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2011年6月29日 (水)

古くて新しいドキュメンタリー「いま原子力発電は・・・」「原発切抜帖」に学ぶ

 いま、岩波ホールで、羽田澄子と土本典昭両氏の原発関係のドキュメンタリー2本が、上映されている。私は、この直前の本ブログ記事にもあるように、記録映画アーカイブ・プロジェクトのワークショップで「吉野馨治―夢と憂鬱」を見た折に知った。その映画の中のインタビューにも登場した、いわば岩波映画の「吉野学校」の卒業生である羽田・土本両氏の、かなり前の作品というので、どうしても見ておきたかった。岩波ホールでは「緊急特別上映」ということで、『遥かなるふるさと旅順・大連』(羽田澄子監督)の上映時間に挟まれて、平日の夕方450分から1回のみの上映である(630日まで)。

文末の人名の<注>は、ネット検索で得られた情報であり、不備は承知ながら参考のため掲げた。また、映画2作の背景として、私のメモの整理の産物で、参考にしていただけたらと思う。この40年間に原発事故が相当な頻度で、発生し、多くの犠牲者が出ていたことを確認する作業でもあった。「想定外」などとか「ただちに影響がない」などと言える状況でないことも知った。

「原発切抜帖」

1982年、青林舎作品、高木仁三郎監修、土本典昭演出、45分)

原爆・原発関係の日本の主要全国紙の新聞切り抜きと関係写真・映像と小沢昭一の語りのみで綴った、ユニークな手法によるドキュメンタリーである。時には海外のメデイア資料も入れながら、原爆や原発がどのように報道されてきたかを検証する。日本への原爆投下の被害がまだ生々しい状況の中から原爆の実験を続ける国々、その被害の実態と「原子力の平和利用」という美名のもとに原発を推進してきた各国政府や企業、研究者の隠ぺい体質と危機感のない姿勢とそれを報道する「新聞」の欺瞞性、被害者不在の事故への対応を克明に追跡し、原発の危険性を告発する、まさに、今日の福島原発事故への必然を見るようで恐ろしかった。

 「いま原子力発電は・・・」

1976年、放送番組センター・岩波映画製作所制作、羽田澄子演出、25分)

これは、1977年テレビで放映された「地球時代」(全13回)の1作で、シリーズ全作とも日本万国博覧会協会の協力である。197677年と言えば、767月、ロッキード事件で田中角栄前首相が逮捕

天皇は、在位50年に先立つ75年のアメリカ訪問後の記者会見で「広島原爆投下はやむを得なかった」との発言がなされたときでもあった。

 映画は、福島へ向かう田園風景が途切れて、いまでこそ見慣れているいくつかの建屋が見え始める。76年撮影だから、福島第1原発は1~3号機まで出来ていて、4号機が建設中であった。建屋や制御室内の取材はできずに、展示室や模擬制御室での説明だった。展示館の責任者菊池健氏(1929~)*①は、羽田氏の質問に応える形で進められる。新聞やテレビで見ない日はない、あの原子炉の断面図も登場、発電の仕組みが説明される。原発の事故や安全性について、若い羽田氏による質問が続くが、菊池氏は自信に満ちて、早口でもある。印象的だったのは「事故、事故と言わないでください、故障なんですから止めて点検をすればいいのです」との言葉。「事故の確率は50億分の1という、隕石にあたるような確率ですから、安全です」との趣旨を繰り返す。

 一方、原発の安全性には疑問を持つ研究者早稲田大学教授の藤本陽一氏(1925~)*②は、「データの蓄積がない原発事故の確率などというのは紙の上のことで、現実は複雑な原因が複合して事故は発生し、因果関係が明確とならない。軽水炉の冷却装置への注水が手遅れになると発熱して、放射能漏れを食い止めることは離れ業に等しい」という主旨のことを力説、原発の安全性を危ぶみ、事故の危険性を指摘していた。

映画は、次に東海村を訪ねる。原発のおける使用済み燃料の処理は外国に委ねていたが、東海村に再生処理工場の建設が決まったのは1957年、1971年着工、稼動するのは1981年というから、建設途上である。使用済み燃料からウランとプルトニウムを取り出すのだが、プルトニウムの毒性は強く、原子力のホープとも呼ばれるがその処理が非常に難しい物質である。1000年単位の管理が必要であるとされる。ここでは中島健太郎氏*③が案内役である。「1000年後に事故が起こるかもしれないと言って、今ある石油を使い切ってしまっていいのか。子孫のためにならない。事故など考えているとキリがない話で・・・」と、だいぶラフなことをいうではないか。

「第2のプロメテウスの火」に例えられる原子力には、人間の本当の英知が試されているのではないかという言葉で結ばれていた。

<注>

①菊池健:愛媛県出身、大阪大学で原子物理学専攻、東京大学原子核研究所助手時代にサイクロトロンの建設と一連の実験に従事、1972年高エネルギー物理学研究所開設と同時に教授就任、1992年退官。1998~2000年度日本学術振興会理事長。2007年~、伊方原発環境安全管理委員会技術専門部会委員。2008年旭日中綬章授賞。著書に『原子物理学・増補~微視的物理学入門』(共立出版1979年)など

②藤本陽一:東京都出身、東京帝国大学卒業、1956年、宇宙線物理学専攻、東京大学原子核研究所教授、1963年早稲田大学教授、1996年退職。著書に『アンデスに宇宙線を追う』(岩波書店1979年)『原子力への道を開いた人々』(さらえ書房 1981年)など

③中島健太郎:1972年動燃再処理部次長、1975年動力炉・核燃料開発事業団東海事業再処理建設所長、1977年再処理問題に関する日米合同調査に日本人11名の1員として参加など

<原子力発電略年表>

1945

8月広島、長崎原子爆弾投下

1951

アメリカで高速増殖炉による世界初の原子力発電

1954

日本学術会議、原子力研究の3原則自主・民主・公開を確立

ビキニ環礁アメリカ水爆実験で第5福竜丸被爆、22人被爆、1人死亡

1955

原子力3法成立、日米原子力研究所協定締結

8月広島にて第1回原水爆禁止世界大会開催

1956

原子力委員会発足(委員長正力松太郎)

1957

原子力委員会、原発導入を決定。国際原子力機関(IAEA)発足

日本原子力発電会社、東海原子力発電所着工、66年本格発電開始、

67年敦賀原発着工

1970

原電敦賀原発1号機運転開始、関西電力、美浜原発1号機運転開始

1971

東京電力、福島原発1号機(軽水炉)運転開始、26号機、7479

順次稼働。東海村再処理工場着工

1973

四国電力伊方原発反対住民提訴

1974

電源3法公布、原子力船むつ放射能漏れ事故

1975

原子力委原子炉周辺放射線量目標最大年間5ミリレム設定

1978

原子力安全委員会(吹田徳雄)発足

1979

3月アメリカ、スリーマイル島原発冷却水漏れ事故 

9月動燃人形峠ウラン濃縮工場運転開始

1981

動燃東海村に再処理工場本格稼働

敦賀原発高濃度放射能漏れ100人被曝事故隠し判明

1986

4月チェルノブイリ原発事故、被害近隣諸国に及ぶ

1993

六ヶ所村の再処理工場着工

1997

東海村市処理工場火災爆発事故、2000年再開

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