« 2011年5月 | トップページ | 2011年7月 »

2011年6月30日 (木)

佐倉市もホットスポットです! 直ちに対策を

佐倉市の放射線量が一ケタ高いのだ。千葉県市原市のほぼ横ばいの数値0.044μSv/h(マイクロシーベルト毎時)は、新聞やテレビで毎日知ることができるが、佐倉市のその数値と一ケタ違いに大きい。直近の青菅小学校は0.27μSv/h、隣の学区の井野小学校0.26μSv/h(いずれも地上50cm)であり、 わが家が「ホットスポット」の中なんて。「ホットスポット」、イヤな言葉で、いたずらにあおられることはないが、佐倉市は「局地的に放射線量が高い区域」なのは確かである。首都圏でも葛飾、柏、松戸、流山、三郷などでの放射線量が周辺より高いというニュースは何度か報道され、そうした自治体が、独自の調査や暫定ながら規制基準を設けた例が続出している。その経過は、後掲の表を見ていただきたい。そして、佐倉市がいかに立ち遅れた対応しかしていないかが、一目瞭然である。
 東日本大震災被災者支援について、佐倉市の無策ぶり、県内他市と比べての立ち遅れを目の当たりにしてきた者にとって、佐倉市民が被災者になった場合にも同様の対応しかできないことが、この一例でもよくわかる。
 佐倉市は、学校や公園などの公的施設の空間放射線量測定を以下2回にわたって実施した。その結果については以下を参照してほしい。

 2011530日実施、佐倉市放射線量測定について(530日発表)
 http://www.city.sakura.lg.jp/012543000_kankyohozen/osirase/110525_housyasen.html

 2011614日・16日実施、佐倉市空間放射線量測定結果(617日発表)
 http://www.city.sakura.lg.jp/012543000_kankyohozen/osirase/110617_housyasen.html

これらの結果によれば、わが家に身近な公共施設と最高・最低値の施設を例にとってみよう。
(上記の公表結果から作成、17日発表分については、佐倉市の測定器「日立アロカメディカルTCS1」測定結果による)

測定日

施設名・調査場所

空間線量

備考

2011

525

青菅小学校グランド

0.27μSv/h(マイクロシーベルト/時間)地上50

525

井野小学校グランド

0.26μSv/h 地上50

525

山王小学校グランド

0.28μSv/h 地上50

525

和田幼稚園庭・砂場

0.06μSv/h 地上50

525

志津小学校グランド

0.23μSv/h 地上50

614

志津小学校グランド

0.29μSv/h 地上50

0.27μSv/h 地上1

527

佐倉小学校グランド

0.10μSv/h 地上50

614

佐倉小学校グランド

0.06μSv/h 地上50

0.05μSv/h 地上1

614

宮ノ杜公園芝生

0.31μSv/h 地上50

0.24μSv/h 地上1

616

上座公園西側園路

0.31μSv/h 地上50

0.27μSv/  地上1
0.47μSv/h 地上6cm


なお、問題なのは、617日付の測定結果発表に際して、次のようなコメントを付していることである。これは、福島県下における現状に即しての、まさに暫定的な数値である。千葉県ないし首都圏の各自治体は、かなりの市町で、独自の測定及び規制基準を設けていることはご存じの通りで、佐倉市もぜひ他の自治体に倣って、独自の規制基準を設けてほしい。少なくとも以下の文科省の暫定的な基準を掲げての「安全宣言」は中止してほしい。

「今回の空間線量の測定結果は、文部科学省の「福島県内の学校等の校舎・校庭等の利用判断における暫定的考えについて」(平成23年4月19日)で定める空間線量率3.8マイクロシーベルト/時間を下回っています。
 また平成23年5月27日に文部科学省が発表した、福島県内の校庭等における土壌に関して児童生徒等の受ける線量の低減策を講じる設置者に対して国が財政支援を行う場合の指標である、1時間あたり1マイクロシーベルトも下回っています。」

 これらの文科省の「暫定的な考え方」については、後掲の各界の動向比較表を見れば明らかなように、放射能・原子力の専門家あるいは法律家、政党やメディアの独自調査や訴えにおいても明らかに、考え方の一つでしかなく、むしろ政治的、社会的な暫定措置であって、科学的、理論的には説得力に乏しいものである。
 これらを金科玉条の如く受け売りをするのではなく、自らのデータをもって対応すべきではないか。

日弁連の会長声明:
http://search.jword.jp/cns.dll?type=lk&fm=127&agent=11&partner=nifty&name=%C6%FC%CA%DB%CF%A2&lang=euc&prop=500&bypass=2&dispconfig

 上記、日本弁護士協会会長声明によれば、厚生労働省は、電離放射線障害防止規則311号において、「外部放射線による実効線量と空気中の放射性物質による実効線量との合計が3月間につき1.3 ミリシーベルトを超えるおそれのある区域」を管理区域とし、同条4項で必要のある者以外の者の管理区域への立ち入りを禁じている。年間5.2ミリシーベルトということで、文科省の基準が年間20ミリシーベルトとなれば約5倍高いことになる。労働基準法は、放射線管理区域での18歳未満の就労を禁じている。文科省の暫定的考え方は法令にも違反しているとも考えられる。
 3.8マイクロシーベルト(μSvh)という数値は、16時間を屋内、8時間を屋外活動という生活パターンの想定で、年間20ミリシーベルトに達することからの逆算らしい。これはあくまでも緊急時の数値である。国際放射線防護委員会(ICRP)では「一般公衆の年間被ばく許容量」として年間1ミリシーベルという数値を発表し、毎時に直せば(3.8マイクロシーベルト÷20で)0.19マイクロシーベルト/時間ということになり、佐倉市内の数値は軒並み超えていることになる。
 
