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2011年3月26日 (土)

肝心なときに、使えなかった防災井戸

私の住まいは、佐倉市のユーカリが丘地区の大部分を校区とする中学校が近い。防災訓練の時は防災井戸の確認は行うが、そういえばその水を飲んだことはなかった。数年前、自治会役員だったとき、市役所がプールの水を浄化する実験に立ち会ったことがある。飲めるからと言われても、濁ったプールを前にゴクリとはいかなかったこともあった。

323日東京の水道水が放射性物質の数値が乳児向けの指標値を超え、乳児の摂取制限が報じられたのを受けて、佐倉市は324日「福島原発被災に伴う水道水中の放射性物質について」がホームページや防災放送で流れたのは2416時以降だった。その内容は、323日の検査結果では指標値以下であるが、念のため乳児の飲用は控えるようにというもので、市内の防災井戸設置の小学校・中学校名10校と市役所水道部前の給水車が示されていた。近くの中学校の名前がないのに気付いた友人は、市役所に問い合わせたという。件の防災井戸は、壊れていて使用できない、修理を頼んでいるが、いつになるかわからないということだった。なんということだろう、昨年12月の点検では作動したということだった。近辺の乳児のいる家庭では、すでにほとんどの店先から水のペットボトルが消えていたのだから、随分と焦ったことだろう。

25日の朝、千葉県内の近辺の市でも、水道水の乳児飲用控えが報じられ、不安が募る中、近くの中学校の防災井戸が使えないとあっては、不便する人も多いに違いない。市役所の交通防災課に電話して、中学校の井戸の修理ができないならば、井戸水の給水車をただちに配置すべきではないか。マンションも戸建ても多いユーカリが丘、人口の多いエリアが給水の空白になっているのだから、対策を講じるよう迫れば、市役所は給水車を2台しか持っていないから・・・、さらに、もう数値は下がっていますから・・・とも職員はいう。控えるようにと広報しながら、それはないだろうと思うのだが、人口17万人で2台?、全域断水になったらどうなるのか、こんな程度の危機管理だったのある。隣町から借りるなり、一台を2か所でシェアするなり、早く空白を埋めて下さいと依頼した。それも交通防災課、水道部と電話を回され、回された先では、それは交通防災課に聞いてくれとまた電話を戻そうとされた時には怒った。千葉県内で旭、香取、浦安についで4番めに大きい被災市だというのだから、災害対策本部などを作って、情報の一元化、対策の統括を図るべきだろう。防災井戸は交通防災課、給水車は水道部という縦割りを、この災害時に“守り切る”役所仕事に腹立つのだった。

翌朝、友人から、防災緊急メールで中学校の防災井戸が開いたよとの転送メール、市役所のホームページをみれば、今朝の8時から中学校の井戸の給水が可能になった。いつなおるか分からないと言っていただけに、ともかくほっとした。街の店にはすでに水のペットボトルも並んでいたし、スタンドに並ぶ車も見かけなくなった。 中学校の井戸を覗きに行くと、蛇口が二つ、職員はおらず、張り紙が一枚、8時から夕方の5時までということだ。若いお母さんが一人とお年寄り夫婦が並んでいた。私も、仕舞い込んでいた防災グッズの蛇口のついたバケツ持参で、一杯いただいて帰ったのだった。

しかし、依然として水への不安は続き、広がっている。当地の水道水も日替わりで数値は変わっている。情報のタイムラグもある。乳児のいる家庭を優先的に近場での防災井戸水を活用されたらいかがだろう。佐倉市水道部の話では、消毒の塩素の効果は常温で3日間ほどあるそうだ。

(追補)

その後の佐倉市の災害情報によれば、防災井戸は、修理等が完了して、現在14か所稼働していることが分かった。しかし、2010年現在、災害対策の一環として、18か所の防災井戸が設置されているので、依然として4か所が利用できていないことも分かった。(2011年4月14日記)

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2011年3月20日 (日)

おかしいぞ、山万!~企業城下町で市民の自立が問われている

開発業者が全戸にお米1.5キロを配布~被災者支援の在り方

 自治会の班長さんを通じて、1.5キロのお米が全戸に配られるという。今回の大震災被害の見舞い?として、この町の開発業者がユーカリが丘地区26自治会の各戸に、自治会を通じて配るというのだ。地震直後、山万社員が拙宅にも「お宅に被害はありませんでしたか」とまわってきた。これも開発業者の仕事と言えるかも知れない。ご苦労さんと声をかけた。 だが、震災1週間後、自治会を通じての、このお米配布の1件には、いささか驚くとともに、山万の要請を受け入れた自治会にも納得がいかないでいる。千葉県内の旭の津波被害、ようやく鎮火したというコスモ石油の火災、あまり報じられていないが各地での液状化被害、佐倉市でも倒壊や断水があった。ユーカリが丘地域では、ともかく広域の被害はなかったようだ。そんな中でのお米配りである。

 このブログの記事でも何回か触れているが、私たちの町の開発は、「山万」という開発業者がほぼ一手に引き受けてきた。我が家が転居してきて22年になるのだから、開発はさらに10年ほどさかのぼるだろう。当初は1社の開発に拠ったが、この10年は、二つの土地区画整理組合を立ち上げ、開発を進めている。組合方式をとった区域の3分の2以上はすでに山万が所有していたので、当然のように2組合の業務代行となった。組合方式のメリットたる「公的支援」などを何度か受けている実態、その開発手法の強引さ、行政の放任ぶりを指摘してきた。

「余計なお世話」と片付けられるか

私の住む佐倉市ユーカリが丘地区の全世帯に配られるお米の正体はなんなのだろう。被災地以外でも食料品や生活用品が品薄となり、政府が買い占めを戒めているこの時期に1万キロにもなるお米をどこから調達したのだろう。もし、備蓄していたのなら、ほんとうに一合のお米、一個のおにぎりにも困っている被災地、避難所の被害者に届けられなかったのだろうか。私たちの町でも、現に、山万の子会社のいくつかが地震の被害を受けた家々の修理に追われている状況なのだから、それらの世帯で、お米に困っている人がいるのだったら、山万の社員が配布するのもよいだろう。しかし、自治会を通じて一律に1.5キロのお米配りって、なんなのだろう。一私企業が、自治会の班長を手足のごとく使ってのことである。少し前の内閣の交付金や現内閣の子ども手当が「ばらまき」「選挙目当て」と悪評高かったことを思い起こしてほしい。「ただほど高いものはない」の言いもある。

 隣接で進行中の井野東土地区画整理組合工区内の新しい14階建てのマンションに住む友人は、最上階ではなかったものの、外出先から帰ったら棚やテレビが倒れ、飼い犬が家具の隙間に閉じ込められていたそうだ。また、私の住まいと同じ町内でログハウス風の家が立ち並ぶしゃれた戸建ての一帯でも、下水管が壊れて、トイレに汚物が溢れたお宅があったそうだ。そのあたりは、私たちが転居してきた頃にはすでに造成されていたはずだし、この2~3年に建造された建売住宅である。地元の農家の方の話では、かなりの埋め立てをしたところだとのことだった。確かに屋根瓦が落ちたり、ビルの外壁がはがれたりしているのは、私も目撃している。こうした被害の実態も、行政や自治会の集約がないまま、開発業者の聞き取りが先行しているようなのだ。ということは、被害状況の情報が、業者によって管理されていることを意味しないか。少し恐ろしい気がした。そして、お米無料配布の1件である。これが「カンブリア宮殿」で絶賛された開発業者のすることであった。いま、地元の開発業者として何をなすべきかの空気が読めず、逆に品不足の風評を高め、自治会に余分な仕事を強いたのではなかったか。

