「はえのいない町」(小学校社会科教材映画)を観た覚えはありますか~昭和20年代の社会科
シンポジウム
「『占領期・ポスト占領期の視覚メディアと受容』―民主化・冷戦・モダニティ」
第2部「社会科映画と日本の民主化―発見された常総市コレクション」
(2011年3月6日、東京大学院情報学環福武ラーニングシアター)
“ながーい”タイトルのシンポジウム
この長いタイトルのシンポジウム、第1部は「浸透するアメリカ・変容するアジア―CIE/USIS映画とラジオ放送」と題されて、前日3月5日に終了している。私には、ともにアメリカ占領期の日本がテーマになっているので、興味深いものがあったが、第2部で昭和20年代の社会科教材映画が4本ほど上映されるというので、こちらを選んだ。2日続けて東京に出るのはシンドイ?こともあったからである。また、この第2部は、記録映画アーカイブ・プロジェクト(記録映画保存センター 2009年1月発足)の第5回ワークショップも兼ねていた。
主催は、会場にもなっている情報学環と日本学術振興会の科研費補助金を受けている三つの研究クループであり、会場はベネッセの冠が付く福武ホールだったが、私は初めて入った。地下のラーニングシアターもやや横幅の広い階段になった小ホールで、まだ新しい。
「常総市コレクション」というのが私にはやや唐突であったが、司会者(丹羽美之情報学環准教授)によれば、昨2010年、常総市水海道小学校、旧石下町教育委員会のフィルムライブラリーからあわせて1000本近い視聴覚教材映画がみつかり、そのフィルムのコレクションを指す。39本製作されたという「社会科教材映画大系」も32本が保管されていて、この日は、その中の3本が上映されたのだ。それに先立つ、1本目は、GHQ占領軍の民間情報教育局CIEが日本全国で展開した、生活改善、意識改革を進めた400本を超える短編映画の一つであった。
観た記憶にはないが、“なつかしい”映画
今回上映された4本について、占領期に小学校時代を過ごした私の記憶にはいずれもない。とくにCIE映画は農村部を中心に「ナトコ映写機」によって各地で上映され、観客動員数・感想などの報告を義務付けられ、ノルマもあったという。また、その報告によれば、延べ観客数は12億にも上ったというから(身崎とめこ「米国教育映画に見る家族と衛生―CIE映画とその時代」前日のシンポジウム資料)。いくらサバを読んでも、当時の日本の人口6000万と比べると、その普及ぶりには目を見張るものがあったのではないか。
今回の上映は次の4本だった。上映後の中村秀之立教大学教授の報告や他の資料を参照の上、私のメモから感想を記録にとどめておきたい。
①『わが街の出来事』(CIE映画、1950年、14分)
シュウタグチ・プロダクション、監督:岩下正美、撮影:岡崎宏三
②『はえのいない町』(社会科教材映画大系、1950年、12分)
企画:日本学校映画教育連盟、岩波映画製作所、脚本:羽仁進、監督:村治夫、
撮影:吉野馨治、撮影助手:藤瀬季彦
③『町と下水』(社会科教材映画大系、1953年、21分)
企画:日本学校映画教育連盟、岩波映画製作所、脚本・演出:羽仁進、
撮影:藤瀬季彦
④『伝染病とのたたかい』(社会科教材映画大系、1950年、12分)
企画:日本学校映画教育連盟、都映画社、監督:松岡佑、撮影:広川朝次郎
『ある町の出来事』~CIE映画って
①は、上記に述べたCIE映画で、「この町の出来事は、日本中どこの町でも起こることだ」という主旨のナレーションで始まる。「ゴミ捨てるべからず」の立札のある川の橋のたもとに何の抵抗もなく、次から次へと自分の家のごみを捨てに来る。そこへ、近くの主婦が出てきて、ここには捨てないで、女同士のけんかになる。そこへ、教員でもある近所の男性が出てきて、ここで自分勝手を言いあっても仕方ないからと、数人で市役所衛生課に掛け合いにゆき、予算が少ないといわれる。そこで、ご近所同士の話し合いからその輪を地域に広げ、話し合い・調査・協力をして進めた予算増強運動が市長・市議会を動かし、ごみ箱・回収車・焼却場の改善がなされ、街はきれいになったという筋書きだ。市民の結束・調査・協力によって行政を動かした、民主的な地方自治の在り方を啓蒙しようとするものだろう。話がうまくできすぎている。私などは、その中身よりも、登場人物たちのファッション、街の電信柱の広告や店の看板、街を走るリヤカー、木の床や重いドアの役場、議席の前には三角の名札を立てた狭苦しい市議会の議場などの風景が登場し、懐かしさの方が先に立つ。しかし、60年たっても、公徳心のない市民が減ったとも思われないし、街や役所の建物は整ったが、犬の糞から始まり、公害や産廃放棄は後を絶たない現代にあっても、通用しそうだ。というより、当時としても「建前」は「建前」で、現実としては、黒沢明監督「生きる」(1952年)の厳然とした「お役所仕事」の世界の方が市民は身につまされたのではないか。そんなことを考えながら、見終わったのだった。
『はえのいない町』~岩波映画の変遷を知る
