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2010年12月27日 (月)

「佐倉市自治基本条例案」否決されました

本ブログの1111日「『自治基本条例』の行方」*で触れた「佐倉市自治基本条例案」は、11月定例市議会の最終日、1222日に否決された。報道によれば、賛成11、反対18だった。案の出来の悪さと拙速さについて、議会のいろんな会派や政党の市議から発信されていたし、反対の請願や陳情も提出されていた。私も、一市民としての意見を提出していた。意見書は70通を超えたそうだ。請願の世話役をしていた友人によれば、署名は合わせて905筆に及んだという。結局、議会では、蕨市長提出案を支持する「さくら会」と公明党の賛成しか得られなかったわけだ。市長提案がこういう形で否決されるのはまれなことではなかったか。現市長が、来年4月の市長改選の目前になって、マニフェストにかかげた自治基本条例制定に焦った結果なのだが、そこに費やされたエネルギーと経費はなんだったのだろか。一部の反対市議からは、12月の議会では継続にして、来年2月定例会で廃案といったスケジュールも聞こえてはきたが、報道によれば、市長は「4月に再選した場合、(どうするか)精査して考える」と話したそうだ(『朝日新聞』20101223日千葉版)。ひとまず、ほっとしたが、どういう形で再燃するか注目する必要があろう。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/11/post.html

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2010年12月20日 (月)

また、「歌会始」の季節がやってくる~報道ステーションに登場した「河野裕子」

 こういうのを「社会現象化」というのだろうか。たまたま見ていた「報道ステーション」(2010年12月17日)の今年の蓋棺録のようなコーナーで、小林桂樹とアニメーション作家の今敏に続いて河野裕子が登場し、三者三様の夫婦愛が謳い上げられていた。私が短歌にかかわっていなければ、他の二人と同様、「ふーん、そうだったのか」で済むのだった。それにしても、いずれも夫婦の絆、家族の絆がことさら強調される美談として仕上げられていたのは気になるところだった。 

これまで、私は何度か、生前の河野裕子について、あるいは彼女をめぐる歌壇の状況について述べてきた。私の状況の捉え方がよほどおかしいのか、天邪鬼なのか。それでもいい、いまの私の思いだけは留めておこうと思う。

「歌人は短歌作品がすべてだ」という言い方がある。そして「短歌」で歌人の生涯をもたどる方法がしばしば採用されるのだが、これは様々なリスクを伴うのではないかと思うようになった。歌人の生涯や評価は「短歌」だけで決まるのだろうか。短歌作品は、あくまでもオフィシヤルなメッセージで、歌人の一面しか表しておらず、トータルな評価は、その歌人がどんな作品を残したかと同時に、何をしたのか、その行動の軌跡をたどってこそ可能になると思っている。河野裕子の足跡をたどるとき、私がどうしても理解できなかったのは、以下の彼女の行動とそれについての歌壇の反応だった。

  その一つ、夫の永田和宏さん(以下敬称略)が『塔』を高安国世から引き継いだ後、河野は『コスモス』から『塔』にその所属を移ったことだった。結社運営のために夫の結社に移ったことに対して、歌壇は、当然のことのように寛容だったと記憶している。「多磨」系『コスモス』からアララギ系『塔』への「移籍」は実にスムーズであった。私には、現代の短歌状況において結社の持つ文学的な意味や主張の相違というのはほとんど認めがたいし、現に結社に所属しない歌人がどんどん誕生しているように思える。ところが、当時から現在に至るまで、結社の有力歌人たちは、自らの結社の伝統と独自性を強調し、会員確保に懸命であることとの整合性をどう説明するのだろうか。

  一つは、永田・河野夫妻で歌会始選者になったことに関してである。歌壇の反応は皆無に等しかったのではないか。本ブログでも触れているが、「銀河最終便」(2008年7月23日、風間祥のブログ)において<短歌という文学でなないものがあり夫妻でつとめる歌会始>と題して、『塔』主宰夫婦がそろって選者になったことを「大分県の教育委員会も驚くような人事である」と切り込んでいたのが記憶に残る(http://sho.jugem.cc/?day=20080723)。近年は、「歌会始」自体へのオマージュこそ散見されたが、異議や抵抗も今や過去のものとなりつつある中で、昨年から今年にかけては、佐藤通雅らの問題提起があった。しかし、その後、夫妻での選者就任について歌壇からの音沙汰はなかった。