あてにならない行政・自治会

 全国の自治体で盛んに進められている「まちづくり協議会」、このユーカリが丘地域でも、準備会の時期を経て、この3月27日に設立総会が開かれるそうだ。佐倉市の「市民協働の推進に関する条例」(2007年1月1日施行)に基づく「地域まちづくり協議会」の発想自体に、私はかなりの疑問を持っている。これまで私もかかわったことのある自治会協議会の例でいえば、こうした協議会という組織が、ともすれば市民の声をつなぎ、行政にその声を届けるときのバリアにさえなってしまうのだ。市民の声を束ねるはずが、行政のたんなる情報伝達機関になったり、開発業者の営業宣伝の受け皿になったりしていたことはゆがめなかった。

 「ユーカリが丘地域まちづくり協議会」の準備会資料によれば、市民自治の本来の在り方を目指して、地域の連帯意識やご近所の助け合いが薄れているなか「防犯・防災・教育・環境・福祉などの課題解決のために家庭・自治会・社協・民生児童委員・学校・商店会・NPO・ボランテイア団体・企業・事業者・行政らが、それぞれの目的を尊重し合い、ともに穏やかに連帯・協力」するのが目的だという。組織概念図によれば、「自治会協議会・地区社協・商店会・防犯防災団体・民生児童委員・事業者企業・学校PTAが各団体の長が意見集約を図る」ことになっている。さらに、「協議会の基本的な考え方について」の7項目目に「ユーカリが丘を造成した山万(株)の開発理念と住民の期待との整合性を図り、協調したまちづくりを行う」とある。そして、案の定、今回のこの地域の災害対策本部は「山万」社屋に置かれ、事務局機能を担うことになったという。さらに言えば、予定されている市議会選挙において、この企業が全面的にバックアップしている候補者がいるのは、公然の事実だ。この候補者の選挙事務所開きでは、候補者の「山万」絶賛の声が聞かれた、とのことだ。

 ユーカリが丘地区を走り、直近の私鉄駅への足である「新交通システム・ユーカリが丘線」(モノレール)が、11日の地震以降不通となってしまった。“環境にやさしい”山万自慢のモノレールが止まってしまって、その後の情報が全くない。本数が少ない代替バスが走り出したものの、ガソリン不足で、各戸の車が十分に利用できない中で、このインフラの復旧の見込みがない方が住民にとってはよほど深刻であろう。1.5キロのお米よりもこちらが先と思うのだが。

 さらに残念ながら、ふだん防災訓練に熱心な自治会内の「自主防災会」の声がとどいてこない。地震後、余震が恐ろしく、指定避難場所の中学校に駆け付けた友人によれば、防災委員の一人も待機していなかったそうだ。

 お米1.5キロと侮ってはいけない。企業城下町で、市民の自立が問われている。

*ちなみに、先ほど配布された自治会資料によると、670戸分計1000キロ余のお米が自治会館に届けられ、いま、小分けにして配布中である。そして、山万社長から自治会会長あての文書には「弊社といたしましては、平素よりユーカリが丘の街づくりにご理解とご支援を頂戴してまいりました皆様とこの困難を乗り越え、さらにより良い街づくりを進めさせて戴く決意を新たにしているところであります」とあり、配ったお米は、山形の生産者の某氏から分けてもらった「庄内産はえぬき」とのことで、「些少ではありますが、アクアユーカリ特別招待券(2枚)とともにお使いいただきたくご案内申し上げます」とあった。当自治会の班長会議では多数決で配布が決まり、不要の世帯は返してもいいということになったそうだ。

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2011年3月18日 (金)

NHKスぺシャル「日本人はなぜ戦争へと向かったのか4―開戦・リーダーたちの迷走」(3月6日)を見たのだが・・・みんなで責任とらねば、怖くない?

 

資料への向かい合い方

前週に続く、シリーズ第4回になる。今回も、番組の核になっている、あらたに発掘された「証言テープ」の説明がまったくなかった。明快とは言えないながら、前回は若干の説明があったのだが、メディアとしてはフェアとはいえないのではないか。取材源の秘匿とは違うだろう。

 番組構成としては、開戦への経過を時系列でたどりながら、随所に、軍人・政府の要人の各様の証言が断片的に流され、解説や、コメントが入る。同一人物の証言が何度も、当時の肩書付きで登場する。そして彼らの誰もがその国力の差を知っていて、日米開戦に向かうべきでないと考えていたにもかかわらず、開戦に至ったのはなぜか、という問題設定である。陸・海軍の思惑の違い・駆け引き、日本の中国からの無条件撤退を条件とするアメリカとの外交上の駆け引きのあまり、誰もが決断の勇気を持たないまま開戦に至ったという流れであった。証言自体の信憑性は、証言の時期や環境によって大きく左右され、多くは自分に不利な証言を避ける恣意が働くのは当然のことだろう。それをさらにメディアの都合できざみ、つなぎ合わせて、出て来るものには限界がある。 それよりも、“見つかった”証言テープのこれという人物の、特定の人物の証言をフルにナマで流した方が、その信憑性を含めて、資料としての評価ができるのではないかと思う。

 開戦までの日米交渉のあらましは、国立公文書館「アジア歴史資料センター」作成の「インターネット特別展 公文書に見る日米交渉」や公刊されている「杉山メモ」などでも見られるのだが、少なくとも今回の証言と上記の記録や基本的な研究との照合、精査の結果をきちんと踏まえれば、「迷走」という表現はとりえなかったのではないか。

問題設定の仕方

 ここでは詳しく述べないが、「リーダーの誰もが開戦には消極的だったのに、なぜ開戦に至ったのか」という、局所的で一面的な捉え方、そして、陸・海軍同士の抗争やこの時期に限っての外交の拙劣さや決断の無さが強調されるけれども、果たしてそうだったのだろうか。これには、明治以来の日本の植民地政策や天皇制が深くかかわっているのにもかかわらず、番組では触れることがなかった。とくに「大本営政府連絡会議」と御前会議、天皇との関係が無責任な決断の一つのカギであったはずだ。研究者の断片的なコメント、素人でもできそうな発言を取り入れるのではなく、日本の近現代史研究の成果を踏まえて、論議の分かれるところは両論併記の形で進めてくれた方が、問題点、論点が明確になるのではないかと思う。それがメディアの働きというものだろう。研究者、専門家のコメントは番組のアクセサリーでも、権威づけでもないはずだ。視聴者を侮ってはいけない。

お笑い芸人たちをやたらと報道・教養番組に起用し、シナリオ通りの発言をさせることが親しみやすい「みなさまのNHK」だと勘違いしたりしているのと根っこは共通のような気がする。

今回の東北関東大震災報道における救助・避難対策、原発事故対応などについても、メディアの任務は大きいはずである。政府や企業とともに一方向に向かうのではなく、被災者や国民の安全確保をめざし、国際的視野での報道を望みたい。

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「NHKニュース7」調査~東北関東大地震で何が変わったか

