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2011年2月14日 (月)

昭和の旅行私史(1)遠足はどこへ行ったか覚えてますか

豊島園がディズニーランドだった?あの頃

ここ10年ほどの海外旅行の記録を作っていたら、小学校時代からの遠足ってどこへ行ってたっけ、と思い始め、その遠足を含めて、国内旅行の記憶をたどってみることにした。日記は、小学校では、夏休みや冬休みの宿題で書くものだとしか思っていなかったし、社会人になってからの手帳は捨ててはいないが、探すのも難儀だ。第一、空白も多い。遠足や旅行の記録で、手っ取り早いのは、アルバムである。昭和20年代の小学校での遠足は、その日の、たった一枚残されている集合写真が頼りである。写真に日付や場所が入るのはずっと後のことだし、家族アルバムの黒い台紙に鉛筆で自分のメモや父母の手になる日付・撮影場所が残っていればありがたいというものだ。残念ながら、年月日が明確な写真の方が少なかった。前後の脈絡から表のようになった。東京の城北地区からの小学校の遠足は、定番ともいえる、低学年の豊島園、村山貯水池、大宮公園、長瀞、稲毛への潮干狩り、高学年の高尾山、鎌倉や箱根の修学旅行ということになる。商家だった我が家では、休業日もない、家族旅行など望むべくもない暮らしだった。それ以外だと、夏休みに母に連れられて実家のある千葉県の佐原行き、佐原の親戚が上京すると、兄や母が連れってくれる豊島園のプールやボート、ウォーターシュート(1927開業~1968年停止)が楽しみでもあった。豊島園は、現代のディズニーランドというところだろうか。明治生まれの父は、戦前の浅草六区や花やしきの賑わいを忘れがたかったようだ。自慢ではないが、私は千葉県民ながら浦安のディズニーランドに行ったことがないし、行くつもりもない。

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我が家のカメラの歴史もわかる

中学や高校になると集合写真ばかりでなく先生や友人が撮ったスナップが多くなる。卒業アルバム用に写真撮影担当の添乗員が随いてくるようなこともなかった。現在の修学旅行では、ケータイやデジカメ持参可なのだろうか。戦前、我が家には写真機はなかったらしい。我が家の写真機1号はマミヤ16の小型である。調べてみると、発売が1949年というから、発売後間もなく購入したのではないか。2台目の二眼のリコー・フレックスで撮り初めは1957年8月31日とあり、いとこや叔母が訪ねてきて、夜間の撮影に成功したというスナップもある。この時代の焼き付けはどれも皆小さく、名刺ほどの大きさと5センチほどの正方形の焼き付けが多い。リコーの二眼シリーズの1号は1950年9月発売といい、7300円で、かなり大衆的な価格で人気を呼んだという。我が家で購入したのはかなり時間が経っていることになる。カメラが結構重いのとシャッターを切るときのバシャという音の感覚が懐かしい。

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アルバムの変遷、黒から白へ、そして

中学校になると、私は、家族とは独立した、自分だけのアルバムを持つようになって、いろいろな旅行資料、学校から配布された日程表をはじめ、パンフレットや入場券などを張り付けるようになったので、かなり正確な日付や行程がわかるようになった。同世代の人と比べるとどうなのだろう。中学校・高校は、地元の公立ではなく、文京区の大学付属だったから、当時としては、結構、校外学習や夏の学校などが充実していたような気がしているのだが。この頃から、アルバムの台紙が、黒のボール紙からクリーム色に変わっている。表紙は相変わらず厚いもモコモコしたものである。1960年代後半には、一人旅などが多くなると、写真の枚数増え、厚い表紙が煩わしくなり、スクラップブックのやや上質なものに替えた。写真は4角の三角コーナーで留め、資料は袋を張り付けそこに入れるようにした。それが、1970年代半ばになると、ノリのついた白い台紙をフィルムで覆う方式のアルバムになり、紙類なら何でも気軽に挟めるし、レイアウトも自在になった。台紙の枚数も加減できたので、「編集」もラクになったが、つい重くなるのがやはり難点だった。だから、今では、5冊箱入りで、1冊にハガキ(大)が1頁3ポケット合計48枚が収まり、巻末に大きなポケットが2頁付き、若干のメモ欄もあるホルダーを使うことが多い。数年前までは焼き増しをするとサービスしてくれた、1頁4ポケット、10枚で40枚収納のホルダーも小回りが利いて重宝したが、今は80円で購入しなければならない。それでも整理しきれない、写真があちこちの封筒から出てくる昨今でもある。デジカメを使うようになってからは、パソコンやCDに落としてから必要なものだけを焼き付けるようにしているが、それでもアルバムは増えてゆく。