*本ブログの以下を参照ください。

・節度を失っていく歌人たちが怖い~河野裕子追悼を手がかりに
(2010年10月27日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/10/post-9caa.html

・「歌会始」への無関心を標榜する歌人たち(1)(2010年1月1日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/01/post-6714.html

・「歌会始」への無関心を標榜する歌人たち(2)(2010年1月19日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/01/post-d9bf.html

そして、短歌ジャーナリズムは、ここぞとばかりの河野裕子追悼の氾濫となった。日刊紙はもちろん『文芸春秋』、週刊誌にも追悼記事は載り、そして「報道ステーション」の登場にまでつながったのである。
 数日前届いた『短歌往来』1月号も河野裕子の追悼特集だったのだが、岩井謙一「評論月評」に、次のような重要な二つの指摘があるのに着目した。一つは、短歌総合誌の時評欄はそろって河野追悼にあてていながら、その執筆者は誰も河野が歌会始選者であったことに触れていない点であった。さらに、各誌が追悼特集を組む現象を、特集を組むとするならば「感傷的な評価が収まった二年後、三年後であるはずである。特に異常なほど感傷が先走っている現在において発行される追悼号からは、その歌人の業績について得るものは少ない」という冷静な指摘をしている点であった。前者は、歌壇が「歌会始」をいまだにタブー視している証左であろう。触れることは、やっぱり「ヤバイ」というのが大方の本音なのだろうか。
 後者の追悼特集における「感傷」についていえば、河野は生前から自らの病をカミングアウトし、家族ともどもその闘病の過程を含めて歌い続けていた。その体当り的なプライバシーの放棄は、その一部がパフォーマンスであったとしても、やはり節度が欲しかった、と私は思うのだ。「節度」といえば、阿木津英は、来嶋靖生の「節度とつつしみを知らぬ人に詩人の資格はない」という作歌上の注意などを引用し、「節度のメルトダウン」を嘆いていた(「短歌クロニクル」『図書新聞』2010年11月27日)。http://toshoshimbun.jp/books_newspaper/week_description.php?shinbunno=2991&syosekino=3247
 さらに、一つ、私が理解に苦しんだのは、病気をおして、歌会始選者を引き受けたことだった。今年の7月1日に来年度の歌会始選者として、昨年に引き続き永田・河野夫妻も務めることが発表された。河野の病状を思わぬではなかったが、8月半ばに逝去している。この状況の中で、選者という「公務」を引き受けたことに、私はむしろ驚いたのであった。プロフェッショナルな社会人がすることだったのかな、と。どうしても手放したくなかった栄誉だったのか、と思うと、なんだかやりきれない気持ちになるのだった。 「社会現象」とは、週刊誌やテレビのワイド番組に登場することなのか。「歌会始」の季節が、またやってくる。

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2010年12月14日 (火)

マイリストに「すてきなあなたへ」61号(2010年12月14日)をアップしました

左側の「すてきなあなたへ」61号をクリックしてください。

(目次)

あの頃のニュース映画が見られます!~アーカイブス、利用していますか~

ちょっと佐原まで~道の駅がオープンしていました

福祉コーナー・介護保険と特別養護老人ホーム~”弥富あさくら”を見学して

菅沼正子の映画招待席:「クレアモントホテル」―人生はいつも驚きに満ちている―

菅沼正子さんのプロフィル

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2010年12月13日 (月)

短歌ハーモニー、「千葉市女性センターまつり」に参加しました

先の週末1112日は、千葉市女性センター恒例の「センターまつり」だった。私たちのサークル「短歌ハーモニー」も参加した。自作の書作品を展示するのは例年の通りとし、今回は、月例の歌会をまつりの当日に、公開形式で開催したら、ということになった。

展示の不安と楽しみ

1希望の展示室が抽選でとれなかったので、センター23階への踊り場の壁面を利用できることになった。壁面のスペースは広いので、色紙以上大きさの作品を一人4点とした。踊り場という場所が幸いして、見てくださる人は、かえっていつもより多かったかもしれない。

まつり前日の飾り付けには作品を持込み、展示終了までには結構時間がかかった。自作を書作品にすることには、なんとなく心細がっていた方もいらしたのだが、元気のいい、個性あふれる作品が集まった。もちろん、本格的に書を学び、かなの細字が得意な方もいらっしゃるが、この機会に筆を持つという方が多い。若いとき10年ほど職場のサークルで書を習っていた私は、?十年のブランクを超えて、毎年この時期に筆を持つのは、半分不安ながら、楽しみにしている部分もある。

