« 昭和時代の旅行私史(2)~もっぱらユースホステルのひとり旅 | トップページ | 佐倉市の縦覧制度と情報公開制度の実態~土地区画整理事業について、先ごろ、こんなことがありました・・・ »

2011年2月21日 (月)

昭和時代の旅行私史(3)家族とともに

仕事での「旅行」も

1975年、縁あって結婚したが、夫の勤務地に私の仕事が見つかるまでの一年間は、双方が、私の住まいと名古屋を行ったり来たりの暮らしだった。週末の新幹線で名古屋へ向かい、月曜早朝の新幹線で発ち、その足で出勤することも多かった。名古屋での勤務が決まり、その夏には出産し、生活のスタイルはがらりと変わった。「旅行」ではなく「移動」と呼んだ方がいいかもしれない。その一つが、一家での夫の実家への帰省であり、一つが職場からの出張であった。名古屋の職場は、私が最年長だったが、職員は年齢的にも近い女性二人との小所帯だったので、できるかぎり研修を重ねながら、利用しやすい図書館を目指そう、働く者も長続きできる職場にしようという気持ちは一緒だったような気がする。事務局にも掛け合い、研修のための出張の実績を作り始めた。日本私立短期大学協会(日短協)の図書館担当者研修会、日本図書館協会による全国図書館大会が毎年、各県持ち回りで開催されていた。それに、北陸・東海地区の短期大学図書館協議会による研修会があり、他にも随時開催される研修会や講習会にも、予算と時間の許す限り、交代で参加するようになった。私も随分勉強することができたし、他の図書館員と交流することは楽しかった。その成果は日常業務に活かすことができたと思う。しかし、幼い長女を夫に託し、家を留守にすることは、夫の協力なしではできないことだった。ちなみに、前の職場の11年間の公務員生活で、研修の場合は除き、いわゆる単身の出張は退職の前年の1回限りだったことに比べると、大学当局も鷹揚なところがあったのかな、今にして思う。図書館予算も全国短大の中でも上位だったし、アルバイトもいつも2人はいたのではなかったか。最後の職場となる千葉の私立大学では、7年間、宿泊を伴う出張は一度も許可されなかったことを思うとなおさらである。出張は旅行ではなく、目的地への往復でしかないけれども、その道中はひとり旅の気分を味わうことができる貴重な時間にも思えた。

それにしても、幾泊かの出張で、日短協の秋田研修会、筑波の図書館情報大学での機械化の研修会が何年だったのかの手掛かりが見つからない。

「家族旅行」を楽しむまでに

長女が小学校に入学する頃になると、一家3人での「旅行」が楽しめるようになったといえる。長女が幼い時期は、「旅行」というよりおむつなどの荷物も多い「移動」に近かったかもしれない。私たちは、車を持たなかったから、移動はもっぱら公共交通機関だった。長女の名古屋での保育園、小学校の遠足や学童保育所からの遠足や旅行の思い出をたどってみると、私とは時代の状況も異なるし、レクリエーションやレジャーの在りようも大きく変貌を遂げるので、その様変わりは興味深い。彼女たちの旅行文化なるものも解明できるかもしれないが、今は、私自身の旅行記録をたどることにしよう。

家族旅行を楽しむといっても、楽しんでいるのは私たち大人で、長女にとってはどうであったのだろうと思う。というのは、長女にはさまざまな見聞をと思い、また楽しい思い出を作ってあげたいなどと思って、遠出に限らず、休日や夏休みなどは、努めて出かけるようにした。しかし、これはあくまでも、大人の、親の思惑であって、その思いはなかなか本人に届かず、いたってクールというか、「日記」などを見ると、外出先・旅先のことには一切触れずに、何やら、帰宅後の庭の虫のことだったり、近所で出遭った友だちのことだったりで、拍子抜けすることもあった。また、少し成長すると、当然のことながら、コースや日程で自己主張が多くなり、かなわないと拗ねたりすることもある。大人たちは、つい欲張って宿から朝の散歩に出たりするが、子どもは「眠いから、行ってらっしゃい」なんていうこともあった。

「家族旅行」と言っても、そんな具合だったから、長女自身が、旅行として楽しめたのは、学校からの遠足や修学旅行よりは、小学校1年から5年まで通った学童保育所からのキャンプであり、スキー・スケート・山歩き・川遊びなどではなかったか。学年を越えた仲間、指導員の自由さと熱意、保護者のまとまりがそんな成果をもたらしたのではないかと思う。小学校も中学校も、当時、その管理ぶりの厳しさでは「西の愛知、東の千葉」と取りざたされていたくらいだったから。それにしても、保護者も参加した、例えば、御在所岳や犬山行きなどを確かめる手立てがみつからない。長女はなにか残しているだろうか。

夫が東京に転任になる前、3年間京都で単身赴任をしていた時期があった。週末は、ほとんど夫が名古屋に帰ってきていた。地域の子供会のソフトボールのコーチをしたり、家庭菜園を借りたりして、休む暇もなかったのではなかったか。新幹線の交通費は出ていなかったので、高速バスを利用することが多く、雪の日などは心配だったことを思い出す。いよいよ私も京都に仕事を探さねばと、知人にお会いしたり、面接を受けたりしていた矢先、夫の東京への転任が決まったのだった。