小・中・高時代は遠足と修学旅行がすべてだった

私の場合、「旅行記録1」の一覧表を見ると、小学校から高校時代まで(1946年から1958年)の「旅行」といえば、遠足(校外学習)と修学旅行がすべてだったといえる。中学1年の夏の箱根行きの一泊が学校生活初めての宿泊だった。小学校では、運動会と学芸会、春秋の遠足が大きなイベントであり、楽しみでもあった。少しわき道にそれるが、早朝、映画館に出かける映画教室というのもあった。「稲の一生」「石の花」「空気の無くなる日」などかろうじて思い出せるのだが、「鐘の鳴る丘」や「鞍馬天狗」は家族と見に行ったのだろうか。高校では、池袋の映画館前に集合して、鑑賞した「エデンの東」が印象に残っていし、「哀愁」を校内で鑑賞したこともある。遠足の集合写真はあるが、運動会・学芸会の写真もない。他に、卒業記念の集合写真が一枚ある程度だ。6年担任のO先生は、私たちが初めて送り出す卒業生ということで、あたらしいカメラで撮ってくださったものが数枚残されている。その時のクラスといえば、写真に映っているだけでも男子31人、女子26人の総勢57人の大所帯だったのだ。数年前、先生は、この写真のネガが出てきたので、焼き付けてみたと、人数分の写真を持参されたのには驚いた。白黒ながら、50数年前のものとは思えず、男子だけの集合写真はこの時初めて目にしたのだった。この10年ほどは、担任のO先生の絵画の個展に合わせてよくクラス会が開かれ、いつも15・6人は集まる。地元池袋の変貌ぶりはもちろんだが、弟の赤ちゃんを背負って登校していたY君はどうしているだろうか・・・、今日は銀座のママさんはいらしてないけれど・・・、あの怖かった音楽の先生は校長先生で退職されたけれど先ごろ亡くなられた・・・などと話題は尽きない。この一覧を見て、心残りは小学校2年次の遠足写真がなく、どこへ行ったか分からないことであった。低学年での2年半の在校なので尋ねてみる友人もいない。

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旅行記録1(19401953年)

 

1940

 

昭和15

 
 

3月東京都豊島区池袋に生まれる

 
 

1944年  

 
 

千葉県佐原に母と疎開

 
 

1945

 

昭和20

 
 

413日の空襲で池袋の生家が焼出

 
 

1946年  

 
 

4月佐原小学校に入学。7月池袋の焼跡にバラックを建て一家が転居。池袋第2小学校に転校、当初重林寺の仮校舎

 
 

2から遠足豊島園(小1

 
 

1947

 
 

1時期2部授業で仮校舎要町小学校に通う

 
 

(小2

 
 

1948

 
 

春:村山貯水池(3)

 

秋:大宮公園

 
 

1949

 
 

4月、直近の池袋第5小学校に転校

 
 

5から春:大宮公園          (小4) 

11月長瀞

 
 

1950

 

昭和25

 
 

春:稲毛海岸(5)

 

秋:高尾山

 
 

1951

 
 

5月鎌倉(6)

 

11月昇仙峡

 
 

1952

 
 

4月中学校入学

 
 

3月修学旅行箱根・十国峠(6) 

4月中学校歓迎遠足向ヶ丘遊園(1) 

5月長瀞 

7月箱根(芦ノ湖・乙女峠) 

秋:韮山反射炉 

 

1953

 
 

4月歓迎遠足豊島園(中2) 

6月軽井沢 

7月正丸峠・伊豆ヶ岳登頂 

 

1954

 
 

5月修学旅行京都・奈良(3) 

7月山中湖・富士山登頂

 

1955

 

昭和30

 
 

3月中学校卒業、4月高校入学

 
 

7月夏の生活・蓼科高原・立科山登頂(高1

 

1956

 
 

7月夏の生活・富浦海岸(高2) 

10月修学旅行東北(松島・平泉・十和田湖・秋田) 

 

1957

 
 

4月修学旅行(京都・奈良・吉野・大阪)(高3) 

 

1958

 
 

3月高校卒業、4月より予備校に通う 

                                                                                             

 

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コメント

池二出身の内野さま、同窓のよしみで書き込みました。私は1955年卒ですが、姉は貴女と同級です。今日仕事の資料捜してましたら、卒業アルバムが出てきたのです。そういえば一度も同級会もないし、みんな子の歳になって、ウエブ上で活躍している人がいるのだろうかと検索しました。
同級では見当たらず、このページです。最終は池五のご卒業なんですね。
僕も重林寺に書道を習いにいってました。みんな貧しく、たくましい、当時の事がやたらとなつかしいです。千葉市在住

投稿: 笠谷眞人 | 2015年9月 4日 (金) 15時41分

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