 以上の結果からも、私は、以下のことを提案したい。
(1)夏休みを控え、測定器を借りてでも早急に測定を継続すること
 今回の佐倉市の測定では例外的に志津小と佐倉小だけが2回測定しているので、その数値を掲げた。志津小がやや高い数値で、佐倉小がどちらかと言えば低い数値を示している。一喜一憂することではなくて、測定については、同一地点での継続性と測定地点自体を増やしていくことが肝心であることがわかる。いずれにしても、千葉県は市原市(地上7m)の数値だけでなく、もっと多くの定点での測定が求められる。佐倉市においても、品不足で、自前の測定器が7月下旬にしか入手できないし、測定計画はないそうだが、夏休みを控え、測定器を借りてでも早急に測定を実施・継続してほしい。
(2)放射能線量についての問い合わせ先を市役所の縦割りでなく、統一した窓口を設置すること

今回の佐倉市の2回にわたる放射線量測定結果発表に際して、ホームページにおいては以下のように、測定地点別に3か所の問い合わせ先を掲載しているが、これはあくまでも役所の都合であって、私たち市民は、佐倉市という<空間>に住まっているので、全市的な取り組み、対応が必要なはずである。もちろん大きく言えば、全国的、地球規模的な対応が必要な事態なのだから、少なくとも佐倉市役所レベルでの縦割り対応だけはやめてもらいたい。一元化した窓口をただちに設置してほしい。
[問い合わせ]
 経済環境部 環境保全課 環境対策班 E-mailkankyohozen@city.sakura.lg.jp
 Tel043-484-6150 Fax043-486-2504
・都市部 公園緑地課 管理班 E-mailkouen@city.sakura.lg.jp
 Tel043-484-6165 Fax043-486-2506
・教育委員会 指導課 指導班 E-mailshidou@city.sakura.lg.jp
 Tel043-484-6185 Fax043-486-9401

(3)文科省の福島県下での非常時的な数値を漫然と受け入れるのではなく、子供たちの健康を守るべく、その未来を守る佐倉市独自の規制数値を検討すること
 佐倉市の数値は、例えば、野田市の基準に倣えば、0.31マイクロシーベルト/時間の施設が多々あることになる。放射線量はどんどん蓄積される。将来ある子どもたちのためにも、禍根を残さないためにも、早急な検討が必要になる。

 資料:
1 . 福島第1原発事故による局地的高度放射能汚染に対する佐倉市の対応と首都圏・県内の動向
 http://dmituko.cocolog-nifty.com/shiryou_hikaku.pdf

2.佐倉市他9市町から千葉県知事あてに提出された要望書
6月2日・
6月30日http://www.city.sakura.lg.jp/010325000_kikakuseisaku/900kobetsu/010shokadai/030saigai/index.htm#la2

*7月1日追補

 6月末日に佐倉市は、他の市町と共に、再度千葉県知事あてに要望書を出していることがわかりました。国の放射能規制基準を早急に出すよう、など求めたものですが、すでに法令などの基準はあるので、それにのっとり、野田市や川口市のような規制基準を独自に定めてほしいと思います。

上記同文を佐倉市の市民の声係に「市長への手紙」として送付しました。

| | コメント (0)

2011年6月29日 (水)

古くて新しいドキュメンタリー「いま原子力発電は・・・」「原発切抜帖」に学ぶ

 いま、岩波ホールで、羽田澄子と土本典昭両氏の原発関係のドキュメンタリー2本が、上映されている。私は、この直前の本ブログ記事にもあるように、記録映画アーカイブ・プロジェクトのワークショップで「吉野馨治―夢と憂鬱」を見た折に知った。その映画の中のインタビューにも登場した、いわば岩波映画の「吉野学校」の卒業生である羽田・土本両氏の、かなり前の作品というので、どうしても見ておきたかった。岩波ホールでは「緊急特別上映」ということで、『遥かなるふるさと旅順・大連』(羽田澄子監督)の上映時間に挟まれて、平日の夕方450分から1回のみの上映である(630日まで)。

文末の人名の<注>は、ネット検索で得られた情報であり、不備は承知ながら参考のため掲げた。また、映画2作の背景として、私のメモの整理の産物で、参考にしていただけたらと思う。この40年間に原発事故が相当な頻度で、発生し、多くの犠牲者が出ていたことを確認する作業でもあった。「想定外」などとか「ただちに影響がない」などと言える状況でないことも知った。

「原発切抜帖」

1982年、青林舎作品、高木仁三郎監修、土本典昭演出、45分)

原爆・原発関係の日本の主要全国紙の新聞切り抜きと関係写真・映像と小沢昭一の語りのみで綴った、ユニークな手法によるドキュメンタリーである。時には海外のメデイア資料も入れながら、原爆や原発がどのように報道されてきたかを検証する。日本への原爆投下の被害がまだ生々しい状況の中から原爆の実験を続ける国々、その被害の実態と「原子力の平和利用」という美名のもとに原発を推進してきた各国政府や企業、研究者の隠ぺい体質と危機感のない姿勢とそれを報道する「新聞」の欺瞞性、被害者不在の事故への対応を克明に追跡し、原発の危険性を告発する、まさに、今日の福島原発事故への必然を見るようで恐ろしかった。

