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2011年2月21日 (月)

昭和時代の旅行私史(3)家族とともに

仕事での「旅行」も

1975年、縁あって結婚したが、夫の勤務地に私の仕事が見つかるまでの一年間は、双方が、私の住まいと名古屋を行ったり来たりの暮らしだった。週末の新幹線で名古屋へ向かい、月曜早朝の新幹線で発ち、その足で出勤することも多かった。名古屋での勤務が決まり、その夏には出産し、生活のスタイルはがらりと変わった。「旅行」ではなく「移動」と呼んだ方がいいかもしれない。その一つが、一家での夫の実家への帰省であり、一つが職場からの出張であった。名古屋の職場は、私が最年長だったが、職員は年齢的にも近い女性二人との小所帯だったので、できるかぎり研修を重ねながら、利用しやすい図書館を目指そう、働く者も長続きできる職場にしようという気持ちは一緒だったような気がする。事務局にも掛け合い、研修のための出張の実績を作り始めた。日本私立短期大学協会(日短協)の図書館担当者研修会、日本図書館協会による全国図書館大会が毎年、各県持ち回りで開催されていた。それに、北陸・東海地区の短期大学図書館協議会による研修会があり、他にも随時開催される研修会や講習会にも、予算と時間の許す限り、交代で参加するようになった。私も随分勉強することができたし、他の図書館員と交流することは楽しかった。その成果は日常業務に活かすことができたと思う。しかし、幼い長女を夫に託し、家を留守にすることは、夫の協力なしではできないことだった。ちなみに、前の職場の11年間の公務員生活で、研修の場合は除き、いわゆる単身の出張は退職の前年の1回限りだったことに比べると、大学当局も鷹揚なところがあったのかな、今にして思う。図書館予算も全国短大の中でも上位だったし、アルバイトもいつも2人はいたのではなかったか。最後の職場となる千葉の私立大学では、7年間、宿泊を伴う出張は一度も許可されなかったことを思うとなおさらである。出張は旅行ではなく、目的地への往復でしかないけれども、その道中はひとり旅の気分を味わうことができる貴重な時間にも思えた。

それにしても、幾泊かの出張で、日短協の秋田研修会、筑波の図書館情報大学での機械化の研修会が何年だったのかの手掛かりが見つからない。

「家族旅行」を楽しむまでに

長女が小学校に入学する頃になると、一家3人での「旅行」が楽しめるようになったといえる。長女が幼い時期は、「旅行」というよりおむつなどの荷物も多い「移動」に近かったかもしれない。私たちは、車を持たなかったから、移動はもっぱら公共交通機関だった。長女の名古屋での保育園、小学校の遠足や学童保育所からの遠足や旅行の思い出をたどってみると、私とは時代の状況も異なるし、レクリエーションやレジャーの在りようも大きく変貌を遂げるので、その様変わりは興味深い。彼女たちの旅行文化なるものも解明できるかもしれないが、今は、私自身の旅行記録をたどることにしよう。

家族旅行を楽しむといっても、楽しんでいるのは私たち大人で、長女にとってはどうであったのだろうと思う。というのは、長女にはさまざまな見聞をと思い、また楽しい思い出を作ってあげたいなどと思って、遠出に限らず、休日や夏休みなどは、努めて出かけるようにした。しかし、これはあくまでも、大人の、親の思惑であって、その思いはなかなか本人に届かず、いたってクールというか、「日記」などを見ると、外出先・旅先のことには一切触れずに、何やら、帰宅後の庭の虫のことだったり、近所で出遭った友だちのことだったりで、拍子抜けすることもあった。また、少し成長すると、当然のことながら、コースや日程で自己主張が多くなり、かなわないと拗ねたりすることもある。大人たちは、つい欲張って宿から朝の散歩に出たりするが、子どもは「眠いから、行ってらっしゃい」なんていうこともあった。

