも一方的な放言がないでもなかったので27年6月15日から「ユーモア劇場」と改題し、社会政治風刺の線をやや弱めて新発足した。(下巻87頁)

  時系列からいっても、「日曜娯楽版」「ユーモア劇場」の廃止はNHK対GHQの問題ではないはずである。時の政府、吉田茂内閣からの圧力と古垣鉄郎NHK会長を筆頭とする内部の自主規制によるがものであることが明確には伝わってこなかった。むしろ、CIEで日本のラジオ放送の指導を担当していた、フランク馬場(1915~2008年)へのインタビューで、「日曜娯楽版」に対して、GHQの方が甘く、政府やNHK幹部からの圧力の方が強かったと述べていたのが印象的であった。放送では、政治的圧力の例として、国会での椎熊三郎(国民民主党)と古垣鉄郎NHK会長との質疑があったことは紹介されたが、内容にまで言及されなかったので、その後「国会議事録」を検索してみると、次のようなやり取りを見出すことができる。

・椎熊三郎:(発言前半省略)少くとも国家と結びついてやつておる日本放送協会の放送は、日本の国家再建復興のために協力するということが、根本的な建前でなければなりません。これがあるいは革命的思想であつたり、これが破壊思想であつたり、虚無的な思想であつたりすることが根底で、ああいうものが出て来るとするならば、恐るべき宣伝力を持つものであつて、国家に及ぼす影響は私は見のがすことができないと思うのであります。その点について古垣さんはいかようにお考えになつておられるか。
・古垣参考人:お答えいたします。日曜娯楽版についての御批判、非常に適切な、痛いところをついておられるように拝聴いたしました。御承知のようにああいう諷刺娯楽を取扱う番組は、なかなかむずかしいのでありまして、万全を期してなおあやまちを犯すことが非常に多いので、ただいま御指摘になりましたようなことが万々ないように、日曜娯楽版を始めましたときから、私自身も非常に注意いたしておりまして、しばしば結果について批判して、改めさしたこともございます。(以下略) (1951年3月1日 衆議院電気通信委員会議事録)

 古垣会長は、この答弁の後半で、この番組はある特定の人物が制作しているわけではなく、多く「聴取者大衆」の参加を得、ラジオ・コードに照らし「協会の中の機構で、それぞれ係の者が十分検討いたしまして、これならよろしいということでやるようにいたしております」とも答えている。議員の「虚無主義」云々は笑ってしまうが、この古垣会長の答弁も、まさに現在のNHKの体質を語ってはいないか、とさえ思われるのであった。 

  1965年刊行の『日本放送史』の記述は、被占領期・独立期の放送番組へのNHK自身による「総括」とみてよいだろう。「出雲」の送信所の1件は看過し、「日曜娯楽版」「ユーモア劇場」については、上記のように「一部からの非難」、「材料の乏しさ」「マンネリ」「放言」などは言い訳めき、政治的圧力による「自主規制」の結果ではなかったのか。

  なお、高野岩三郎NHK会長のもとに、GHQ傘下で放送事業再建のただなか、幹部の戦争責任をめぐっての読売新聞社等の労働争議解決のため、NHK従業員組合は、他の新聞通信関係の労働組合がスト中止に踏み切るなか、1946年10月5日よりストライキに突入した。放送停止の社会的影響に鑑み、政府は逓信省による国家管理を命じ、ストが終了する10月25日まで、続いた。この間の放送は、ニュース、気象情報、公共の安寧に関する事項のみに限られ、娯楽番組などはなかった。途中からは、NHK理事者側が部課長職員を動員して放送を実施した。また、放送委員会の斡旋、高野会長の就業勧告などもあって、ストは中止された(『日本放送史』上巻674~676頁)。この国家管理については、私は、今回の番組で初めて知ったような勉強不足であったが、興味深いものがあった。番組でも組合執行部委員だった国枝忠雄氏が「放送文化研究所」に飛ばされる報復人事を受けたこと、さらに、1950年7月から数回にわたる「レッドパージ」(合計119名)によって即日解雇を申し渡された、当時報道部員だった堤園子氏の証言は、生々しいものであった。

   現在の放送法では、「国家管理」という事態は想定できないが、放送への政治介入、政府広報的な偏向放送、視聴率偏重による娯楽化・民放化を日常的になし崩し的に進めてはいないか。「有事」の名のもとに雪崩現象が起きる可能性が恐ろしい。NHK自身が、職員自身が、受信料を前提とする公共放送としての役割を果たす、自立性をどれほど自覚しているのか、疑わしい出来事が多すぎる。「不祥事」が起きるたびに、謝罪して、コンプライアンス、コンプライアンスと言って済むものではない。「敗戦とラジオ」のような、NHKが自らを省みる番組が、郷愁や身贔屓に陥ることなく、資料や証言に基づいた、今後を見据える検証番組になることを望みたい。

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