ここでは、各人2首づつ、掲載しておこう。

・ふきのとうの言の葉楽しふきのじい ふきのしゅうとめ うらうらと春 

                          大堀静江

 もう一晩泊っていけばと母の声聞こえた気がして闇にふりむく

・強風の神威岬のかざかみへ呼ぶ声切れて離りゆく夫      

                          海保秀子

 これの世を櫨の並木のもみじ葉は夕べひととき異界への道

・おはようの声かけすると涙する語れぬ母は聞えて居るか  

                         加藤海ミヨ子

 息子よりプレゼントにと福袋開けてびっくり若者グッヅ

・石榴の実ガラスの皿に弾けとび色はつややかルビーのごとく  

                          中川とも子

 岩肌をいたわるように秋水の流れに夕日あかあかと射す

・ガンバレの声援うけて昇り降り公園わきのわずかな段差(11か月)

                          藤浦栄美子

 ママのドレスを着れば忽ちシンデレラ代わる代わるにビビデバビデブー

・若き日のままの友達花冷えに『マルコムX』を手渡されおり

                           前田絹子

 みどりごが歩み初むるをはやされて何処へ続く一歩かし知れず

・ときわ木と若葉の萌黄せめぎある世代交代桜散るころ    

                          美多賀鼻千世 

 朝夕に秋の気配がしのびよる蛇口の水を両手に受けて

・晶子・らいてう・菊栄らの論争いまだ越ええず<女の仕事> 

                            内野光子

 伐り口は木の香放ち倒さるる樹木は静かに身を横たえぬ

 まつりの初日、展示作品近くで作業をしていた会員に、内野の1首目に目をとめて、「こんな短歌もあるのね」と声をかけてくれた方が二人いらしたそうだ。私の第1歌集『冬の手紙』(1971年)に収録したものだった。「イクメン」などという言葉がもてはやされる昨今だが、働く女性の状況はどこまで変わったのだろうか、思うことしきりではあった。

飛び入り歓迎の歌会は

 2002年から続けている歌会は、今回で95回になる。歌会には当然のことながら、会場確保、詠草や資料の取りまとめと印刷、会計などの裏方の仕事が伴い、会員のみなさんの連携プレーによる。当初からの会員のMさんは、第1回からの資料をクリアファイルにきちんと揃えていて、今回の歌会の折に、公開展示、頁を繰っていると感慨深いものがある。

 今日の歌会は、日曜日のこともあって会員の欠席もあったが、飛び入りの参加者6人のうち3人の方が作品を持参してくださって、にぎやかな会となった。参加者の多くは、ふだんから短歌や作歌に関心があって、少し本格的に取り組みたいのだけれど、どんな方法があるのかを模索されているようだった。いま「自分史」を手掛けているけれどその中に短歌を詠みこみたい、書道に専念してきた30年だったが他のことにも取り組みたい、旅行などをして、その感動を形に留めておきたい・・・などと積極的であり、私たちも大いに刺激を受けたのであった。

ちなみに今月の出詠作品から1首づつ。

・落葉松のまつぼっくりの一人言今ごろ故郷は雪降り積む

・浜風の冷たくなりて波の間に浮く鴨の増す師走間近く

・秋雨に打たれて路地に重なれる色とりどりの濡れ落葉ふむ

・ひたすらに音符追いかけ弦を弾く音色とぎれて美しからず

・捕られまい右手左手持ちかえて必死で攻防最後のお菓子(妹1歳年6か月)

・学校の賞でいただくお針箱半世紀後に形をくずす

・このあたりの花屋は無くなり脈絡のつかぬ地下街に成り果せたり

 飛び入り参加者の感想は、「とてもアットホームでよかった」とのことだったが、喜んでいいものか、微妙でもあり、複雑な気分だった。

歌会会場の拙著の一部の展示

Gedc1028

歌会を終えて

Gedc1025

展示作品の一部

Gedc1033

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2010年12月 5日 (日)