「家族旅行」と言っても、そんな具合だったから、長女自身が、旅行として楽しめたのは、学校からの遠足や修学旅行よりは、小学校1年から5年まで通った学童保育所からのキャンプであり、スキー・スケート・山歩き・川遊びなどではなかったか。学年を越えた仲間、指導員の自由さと熱意、保護者のまとまりがそんな成果をもたらしたのではないかと思う。小学校も中学校も、当時、その管理ぶりの厳しさでは「西の愛知、東の千葉」と取りざたされていたくらいだったから。それにしても、保護者も参加した、例えば、御在所岳や犬山行きなどを確かめる手立てがみつからない。長女はなにか残しているだろうか。

夫が東京に転任になる前、3年間京都で単身赴任をしていた時期があった。週末は、ほとんど夫が名古屋に帰ってきていた。地域の子供会のソフトボールのコーチをしたり、家庭菜園を借りたりして、休む暇もなかったのではなかったか。新幹線の交通費は出ていなかったので、高速バスを利用することが多く、雪の日などは心配だったことを思い出す。いよいよ私も京都に仕事を探さねばと、知人にお会いしたり、面接を受けたりしていた矢先、夫の東京への転任が決まったのだった。

やがて、連れ合いとともに

 一家での旅行で印象ぶかいのは、車山高原でのクロスカントリーの研修会だったろうか。名古屋では天白川の土手での月例記録会などに一家で参加していた頃だ。夫はフルマラソンに挑む勢いで走り込んでいたし、長女はリレーの選手だったし、私は東京の職場では同僚と昼休みに皇居一周5キロを走っていた頃を思い出し、それぞれの思いで励んでいた矢先、上・中・初級別のメニューと指導者が付く研修会ということで、参加した。仕上げの記録会を目標に、結構頑張った記憶がある。初級クラスの記録会は5キロのアップダウンがある山道だった。高校駅伝で名前を聞いたことがある高校の選手たちの練習コースでもあり、ところどころにストップウォッチをもったコーチが檄を飛ばし、選手たちからは「コースお願いしまーす」といって追い抜かれ、その走り抜ける高校生たちの息遣いに圧倒されるのだった。夫のクラスでは、箱根駅伝の選手だった人がコーチで相当ハードだったらしい。3人ともそれなりの達成感をもって帰路に着いた思い出がある。

 長女の学生時代、私の退職後、遅ればせながら、初めての海外旅行に出た。夫は何度か仕事でヨーロッパやアメリカに出ていたが、行き先は、2か月ほどのやや長期に滞在したことのあるイギリスになった。ロンドン・ヨーク・エデインバラと地味なコースだったが、一家でのゆったりした海外もなかなかいいものだった。ピカデリーのメトロの改札口で、名古屋の知人に出会ったりもする。

 以降、働きだした長女はまとまった休みも取れなくなり、旅行はもっぱら夫と二人が多くなった。 (完)

旅行記録3

1974

5月京都・明治村

7月短歌会全国大会(篠山)

8月大学MゼミOBと自由民権の旅(山形大学・蔵王・山寺・喜多方・会津)

9月職場から梅が島温泉

1975

昭和50

3月結婚、週末は夫の勤務地名古屋と川崎を双方、行ったり来たりの生活となる

3月夫と四国(松山・高知・足摺岬・高松)

11月京都へ、K先生歌碑除幕式(法然院)

1976

2月大阪(関西大学ほか)出張

3月図書館退職、4月名古屋のT女子短期大学図書館職員となり、転居。8月長女出産。この年以降、毎年、正月休み・お盆休みには一家で夫の実家(兵庫県)への帰省が続く

2月夫と箱根・熱海

1977

4月長女市立原保育園に入所

8月名古屋のA大学の夏季司書講習会、「参考業務演習」を担当、88年まで務める

11月上京

1979

4月恩師逝去、京都(告別式)

1980

昭和55

4月~2年間、日本短期大学協会図書館研究委員会委員を委嘱され、東京への出張が多くなる

1981

8月夫・長女河津へ(伊豆バイオパークなど)

短歌会全国大会(東京)

1982

10月全国図書館大会(福井)出張

8月家族と明治村

1983

4月長女小学校入学、学童保育所入所、この頃から一家でジョギング始める

7月著作権講習会(東京)出張

10月全国図書館大会(山口)出張

1月家族と上京(ちひろ美術館・サンシャイン水族館・浅草)

7月家族と蒲郡

8月短歌会全国大会(姫路)

9月上京(出版記念会)

