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2011年4月 7日 (木)

なぜ短歌に目が向かないのだろう~そんな中で思いを馳せた歌人たち

自分を甘やかす理由にはしたくないが、大震災以降、やりかけの仕事が手につかない。4月号だろうか、購読の短歌雑誌さえ封を開ける気持ちになれないでいる。こんな風に無力感というか、無気力感というような気分ばかりがただよう昨今である。

仙台市若林区の惨状が報道されるたびに歌人のSさんが思われた。お目にかかったことはないのだが、亡くなった義姉ともどもいつも気にかけていただいていた。たしかマンションにお住まいであることは、「雪炎」の作品やエッセイから存じ上げていたので、ご無事であろうと思われた。間が抜けたような、だいぶ日が経ってから差し上げた電話によると、12階の部屋はまた片付かないまま、女二人所帯で暮らしています、とのことで、少し安心したのだった。

その後、327日(日)の「毎日歌壇」のエッセイ欄に「東日本大震災―被災地より『何か』が壊れてしまった」(大口玲子)を見出した。断水や停電が続く仙台で、新聞・ラジオで情報を集め、ときには行列して食料・水を確保し、余震におびえる2歳の息子をなだめつづけたという。「風呂に入れず、顔を洗うことも忘れ、曜日や時間の感覚がないまま過ごした。あっという間の2週間、短歌は一首も作れなかった」と書き、「何かが大きく壊れてしまったのだ。その『何か』を、今の時点では短歌にすることができない。もどかしさと無力感にさいなまれる」とも記していた。執筆の大口さんは、仕事柄、日本語への視線が細やかな作品も多く、また、近年、原爆・原発への関心を深め、日本が抱える核問題を歴史的に、縦断的に、さらには国際的にとらえた作品の数々を残す、実力派の歌人である。「週三日日本語教師自称歌人大口玲子三十四歳」「原子力関連施設いくつ抱へ苦しむあるいは潤ふ東北よ」(『ひたかみ』2005)と、かつてから歌っていた彼女の東北からの発信を待ちたいと思う。

・ふるさとをもう忘れたし死者の名はいちにんいちにん読み上げられて
(二〇〇五年八・九 一一時二分。)

・歯型にて本人確認するといふ歯はさびしくてそを磨きをり(同上)

・血の気多き妻持ちてわが破りたる選挙ポスターを拾ひをり君は

・学校では習はぬ単位、シーベルト、ラド、レム、グレイ、キュリー、レントゲン(神のパズル 一〇〇ピース)

・どういふ金か理解せぬまま本年もありがたからず受け取つてをり
 (二〇〇四年一〇月二二日、今年度原子力立地給付金四九〇八円が銀行口座に振り込まれる。)

・流れざる北上川の水のなか燃料棒は神のごと立つ
(二〇〇四年一〇月八日、夫と女川原子力発電所を見学。)

・ガラス越しに広がれる海、漁業権放棄されたる海黙し満つ(同上)

・原発から二十キロ弱のわが家かな帰りきて灯を消して眠りにつけり(同上)

・棒立ちに聞く録音の焼津なまり久保山愛吉の肉声の張り

(二〇〇四年一〇月二日、東京夢の島第五福竜丸展示館見学。)

・ウラニウムは母なる大地にとどめよとアボリジニから風の伝言
(日本は年間三千トンのウランをオーストラリアから輸入している。)

 

・原則はいくたびも摺れ、汚れつつ繕ひきれぬほころびを見す
 (一九六七年、佐藤首相は「非核三原則」をとなえ、一方でそれを「ナンセンス」とも述べていた。)
(いずれも『ひたかみ』2005年)

 

同じく仙台に居を移して子育てと仕事をしている俵万智さん、彼女のツイッター情報によれば、東京で仕事をしていて、帰宅困難者となった由、仙台の息子さんにも無事会われたようだ。

数年前に亡くなられた、いわき市の草野比佐男さん(19272005年)を思い出した。今回の大震災、とくに原発事故に遭われたらどんな短歌を作られるだろうか。

・臨界事故の東海村に首相行きメロンをくらふほかなにせし

・機械のみ知りて人間を知らざれば有り得ぬ事故と臨界事故をいふ

・原子力発電所への距離三十粁遠しとも近しとも事故のをりをりに
 (『老いて蹌踉』2001年)

・考古学者のプルサーマルの宣伝はをかしくないかをかしいよな
 (『この蟹やどこの蟹』2003年)

「〈うつくしま ふくしま〉などといふ惹句どこの阿呆が捻り出したる」「国中が一つの声に沸くたびに試さるる思ひ反芻(にれが)みて来し」(『この蟹やどこの蟹』)など反骨精神の旺盛な農民作家とも農民詩人とも呼ばれる歌人だった。晩年に、短歌と天皇制にかかる拙著を通じていささかの交流があったのだった。


 登米市の文字を見るたびに、母の短歌の師であり、私が最初に出遭った歌人の阿部静枝先生(18891974年)の歌碑は、この震災でどうなったのかが思われるのでのあった。先生に最後にお会いしたのが、病に倒れ、小康状態にあった197310月、出身地、登米郡中田町石森の神明社の境内に建てられた歌碑の除幕式であった。碑には次の歌が刻まれている。

・青空より降りくる冬の日光にふくらむ心しばらく保て

 漫画家、石ノ森章太郎の出身地でもあり、彼のお父さんが、歌碑除幕式後の集まりに挨拶されていたのを思い出す。登米市の被害は、報道によれば「1人死亡、10人行方不明、約700人避難」(42日現在)となっていた(朝日新聞43日)。

北上市にある日本近代詩歌文学館の被害はどうだったか。地震以降の325日更新でも、地震については一切触れられていない。何もなかったらいいのだが、本が崩れ落ちることはなかったか。東京の国立国会図書館でも120万冊が棚から落ちたという。人身事故がなくてよかった。その原因もさることながら、一部サービスにストップがかかり、職員OB会も延期になったほどである。

そして、短歌にかかわる一人、私に何ができるのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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