「坂の上の雲」第2部が始まるという~ものものしい番宣

  それにしても、ここ1か月、「坂の上の雲」の番組宣伝は、相当なものだった。スポットのCMはもちろん、関連番組という「スタジオパークからこんにちは」に出演者が入れ替わり出演していたようだったし、10月からは「坂の上の雲~明治の夢・歴史の今」(全20本)と題する5分間番組を週4回放映、登場の「ご当地」や人物をテーマに実写とドラマを織り交ぜてのドキュメントであった。チャンネルを回しているとき、何回かは出遭って、見たものもある。11月には第1部の再放送が始まり、BSハイビジョンでは、第2部の「先行放送」も始まった。総合テレビより1週間前に「お見せしましょう」というわけだ。

関連番組の一つ、123日夜730分より「『坂の上の雲』の女たち」を見た。正岡子規の妹・律(菅野美穂)、秋山好古の妻・多美(松たか子)、秋山真之の妻・季子(石原さとみ)、3人の女性たちの生き方を演ずる女優に語らせるのは、一般的な方法ではあるが、誰もが、ひたすら男たちを支え、しかも結婚や家庭生活においても自立して、前向きに生き抜いたことを讃える内容であった。そして、現代の女性が今あるのも彼女たちの「たくましく、みずみずし」い努力があったからと言わんばかりの「教訓」目線が気になった。

司馬遼太郎の原作では、いずれの女性についても、その記述は、極端に少なく、そっけないのが特徴である。テレビドラマでは、だいぶ無理をした脚色で、第1部では、律、多美の出番が多くなっていた。*

*本ブログの以下を参照:

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/02/post-572c.html

第2部では、真之が結婚するので、一段と華やぎは増すのだろうか。原作と史実との違いも問題だが、原作にはないフィクションによって、女性の登場頻度を多くするなんて、あまりにも物欲しげなドラマ作りではないか。また、この宣伝番組では、時代背景としての婦人用自転車、美顔術、女性誌、結婚式などの事始めとドラマの女性たち、現代の女性たちとの風俗や生き方をとってつけたように結び付けようとし、何でここまでやるの、の思いしきりであった。

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2010年12月 3日 (金)

『敗戦とラジオ』再放送(11月7日、夜10時~)を見て(2)あの頃のNHKはよかったのか

  一つは、出雲のラジオ送信所(松江)では、朝鮮戦争開始直後、アンテナの突貫工事が始まり、500wから10kwまでに増強、韓国・朝鮮からの放送を傍受、それを朝鮮半島の米軍に向けて発信していた、という件だ。しかし、上記『日本放送史』に、この件の言及を見出すことができないでいる。聴取者は、受信料を支払いながら、知らないうちにリスクを負わされ、目に見えない電波の形で米軍に貢献していたことになる。また、「日曜娯楽版」は、GHQの検閲下にあって、人気番組の一つとなりながら、皮肉にも、独立直後の1952年6月には、「ユーモア劇場」と名前をかえて再スタートするも1954年6月には終了してしまう。この1件を、『日本放送史』では、番組改編や中止への経緯を次のように記す。

・毎回機知にあふれた冗談音楽で人気をさらい、回を重ねるにしたがい、その風刺性は強まり、いきおい庶民的な人気はますます高まったが、一部にはこれに対する非難の声も強かった。27年6月、この異色ある番組は発展的に解消し「ユーモア劇場」に変わった。
(上巻760頁)
・昭和22年10月からひきつづき放送されていた「日曜娯楽版」は、世相がようやく安定に近づくにつれて、風刺コントの材料も乏しくなり、形式も固定してマンネリズム化も傾向がみえはじめ、内容にも一方的な放言がないでもなかったので27年6月15日から「ユーモア劇場」と改題し、社会政治風刺の線をやや弱めて新発足した。(下巻87頁)

  時系列からいっても、「日曜娯楽版」「ユーモア劇場」の廃止はNHK対GHQの問題ではないはずである。時の政府、吉田茂内閣からの圧力と古垣鉄郎NHK会長を筆頭とする内部の自主規制によるがものであることが明確には伝わってこなかった。むしろ、CIEで日本のラジオ放送の指導を担当していた、フランク馬場(1915~2008年)へのインタビューで、「日曜娯楽版」に対して、GHQの方が甘く、政府やNHK幹部からの圧力の方が強かったと述べていたのが印象的であった。放送では、政治的圧力の例として、国会での椎熊三郎(国民民主党)と古垣鉄郎NHK会長との質疑があったことは紹介されたが、内容にまで言及されなかったので、その後「国会議事録」を検索してみると、次のようなやり取りを見出すことができる。