1984

3月姪結婚式(東京)

5月家族と東京・横浜

5月家族と知多半島

1985

昭和60

4月夫、京都へ単身赴任、転居、名古屋との往復続く

7月日本短期大学協会図書館担当者研修集会(金沢)出張

11月家族と奈良・郡山・明日香村

1986

6IFLA東京大会に出張

10月全国図書館大会(山口)出張

11月大垣出張(北陸・東海私立短期大学図書館協議会)

8月家族と車山高原クロスカントリー研修会に参加

1987

11月上京(大学クラス会)

1988

3月短期大学を退職。4月夫の転任、千葉県転居に伴い、県内のY大学図書館職員となる。長女は船橋市の小学校に転校、11月佐倉市の現住所転居に伴い、市内の小学校に転校、8月名古屋へ、A大学司書講習会へ最終出講

5月家族と箱根

1989

4月長女小学校卒業、中学校に進学、

2月家族とマザー牧場、南房総

1990

(平成2

3月家族と箱根へ

7月家族と諏訪湖・美ヶ原高原・豊科

8月短歌会全国大会(箱根湯本)

9月家族と奥入瀬・盛岡

1992

8月短歌会全国大会(神戸)

11月家族と横浜

1994

7月Y大学退職

7月夫と那須高原

1995

(平成7

3月次兄二郎死去。 長女高校卒業。

社会人入学でR大学修士課程に進学、98年修了

9Sゼミ合宿で信州美濃戸高原

1996

4月長女大学進学のため転居

9月夫・長女とイギリス(ロンドン、ヨーク、エデインバラ)、初めての海外旅行

1997

3月夫と水上温泉

9月夫と軽井沢

1998

5月夫と伊香保温泉・榛名湖

1999

6月上旬夫の出張従い、直江津・妙高高原へ。下旬夫の学会出張に従い弘前、下旬生活クラブの仲間と佐原の福祉施設見学

10月京都へ、長女と姪結婚式出席

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2011年2月19日 (土)

昭和時代の旅行私史(2)~もっぱらユースホステルのひとり旅

   母との旅はかなわなかったけれど

 大学に入った年の暮に母を亡くした。60歳を過ぎた父は、家業を長兄に託すことが多く、自由時間が多くなると、同業組合や地元の商店会の慰安旅行にはよく出かけていた。しかし、プライベートな温泉の逗留や観光旅行となると、費用は出すからと、よく私が駆り出された。父の晩年と私の未婚時代とが重なり、結婚しないのを心配していた父との親不孝旅行だったかもしれない。末っ子の私の受験も終わり、時間的にも経済的にも旅行などが楽しめるだろうと思われた矢先に母は病に倒れた。母本人はもちろん、私も悔しかった。その分、父との旅行も苦にならなかったのかもしれなかった。父は、中学校の時すでに両親を亡くし、兄弟もなく天涯孤独だったという。10代で検定の薬剤師資格をとって朝鮮に渡り、プサンやソウルの薬屋に勤め、現地入隊し、衛生兵となったという。兵役を済ました後は、中国や東南アジアを転々とし、ジョホールのゴム園の診療所で薬剤師として働いていたらしい。その頃の話は、断片的にはよく聞いてはいたが、詳しい履歴は残されてもいないし、私もことさら尋ねはしなかった。母は「お父さんは、若いときから、家庭の味を知らない、自由人だから・・・、いろいろ困ることも多い」という愚痴はよく聞かされていた。母は、親類縁者のいない父だから結婚したとも言っていた。結婚が1925年頃だったらしいので、大正時代の大部分を外地で過ごしていたことになる。もっと話を聞いておけばよかったと、今になって悔やまれるのだった。

登山やスキーも人並みに

大学では、一般体育の単位にもなるという、登山教室とスキー教室に参加した。バイトや自治会活動で忙しい学友は、ふだんの体育授業には出ずに、この教室での1週間で2単位をとる者も多かった。私は授業も皆勤に近かったから、単位はかなり余分になったものだ。きちんとした指導者のもとに、登山やスキーの楽しみと怖さも知ったことは、その後、友人たちと出かける山歩きやスキーなどにも役立ったと思う。また学生時代にはユースホステルをフルに利用する、ひとり旅が楽しめるようになった。一覧表では、*印を付してみた。最初は家族にも「女の子がひとりで」と心配されたが、宿泊先のメモをしっかりと残して出かけた。友人からは「ひとりで何が面白いの」とか不思議がられたりしたが、当時、若者の間では、ユースホステルの旅は結構盛んだったけどなあ。父との旅には、国民宿舎、公務員の保養所などもよく利用した。