 「いま原子力発電は・・・」

1976年、放送番組センター・岩波映画製作所制作、羽田澄子演出、25分)

これは、1977年テレビで放映された「地球時代」(全13回)の1作で、シリーズ全作とも日本万国博覧会協会の協力である。197677年と言えば、767月、ロッキード事件で田中角栄前首相が逮捕

天皇は、在位50年に先立つ75年のアメリカ訪問後の記者会見で「広島原爆投下はやむを得なかった」との発言がなされたときでもあった。

 映画は、福島へ向かう田園風景が途切れて、いまでこそ見慣れているいくつかの建屋が見え始める。76年撮影だから、福島第1原発は1~3号機まで出来ていて、4号機が建設中であった。建屋や制御室内の取材はできずに、展示室や模擬制御室での説明だった。展示館の責任者菊池健氏(1929~)*①は、羽田氏の質問に応える形で進められる。新聞やテレビで見ない日はない、あの原子炉の断面図も登場、発電の仕組みが説明される。原発の事故や安全性について、若い羽田氏による質問が続くが、菊池氏は自信に満ちて、早口でもある。印象的だったのは「事故、事故と言わないでください、故障なんですから止めて点検をすればいいのです」との言葉。「事故の確率は50億分の1という、隕石にあたるような確率ですから、安全です」との趣旨を繰り返す。

 一方、原発の安全性には疑問を持つ研究者早稲田大学教授の藤本陽一氏(1925~)*②は、「データの蓄積がない原発事故の確率などというのは紙の上のことで、現実は複雑な原因が複合して事故は発生し、因果関係が明確とならない。軽水炉の冷却装置への注水が手遅れになると発熱して、放射能漏れを食い止めることは離れ業に等しい」という主旨のことを力説、原発の安全性を危ぶみ、事故の危険性を指摘していた。

映画は、次に東海村を訪ねる。原発のおける使用済み燃料の処理は外国に委ねていたが、東海村に再生処理工場の建設が決まったのは1957年、1971年着工、稼動するのは1981年というから、建設途上である。使用済み燃料からウランとプルトニウムを取り出すのだが、プルトニウムの毒性は強く、原子力のホープとも呼ばれるがその処理が非常に難しい物質である。1000年単位の管理が必要であるとされる。ここでは中島健太郎氏*③が案内役である。「1000年後に事故が起こるかもしれないと言って、今ある石油を使い切ってしまっていいのか。子孫のためにならない。事故など考えているとキリがない話で・・・」と、だいぶラフなことをいうではないか。

「第2のプロメテウスの火」に例えられる原子力には、人間の本当の英知が試されているのではないかという言葉で結ばれていた。

<注>

①菊池健:愛媛県出身、大阪大学で原子物理学専攻、東京大学原子核研究所助手時代にサイクロトロンの建設と一連の実験に従事、1972年高エネルギー物理学研究所開設と同時に教授就任、1992年退官。1998~2000年度日本学術振興会理事長。2007年~、伊方原発環境安全管理委員会技術専門部会委員。2008年旭日中綬章授賞。著書に『原子物理学・増補~微視的物理学入門』(共立出版1979年)など

②藤本陽一:東京都出身、東京帝国大学卒業、1956年、宇宙線物理学専攻、東京大学原子核研究所教授、1963年早稲田大学教授、1996年退職。著書に『アンデスに宇宙線を追う』(岩波書店1979年)『原子力への道を開いた人々』(さらえ書房 1981年)など

③中島健太郎:1972年動燃再処理部次長、1975年動力炉・核燃料開発事業団東海事業再処理建設所長、1977年再処理問題に関する日米合同調査に日本人11名の1員として参加など

<原子力発電略年表>

1945

8月広島、長崎原子爆弾投下

1951

アメリカで高速増殖炉による世界初の原子力発電

1954

日本学術会議、原子力研究の3原則自主・民主・公開を確立

ビキニ環礁アメリカ水爆実験で第5福竜丸被爆、22人被爆、1人死亡

1955

原子力3法成立、日米原子力研究所協定締結

8月広島にて第1回原水爆禁止世界大会開催

1956

原子力委員会発足(委員長正力松太郎)

1957

原子力委員会、原発導入を決定。国際原子力機関(IAEA)発足

日本原子力発電会社、東海原子力発電所着工、66年本格発電開始、

67年敦賀原発着工

1970

原電敦賀原発1号機運転開始、関西電力、美浜原発1号機運転開始

1971

東京電力、福島原発1号機(軽水炉)運転開始、26号機、7479

順次稼働。東海村再処理工場着工

1973

四国電力伊方原発反対住民提訴

1974

電源3法公布、原子力船むつ放射能漏れ事故

1975

原子力委原子炉周辺放射線量目標最大年間5ミリレム設定

1978

原子力安全委員会(吹田徳雄)発足

1979

3月アメリカ、スリーマイル島原発冷却水漏れ事故 

9月動燃人形峠ウラン濃縮工場運転開始

1981

動燃東海村に再処理工場本格稼働

敦賀原発高濃度放射能漏れ100人被曝事故隠し判明

1986

4月チェルノブイリ原発事故、被害近隣諸国に及ぶ

1993

六ヶ所村の再処理工場着工

1997

東海村市処理工場火災爆発事故、2000年再開

| | コメント (0)