・椎熊三郎:(発言前半省略)少くとも国家と結びついてやつておる日本放送協会の放送は、日本の国家再建復興のために協力するということが、根本的な建前でなければなりません。これがあるいは革命的思想であつたり、これが破壊思想であつたり、虚無的な思想であつたりすることが根底で、ああいうものが出て来るとするならば、恐るべき宣伝力を持つものであつて、国家に及ぼす影響は私は見のがすことができないと思うのであります。その点について古垣さんはいかようにお考えになつておられるか。
・古垣参考人:お答えいたします。日曜娯楽版についての御批判、非常に適切な、痛いところをついておられるように拝聴いたしました。御承知のようにああいう諷刺娯楽を取扱う番組は、なかなかむずかしいのでありまして、万全を期してなおあやまちを犯すことが非常に多いので、ただいま御指摘になりましたようなことが万々ないように、日曜娯楽版を始めましたときから、私自身も非常に注意いたしておりまして、しばしば結果について批判して、改めさしたこともございます。(以下略) (1951年3月1日 衆議院電気通信委員会議事録)

 古垣会長は、この答弁の後半で、この番組はある特定の人物が制作しているわけではなく、多く「聴取者大衆」の参加を得、ラジオ・コードに照らし「協会の中の機構で、それぞれ係の者が十分検討いたしまして、これならよろしいということでやるようにいたしております」とも答えている。議員の「虚無主義」云々は笑ってしまうが、この古垣会長の答弁も、まさに現在のNHKの体質を語ってはいないか、とさえ思われるのであった。 

  1965年刊行の『日本放送史』の記述は、被占領期・独立期の放送番組へのNHK自身による「総括」とみてよいだろう。「出雲」の送信所の1件は看過し、「日曜娯楽版」「ユーモア劇場」については、上記のように「一部からの非難」、「材料の乏しさ」「マンネリ」「放言」などは言い訳めき、政治的圧力による「自主規制」の結果ではなかったのか。

  なお、高野岩三郎NHK会長のもとに、GHQ傘下で放送事業再建のただなか、幹部の戦争責任をめぐっての読売新聞社等の労働争議解決のため、NHK従業員組合は、他の新聞通信関係の労働組合がスト中止に踏み切るなか、1946年10月5日よりストライキに突入した。放送停止の社会的影響に鑑み、政府は逓信省による国家管理を命じ、ストが終了する10月25日まで、続いた。この間の放送は、ニュース、気象情報、公共の安寧に関する事項のみに限られ、娯楽番組などはなかった。途中からは、NHK理事者側が部課長職員を動員して放送を実施した。また、放送委員会の斡旋、高野会長の就業勧告などもあって、ストは中止された(『日本放送史』上巻674~676頁)。この国家管理については、私は、今回の番組で初めて知ったような勉強不足であったが、興味深いものがあった。番組でも組合執行部委員だった国枝忠雄氏が「放送文化研究所」に飛ばされる報復人事を受けたこと、さらに、1950年7月から数回にわたる「レッドパージ」(合計119名)によって即日解雇を申し渡された、当時報道部員だった堤園子氏の証言は、生々しいものであった。

   現在の放送法では、「国家管理」という事態は想定できないが、放送への政治介入、政府広報的な偏向放送、視聴率偏重による娯楽化・民放化を日常的になし崩し的に進めてはいないか。「有事」の名のもとに雪崩現象が起きる可能性が恐ろしい。NHK自身が、職員自身が、受信料を前提とする公共放送としての役割を果たす、自立性をどれほど自覚しているのか、疑わしい出来事が多すぎる。「不祥事」が起きるたびに、謝罪して、コンプライアンス、コンプライアンスと言って済むものではない。「敗戦とラジオ」のような、NHKが自らを省みる番組が、郷愁や身贔屓に陥ることなく、資料や証言に基づいた、今後を見据える検証番組になることを望みたい。

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2010年12月 2日 (木)