②の「はえのいない町」は、コレクションがみつかった常総市の水海道小学校の協力で撮影され、「社会科教材映画大系」の初期の作品で、評判もよく、各地の小学校で上映されたらしい。この映画のあらすじは、小学校の保健部の児童が学校のはえの多さに、ハエ退治に乗り出し、ハエ叩き、ハエとり機、ハエとりリボンなど総動員し、ハエとり競争までして根絶するのだが、数日で、またハエが教室を飛び回ることになる。その発生源のゴミ捨て場では、ハエの繁殖・成長を目の当たりにして、卵のうちに絶やさねばと、児童たちは先生、保健所、町の人々総出で、ゴミ捨て場・便所・牧場などの掃除・整備、周辺への薬剤散布などを繰り返し、町からすっかりハエがいなくなるまでこぎつける。しかし、児童たちは、すぐに、自分たちの町に出入りする馬車、馬糞、魚などについてくるハエに気づくのだった。「みなさんの町ではどうやってハエを退治しますか、みんなで考えましょう」のナレーションで、この映画は終わる。さまざまな実践を通じて生活環境の改善を進めることの重要性を児童にも大人たちにも気づかせる作品になっていたと思う。
この作品は、岩波映画製作所で制作されたもので、脚本は羽仁進ということで、なつかしい名前に出遭うことになる。1950年5月に発足した岩波映画製作所の第1作という。当時のスタッフは、中谷(宇吉郎)研究室プロダクション関係者で岩波書店と深いつながりがあったが、その後は、岩波書店とは独立している。時代は下り、1998年には倒産し、それまでの膨大な作品群は日立製作所に引き継がれていることも、今回知った。この「岩波映画」からは、後の映画・演劇・写真などメディアで活躍する人たちを輩出していて、羽仁進はじめ黒木和雄、東陽一、土本典昭、田原総一郎らがいる。会場では、そのお一人、羽田澄子さんの姿をお見かけした。
また、この日は、「はえのいない町」「町と下水」の撮影を担当された藤瀬季彦氏の話もあった。1949年に中谷研究室プロダクションに入社、その年の秋から「はえのいない町」は実質的にスタートしていたそうだ。当時、短編1本で70万円ほどの製作費がかかったが、そのうちの20%はフィルム代だったそうだし、当時のスタッフや撮影秘話など興味深いものがあった。
「はえのいない町」より
『町と下水』『伝染病とのたたかい』
③の「町と下水」は、家庭の汚水や工場排水が地面や川に垂れ流しになって、市民の日常生活が大きく脅かされる実態を、根本的にどうしたら変えることができるかを多角的にわかりやすく説明する。また、かなり体系だって、都市計画・工学的に解説する場面もあり、京都市や岐阜市などの例が実写で紹介されていた。
④の「伝染病とのたたかい」は、発疹チフスを例に、その感染ルートを探りながら、その過程での防疫活動を丹念に紹介し、そこでぶつかる問題点も示唆する。シラミ退治、消毒のため、学校や家、屋内外に容赦なくDDTを散布、噴霧していく様子、いやがる児童の頭髪への散布、保健所の係員に罵声を浴びせ、バケツのDDTをぶちまける市民の非協力なども映し出されていた。結局、感染源は、町のある家に訪ねてきた浮浪者であったことが明かされ、2か月ほどで、ひとまず発疹チフスも終息し、学校では児童たちが輪になってフォークダンスに興じる場面で終る。
私には、登場人物の身に着けているファッションはじめ、下水工事現場、DDT散布、バラック家屋、フォークダンスなどの場面も臨場感があってなつかしかった。
「伝染病とのたたかい」より
あの頃の社会科~大人たちの努力は
中村教授の報告によれば、②③④をふくむ「大系」の企画は「日本映画教育協会」のもと教材使用者の教師が中心の「日本学校映画教育連盟」が担当、製作は教材映画製作協同組合、岩波・都映画と三木映画、理研映画など計11社であった。監修は、写真でも見られるように、海後宗臣、梅根悟、長坂端午、阪本越郎ら10人の審議会委員が担当していた。
各映画には教師用の指導書があって、採録シナリオもついているとのことだった。1947年文部省から「試案」として示された学習指導要領や中央教育研究所と校長をしていた梅根悟を中心とする川口市社会科委員会による「川口プラン」(1947年12月)と呼ばれる地域教育計画などが論議されているさなか、「大系」の構想では、地域活動の7つの機能に大別(生産・消費・交通通信・健康・保全・政治・娯楽教養)し、それぞれの問題解決に寄与したいということで137本製作の予定だったが、結果的39本にとどまったという。また、教育界では、研究者や現場の教師による単元学習、視聴覚教育論議は盛んで、活気に満ちていたようだ。「学習指導要領」が文部省の「告示」として出る前の時代であった。
さらに、報告では、たとえば「はえのいない町」について、子どもの視線による「つなぎ」の重要性、また、その発想には、名取洋之助の組み写真「蠅捕デー七月廿日」(ドイツのグラフ誌、1933年10月15日)や岩波写真文庫「昆虫」(吉野馨治)などが影響していたのではないかなどの指摘にも、着目させられた。
また、日本では1946年3月に公開されたCIE映画「飛来する疫病」のほんの一部が紹介されたが、1943年ディズニー製作のマラリア退治を啓蒙するアニメだったのにも驚いたのだった。
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コメント
「はえのいない町」に”ご出演”でしたら、ほんとうに懐かしいでしょうね。池袋の小学校に通っていた私でも、そうでしたから。貸出用のフィルムも「記録映画保存センター」にあるのではないでしょうか。学校行事や同窓会だったら可能かもしれませんね。。
投稿: 内野 | 2012年5月26日 (土) 09時22分
昔なつかしい題名が出てきたので、びつくりです
「はえのいない町」の撮影のときエキストラとして
矢口金物店の寄贈で出来た小学校のバックネットによじ登り撮影に参加したのが昨日のように思い出されます
昭和22年入学です
投稿: | 2012年5月25日 (金) 20時25分