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ひとり旅と短歌と

就職をすると、職場からの旅行が多くなった。といっても週末を利用しての一泊で、宿では大々的に懇親会が開かれた。まだ当時は土曜日も勤務があり、図書館勤めが始まると1か月に1・2回は5時までの残業があった。最初の職場は、大学だったので、夏休みがあったし、公務員の図書館勤めになってからでも、当時は有給休暇のほかに、運用で1週間ほどの夏休みが取れた。公務員になった年の9月、北海道10泊の旅を終えて出勤したところ、私の席が無くなっていた!旅行中に、職場での部屋の大移動の予定が早まって、急きょ、引越しで大変だった由、私の机・椅子も私物もすべて上司たちが運んでくれたとのこと。とんだ新人だったわけである。しばらくは神妙にしていたのだが。大学時代から短歌サークルに入り、いわゆる短歌会(結社)の会員にもなって、月々の東京歌会のほかに、短歌の仲間との研究会や歌会と称して一泊旅行に出た。入会した短歌会では全国の支部の持ち回りで全国大会を開催するので、それにもよく参加した。開催地にあわせて、その前後にひとり旅をすることも多くなった。1960年代後半から1970年代にかけては、毎年のように参加していることが一覧表を作成してみて分かった。いまでも、その全国大会は続いているが、私は、1992年を最後に参加することをやめてしまった。会員も高齢化しているし、指導者は代替わりをしてしまって、すっかり腰が重くなってしまった。今では、短歌作品は欠詠しないように、そして、時々時評や論文を書かせてもらっているという関わり合いが精いっぱいというところだろうか。

旅行記録219581974)     単独旅行

1958

3月高校卒業、4月より予備校に通う

1959年    

4月大学入学 12月母死去

12月父と日光・鬼怒川

1960

昭和35

P短歌会に入会

4月父と佐原・香取神宮・牛久・銚子

7月立山・剣岳・黒部登山教室(大学一般体育)

8月次兄と金沢・能登・東尋坊・京都

12月蔵王スキー教室(大学一般体育)

1961

8月父と山陰(鳥取・松江・萩・広島・尾道・倉敷・京都・大阪)

10月奈良・熊野・新宮・志摩

1962

この頃より、一人旅を始め、もっぱら各地の国民宿舎・ユースホステルを利用した

8月団体九州ツアー(全国修学旅行協会)(鹿児島・熊本・長崎・福岡)

9月京都(修学院離宮ほか)*

11月岡山(水島・鷲羽山・倉吉)香川(屋島・金毘羅)

12月蔵王スキー教室(大学一般教育)

1963

3月大学卒業、4月G大学職員として勤務

6月職場教職員と沼津・三津浜

9月河口湖・西湖・小淵沢・足和田村・本栖湖・小諸・菅平・軽井沢

1964

6月職場教職員と修善寺

8月職場の友人たちと軽井沢

東北(弘前・秋田・角館・平泉・盛岡・新庄・酒田)

9月父・父の友人たちと軽井沢・四万・湯ノ平・湯沢温泉

1965

昭和40

3月退職、4月図書館職員(国家公務員)となる

6月父と房総(小湊・館山・養老渓谷)

9月北海道(函館・大沼・洞爺・美瑛・釧路・阿寒摩周湖・知床・襟裳)

10月父と和倉温泉、黒部渓谷・高山・犬山

1966

2月職場から菅平(スキー)

8月書道部合宿館山

1967年    

8月小浜・鳥取・倉吉・奥津温泉・神戸・小豆島

8月短歌会全国大会(須磨)

9月父と下田・河津・天城峠

1968

5月鹿教湯・上諏訪*

8月短歌会全国大会(九段会館)

1969

8月短歌会全国大会(飯田市)