 地域の9条の会(さくら・志津憲法9条をまもりたい会)の先月の世話人会で、報道のウオッチをしようということになった。とりあえず、NHKの「ニュース7」を手分けして記録することになった。私はすでに、11回ほどの記録シートがたまったが、大震災後、13日・15日の2回の記録をとってみた。時間延長の拡大版なので、メモに精粗があってやや不明なところもあったが、一覧にしてみた。合わせて若干の感想も述べてみたい。

11日の地震を受けて、『ニュース7』は一変した。NHKの総合は、すべてが地震関連となり、民放からは、コマーシャルが消えた。担当の11()は、帰宅困難となった私は新宿から池袋に向かって明治通りを歩行中だった。13日、15日の『ニュース7』は上記のとおり、拡大版となった。12日からは、ほぼ毎日見ているので、他の曜日の『ニュース7』をふくめての感想になるかもしれない。

 

⇒(続きは、次のpdfでご覧ください)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/NHKnews7dokawattaka3gatu13-15.pdf

 

<感想>

①ライフラインの復旧、救助・救援物資の搬送がなぜできないのか、を冷静に取材し、報道する必要がある。

②救助された人、再会を喜ぶ人など明るいトピックスはさておき、被災地市町村の首長の悲痛な声、被災者・避難者の物不足の声に応えるべき政府の実施状況や何がネックになっているかなどを取材する視点が欲しい。閣僚の暢気な無内容なコメントなどは不要で、いらだたしくもなる。

③民放も含め、競うようにヘリを飛ばし、レポーターが被災地・避難所に入り、ぶしつけなワンパターンの質問を繰り返すより、その分、救援のエネルギーに差し向けてほしい。共同取材や輪番放送で節電、節ガソリンなど省エネができるのではないか。

17日の『ニュース7』でも、枝野会見で、対策本部の人事強化をながながコメントしているのを流していた(約7分)が、中身は数十秒で事足りる内容で、速報性もないから中継の必要もなく、済んだ後で簡略に報じればよい内容だった。人事や組織・会議を「整備」するよりも、先にやるべきことがあるはずで、現在の組織でも十分対応できることのではないか。

⑤政府会見、東電会見、保安院会見など、速報性・同時性が問われ、中継することが大事な場合もあるが、だらだら流すだけでなく、一方で、きちんとまとめて、問題点を整理して伝えることもメデイアの重要な任務ではないかと思う。

⑥また、福島原発のつぎつぎ発生する事故について、専門家と解説委員にアナウンサーが質問するかたちで進められる方式が多いが、かえってわかりづらくなることもある。その点、17日『報道ステーション』での福島原発できょう何がなされたのかをテロップなどでまとめた形で報道したのは分かりやすかった。ただ、一方、古館アナの「被災地で苦労されている人たちが大勢いる中で、私たち国民が心を一つにしてこの難局を乗り切りましょう」みたいなことを毎夜繰り返すのには閉口している。

⑦NHK『ニュース7』拡大版では、必ず明るい話題として、救助された人、家族に巡り合えた人などに焦点をあてたり、避難所やご近所での助け合いやボランテイアの人々が「美談」のように報じられたりする。しかし、今回の大災害における対策は、そうした奇跡的な出来事や個人的な努力や協力では解決しがたい、政府や自治体、企業が基本的に主体的に取り組むべき難事業のはずである。そうした心温まる出来事がいつか伝わり、癒されることも大切だが、かたや現に、遺体がなかなか収容できない現実、避難の途上であるいは避難先で亡くなられる人々がいて、飢えと寒さで震えている人々がいる中で、ことさら明るいトピックスを取り上げることがメディアの仕事なのだろうか、と考えさせられるのだ。

番組内容一覧表については以下のpdfの方が見やすいかもしれません 。   
http://dmituko.cocolog-nifty.com/nhknyu-su73.%201315.pdf 

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2011年3月15日 (火)

東北関東大震災、その時私たちは

閉じ込められた車内で

3月11日の午後、浅草公会堂での東京大空襲展を見た後、地下鉄銀座線で渋谷へ出て、山手線で新宿に向かっている車内のことだった。下から突き上げる衝撃の後、数分間、縦に横に車両ごと大きく揺れ、なにが起きたのか、一瞬わからなかった。窓の外では何本もの架線が波打って上下に揺れているのがわかる。「地震、地震だ」の声に、ようやく我に返る。「ただ今、三陸沖に地震が発生しましたので、停車しています」という車内放送が繰り返される。何度かの余震にも見舞われているうちに、周辺の若い人たちは、ケータイで入手した、地震情報を語り出す。私の隣席の人も、ケータイ画面を見せてくれた。夫も懸命の検索で、ようやく様子がわかってくる。夫が娘にメールをすると職場から「こちらは無事、落ち着いて行動せよ」のメールが届く。停車して30分以上たった、320分頃、車内放送で山手線全車両停車している状況で、照明や放送も中止となる旨が流れると、長期戦になるかなと少し不安になる。何となく車内の空気を察知したのか、近くの母親に連れられた男の子がぐずり始めた。「遅れちゃうよー」と泣き始めると、母親は「地震だから仕方ないのよ、先生にきちんといおうね」となだめるが、涙をぽろぽろ流し始めた。

それでも、その頃、私たちは新宿での所用をあきらめて、きょうはもう早めに家に帰ろうなどと、気楽に話していた。ところが、女子係員が来て、今から先頭車両から下車をして、代々木駅まで歩いていただくことになりましたのでしばらくお待ちください、とのこと、もうすでに4時を回っていた。何車両かを歩いて、先頭の乗降口から階段で線路に降ろされた。思いのほか結構な高さである。まさに線路の中を、列をなして歩いていくうちに、ケータイからの地震情報、被害情報を教えてくれる人もいて、だんだんと客観的な状況が見えてきた。夫のケータイの電池があまりなくなったという。着いた代々木駅は人でごった返していた。テレビの大型画面からの地震情報、駅員からの交通情報を得たものの、いっさい鉄道は動いていないらしい。まずは新宿まで歩こうか、手段がなければ、池袋の私の実家まで歩こう、歩けない距離ではないはずと、行列をして手洗いを済ませた。キヨスクで、お茶とおにぎりと思ったが、おにぎり、弁当、菓子パンの類はすでに売り切れていた。仕方なくフルーツケーキとドーナツを購入、浅草で買ったせんべいもある。ともかく新宿南口まで歩く。駅近くの生活用品の店の棚からは、食器類が割れたまま床に落ちていたり、ビルの外壁やガラス破片が舗道に落ちていて、赤いコーンが置かれていたりした。南口駅頭の人群れは尋常ではなかったが、あちこちに駅員か警官か立ってくれているのはありがたかった。ともかく明治通りを行けば池袋東口に出られるはず。尋ねてみると、やはり明治通りが一番わかりやすい、という。新宿南口530分出発である。