『敗戦とラジオ』再放送(11月7日、夜10時~)を見て(1)あの頃のラジオを思い出しつつ

 今年の815日ETV特集を見逃してしまった。再放送もうっかり忘れるところだった。録画も取り損ね、これも加齢現象の一つかとやや気落ちしているところなのだ。

 番組の「敗戦とラジオ」は、GHQの検閲下で、NHKの先輩たちがいかに頑張ったのかの視点で、現在のスタッフが、当時の放送人たちが残した記録やインタビューによって描いたものだ。世相や政治を風刺コントや歌で批判したという「日曜娯楽版」(19471012日~195268日)が、被占領下のNHK放送における抵抗の軌跡のように、一条の光のように、語り継がれるのだった。が、果たしてそれだけで完結してしまってよかったのだろうか。「NHKにもこんな歴史があった」という郷愁が色濃く漂っていた。その先の、今の放送人や視聴者たちがそこから何を学び、このメデイアの激変、メデイアの危機に直面して何をなすべきかの緊張感に欠けているように思われたからである。素材の提供という緩やかなメッセージで終わってしまったのが残念だった。ないものねだりでなく、視聴者としても考えさせられる番組だった。

私も「日曜娯楽版」の「冗談音楽」のオープニングや「僕は特急の機関士で」などが口をついて出てくるほどだから、子供ながら聴いていた世代なのだろう。やはり、「鐘の鳴る丘」(194775日~19501229日)、「向う三軒両隣り」(194771日~1953年4月10日)「三太物語」(1950430日~19511028日)などの記憶の方が鮮明だ。クイズの「二十の扉」(1947111日~196042日)、「話の泉」(1946123日~1964331日)、 「私は誰でしょう」「とんち教室」(いずれも194913日~?)などにもよく耳を傾けていたことが思い出される。そこに登場する回答者の柴田早苗、石黒敬七って何をしている人だろうね、と大人たちが話しているのを聞いたこともある。

しかし、夜の番組は、しばしば、停電に見舞われ、表に飛び出すと、近所の人たちも、すでにトランスのある電柱の下に集まっている。ご近所にKさんという電気関係の技師がいて、誰かが呼びに走ると、Kさんは不自由な足を引きずって現れ、皆の期待を集めて電柱に登るのだった。停電の範囲が見極められ、電力会社の人を待つまでもなく、使い過ぎで飛んだヒューズを替えてくれていたのだろうか、多くの場合は、ぱっと明かりがついて、ゆっくりと電柱を降りてくるK さんを、大人たちは感謝の意を表し、私たち子どもたちは尊敬のまなざしで、迎えるのだった。末っ子が私と同学年の3姉妹の父親でもあった。勝手に電柱に登るなんて、今では考えられない、そんな風景が日常茶飯の時代であった。

日曜の朝の「音楽の泉」(1949911日~)の堀内敬三の語り口なども忘れがたい。毎朝7時前には「私たちの言葉」(1945111日~、←建設の声1945925日)という投書番組もあった。「ひるのいこい」で、リクエストの音楽を流しながら、通信員のたよりを読み上げる甘い語り口の声の持ち主は誰だったのか。・・・・

( )内の年月は、番組の放送期間で、『日本放送史(全3巻)』(日本放送協会放送史編修室編 日本放送協会刊 1965年)で調べ、わかる範囲で補っている。 

 上記の『日本放送史』の年表によれば、1945922日、GHQから日本政府に示された、いわゆる「ラジオ・コード」による検閲が開始し、日本政府による検閲は、ほぼ同時に廃止となる。情報局が廃止されたのが1945年末であった。GHQによる放送の「事前検閲」は、民間検閲局CCDが担当し、民間情報教育局CIEは「指導」を実施した。194781日より「事後検閲」となったが、19491018日まで続いた。各種の無線統制が撤廃されるのは、1952428日の対日講和条約発効、独立まで待たねばならなかった。

 番組「敗戦とラジオ」では、戦時下の番組製作スタッフやアナウンサーなどの証言からは「誇張が過ぎる」「偏り過ぎる」「これでよいのか」「自主規制せざるを得なかった」などの悔恨の念を拾いあげていた。敗戦後については、CIEが直接制作にあたった番組も紹介された。その内容がいかにも押しつけがましかったのだろう、聴き手の多くには「奇妙で、苦痛を感じる」として不評を買った、という。敗戦前は政府や軍部、敗戦後はGHQによる介入と検閲のもとでの現場での息苦しさには変わりがなかったのではないか。やがて1950625日、朝鮮戦争が始まった時点で、情報統制や電波情報戦のなかのNHKへの圧力が一段と高まる中の出来事として、次の2件が紹介された。(続く)

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