また、「歌会始」の季節がやってくる~報道ステーションに登場した「河野裕子」
こういうのを「社会現象化」というのだろうか。たまたま見ていた「報道ステーション」(2010年12月17日)の今年の蓋棺録のようなコーナーで、小林桂樹とアニメーション作家の今敏に続いて河野裕子が登場し、三者三様の夫婦愛が謳い上げられていた。私が短歌にかかわっていなければ、他の二人と同様、「ふーん、そうだったのか」で済むのだった。それにしても、いずれも夫婦の絆、家族の絆がことさら強調される美談として仕上げられていたのは気になるところだった。
これまで、私は何度か、生前の河野裕子について、あるいは彼女をめぐる歌壇の状況について述べてきた。私の状況の捉え方がよほどおかしいのか、天邪鬼なのか。それでもいい、いまの私の思いだけは留めておこうと思う。
「歌人は短歌作品がすべてだ」という言い方がある。そして「短歌」で歌人の生涯をもたどる方法がしばしば採用されるのだが、これは様々なリスクを伴うのではないかと思うようになった。歌人の生涯や評価は「短歌」だけで決まるのだろうか。短歌作品は、あくまでもオフィシヤルなメッセージで、歌人の一面しか表しておらず、トータルな評価は、その歌人がどんな作品を残したかと同時に、何をしたのか、その行動の軌跡をたどってこそ可能になると思っている。河野裕子の足跡をたどるとき、私がどうしても理解できなかったのは、以下の彼女の行動とそれについての歌壇の反応だった。
その一つ、夫の永田和宏さん(以下敬称略)が『塔』を高安国世から引き継いだ後、河野は『コスモス』から『塔』にその所属を移ったことだった。結社運営のために夫の結社に移ったことに対して、歌壇は、当然のことのように寛容だったと記憶している。「多磨」系『コスモス』からアララギ系『塔』への「移籍」は実にスムーズであった。私には、現代の短歌状況において結社の持つ文学的な意味や主張の相違というのはほとんど認めがたいし、現に結社に所属しない歌人がどんどん誕生しているように思える。ところが、当時から現在に至るまで、結社の有力歌人たちは、自らの結社の伝統と独自性を強調し、会員確保に懸命であることとの整合性をどう説明するのだろうか。
一つは、永田・河野夫妻で歌会始選者になったことに関してである。歌壇の反応は皆無に等しかったのではないか。本ブログでも触れているが、「銀河最終便」(2008年7月23日、風間祥のブログ)において<短歌という文学でなないものがあり夫妻でつとめる歌会始>と題して、『塔』主宰夫婦がそろって選者になったことを「大分県の教育委員会も驚くような人事である」と切り込んでいたのが記憶に残る(http://sho.jugem.cc/?day=20080723)。近年は、「歌会始」自体へのオマージュこそ散見されたが、異議や抵抗も今や過去のものとなりつつある中で、昨年から今年にかけては、佐藤通雅らの問題提起があった。しかし、その後、夫妻での選者就任について歌壇からの音沙汰はなかった。
*本ブログの以下を参照ください。
・節度を失っていく歌人たちが怖い~河野裕子追悼を手がかりに
(2010年10月27日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/10/post-9caa.html
・「歌会始」への無関心を標榜する歌人たち(1)(2010年1月1日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/01/post-6714.html
・「歌会始」への無関心を標榜する歌人たち(2)(2010年1月19日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/01/post-d9bf.html
そして、短歌ジャーナリズムは、ここぞとばかりの河野裕子追悼の氾濫となった。日刊紙はもちろん『文芸春秋』、週刊誌にも追悼記事は載り、そして「報道ステーション」の登場にまでつながったのである。
数日前届いた『短歌往来』1月号も河野裕子の追悼特集だったのだが、岩井謙一「評論月評」に、次のような重要な二つの指摘があるのに着目した。一つは、短歌総合誌の時評欄はそろって河野追悼にあてていながら、その執筆者は誰も河野が歌会始選者であったことに触れていない点であった。さらに、各誌が追悼特集を組む現象を、特集を組むとするならば「感傷的な評価が収まった二年後、三年後であるはずである。特に異常なほど感傷が先走っている現在において発行される追悼号からは、その歌人の業績について得るものは少ない」という冷静な指摘をしている点であった。前者は、歌壇が「歌会始」をいまだにタブー視している証左であろう。触れることは、やっぱり「ヤバイ」というのが大方の本音なのだろうか。
後者の追悼特集における「感傷」についていえば、河野は生前から自らの病をカミングアウトし、家族ともどもその闘病の過程を含めて歌い続けていた。その体当り的なプライバシーの放棄は、その一部がパフォーマンスであったとしても、やはり節度が欲しかった、と私は思うのだ。「節度」といえば、阿木津英は、来嶋靖生の「節度とつつしみを知らぬ人に詩人の資格はない」という作歌上の注意などを引用し、「節度のメルトダウン」を嘆いていた(「短歌クロニクル」『図書新聞』2010年11月27日)。http://toshoshimbun.jp/books_newspaper/week_description.php?shinbunno=2991&syosekino=3247
さらに、一つ、私が理解に苦しんだのは、病気をおして、歌会始選者を引き受けたことだった。今年の7月1日に来年度の歌会始選者として、昨年に引き続き永田・河野夫妻も務めることが発表された。河野の病状を思わぬではなかったが、8月半ばに逝去している。この状況の中で、選者という「公務」を引き受けたことに、私はむしろ驚いたのであった。プロフェッショナルな社会人がすることだったのかな、と。どうしても手放したくなかった栄誉だったのか、と思うと、なんだかやりきれない気持ちになるのだった。 「社会現象」とは、週刊誌やテレビのワイド番組に登場することなのか。「歌会始」の季節が、またやってくる。
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コメント
難しいことは分かりませんが
短歌界の運営企画の中の「営業」を担当しているのだろうな・・・と思うと同時に「雅子さまや紀子さま」の
時代には 短歌界の牽引者もインターネット世代で
違ってくるだろうと感じています。
ただこうした「指摘」を発信してくれる方が出てくるのだろうか・・・・といったことが心配です。
投稿: グリ猫のママ | 2010年12月31日 (金) 10時31分
浅学なわたくしは思うことを文章にすらすらと構築できません。ここを読みまして胸がすかっとしました。河野裕子先生の歌は素晴らしいものがたくさんあります。しかし、ご自分の症状をご存じであったのなら、その時点で歌会始の選者は辞退なさるのが本当ではないのかなあとずっと思っていました。亡くなられてからはそのことでなんだか後味が悪うございました。せっかくの河野裕子の業績もそのことで躓いたのではないかとまで思えました。ご家族で短歌をたしなまれるのも素晴らしいことかもしれないけれど、息子さんはいったいいつから歌を詠まれていたのでしょうか?いつのまにか、ご子息まで有名歌人の仲間入りをされていて、あざとさを感じました。塔という有名結社が、もう永田家の私有財産であるようです。どん欲さまで感じてしまう。天皇家、特に皇后美知子さままでをも、利用して塔の付加価値にしようとしているようで。。。文学に純粋さだけを求めているわけではないけれど、河野裕子さんご一家がプライバシー(しかも、いいところどりのプライバシー)をばらまき始めたころから、短歌界はすっかりうさんくさいものになってしまったように思えます。作品のひとつひとつは素晴らしいのに・・・と、悲しくなってしまうのです。
投稿: 短歌愛好主婦 | 2010年12月22日 (水) 12時18分