ひたすら明治通りを歩けば

紀伊国屋書店を向かいに見て、マルイの前あたりの公衆電話だったか、列が少し短い。ともかく家で留守番の犬の件、今晩帰宅できないかもしれないので、ご近所の知人に電話して散歩と食事をお願いした。新宿3丁目の伊勢丹の角がもう明治通りだ。左に折れて、すぐに花園神社があるが、帰宅困難者の人波をしり目に、さすがにきょうの境内はひっそりとしていた。信号待ちの時は、人群れはさらに膨らむ。池袋方面からの人の列もあり、なかなかスムーズには歩けない。そこで、渋滞で、車の列の動きが鈍いことをいいことに、時々車道に出て歩くこともあった。30分も歩いた頃、この辺で夕食をとれるうちにと、セルフサービスの「おふくろの味」風の食堂に入る。休息も兼ねて20分弱、陽はすっかり落ちたが、歩道の人並みはまた増えた感じだ。

途中、明るいロビーがある建物で、「どうぞ、どうぞ、トイレが使えます」との案内をしている人がいる。中では、丸いテーブルを囲んで休んでいる人もいる。看板を見れば日本赤十字社東京都支部とある。あらかじめ池袋の実家の義姉に電話を入れたかったので、公衆電話の有無を尋ねたが、「申し訳ありません、ありません」という。道中の公衆電話はどこも相変わらずの行列。それに、歩道でのもう一つの行列は、バス停である。ここも長蛇の列、ともかくバスは動いているらしいのだ。大久保通りを渡ると、「西早稲田駅」の灯り、こんな駅、あったけとよく見ると「副都心線」とあった。そういえば、開通は最近、まだ乗ったこともなかった。だいぶ歩いたつもりが、まだ新宿区の諏訪町の交差点、さらに、進むと左に大正製薬の看板、そこは神田川、架かる橋は高戸橋というらしい。ああ、ここが「神田川」という感慨もつかの間、高い石組の崖下は「学習院下」、都電荒川線の停留所である。ここは昨年だったか早稲田から都電に乗って通り過ぎたところだ。やがて千歳橋、間もなく雑司ケ谷に入る。池袋も近い。新宿を出て間もなく池袋まで4㎞の表示を見たから、代々木からだと6km近くは歩いただろう。池袋東口到着730分、北口へのガードをくぐれば実家へは5分。突然の訪問で申し訳ないが、私は、今晩はお世話になろうと思うのだが、夫は、ホテルがとれればと、東横インなど3軒ほど立ち寄ってみるが満室。

8時前には、実家に到着、熱いお茶をいただき、テレビの前で、ようやく落ち着いたが、その被害の大きさに改めて驚いた。娘をはじめ、何人かに電話を掛けさせてもらった。義姉は、長兄の亡くなった後、小さな店を切り盛りしている。娘たちの訪問や電話に守られながら暮らしている。あれから、この夏で6年が経つ。七回忌はどうしようね、という話になった。暑いさなかなので、きょうだいの家族だけで、簡単にしようかと思うとの義姉の提案に、私も異存はなかった。続く余震のなかではあるが、12時前には、就寝、長い一日が終わった。

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東北関東大震災に際しての自治体、自治会の対応~すぐにできること

計画停電という「無計画停電」

昨夜、千葉市内の友人からは、住宅の23軒先までの液状化被害の写真がメールで届いた。旭の津波被害、コスモ石油の火災、マリンスタジアムの液状化被害は報じられたが、余震への不安が増し、被害が身近に迫っていることを感じた。

昨日14日午後、近くのコンビニ、スーパーに出かけてみたが、欲しかった卵は売り切れていたが、牛乳はまだ残っていた。あす、生協の配達があるので、それを見極めてからとも思う。今日15日の配達では、物流の関係で、平田牧場からの肉類が欠品、野菜の一部が欠品だった。

13日夕方突如発表された、東京電力による翌14日朝からの計画停電の予定、それを菅総理が了承した、という報道には驚いた。明日の朝620分からって、グループに分けて、といったって、その時点で、東京電力ほかネット検索しても、地域割り・順番情報も皆無だった。千葉県、佐倉市にも連絡するがわからないという。東京電力の問い合わせ電話はいくらかけても通じない。神奈川県に住む娘から「いま、報道ステーションでやっているから」の電話、あわててチャンネルを変えると、第4グループに続いて第5グループの地名が流れているが、佐倉市がない。11時以降だったか、東京電力のHPで第1~第5グループの市長村名がわかるが、佐倉市はなんと第13グループに属し、私たちの丁目はどのグループなのかがわからない。朝から、冷凍庫の肉に加熱したり、豆を煮たりしたりで、年末のおせち料理を作るような具合で、少々疲れが出た私は就寝したが、夜半になって、私たちの丁目は第2グループであることが判明したとのことだ。

15日朝、太極拳の仲間の5人には、停電情報はまったく伝わっていなかったので、ともかく東電情報を伝えた。どうしてこういう時に、自治会の自主防災会は動かないのだろう。防災訓練には熱心だが、本番では音沙汰がない。夫は、昨夜から市や自治会に、早く連絡を周知するように申し入れているのだが・・・。少なくとも18日までの計画停電予定を自治会掲示板に掲示できないのだろうか。

時間が経つにつれて、11日午後246分に起きた東北関東地震とそれに伴う津波・火災の規模及び被害の状況が明らかになり、その惨状に暗澹たる思いでテレビを見ている。自然災害の恐ろしさを、そして大震災の翌日12日の午後には福島第1原発1号機の爆発以降、数々の爆発事故が続き、半径20キロ圏内の住民の避難指示、30キロ圏内は屋内退避の指示が出る重大な局面を迎え、多数の被爆者、負傷者も報道されている。被爆は明らかに人災であって、こうした原発の危険性はこれまでも指摘されてきたことだけに、やりきれない思いでもある。

収容ができないままの遺体、孤立した施設に取り残されて救助を待つ人々、避難所で食料や薬品、毛布などを待つ人々を思って、暖房を切り、数本のペットボトルの水を替え、浴槽に水を貯めている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2011年3月 9日 (水)

「はえのいない町」(小学校社会科教材映画)を観た覚えはありますか~昭和20年代の社会科

シンポジウム

「『占領期・ポスト占領期の視覚メディアと受容』―民主化・冷戦・モダニティ」

2部「社会科映画と日本の民主化―発見された常総市コレクション」

201136日、東京大学院情報学環福武ラーニングシアター)

“ながーい”タイトルのシンポジウム

この長いタイトルのシンポジウム、第1部は「浸透するアメリカ・変容するアジア―CIE/USIS映画とラジオ放送」と題されて、前日35日に終了している。私には、ともにアメリカ占領期の日本がテーマになっているので、興味深いものがあったが、第2部で昭和20年代の社会科教材映画が4本ほど上映されるというので、こちらを選んだ。2日続けて東京に出るのはシンドイ?こともあったからである。また、この第2部は、記録映画アーカイブ・プロジェクト(記録映画保存センター 20091月発足)の第5回ワークショップも兼ねていた。

主催は、会場にもなっている情報学環と日本学術振興会の科研費補助金を受けている三つの研究クループであり、会場はベネッセの冠が付く福武ホールだったが、私は初めて入った。地下のラーニングシアターもやや横幅の広い階段になった小ホールで、まだ新しい。

「常総市コレクション」というのが私にはやや唐突であったが、司会者(丹羽美之情報学環准教授)によれば、昨2010年、常総市水海道小学校、旧石下町教育委員会のフィルムライブラリーからあわせて1000本近い視聴覚教材映画がみつかり、そのフィルムのコレクションを指す。39本製作されたという「社会科教材映画大系」も32本が保管されていて、この日は、その中の3本が上映されたのだ。それに先立つ、1本目は、GHQ占領軍の民間情報教育局CIEが日本全国で展開した、生活改善、意識改革を進めた400本を超える短編映画の一つであった。