2011年6月21日 (火)

長編記録映画「夢と憂鬱~吉野馨治と岩波映画」完成上映会へ

上映会は、「記録映画アーカイブプロジェクト・第6回ワークショップ」として下記の要領で開催された。

日時:2011619日(日)午後1330分~17

場所:東京大学本郷キャンパス・福武ラーニングシアター

主催:東京大学大学院情報学環(記録映画アーカイブ・プロジェクト)

私は、36日、第5回のワークショップにも参加し、本ブログにもそのレポートを書いているので、ご参照ください。↓

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2011/03/20-615f.html

今回の映画の主人公は、岩波映画の創立者の一人、吉野馨治(1906~1972年)である。私にとっては、前回のワークショップではじめて聞いた名前だった。数々の優れた科学映画、教材映画、PR映画を手掛けたカメラマンであり、製作者、演出家であり、岩波映画製作所の経営者にもなった。その後進からは、私などでもその名を知る、羽仁進、羽田澄子、黒木和雄、土本典昭、小川伸介、大津幸四郎、時枝俊江、秋浜悟史、長野重一らの数多くの人材を送り出した教育者でもあった。

吉野の同行者・後進、そして家族ら17人の証言を軸に35作に及ぶ記録映画の紹介、写真・映像などを交えながら、吉野馨治の生涯と日本の記録映画の歴史が語られる、122分の長編記録映画である。

吉野が最初に手掛けた科学映画は中谷宇吉郎指導による『雪の結晶』(東宝文化映画部1939年、31分)で、監督・撮影を担当、海外でも高い評価を得た。浜松商業高校出身の吉野は上京後、1928年河合映画に入社、後の大都映画においては、安価な娯楽映画の撮影にあたり、1936PCL、後の東宝に移ってからも エノケン、ロッパ、アチャコ・エンタツらの喜劇人が主役の大衆娯楽映画の撮影を担当していたことがその作品名からもわかる。当時、「文化映画」は国策として活用されたが、亀井文夫監督・三木茂撮影の『上海』(19382月公開、77分)など従来の戦争記録映画とは異なる手法の作品も登場したが、監督・撮影が同じコンビの『戦ふ兵隊』(1939年)は、検閲により、公開禁止の憂き目にあい、亀井は、1941年治安維持法で逮捕・投獄されるという時代であった。

戦時下の吉野は、39歳で招集解除されたが、敗戦時は、家の神棚を庭に投げつけたという長男の証言も登場する。そして、吉野の戦後の歩みは、まさに日本の記録映画のパイオニアとしての栄光と苦闘の歴史となる。中谷宇吉郎の支援で始まった岩波映画、岩波書店のなかでの岩波映画、1950年代は社会科や理科の教材映画や劇場映画に新風を吹き入れた時代を経て、高度経済成長期を迎える。岩波映画製作所は1960年新社屋を持ち、企業をスポンサーとする産業・PR映画が全盛となり、やがてテレビ番組制作へと比重が傾く。社会科教材『はえのいない町』(1950年、撮影:吉野)、『佐久間ダム(総集編)』(1958年、電源開発企画)、『新しい製鉄所』(1959年、川崎製鉄企画、製作:吉野)、「楽しい科学」シリーズ(1957~62年、日本テレビ放映、八幡製鉄提供)「日本発見」シリーズ(196162年、日本教育テレビ放映、富士製鉄提供)などを製作した。「日本発見」シリーズの「東京都」「群馬県」は、その内容についてスポンサーとの折り合いがつかず、監督を変えて取り直すという事態が発生、以降、産業・PR映画の製作者と企業とのせめぎ合いが激しくなっていく。製作の現場には臨時職員が増大し、吉野は経営者として、その社員化を迫られる立場にもなる。

 映画は、ここで急展開し、それまでも画面に何度も登場していた長男の吉野宏氏が、スモン病患者であることを知らされるとともに、1967年吉野自身も同病の発症に見舞われる。* 吉野は、科学教育・科学映画への情熱は衰えず、教育学者の仮説実験授業を実践していた板倉聖宣との出会いにより、「科学技術映画大系」シリーズを手掛けることになる。原因が分からないままの闘病生活の苦しさとともに、1970年になって薬害と判明した後は、科学を信じ切っていたことへの敗北感に打ちのめされ、社会や政治への憤懣を書き残すのだった。1969年石牟礼道子の著作などにより「水俣病」が知られるところとなり、企業や政府が責任を認めようとしない中、水俣病患者の実態と苦悩を描いた土本典昭の記録映画『水俣―患者さんとその世界』が完成するのが1971年だった。吉野は、1972年死去、66歳であった。

スモン病とは、整腸剤キノホルムによる薬害病で、1955年ごろから19678年頃に発症が多く、当初は風土病やウィルス説などとも言われたが、1970年原因が判明した。下痢が続き抹消神経が侵され、下肢の機能や視覚障害が起きる。全国に1万以上の患者がいたが、一部、製薬会社(田辺、武田など)との和解が成立するに至っている。

吉野馨治の映画、記録映画、科学映画に託した理想、科学的な思考の重要性を根底に、駆け抜けてきた生涯を見てきた。科学を信じ切って、薬害に倒れた吉野の悔しさは、原発事故に被災し、不安に怯えている今の私たちの悔しさや怒りと共通するものがあろう。科学的な思考と冷静な分析・決断が迫られていることを痛感するのだった。