12月葉山

1970

昭和45    

1224日父死去

8月万博・多武峰・明日香村・十津川・熊野

短歌会全国大会(高野山)

9月父と那須高原

10月職場から四万温泉

1971

4月G大学旧教職員と金沢大学(N学長)へ、バスで能登半島めぐり

8月那須温泉(歌会)

8月短歌会全国大会(天理市)

奈良・京都

1972

1月池袋の生家から川崎市登戸に転居

5等級研修(山中湖)出張

6月大山(ポトナム相模支部記念歌会)

9月職場から湯ノ平温泉・花敷温泉

11月小泉苳三十七回忌記念歌会(京都)

1973

5月さんふらわあ号で、高松・善通寺(Yさん)・松山・高知(Oさん、S先生)

9月同僚Iさんと八方尾根・上高地

9月職場から新甲子温泉

10月次兄と佐原祭り・香取神宮

10月宮城県へ、A先生歌碑除幕式(中田町石森)

1974

5月京都・明治村

7月短歌会全国大会(篠山)

8月大学MゼミOBと自由民権の旅(山形大学・蔵王・山寺・喜多方・会津)

9月職場から梅が島温泉

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2011年2月14日 (月)

昭和の旅行私史(1)遠足はどこへ行ったか覚えてますか

豊島園がディズニーランドだった?あの頃

ここ10年ほどの海外旅行の記録を作っていたら、小学校時代からの遠足ってどこへ行ってたっけ、と思い始め、その遠足を含めて、国内旅行の記憶をたどってみることにした。日記は、小学校では、夏休みや冬休みの宿題で書くものだとしか思っていなかったし、社会人になってからの手帳は捨ててはいないが、探すのも難儀だ。第一、空白も多い。遠足や旅行の記録で、手っ取り早いのは、アルバムである。昭和20年代の小学校での遠足は、その日の、たった一枚残されている集合写真が頼りである。写真に日付や場所が入るのはずっと後のことだし、家族アルバムの黒い台紙に鉛筆で自分のメモや父母の手になる日付・撮影場所が残っていればありがたいというものだ。残念ながら、年月日が明確な写真の方が少なかった。前後の脈絡から表のようになった。東京の城北地区からの小学校の遠足は、定番ともいえる、低学年の豊島園、村山貯水池、大宮公園、長瀞、稲毛への潮干狩り、高学年の高尾山、鎌倉や箱根の修学旅行ということになる。商家だった我が家では、休業日もない、家族旅行など望むべくもない暮らしだった。それ以外だと、夏休みに母に連れられて実家のある千葉県の佐原行き、佐原の親戚が上京すると、兄や母が連れってくれる豊島園のプールやボート、ウォーターシュート(1927開業~1968年停止)が楽しみでもあった。豊島園は、現代のディズニーランドというところだろうか。明治生まれの父は、戦前の浅草六区や花やしきの賑わいを忘れがたかったようだ。自慢ではないが、私は千葉県民ながら浦安のディズニーランドに行ったことがないし、行くつもりもない。

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我が家のカメラの歴史もわかる

中学や高校になると集合写真ばかりでなく先生や友人が撮ったスナップが多くなる。卒業アルバム用に写真撮影担当の添乗員が随いてくるようなこともなかった。現在の修学旅行では、ケータイやデジカメ持参可なのだろうか。戦前、我が家には写真機はなかったらしい。我が家の写真機1号はマミヤ16の小型である。調べてみると、発売が1949年というから、発売後間もなく購入したのではないか。2台目の二眼のリコー・フレックスで撮り初めは1957年8月31日とあり、いとこや叔母が訪ねてきて、夜間の撮影に成功したというスナップもある。この時代の焼き付けはどれも皆小さく、名刺ほどの大きさと5センチほどの正方形の焼き付けが多い。リコーの二眼シリーズの1号は1950年9月発売といい、7300円で、かなり大衆的な価格で人気を呼んだという。我が家で購入したのはかなり時間が経っていることになる。カメラが結構重いのとシャッターを切るときのバシャという音の感覚が懐かしい。