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観た記憶にはないが、“なつかしい”映画

今回上映された4本について、占領期に小学校時代を過ごした私の記憶にはいずれもない。とくにCIE映画は農村部を中心に「ナトコ映写機」によって各地で上映され、観客動員数・感想などの報告を義務付けられ、ノルマもあったという。また、その報告によれば、延べ観客数は12億にも上ったというから(身崎とめこ「米国教育映画に見る家族と衛生―CIE映画とその時代」前日のシンポジウム資料)。いくらサバを読んでも、当時の日本の人口6000万と比べると、その普及ぶりには目を見張るものがあったのではないか。

今回の上映は次の4本だった。上映後の中村秀之立教大学教授の報告や他の資料を参照の上、私のメモから感想を記録にとどめておきたい。

①『わが街の出来事』(CIE映画、1950年、14分)

シュウタグチ・プロダクション、監督:岩下正美、撮影:岡崎宏三

 ②『はえのいない町』(社会科教材映画大系、1950年、12分)

  企画:日本学校映画教育連盟、岩波映画製作所、脚本:羽仁進、監督:村治夫、

撮影:吉野馨治、撮影助手:藤瀬季彦

③『町と下水』(社会科教材映画大系、1953年、21分)

 企画:日本学校映画教育連盟、岩波映画製作所、脚本・演出:羽仁進、

撮影:藤瀬季彦

 ④『伝染病とのたたかい』(社会科教材映画大系、1950年、12分)

企画:日本学校映画教育連盟、都映画社、監督:松岡佑、撮影:広川朝次郎

『ある町の出来事』~CIE映画って

①は、上記に述べたCIE映画で、「この町の出来事は、日本中どこの町でも起こることだ」という主旨のナレーションで始まる。「ゴミ捨てるべからず」の立札のある川の橋のたもとに何の抵抗もなく、次から次へと自分の家のごみを捨てに来る。そこへ、近くの主婦が出てきて、ここには捨てないで、女同士のけんかになる。そこへ、教員でもある近所の男性が出てきて、ここで自分勝手を言いあっても仕方ないからと、数人で市役所衛生課に掛け合いにゆき、予算が少ないといわれる。そこで、ご近所同士の話し合いからその輪を地域に広げ、話し合い・調査・協力をして進めた予算増強運動が市長・市議会を動かし、ごみ箱・回収車・焼却場の改善がなされ、街はきれいになったという筋書きだ。市民の結束・調査・協力によって行政を動かした、民主的な地方自治の在り方を啓蒙しようとするものだろう。話がうまくできすぎている。私などは、その中身よりも、登場人物たちのファッション、街の電信柱の広告や店の看板、街を走るリヤカー、木の床や重いドアの役場、議席の前には三角の名札を立てた狭苦しい市議会の議場などの風景が登場し、懐かしさの方が先に立つ。しかし、60年たっても、公徳心のない市民が減ったとも思われないし、街や役所の建物は整ったが、犬の糞から始まり、公害や産廃放棄は後を絶たない現代にあっても、通用しそうだ。というより、当時としても「建前」は「建前」で、現実としては、黒沢明監督「生きる」(1952年)の厳然とした「お役所仕事」の世界の方が市民は身につまされたのではないか。そんなことを考えながら、見終わったのだった。

『はえのいない町』~岩波映画の変遷を知る

②の「はえのいない町」は、コレクションがみつかった常総市の水海道小学校の協力で撮影され、「社会科教材映画大系」の初期の作品で、評判もよく、各地の小学校で上映されたらしい。この映画のあらすじは、小学校の保健部の児童が学校のはえの多さに、ハエ退治に乗り出し、ハエ叩き、ハエとり機、ハエとりリボンなど総動員し、ハエとり競争までして根絶するのだが、数日で、またハエが教室を飛び回ることになる。その発生源のゴミ捨て場では、ハエの繁殖・成長を目の当たりにして、卵のうちに絶やさねばと、児童たちは先生、保健所、町の人々総出で、ゴミ捨て場・便所・牧場などの掃除・整備、周辺への薬剤散布などを繰り返し、町からすっかりハエがいなくなるまでこぎつける。しかし、児童たちは、すぐに、自分たちの町に出入りする馬車、馬糞、魚などについてくるハエに気づくのだった。「みなさんの町ではどうやってハエを退治しますか、みんなで考えましょう」のナレーションで、この映画は終わる。さまざまな実践を通じて生活環境の改善を進めることの重要性を児童にも大人たちにも気づかせる作品になっていたと思う。

この作品は、岩波映画製作所で制作されたもので、脚本は羽仁進ということで、なつかしい名前に出遭うことになる。19505月に発足した岩波映画製作所の第1作という。当時のスタッフは、中谷(宇吉郎)研究室プロダクション関係者で岩波書店と深いつながりがあったが、その後は、岩波書店とは独立している。時代は下り、1998年には倒産し、それまでの膨大な作品群は日立製作所に引き継がれていることも、今回知った。この「岩波映画」からは、後の映画・演劇・写真などメディアで活躍する人たちを輩出していて、羽仁進はじめ黒木和雄、東陽一、土本典昭、田原総一郎らがいる。会場では、そのお一人、羽田澄子さんの姿をお見かけした。

また、この日は、「はえのいない町」「町と下水」の撮影を担当された藤瀬季彦氏の話もあった。1949年に中谷研究室プロダクションに入社、その年の秋から「はえのいない町」は実質的にスタートしていたそうだ。当時、短編1本で70万円ほどの製作費がかかったが、そのうちの20%はフィルム代だったそうだし、当時のスタッフや撮影秘話など興味深いものがあった。

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「はえのいない町」より

 

『町と下水』『伝染病とのたたかい』

③の「町と下水」は、家庭の汚水や工場排水が地面や川に垂れ流しになって、市民の日常生活が大きく脅かされる実態を、根本的にどうしたら変えることができるかを多角的にわかりやすく説明する。また、かなり体系だって、都市計画・工学的に解説する場面もあり、京都市や岐阜市などの例が実写で紹介されていた。

④の「伝染病とのたたかい」は、発疹チフスを例に、その感染ルートを探りながら、その過程での防疫活動を丹念に紹介し、そこでぶつかる問題点も示唆する。シラミ退治、消毒のため、学校や家、屋内外に容赦なくDDTを散布、噴霧していく様子、いやがる児童の頭髪への散布、保健所の係員に罵声を浴びせ、バケツのDDTをぶちまける市民の非協力なども映し出されていた。結局、感染源は、町のある家に訪ねてきた浮浪者であったことが明かされ、2か月ほどで、ひとまず発疹チフスも終息し、学校では児童たちが輪になってフォークダンスに興じる場面で終る。

私には、登場人物の身に着けているファッションはじめ、下水工事現場、DDT散布、バラック家屋、フォークダンスなどの場面も臨場感があってなつかしかった。

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「伝染病とのたたかい」より

あの頃の社会科~大人たちの努力は

中村教授の報告によれば、②③④をふくむ「大系」の企画は「日本映画教育協会」のもと教材使用者の教師が中心の「日本学校映画教育連盟」が担当、製作は教材映画製作協同組合、岩波・都映画と三木映画、理研映画など計11社であった。監修は、写真でも見られるように、海後宗臣、梅根悟、長坂端午、阪本越郎ら10人の審議会委員が担当していた。