会場は、たしかに年配の方、しかもどこかで「映画」に関わってきたような風情の方々が多いような気がした。もちろん若い方々は学究なのか映画の愛好家なのか、満席のため階段に座布団を敷いての鑑賞には心強く思ったものだった。私は所用で全体討論の半分ほどで会場を抜けたのだが、一つ残念だったのは、会場の最前列には、映画でのインタビューにも登場された、吉野家の長男の吉野宏夫妻、次男、長女の四方がいらしたのに紹介がなかったことである。それに、岩波映画OBで、会場の質疑に登場された牧衷氏、井坂能行氏のほか、私の見間違いでなければ、映画のインタビューで出演の羽田澄子、藤瀬季夫、小村静夫、吉原順平、大津幸四郎ら各氏の姿をお見かけしたように思うが、会場での紹介があれば、映画への親しみも一層で深められたであろうと思う。

吉野が撮影の技術を磨いた映画会社「大都映画」の名前を画面の端に見たとき、次兄の思い出がよぎった。7つ違いの次兄は、映画青年が転じて、中学校の英語教師の傍ら学校演劇の場でも活動した。その赴任校の一つが豊島区立朝日中学校だった。その敷地が大都映画の巣鴨撮影所跡地ということがわかって、その歴史を調べていたのを何度か聞かされていた。定年後まもなく病に倒れ、亡くなったが、元気だったら、今日のような機会をどんなにか喜んだことだろう。私の映画好きも、この兄の影響が大きかったと思うのだ。

夏至も近い休日の本郷の街、スタバも満席だったし、若者の多い街だ。地下鉄駅に急ぐ路上で、大きなチラシをもらった。あす、京都に本店のあるK堂という和菓子店が開店するそうだ。近江屋というケーキ屋さんの隣りになる。私は、道を渡って、千鳥屋でカステラまんじゅうを買っていた?店員からは、足利市の織姫神社に奉納する七夕の短冊をとペンを差し出され、書いたのはやはり脱原発への願いだった。

福武ラーニングシアター会場入り口

Gedc1454sinnp_3

                

最前列の吉野家ご家族

Gedc1455

             

             岩波映画OBの方々、右端羽田さん

Photo  

| | コメント (0)

2011年6月11日 (土)

鎮守の杜が危ない~そこには、やはり、開発の影

 私たちの町内に接して、八社大神という小さな神社がある。ここは、かつての井野・青菅の鎮守の杜で、境内には15~16世紀に在ったとされる井野城の遺構がある。私が引っ越してきた20数年前、この神社周辺の雑木林と幹線道路を挟んで西側に位置していた、かつて馬の水飲み場であったという土塁にかこまれた雑木林があった。双方の緑地とさらに南側の縄文後期の井野長割遺跡をめぐる森林は、多くの住民にとって、かけがえのない癒しの空間であった。八社大神は、50所帯近くの井野本村の方々が長い間大事に守ってきた「井野一番地の鎮守の杜」であり、いまも「辻切り」という伝統行事を守っていることでも有名である。

2003年の発掘調査によれば、拝殿の東側には、なだらかな斜面に囲まれたような、約30m四方の低地があって、ここが城郭跡らしい。その北側にもやや小さめの窪地がある。周辺には坑や溝の跡や鍋や磁器の出土品があり、その跡はただちに埋め戻されたという。というのは、この境内地を含め上記の雑木林と井野長割遺跡は、48ヘクタールの井野東土地区画整理組合事業による開発区域に入っており、組合の代行業務である地元ディベロッパーの山万が、周辺と一体的に開発を進めてきた。この経過については、このブログでも何度か取り上げているので参照していただきたい。

今回の地震直後、八社にお参りに行くと、鳥居の笠木の部分が崩れ落ち、碑が倒れ、付近の田んぼを貫く農道にも液状化のためか陥没箇所があった。この八社の森に面して、50戸近い新しい住宅街が出来上がったばかりだった。そこに住む知人から聞いた話によると、地震の直前だったが、突然地元の工事会社から、この境内の西北のコーナーを伐採し、住宅街に面した北側に「参拝者用」の駐車場12台分を作りたい、近く工事に入るのでよろしく、とあいさつに来たという。びっくりして、図面と地元への説明会を依頼した由、地震のため延び延びになっているとのことだった。この森に面しては6軒のお宅が並ぶ。この鎮守の杜の風景は、変わることがない環境だというのが、これらの住宅購入時の説明で、数か月前に購入したお宅もあるとのことだった。

ともかくいろいろあって、4月下旬に説明会が開かれた。工事の施工主は、先の井野本村の氏子さんたちで作る一般社団法人井野興農社で、工事は当地のディベロッパー山万の子会社K社であった。両者による説明会には、興農社からは社長以下十数名とK社から2名、近隣住民と自治会関係者あわせて30人だったろうか。

なぜいま、八社の森を削って駐車場なのかが、よく分からない。このままでいけば、この境内地を含む「井野東土地区画整理事業」は来年完了し、土地区画整理組合も清算の予定なのだ。区画整理事業の第4工区にあたるこの境内地の隣接地では調整池を拡張、親水公園もでき、公園北側には13階建てのマンションも2年前に完成しているのである。