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アルバムの変遷、黒から白へ、そして

中学校になると、私は、家族とは独立した、自分だけのアルバムを持つようになって、いろいろな旅行資料、学校から配布された日程表をはじめ、パンフレットや入場券などを張り付けるようになったので、かなり正確な日付や行程がわかるようになった。同世代の人と比べるとどうなのだろう。中学校・高校は、地元の公立ではなく、文京区の大学付属だったから、当時としては、結構、校外学習や夏の学校などが充実していたような気がしているのだが。この頃から、アルバムの台紙が、黒のボール紙からクリーム色に変わっている。表紙は相変わらず厚いもモコモコしたものである。1960年代後半には、一人旅などが多くなると、写真の枚数増え、厚い表紙が煩わしくなり、スクラップブックのやや上質なものに替えた。写真は4角の三角コーナーで留め、資料は袋を張り付けそこに入れるようにした。それが、1970年代半ばになると、ノリのついた白い台紙をフィルムで覆う方式のアルバムになり、紙類なら何でも気軽に挟めるし、レイアウトも自在になった。台紙の枚数も加減できたので、「編集」もラクになったが、つい重くなるのがやはり難点だった。だから、今では、5冊箱入りで、1冊にハガキ(大)が1頁3ポケット合計48枚が収まり、巻末に大きなポケットが2頁付き、若干のメモ欄もあるホルダーを使うことが多い。数年前までは焼き増しをするとサービスしてくれた、1頁4ポケット、10枚で40枚収納のホルダーも小回りが利いて重宝したが、今は80円で購入しなければならない。それでも整理しきれない、写真があちこちの封筒から出てくる昨今でもある。デジカメを使うようになってからは、パソコンやCDに落としてから必要なものだけを焼き付けるようにしているが、それでもアルバムは増えてゆく。

小・中・高時代は遠足と修学旅行がすべてだった

私の場合、「旅行記録1」の一覧表を見ると、小学校から高校時代まで(1946年から1958年)の「旅行」といえば、遠足(校外学習)と修学旅行がすべてだったといえる。中学1年の夏の箱根行きの一泊が学校生活初めての宿泊だった。小学校では、運動会と学芸会、春秋の遠足が大きなイベントであり、楽しみでもあった。少しわき道にそれるが、早朝、映画館に出かける映画教室というのもあった。「稲の一生」「石の花」「空気の無くなる日」などかろうじて思い出せるのだが、「鐘の鳴る丘」や「鞍馬天狗」は家族と見に行ったのだろうか。高校では、池袋の映画館前に集合して、鑑賞した「エデンの東」が印象に残っていし、「哀愁」を校内で鑑賞したこともある。遠足の集合写真はあるが、運動会・学芸会の写真もない。他に、卒業記念の集合写真が一枚ある程度だ。6年担任のO先生は、私たちが初めて送り出す卒業生ということで、あたらしいカメラで撮ってくださったものが数枚残されている。その時のクラスといえば、写真に映っているだけでも男子31人、女子26人の総勢57人の大所帯だったのだ。数年前、先生は、この写真のネガが出てきたので、焼き付けてみたと、人数分の写真を持参されたのには驚いた。白黒ながら、50数年前のものとは思えず、男子だけの集合写真はこの時初めて目にしたのだった。この10年ほどは、担任のO先生の絵画の個展に合わせてよくクラス会が開かれ、いつも15・6人は集まる。地元池袋の変貌ぶりはもちろんだが、弟の赤ちゃんを背負って登校していたY君はどうしているだろうか・・・、今日は銀座のママさんはいらしてないけれど・・・、あの怖かった音楽の先生は校長先生で退職されたけれど先ごろ亡くなられた・・・などと話題は尽きない。この一覧を見て、心残りは小学校2年次の遠足写真がなく、どこへ行ったか分からないことであった。低学年での2年半の在校なので尋ねてみる友人もいない。

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旅行記録1(19401953年)

 

1940

 

昭和15

 
 

3月東京都豊島区池袋に生まれる

 
 

1944年  

 
 

千葉県佐原に母と疎開

 
 

1945

 

昭和20

 
 

413日の空襲で池袋の生家が焼出

 
 

1946年  

 
 

4月佐原小学校に入学。7月池袋の焼跡にバラックを建て一家が転居。池袋第2小学校に転校、当初重林寺の仮校舎

 
 