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各映画には教師用の指導書があって、採録シナリオもついているとのことだった。1947年文部省から「試案」として示された学習指導要領や中央教育研究所と校長をしていた梅根悟を中心とする川口市社会科委員会による「川口プラン」(194712月)と呼ばれる地域教育計画などが論議されているさなか、「大系」の構想では、地域活動の7つの機能に大別(生産・消費・交通通信・健康・保全・政治・娯楽教養)し、それぞれの問題解決に寄与したいということで137本製作の予定だったが、結果的39本にとどまったという。また、教育界では、研究者や現場の教師による単元学習、視聴覚教育論議は盛んで、活気に満ちていたようだ。「学習指導要領」が文部省の「告示」として出る前の時代であった。

さらに、報告では、たとえば「はえのいない町」について、子どもの視線による「つなぎ」の重要性、また、その発想には、名取洋之助の組み写真「蠅捕デー七月廿日」(ドイツのグラフ誌、19331015日)や岩波写真文庫「昆虫」(吉野馨治)などが影響していたのではないかなどの指摘にも、着目させられた。

また、日本では19463月に公開されたCIE映画「飛来する疫病」のほんの一部が紹介されたが、1943年ディズニー製作のマラリア退治を啓蒙するアニメだったのにも驚いたのだった。

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2011年3月 4日 (金)

NHKスペシャル「日本人はなぜ戦争へと向かったのか(3)“熱狂”はこうして作られた」(2011年2月27日)を見たのだが・・・

 新しい資料とは

メディア、とくに新聞とラジオが軍部と政府と連携して、国民の戦争への「熱狂」をどのように作り出していったかを、当事者の証言、研究者のコメントなどにより検証しようというものだ。当事者―軍人・政治家・メデイア関係者100人以上に及ぶ証言テープ(すべてが日本新聞協会のヒアリング?日本新聞博物館所蔵?)を今回新しく発掘し、その資料に基づく成果だという。まず、その資料の性格が、今一つはっきり伝わってこなかった。その存在はいつ明らかになったのか、どういう経緯で残された証言なのか、いつ誰に向かって話した証言なのか、類似の先行証言・資料との関係は、なぜ今になって明らかにされるのか、市民がアクセスできるのか否かなどの疑問が残る。

欲張り過ぎて、散漫に

多くの当事者の肉声テープと研究者のコメント、実写フィルム・アニメなどでつづられていくのだが、全体の印象では、格別新しい事実や展開は見られないまま、少し欲張り過ぎて、散漫に終わったのではないか。特定の当事者の肉声による証言の意味は重いが、断片的すぎて、証言者の名前や身分すらメモできないし、その内容はなおさらである。また、メディア史の研究者のコメントもおそらくは大方端折られたのではないかと思われるほど断片的で、さほど深い内容のものはなく、残念だった。それに、私は、あの進行役、松平アナウンサーの「力のこもった、重々しい」喋りが苦手で、いつも、もっと淡々と話せないものかと思うのだ。ところで、彼は、番組制作にどれほどコミットしているのだろうか。単なる読み手にすぎないのか。 

ラジオ、NHKの責任

さて、内容についてだが、焦点を絞ってほしかった。早く言えば、新聞とラジオの両者を50分弱で扱うのは無理だったのではないか。新聞と対比するのでなく、まさにラジオの当事者はNHKなのだから、ラジオについての証言を丹念に拾い、残る当時の番組の録音や当時のNHK関係者の証言をもっと登場させるべきだろう(大原知己氏のみ)。それがNHKの責任というものではないか。この番組では、30分を経過した後半になって、近衛文麿が日本放送協会総裁となって新興メディアのラジオをいかに利用したかに触れ、その演説放送も流していた。さらに、日本放送協会は「ラジオは国家の意志を運ぶ」がスローガンだったナチスをモデルにしたことも明言するが、それに対する評価、反省には一切及ばない。メデイアの基本的な役割として、的確な現状把握、国民への判断材料の提供に言及するが、「メデイアの持っている力を思い知らされる」というに留まるのである。

真相を伝えなかったメディアの責任

前後するが、番組の前半で、新聞に関して、高田元三郎(東京日日新聞)、緒方竹虎(朝日新聞)の言動を通して新聞が大きく方向転換をして軍支持となり、そのキーワードが「発行部数」と「国益」だったことが語られる。いわばこの番組の核心とも思われる「柳条湖事件」が関東軍による謀略であったことを、当時、一部の新聞記者たちは、軍部より知らされていたという石橋恒喜(東京日々新聞)証言などが紹介される(すでに1970年代に、その著書で明らかになっていることではあったが)。また、1932年から33年にかけての満州国独立をめぐって日本が国際連盟脱退までの経緯の中で、新聞各社による「共同宣言」がなされたこと、軍部・メディア・民衆のトライアングルによる強硬論への喝采の中での信濃毎日新聞の桐生悠々の抵抗と敗北などが語られる。しかし、これらの歴史が、遠い昔のメディアの歴史ではなく、まさに現代のメディアが抱える問題と決して無関係ではないはずである。その視点が欠けているのが残念だった。

NHKの姿勢を問う、「熱狂した庶民」への責任転嫁?

全体を通して、敗戦時、朝日新聞社を辞した武野武治(むの・たけじ)氏の話がリードとなり、武野氏の「戦争を始めてはいけない、それには各国が何を考えているのかの現実を知らせ合うことだ」の言葉で結ばれる。そして、最後に、戦争は来る17.7%、来ない65.8%、どちらともいえない、というNHK独特の選択肢による世論調査の結果を流すのだった。

さらに、私は、視聴後、本記事を大半書き終わってから、NHKオンライン上の「番組ガイド」を見て驚いた。一部引用は誤解を招くので、以下全文を引用する。冒頭の「『坂の上の雲』の時代に世界の表舞台に躍り出た日本が、なぜわずかの間に世界の趨勢から脱落し、太平洋戦争への道を進むようになるのか」のくだりには、こんなところでプロデューサー同士のエール交換や「坂の上の雲」第3部の宣伝をしないでほしい、と思った。第一、明治期の二つの戦争を「世界の表舞台に躍り出た」と評価し、「世界の趨勢から脱落し、太平洋戦争への道を進む」という認識は、これまでの近代史研究の積み重ねをまるで無視しているような発言にも思える。そして、後半に至っては、肉声テープには「軍の主張に沿うように合わせていく社内の空気」「紙面やラジオに影響されてナショナリズムに熱狂していく庶民、そして庶民の支持を得ようと自らの言動を縛られていく政府・軍の幹部たちの様子が赤裸々に」語られていた、というのだ。「空気」とは、他人ごとだし、メデイアに携わる者個人の意思がまるでなかったかのようだ。「庶民の支持を得ようと自ら縛られていく政府・軍の幹部」にも驚く。私は、庶民に戦争責任が全くなかったというつもりはないが、「熱狂した庶民の支持を得ようとしていた政府・軍幹部」としか捉えようとしない感性と知性に愕然としたのである。教育・思想・言論・情報統制の中で「軍国主義」に絡め捕られてゆく庶民の歴史に目を向ける姿勢が感じられないのだ。メディア・政府・軍人に限らず、当然のことながら、「証言」の多くは、自らの保身に逃げ、正当化に陥りやすいことは織り込み済みのはずではないのか。ジャーナリストとしての基本をわすれてはいないか不安になってきた。情報の受け手のメデイア・リテラシーが喧伝されるようになったが、送り手にも、情報を選別し、理解する力を身につけてほしい。