興農社役員の説明によれば、境内でたき火や賽銭泥棒などが続き、あるいは氏子たちの高齢化が進み、管理がしにくくなったので、この際、整備することになったという。境内地の5分の1にあたる1000㎡ほどの樹木を伐採予定だという。それに、境内には倒木寸前の樹木がたくさんあって、危険でもあるといって、中が空洞になっている短い丸太まで持参し、見せるのであった。

隣接の住民は、鎮守の杜があったからこそ、そのロケーションだからこそ購入したといい、拙宅のように数百メートル離れていても、同じ町内の貴重な緑がまたも削られるのがやりきれない、という思いもある。樹齢百年以上の古木も少なくない。整備の名のもとに伐採され、張り芝や駐車場になってしまうのはいかにも惜しい。緑の景観もさることながら、樹木の保水力が一気に失うのも心配だった。第一、神木をそんなに一度に伐ってしまってよいものなのか。

知り合いの氏子さんの一人は「おらァ、反対したョ」といい、氏子の総会では「役員連中」が強行したと憤懣やるかたない様子であった。多数決と言っても僅差の可決で工事が決まったらしい。氏子ならずとも、何かの「たたり」があるのではないか、心配にもなった。しかし、同じ町内の住民の中には、あの曲がり角は見通しが悪い、夜の暗がりがあぶない、花粉症なので杉は伐って欲しい、という者から、所有者の工事にクレームをつけるのはけしからん、という発言まで飛び出した。

明日からでも工事に入ります、みたいな勢いだったが、ともかく、住宅の売り主であったディベロッパーにも参加してもらう話し合いを持った後、駐車場が2か所に分散する変更が見られ、現地の説明会を持った後は、参道位置の修正により伐るはずの樹木がだいぶ残ることになった。この間、自治会が途中で退いてしまい、隣接住民と有志の支援者で一件落着を見たことになる。まずコーナーの外周に立つ杉の木だけでも20本以上は伐られただろうか。切り口の年輪をみると60~70年のものが多く、枯れていたのは12本?たしかにあたりはすっきり明るくなったが、外周道路から鳥居や狛犬が丸見えとなった。いまだに「なぜ駐車場?」と、釈然としないまま、伐根、切り土工事が進む横を通り過ぎるのだった。

また、説明会では、公益社団法人化する要件作りの一環らしいことにも触れていた。その後、調べてみると、2015年がその期限らしい。また、区画整理事業区域の住居表示変更が66日になされ、境内を含む一帯の第4工区は、「宮ノ台6丁目」となった。また、氏子さんの何人かは、八社大神の「井野一番地」という表示がなくなってしまうのかと嘆いている。町名変更についても、ディベロッパーの意向が強く反映していた実態は、本ブログでも触れた。*

*町名ってこんな風に決まるんだ、「ユーカリが丘」ってどこまで

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2009/07/post-3f5d.html

 もう、これ以上失う樹木はなくなった。来年、都市計画道路が開通する。近くの個人商店、酒屋、喫茶店、美容院、パン屋さん・・・、この数年でどんどん閉店していった。地震で長らく不通になったモノレール、高齢化著しい私たちの町はいったいどうなるのだろう。

                  1.伐採前の八社大神北側、2011年4月28日

Gedc1258_60_2

              2.伐り出された杉 2011年5月13日                           

Gedc13211         

                           3.伐採後の八社の森 2011年5月19日

Gedc1354_2

            

              4.一部残された木々2011年5月13日

             Gedc1348_2

              

町名変更にかかる佐倉市からの情報は下記をどうぞ ↓

  http://www.city.sakura.lg.jp/011561000_jichijinken/500soudan_etc/nishi_yukari.htm

補記: いよいよ工事が始まりました。

5.駐車場工事、高いところの狛犬と鳥居が丸見えとなった、6月25日

Gedc1500

6.参道整備工事、6月25日

Gedc14982

工事がほぼ完了したようです。2011年10月11日

7.参道左手、宮の杜公園方面を望む

Gedc1905

8.参道から見下ろす住宅街

Gedc1912

          

              

                       

             

| | コメント (3)

2011年6月 8日 (水)

「千葉県知事 鈴木栄治様」? 森田健作ではなかったの!

一瞬、目を疑った。佐倉市のホームページを見ていると、佐倉市も含む印旛郡市9市町の首長が、千葉県知事あてに放射能対策を強化するよう「東京電力福島第一原子力発電所の事故に伴う要望書」を提出した、とある。そのあて先が、「千葉県知事 鈴木栄治様」となっていたのである。県議を8年間務めた知人の話だと、選挙時や県民・マスコミに対しての発言はもっぱら「森田健作」なのだが、県知事としての発信・受理の文書はすべて本名の「鈴木栄治」なんだそうだ。芸名と本名を使い分けられている県民は、随分と見くびられたものだ。マスコミのカメラの前でやたらにガッツポーズを見せるばかりの、パフォーマンスだけの知事。県知事室へのお出ましは短時間で済ませ、議会での答弁は、見るに?に堪えないそうだ。その知事を選んだのはだれだったのか。

知事の氏名についての県政策法務課の見解については、以下を参照ください。

http://www.pref.chiba.lg.jp/seihou/chijishitsu/shimei/index.html

 ちなみに、冒頭の首長たちが県内の他の市町に出遅れて出した要望書の趣旨には以下のように書かれていた。

「 東京電力福島第一原子力発電所の事故により放出された放射性物質に対し、多くの住民から不安の声が寄せられていることから、印旛郡市9市町の連名により千葉県知事に対して要望書を提出しました。 具体的には、モニタリングポストの増設、各市町域での統一した測定と結果の公表、保育所・幼稚園・学校・公園等での土壌等の測定と公表及び指導体制の構築、屋外プール水の運用の統一基準を示すこと、農畜産物に対する検査の充実、放射線量等の規制基準を早急に示すよう国に働きかけること、放射線対策等を行う市町村の支援を求めています」