やがて、連れ合いとともに

 一家での旅行で印象ぶかいのは、車山高原でのクロスカントリーの研修会だったろうか。名古屋では天白川の土手での月例記録会などに一家で参加していた頃だ。夫はフルマラソンに挑む勢いで走り込んでいたし、長女はリレーの選手だったし、私は東京の職場では同僚と昼休みに皇居一周5キロを走っていた頃を思い出し、それぞれの思いで励んでいた矢先、上・中・初級別のメニューと指導者が付く研修会ということで、参加した。仕上げの記録会を目標に、結構頑張った記憶がある。初級クラスの記録会は5キロのアップダウンがある山道だった。高校駅伝で名前を聞いたことがある高校の選手たちの練習コースでもあり、ところどころにストップウォッチをもったコーチが檄を飛ばし、選手たちからは「コースお願いしまーす」といって追い抜かれ、その走り抜ける高校生たちの息遣いに圧倒されるのだった。夫のクラスでは、箱根駅伝の選手だった人がコーチで相当ハードだったらしい。3人ともそれなりの達成感をもって帰路に着いた思い出がある。

 長女の学生時代、私の退職後、遅ればせながら、初めての海外旅行に出た。夫は何度か仕事でヨーロッパやアメリカに出ていたが、行き先は、2か月ほどのやや長期に滞在したことのあるイギリスになった。ロンドン・ヨーク・エデインバラと地味なコースだったが、一家でのゆったりした海外もなかなかいいものだった。ピカデリーのメトロの改札口で、名古屋の知人に出会ったりもする。

 以降、働きだした長女はまとまった休みも取れなくなり、旅行はもっぱら夫と二人が多くなった。 (完)

旅行記録3

1974

5月京都・明治村

7月短歌会全国大会(篠山)

8月大学MゼミOBと自由民権の旅(山形大学・蔵王・山寺・喜多方・会津)

9月職場から梅が島温泉

1975

昭和50

3月結婚、週末は夫の勤務地名古屋と川崎を双方、行ったり来たりの生活となる

3月夫と四国(松山・高知・足摺岬・高松)

11月京都へ、K先生歌碑除幕式(法然院)

1976

2月大阪(関西大学ほか)出張

3月図書館退職、4月名古屋のT女子短期大学図書館職員となり、転居。8月長女出産。この年以降、毎年、正月休み・お盆休みには一家で夫の実家(兵庫県)への帰省が続く

2月夫と箱根・熱海

1977

4月長女市立原保育園に入所

8月名古屋のA大学の夏季司書講習会、「参考業務演習」を担当、88年まで務める

11月上京

1979

4月恩師逝去、京都(告別式)

1980

昭和55

4月~2年間、日本短期大学協会図書館研究委員会委員を委嘱され、東京への出張が多くなる

1981

8月夫・長女河津へ(伊豆バイオパークなど)

短歌会全国大会(東京)

1982

10月全国図書館大会(福井)出張

8月家族と明治村

1983

4月長女小学校入学、学童保育所入所、この頃から一家でジョギング始める

7月著作権講習会(東京)出張

10月全国図書館大会(山口)出張

1月家族と上京(ちひろ美術館・サンシャイン水族館・浅草)

7月家族と蒲郡

8月短歌会全国大会(姫路)

9月上京(出版記念会)

1984

3月姪結婚式(東京)

5月家族と東京・横浜

5月家族と知多半島

1985

昭和60

4月夫、京都へ単身赴任、転居、名古屋との往復続く

7月日本短期大学協会図書館担当者研修集会(金沢)出張

11月家族と奈良・郡山・明日香村

1986

6IFLA東京大会に出張

10月全国図書館大会(山口)出張

11月大垣出張(北陸・東海私立短期大学図書館協議会)

8月家族と車山高原クロスカントリー研修会に参加

1987

11月上京(大学クラス会)

1988

3月短期大学を退職。4月夫の転任、千葉県転居に伴い、県内のY大学図書館職員となる。長女は船橋市の小学校に転校、11月佐倉市の現住所転居に伴い、市内の小学校に転校、8月名古屋へ、A大学司書講習会へ最終出講

5月家族と箱根

1989

4月長女小学校卒業、中学校に進学、

2月家族とマザー牧場、南房総

1990

(平成2

3月家族と箱根へ

7月家族と諏訪湖・美ヶ原高原・豊科

8月短歌会全国大会(箱根湯本)

9月家族と奥入瀬・盛岡

1992

8月短歌会全国大会(神戸)

11月家族と横浜

1994

7月Y大学退職

7月夫と那須高原

1995

(平成7

3月次兄二郎死去。 長女高校卒業。

社会人入学でR大学修士課程に進学、98年修了

9Sゼミ合宿で信州美濃戸高原

1996

4月長女大学進学のため転居

9月夫・長女とイギリス(ロンドン、ヨーク、エデインバラ)、初めての海外旅行

1997

3月夫と水上温泉

9月夫と軽井沢

1998

5月夫と伊香保温泉・榛名湖

1999

6月上旬夫の出張従い、直江津・妙高高原へ。下旬夫の学会出張に従い弘前、下旬生活クラブの仲間と佐原の福祉施設見学

10月京都へ、長女と姪結婚式出席

|

« 昭和時代の旅行私史(2)~もっぱらユースホステルのひとり旅 | トップページ | 佐倉市の縦覧制度と情報公開制度の実態~土地区画整理事業について、先ごろ、こんなことがありました・・・ »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 昭和時代の旅行私史(2)~もっぱらユースホステルのひとり旅 | トップページ | 佐倉市の縦覧制度と情報公開制度の実態~土地区画整理事業について、先ごろ、こんなことがありました・・・ »