2から遠足豊島園(小1

 
 

1947

 
 

1時期2部授業で仮校舎要町小学校に通う

 
 

(小2

 
 

1948

 
 

春:村山貯水池(3)

 

秋:大宮公園

 
 

1949

 
 

4月、直近の池袋第5小学校に転校

 
 

5から春:大宮公園          (小4) 

11月長瀞

 
 

1950

 

昭和25

 
 

春:稲毛海岸(5)

 

秋:高尾山

 
 

1951

 
 

5月鎌倉(6)

 

11月昇仙峡

 
 

1952

 
 

4月中学校入学

 
 

3月修学旅行箱根・十国峠(6) 

4月中学校歓迎遠足向ヶ丘遊園(1) 

5月長瀞 

7月箱根(芦ノ湖・乙女峠) 

秋:韮山反射炉 

 

1953

 
 

4月歓迎遠足豊島園(中2) 

6月軽井沢 

7月正丸峠・伊豆ヶ岳登頂 

 

1954

 
 

5月修学旅行京都・奈良(3) 

7月山中湖・富士山登頂

 

1955

 

昭和30

 
 

3月中学校卒業、4月高校入学

 
 

7月夏の生活・蓼科高原・立科山登頂(高1

 

1956

 
 

7月夏の生活・富浦海岸(高2) 

10月修学旅行東北(松島・平泉・十和田湖・秋田) 

 

1957

 
 

4月修学旅行(京都・奈良・吉野・大阪)(高3) 

 

1958

 
 

3月高校卒業、4月より予備校に通う 

                                                                                             

 

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2011年2月 5日 (土)

ウォーキングをかねて、井野の「辻切り」を訪ねた

 私が住むのは、だいぶ古びたニュータウンだが、そのニュータウンに囲まれ、小島のように残された集落、井野本村に伝わる行事に「辻切り」がある。立春も過ぎた週末、ウォーキングコースの一つ、友人とその集落に向かった。

 集落への入り口、六か所の大木に、藁で編みこんだ3m以上もありそうな大きな蛇を掛けて、村に侵入する邪悪を追い払おうというのがその由来である。私は、そのいわれから、「鬼は外」の節分行事の一つだと、今日まで勘違いしていたが、調べてみて、125日の行事だということが分かった。最初に出会った辻切りは、井野東の北部調整池を挟んで、井野の鎮守である八社大神の向い側の登り坂の途中にある。私の撮った写真では分かりにくいが、「大辻」と呼ばれるもので、高い木の上から、大きな白い眼玉を向き、赤い唐辛子の舌を出した蛇が、ニュータウンの私たちの侵入を拒むかのように見おろしている。公民館、井野会館の裏手にもなる。登り切って会館を左に折れると真言宗豊山派の「千手院」がある。あたりの梅林はもう満開に近い。さらに進むと下り坂になって、調整池に続く田んぼにぶつかる。田んぼを左に雑木林に沿って農道を進むと右手に、今は休耕田の荒れ地が村に入り込んでいる。その端にも「大辻」はあった。ウォーキングコースでありながら、藁の蛇は、すぐ樹木の保護色となって目立たなくなってしまうのだろう、これまで気づかなかった。唐辛子の赤も、目の玉の黒も、今は真新しく鮮やかだ。飛び出している白い目は、白い和紙に五穀を包んで作るそうだ。そして、体にはヒイラギやシキミを刺し、「塞神」(さえのかみ)という札を下げる。

 井野本村の集落には立派なお宅が多い。そして、その門々には、「小辻」と呼ばれる小さな蛇が飾られ、さらに邪悪を追い払おうというのだ。近くの井野小学校では、郷土学習として3年生の時に、この「辻切り」について学び、「小辻」作りを体験するとのことだ。

 今日は、集落の中を回ったので、6000歩近くは歩いただろうか。

 昨日の夕食は、一日遅れの「恵方巻」、家で簡単な太巻きを作った。大豆も撒かずにしっかり五目豆にして食したので、もう少し歩数を延ばした方がよかったかもしれない。

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かつて養蚕をしていたという農家

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ビニールハウスにも

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ある小辻

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調整池をのぞむ大辻

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