要望書全文は、以下をどうぞ。

http://www.city.sakura.lg.jp/010325000_kikakuseisaku/900kobetsu/010shokadai/030saigai/youbousho.pdf

| | コメント (0)

2011年6月 6日 (月)

佐倉市の審議会などの形骸化とその問題点~市民参加を実現するために

201164日、市民有志による、佐倉市議との懇談会なる集まりがあった。主催事務局は新しい市議会議員の全会派の代表と無所属を含めた一人会派の市議にお誘いの手紙を送ったそうだ。当日の参加市議は4会派6人、お一人の市議が急用で不参加となったのが残念だった。

 市民側の参加者も、市政・市議会の改革にかかわる活動を続けているいくつかの団体のメンバーが多かった。会派の支持者も参加していたと思うが、多種多様な市民が集まったという感じだった。市民有志の要望もあって、あらかじめ用意した話題は次の3つだった。

①市の防災対策について

②議会改革の市民参加について

③審議会の在り方や市民参加について

①は、東日本大災害への佐倉市の対応があまりにもお粗末だったことを知った市民の声を反映し、②は、昨年12月議会で成立した「議会基本条例」をいかに中身のあるものにしていくかという思いは熱く、議会でも進められているという条例第7条の市民への広報について活発な意見交換がなされた。①については、原発事故への不安を反映して、佐倉市の印旛郡9市町村合同での県への放射能対策強化の要望(62日付)、佐倉市独自の測定要望などについても話し合われた。③については、市民有志の中にも、自分なりの関心分野でいささかでも市政にかかわりたいという思いで、さまざまな審議会や懇談会などの委員公募の際、応募し、はねられたという苦い経験を持つ人が何人かいた。そういう私もその一人だったが、自分が一期(2年間)だけかかわった審議会があるので、その実態と現行制度の問題点を探ってみた。

以下は、6月4日の集まりで報告したレジメをもとに書きとどめたものである。

******************************

                              

佐倉市の審議会などの形骸化と問題点

~市民参加を実現するために~

1.佐倉市の審議会などの現状

1)どんな審議会がいくつあるのか

佐倉市にはいったいどんな審議会がいくつあるのか、素朴な疑問から調べていくと、市役所のホームページの「佐倉市の審議会等の一覧」という見出しに出くわした(総務部総務課行政管理班のサイト)。この一覧によれば、以下のとおりである。

①付属機関(現在38機関)a
 地方自治法133条の43項の規定により法律又は条例により設置されたもので、例えば、以下のような、基本的な市行政にかかる事項を主題とする審議会で、なかば永続的な審議会である。(  )内は事務局を置く担当課名を示す。

 企画政策部:総合計画審議会(企画政策課)

 総務部:情報公開・個人情報保護審議会(総務課)

 市民部:市民協働推進委員会(自治人権推進課)

     男女平等参画審議会(自治人権推進課)

 都市部:都市計画審議会(都市計画課)

 福祉部:子育て支援推進委員会(子育て支援課)

     介護認定審査会(介護保険課)など

②付属機関に類するもの(現在27機関)b型

 規則または要綱などにもとづき設置されたもので、テーマ限定、期間限定の会議で、その名称も懇談会、委員会、懇話会、検討委員会などさまざまである。

 企画政策部:自治基本条例策定市民懇談会(企画政策課)

 福祉部:地域福祉計画推進委員会(社会福祉課)

 都市部:都市マスタープラン策定懇話会(都市計画課)

 教育委員会:史跡井野長割遺跡整備検討委員会(文化課)

 ①の設置の根拠条例を「一覧」の備考欄にリンクしてもらえば簡単なのに、いちいち「条例・規則検索」により検索し直さないといけないことになっている。②の根拠になっている要綱については、ホームページ上の公開・非公開は事務局担当課の裁量なので、ネット不登載の場合は市政資料室へ出かけないと閲覧できないという不便さである。公開の場合でも、その要綱にたどり着くまでは、相当の根気を要することが分かった。これも「一覧」の備考欄にリンク先を記載すれば済むことである。登載が進まないのは、市民が「要綱」など確認により不都合があるのを危惧してか、実態が要綱にすら沿ってないことを明らかになるためか、などと勘ぐりたくなるではないか。

 今回の調査の過程で、「一覧」を管理している総務部行政管理班の担当者には

ただちに、「一覧」の備考欄に条例・要綱などの設置根拠へのリンク記載を要望しておいた。早急な実現を望みたい。

2)審議会などの設置・運営について

 つぎに、このような現在65もある「付属機関ないしそれに類する」審議会を束ねて管理する法規はないのか、という疑問。これは、上記、行政管理班担当者の誘導により「佐倉市付属機関等の設置・運営に関する要綱」(総務部総務課→組織・事務に関すること→各種のお知らせ)にたどり着いた。その要綱に拠れば、以下のような縛りはあった。