衰退する印刷メディア、インターネットの発展、視聴率優先、世論誘導、自主規制、政治介入など、かつての危機と隣り合わせでもある現代メディアへの問題意識が一つでもあれば、こんな番組にはならなかったのではないかと、残念だった。NHK社内の「空気」はどうなっているのだろう。

<番組ガイドより>

「坂の上の雲」の時代に世界の表舞台に躍り出た日本が、なぜわずかの間に世界の趨勢から脱落し、太平洋戦争への道を進むようになるのか。開戦70年の年に問いかける大型シリーズの第3回。

日本が戦争へと突き進む中で、新聞やラジオはどのような役割を果たしたのか。新聞記者やメディア対策にあたった軍幹部が戦後、開戦に至る時代を振り返った大量の肉声テープが残されていた。そこには、世界大恐慌で部数を減らした新聞が満州事変で拡販競争に転じた実態、次第に紙面を軍の主張に沿うように合わせていく社内の空気、紙面やラジオに影響されてナショナリズムに熱狂していく庶民、そして庶民の支持を得ようと自らの言動を縛られていく政府・軍の幹部たちの様子が赤裸々に語られていた。

時には政府や軍以上に対外強硬論に染まり、戦争への道を進む主役の一つとなった日本を覆った“空気”の正体とは何だったのだろうか。日本人はなぜ戦争へと向かったのか、の大きな要素と言われてきたメディアと庶民の知られざる側面を、新たな研究と新資料に基づいて探っていく。

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2011年3月 2日 (水)

佐倉市の縦覧制度と情報公開制度の実態~土地区画整理事業について、先ごろ、こんなことがありました・・・

(1)土地区画整理事業の「事業計画」は取り消し請求ができるか

今年の2月25日、静岡地裁は、浜松市の土地区画整理事業をめぐり、反対する住民14人が市の事業計画決定の取り消しを求めた訴訟の差し戻し審で請求は棄却された(「住民の請求棄却、地裁差し戻し審 事業計画を初審理」『毎日新聞』2月26日)。関東での報道は少なかったが、上記毎日が大きく報道していた。区画整理事業の着工前でも住民への影響が予測可能になり裁判を起こせるという最高裁の画期的な判決(2008年9月10日)で差し戻された裁判で、「事業計画には市の広範な裁量を認めたうえで、重要な事実の間違いや著しく妥当性に欠ける場合は違法となるが、交通渋滞など住環境悪化が明らかだとは言えない」という主旨で、住民の請求を棄却した。2008年の最高裁判決が出るまでは、事業計画は青写真に過ぎず、利害関係者の権利変動が具体的に確定されるものではないから、取り消し訴訟を起こせないという、いわゆる「青写真判決」を42年ぶりに覆し、住民に対して実効的な救済を図るためには計画段階で提訴を認めるのが合理的であると判断して差し戻したのだ。事業計画決定も「行政処分」であるから取り消し請求ができるとした最高裁判決は、画期的に思えた。私は、住んでいる町に接する土地区画整理組合による井野東・井野南の開発事業をウォッチしはじめてから10年以上が経つ。組合方式による土地区画整理事業による開発と千葉県・佐倉市による都市計画が常に混然として進行するのを目の当たりにした。井野東・井野南土地区画整理組合準備会(組合認可後、二つの組合の業務代行となる開発業者が準備会の事務局を名乗っていた)が行政と事前協議を重ねる段階から、行政や開発業者とかかわりを持つようになった。認可後、何回かの事業計画見直し・資金計画見直し変更を経て、今は事業期間延長のさなかにある。認可前と見直し変更のたびに、縦覧と意見提出の機会が設けられるので、周辺の住環境が影響を受ける範囲で縦覧・意見提出も行ってきたし、情報公開制度による公開文書を検証し、納得いかず、千葉県情報公開審議会に異議申し立てもしたこともある。 http://www.pref.chiba.lg.jp/seihou/jouhoukoukai/shingikai/jouhou-shinsa/toushin/toushin-201.html

http://www.pref.chiba.lg.jp/seihou/jouhoukoukai/shingikai/jouhou-shinsa/toushin/toushin-202.html

 私の知る限り、県や市は、多くの市民の提出意見や公述意見があったにもかかわらず、あくまでも一方通行で、事業計画が見直されたり、聞き入れられたりすることはなかった。あるのは行政の都合や組合という名の開発業者(業務代行)の都合による恣意的な変更要請に応えるもののように思えた。住環境のさらなる劣化や助成金や公的資金の投入が伴うものもあった。だから、事業計画の段階で取り消しが請求できるようになったという2008年の判例変更は、私たち住民にとっては朗報に思えた。ところが、今回の判決である。事業計画は取り消し処分の対象とはなったが、その計画の内容の違法性を認定する要件として「重要な事実の間違い」「著しく妥当性に欠ける」ことを示した。「なにが重要で、著しくとはどの程度なのか」という行政側の裁量が広く認められた形で、住民側にとっては厚い壁となった。しかし、今後とも住民の監視と都市計画法制の不備の是正についての意思表示を続けることが重要なのではないか。これまでの本ブログにおける主要関係記事もご覧いただければ幸いである。末尾に掲げた。

(2)緊張感のない役人たち~縦覧制度の形骸化

先日、こんなことがあった。月2回発行、発行日当日の新聞折り込みに入る「こうほう佐倉」2月15日号に井野南地区「都市計画案変更・地区計画案の縦覧」の「お知らせ」があった。用途地域・高度地区・準防火地域・地区計画について2月15日~3月1日の期間、縦覧できるので意見書が提出できます、という主旨の「お知らせ」だった。縦覧場所の末尾に「市ホームページでも閲覧可」となっていたので、さっそく市の都市計画課のHPを開いてみるが見つからない。10時近くに業を煮やして電話をしてみると、「あっ、まだみたいです、すいません、まだアップしてないみたいです」とやや間の悪そうな返事だった。相変わらずの役所仕事もいいところで、肝心の縦覧資料がHPに掲載されたのは、その日の午前11時だった。朝の8時半から縦覧場所、HPで閲覧できるはずが、役所のいう「手違い」?で不可能だったわけである。しかし、この縦覧制度・意見書提出は一種のセレモニーであって、都市計画変更にあたって、市民や利害関係者の意見を聞くという制度は最初から形骸化したものだ。上記のHPアップの遅れにみるように、担当課の緊張感の無さが明白だろう。さらに、不思議なのは、ともかく上記のようにHPで縦覧可能な資料が、縦覧場所では決してコピーをとれないことになっているのだ。いまでこそ、HPで閲覧できるのだが、かつてはそれもできなかった時代、その場で必要部分をコピーできず、超能力者でもなければ記憶にとどめられないから、情報公開制度で請求するしかなかった。急いでも数頁のことで1週間から10日はかかる。そして意見提出しようとすると、その提出期間が、縦覧期間とまったくの同時進行で、縦覧期間が終了とともに意見提出の締切りでもある。こんな矛盾した、形式的な意見募集をしたからと言って、市民の意見を聞いたことにはならないし、その意見を採用するか否かは、まったくの役所の裁量(恣意)でしかない、むなしい制度なのである。いわゆる、公聴会制度も同様、意見のいい放し、聴きっ放しの制度であり、要するに「うるさい?市民」のガス抜きの機能くらいにしか考えていないのだろう。行政法の専門家たちや行政のエキスパートが、なんでこんな制度を後生大事に見守っているのかも不思議なのだ。そして自省を込めて言えば、黙っている市民たちも。

(3)情報公開制度における「情報提供」とは  

今回、私は、縦覧の対象となっていた「井野南地区」についてではなく、すでに縦覧を終了し、昨年、変更を認可されている「井野東地区」についての「情報の提供」を申し入れた。2~3頁で済む情報で、物理的な負担が少ないと思われ、かつて、類似の情報を「情報提供」で入手したことがあることを申し添えた。しかし、電話の先では「情報公開制度でお願いします」という回答を繰り返すばかりである。「その根拠はなんですか」と尋ねると、「あなただけにサービスすると公平性に欠ける」「今回の文書の作成者は佐倉市でないから」との答えが返ってきた。「公文書」の開示にあたっては、受理した文書であれば、作成者は問われないはずだ。公平性に関しても、何と比べてなのかもわからない。「公文書の定義と公平性については、根拠として明白ではないので文書で示してください」との求めに、二つの条文がファックスで届けられた。私が求めている情報は、もちろん、個人情報でもないし、プライバシーに触れるものでもない情報である。

①佐倉市情報公開条例(平成21年6月3日)(情報公開の総合的な推進に関する本市の責務)第26条 本市は、この条例に基づく公文書の開示を行うほか、情報の提供及び公表を積極的に推進し、市政に関する情報の総合的な公開に努めなければならない。

②佐倉市公文書の開示等に関する事務取扱要綱(平成18年3月28日制定)第3の1の(1)ウ(情報の提供)従来から情報提供されたもの、市が作成する刊行物・行政資料・調査報告書等で、公表を目的として作成されたもの及び既に公表されているもので即日開示が可能のもの等については、極力、情報の提供で対応し、市政に関する情報の総合的な公開に努めるものとする。(この場合においては、条例に基づく開示請求とはならないので、開示請求書の提出は不要である)

しかし、この条例や要綱を読む限り、「公文書」の定義からしても、「情報提供」の根拠にこそなれ、情報提供できない根拠にならないのは明白ではないか。第一、国の法律「情報公開法」の正式名称は「行政機関の保有する情報の公開に関する法律」(平成十一年五月十四日法律第四十二号)で、下記の条文のように、情報提供の対象は「行政機関の保有する情報」なのである。条例や要綱が「保有」をあえて曖昧な表現に変え、作成者云々の解釈をするならば、佐倉市の条例も要綱も、解釈も違法なものとならざるを得ない。 行政機関の保有する情報公開に関する法律(行政機関の保有する情報の提供に関する施策の充実)第二十五条 政府は、その保有する情報の公開の総合的な推進を図るため、行政機関の保有する情報が適時に、かつ、適切な方法で国民に明らかにされるよう、行政機関の保有する情報の提供に関する施策の充実に努めるものとする。 これらの疑問を佐倉市に提出もしているので、その回答が届いたら、紹介したいと思う。

(4)日本弁護士連合会の意見書を読んで

以上のような私の嘆きや意見は、その後の調べで、日本弁護士連合会が、昨年2010年8月19日付で公表し、関係大臣等に提出した下記の意見書の中にもすでに取り入れられていた(20~25頁)。73頁に及ぶ大部なものだが、都市計画行政にかかわる職員や国や自治体の弁護士にはぜひ読んでもらいたいと思った。

「'持続可能な都市の実現のために都市計画法と建築基準法(集団規定)の抜本的改正を求める意見書」 http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/report/data/100819_2.pdf#search

この中で、都市計画行政の政策形成過程と実施過程での住民参加によって、地域社会の活性化と持続可能性が結実すると述べ、具体的には、住民参加の手続きとして、以下の4つの問題点が指摘されていた。現行法の基本的な 不備といえる。

①早期段階で住民が参加する権利が保障されていない 

②複数案検討が義務付けられていない

③公告縦覧・意見縦覧の期間が短い

④行政から住民への応答の義務付けがない

 なお、意見書中の「要綱行政の誕生と限界」の項における、都市計画行政にかかる「要綱」の位置づけについては、私の「要綱」認識とは明らかに違う。意見書では、次のように述べる。

「1960年代以降,高度成長のひずみで,東京・大阪の大都市周辺部において過密化・過疎化が進み,地方自治体は,国の定める都市計画の狭いメニューの中で,乱開発を防ぎ,住民の生活環境を守るため,開発指導要綱による開発抑制手法(要綱行政)を編み出した」(19頁)

国の強硬な都市計画政策の暴走への防波堤、開発抑制手法として機能したように書いてあるが、確かに、小回りの利かない、機動性の少ない国法を補完する側面を持つ場合もあったろう。しかし、私が佐倉市で体験した「条例」や「要綱」は、そんなものではなかった。開発業者の都合や佐倉市のその場限りの方向転換を助長する内容が多い。その典型は、かつても述べた一つの開発業者が3分の1以上の土地を所有している区画整理組合には助成金は不可としていた「条例」、その「3分の1」条項を外した例や今回の情報公開「条例」も「要綱」も、国の法律を明らかに劣化させるものだった。 そして今、各地で盛んに作られている「まちづくり条例」も、多くは市民参加、市民協働とうたわれながら、その「市民」があちこちで束ねられた、行政にとって「安心・安全な市民」になりがちなのを、普通の市民はよく監視し、自らも覚悟をもって参加してゆかねばならないだろう。

<本ブログ主要関連記事>

 ・佐倉市都市マスタープランの見直しへ、市民の意見を反映するというけれど (2010年7月13日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/07/post-b8ec.html

・無計画な都市“計画”~千葉県佐倉市の場合も(2009年4月27日) http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2009/04/post-eae9.html

・堂本知事、千葉県都市計画公聴会って何ですか(2006年9月25日) http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2006/09/post_0a99.html

 ・佐倉市井野東・井野南開発どうなるか(2006年8月24日) tibakentosikeikakuminaosisoankoutyoukai.pdf ・区画整理組合への助成金は、やはり業者への後押しだった!(2006年6月17日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2006/06/post_9ffe.html

 ・区画整理組合による開発の企業主導と行政の後押し―「佐倉市都市計画見直し」説明会に参加して(2006年4月25日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2006/04/post_088c.html

 ・助成金は区画整理事業の延命装置か―佐倉市、井野東土地区画整理組合の場合(2006年3月15日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2006/03/post_2f8d.html

 ・土地区画整理事業における住民参加~行政と業務代行のはざまで(1)(2)  (2006年2月16日・28日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2006/02/post_59e3.html

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2006/02/post_501d.html

 ・道路用地費11億円はどのように決まったのか~井野東土地区画組合公管金の謎1~3 (2006年3月7日・10日・13日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2006/03/11_59ed.html

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2006/03/11_8a58.html

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2006/03/11_7e5e.html

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