 ①設置の条件:他の行政手段でできないか、その必要性、類似・重複がないか、目的・所掌・委員数・期間など明記しているか、委員は15人以内で必要最小限度か

 ②懇話会等付属機関に類するもの:検討事項を具体的に、期限を設けているか

 ③委員の選任については以下の配慮をしているか

  ・各界各層、幅広い年齢層にわたる

  ・女性委員の登用については「男女平等参画推進条例・同基本計画」の数値目標35%以上になるよう努める

  ・再任は3期または8年のいずれも超えないこと、ただし専門的な知識がある場合や特別な事情がある場合の特例は認める

  ・兼任は3機関以内を限度とする、ただし、再任の場合と同様の特例を認める

  ・10分の3以上を公募する、10分の3未満の場合は、意見募集・公聴会などにより市民の意向反映を配慮する

 ④会議の運営・公開

  ・会議は公開(傍聴可)、会議録の作成・閲覧に供する

  ・「佐倉市審議会等の会議の公開に関す要綱」による

  上記①②についても、付属機関2種、ab型に重複するものはないか、とくにb型のなかで統合できるものはないか、たとえばa型の民生委員推薦会とb型の民生委員候補者推薦準備会の相違は何なのか。また、b型に多い各部署の計画策定にかかわる会議の経過・内容をみると、市民参加の形態をとりながらも、行政主導、行政提案の追認制度になっている場合が多いように見受けられる、など問題は多い。

さらに委員の選任については、いくつかの数値目標、公募委員の割合、女性委員の割合はどれほど実効性があるのか、再任・兼任の特例を設けることによって、委員の固定化、長期化は著しく、まったく形骸化していることは、後掲のいくつかの事例でも明らかである。行政による改善の努力も全く見られないのが現状である。

 さらに、委員の公募については「佐倉市付属機関等の委員の公募に関する要綱」をもって次のような要件を付する。

①公募の方法

 ②応募の条件

・市内在住・在勤

 ・兼任3機関以内

 ・国・自治体の議員、佐倉市の常勤職員は不可

 ③選考方法:申込書(小論文含む)の書類選考、決定困難な場合は面接・抽選など可

 ④選考:担当部長または課長、人事担当部長または課長、付属機関等の庶務担当部または課などの長その他による選考委員会設置

問題は、選考方法と選考担当者である。ほとんどが小論文などの書類選考を行うが、その選考にあたるのはだれかと言えば、事務局担当の担当課とその担当部および人事担当関係者なのだから、まさに行政に都合のいい、行政にとって安心・安全な意見の持ち主しか選考されないことは明白である。まさに究極の御用学者・御用市民による委員が選ばれる仕組みと言えるだろう。

2.委員選任の実態~情報公開・個人情報保護審議会を例として

  筆者がかかわった審議会の委員名簿を時系列で追跡してみると、別表のように

なる。

別表↓

http://dmituko.cocolog-nifty.com/singikaisiryo.pdf

   

  

    この一覧を子細に眺めていると、委員だったころの行政の対応や他の委員たちのいい加減さを思い起こし、その後も何も変わっていない様相に気分が悪くなるほどである。説明することもないが、この一覧から見えてくるものは、一向に収まらない、委員の長期化、固定化、兼任状況の変わらなさである。また、会長・副会長のコンビが、私が1期だけ副会長を務めたのを除いて変更がない状況をどう説明するのだろうか。再任の特例が認められるほど専門的な知見をもって議論がされるわけでもない。むしろ常識的な市民の感覚や良識がもっと生かされるべきではないのか。

とくに驚いたのは、副会長を続けている委員が、選出母体を持つ行政選任の委員から、突如、「市民公募」に乗り換えて委員になっている事実だった。「御用市民」の何ものでもない。

さらに、情報公開を主題とする審議会でありながら、いまだに「会議録」に、出席委員のフルネーム、発言者の記名が一切ない。なぜ発言委員の名前を会議録に残さないのか。かつて、残すべきだとする私の提案は、多数決で否決された。自由な討議の妨げになるから反対だというのである。

3.どうしたら少しでも市民参加への道は開けるのか

  平凡な結論ながら、とりあえず、以下のような努力を重ねてみることが必要なので

はないか。

 ①委員の長期化・固定化・兼任、渡りについて

  専門性ならぬ行政への貢献度・忠誠度が優先する選任方法の改善へ

  ・市民公募の委員を少なくも35%以上、さらに50%以上にする。

  ・少なくとも再任・兼任を要綱の範囲にとどめ、特例を撤廃する

  ・委員就任に際して、年齢・選任母体、職業、町名、兼任状況などの情報を公開する

  ・構成メンバーに議員が入っている場合は排除し、市民公募に変える

 ②選考方法の変更

  ・市民公募の割合の確保と同時に、その選考は応募者の抽選とし、行政の介入・恣意性を排除する

③ 情報公開の徹底

  ・審議会等の根拠法例・規則・要綱の明示(リンクの徹底)、検索を簡易化する

  ・委員名簿の公表、氏名のみならず、年齢、職業、住所町名、選任母体、委員経歴、兼任状況などはネット上公開をする

  ・会議の公開の徹底、発言者記名つきの会議録、資料をネット上公開をする

  ・関心のある審議会はつとめて傍聴し、市民公募には応募する

**************************

戴いた鉢植えを数年前に庭の隅っこに植えた。

毎年、開花を楽しみにしているが、

今年の咲きっぷりは見事でした。

      6月3日

Gedc1397

         6月4日

Gedc1401amariri

  

| | コメント (0)

« 2011年5月 | トップページ | 2011年7月 »