長編記録映画「夢と憂鬱~吉野馨治と岩波映画」完成上映会へ
上映会は、「記録映画アーカイブプロジェクト・第6回ワークショップ」として下記の要領で開催された。
日時:2011年6月19日(日)午後13時30分~17時
場所:東京大学本郷キャンパス・福武ラーニングシアター
主催:東京大学大学院情報学環(記録映画アーカイブ・プロジェクト)
私は、3月6日、第5回のワークショップにも参加し、本ブログにもそのレポートを書いているので、ご参照ください。↓
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2011/03/20-615f.html
今回の映画の主人公は、岩波映画の創立者の一人、吉野馨治(1906~1972年)である。私にとっては、前回のワークショップではじめて聞いた名前だった。数々の優れた科学映画、教材映画、PR映画を手掛けたカメラマンであり、製作者、演出家であり、岩波映画製作所の経営者にもなった。その後進からは、私などでもその名を知る、羽仁進、羽田澄子、黒木和雄、土本典昭、小川伸介、大津幸四郎、時枝俊江、秋浜悟史、長野重一らの数多くの人材を送り出した教育者でもあった。
吉野の同行者・後進、そして家族ら17人の証言を軸に35作に及ぶ記録映画の紹介、写真・映像などを交えながら、吉野馨治の生涯と日本の記録映画の歴史が語られる、122分の長編記録映画である。
吉野が最初に手掛けた科学映画は中谷宇吉郎指導による『雪の結晶』(東宝文化映画部1939年、31分)で、監督・撮影を担当、海外でも高い評価を得た。浜松商業高校出身の吉野は上京後、1928年河合映画に入社、後の大都映画においては、安価な娯楽映画の撮影にあたり、1936年PCL、後の東宝に移ってからも エノケン、ロッパ、アチャコ・エンタツらの喜劇人が主役の大衆娯楽映画の撮影を担当していたことがその作品名からもわかる。当時、「文化映画」は国策として活用されたが、亀井文夫監督・三木茂撮影の『上海』(1938年2月公開、77分)など従来の戦争記録映画とは異なる手法の作品も登場したが、監督・撮影が同じコンビの『戦ふ兵隊』(1939年)は、検閲により、公開禁止の憂き目にあい、亀井は、1941年治安維持法で逮捕・投獄されるという時代であった。
戦時下の吉野は、39歳で招集解除されたが、敗戦時は、家の神棚を庭に投げつけたという長男の証言も登場する。そして、吉野の戦後の歩みは、まさに日本の記録映画のパイオニアとしての栄光と苦闘の歴史となる。中谷宇吉郎の支援で始まった岩波映画、岩波書店のなかでの岩波映画、1950年代は社会科や理科の教材映画や劇場映画に新風を吹き入れた時代を経て、高度経済成長期を迎える。岩波映画製作所は1960年新社屋を持ち、企業をスポンサーとする産業・PR映画が全盛となり、やがてテレビ番組制作へと比重が傾く。社会科教材『はえのいない町』(1950年、撮影:吉野)、『佐久間ダム(総集編)』(1958年、電源開発企画)、『新しい製鉄所』(1959年、川崎製鉄企画、製作:吉野)、「楽しい科学」シリーズ(1957~62年、日本テレビ放映、八幡製鉄提供)「日本発見」シリーズ(1961~62年、日本教育テレビ放映、富士製鉄提供)などを製作した。「日本発見」シリーズの「東京都」「群馬県」は、その内容についてスポンサーとの折り合いがつかず、監督を変えて取り直すという事態が発生、以降、産業・PR映画の製作者と企業とのせめぎ合いが激しくなっていく。製作の現場には臨時職員が増大し、吉野は経営者として、その社員化を迫られる立場にもなる。
映画は、ここで急展開し、それまでも画面に何度も登場していた長男の吉野宏氏が、スモン病患者であることを知らされるとともに、1967年吉野自身も同病の発症に見舞われる。* 吉野は、科学教育・科学映画への情熱は衰えず、教育学者の仮説実験授業を実践していた板倉聖宣との出会いにより、「科学技術映画大系」シリーズを手掛けることになる。原因が分からないままの闘病生活の苦しさとともに、1970年になって薬害と判明した後は、科学を信じ切っていたことへの敗北感に打ちのめされ、社会や政治への憤懣を書き残すのだった。1969年石牟礼道子の著作などにより「水俣病」が知られるところとなり、企業や政府が責任を認めようとしない中、水俣病患者の実態と苦悩を描いた土本典昭の記録映画『水俣―患者さんとその世界』が完成するのが1971年だった。吉野は、1972年死去、66歳であった。
*スモン病とは、整腸剤キノホルムによる薬害病で、1955年ごろから1967・8年頃に発症が多く、当初は風土病やウィルス説などとも言われたが、1970年原因が判明した。下痢が続き抹消神経が侵され、下肢の機能や視覚障害が起きる。全国に1万以上の患者がいたが、一部、製薬会社(田辺、武田など)との和解が成立するに至っている。
吉野馨治の映画、記録映画、科学映画に託した理想、科学的な思考の重要性を根底に、駆け抜けてきた生涯を見てきた。科学を信じ切って、薬害に倒れた吉野の悔しさは、原発事故に被災し、不安に怯えている今の私たちの悔しさや怒りと共通するものがあろう。科学的な思考と冷静な分析・決断が迫られていることを痛感するのだった。
会場は、たしかに年配の方、しかもどこかで「映画」に関わってきたような風情の方々が多いような気がした。もちろん若い方々は学究なのか映画の愛好家なのか、満席のため階段に座布団を敷いての鑑賞には心強く思ったものだった。私は所用で全体討論の半分ほどで会場を抜けたのだが、一つ残念だったのは、会場の最前列には、映画でのインタビューにも登場された、吉野家の長男の吉野宏夫妻、次男、長女の四方がいらしたのに紹介がなかったことである。それに、岩波映画OBで、会場の質疑に登場された牧衷氏、井坂能行氏のほか、私の見間違いでなければ、映画のインタビューで出演の羽田澄子、藤瀬季夫、小村静夫、吉原順平、大津幸四郎ら各氏の姿をお見かけしたように思うが、会場での紹介があれば、映画への親しみも一層で深められたであろうと思う。
吉野が撮影の技術を磨いた映画会社「大都映画」の名前を画面の端に見たとき、次兄の思い出がよぎった。7つ違いの次兄は、映画青年が転じて、中学校の英語教師の傍ら学校演劇の場でも活動した。その赴任校の一つが豊島区立朝日中学校だった。その敷地が大都映画の巣鴨撮影所跡地ということがわかって、その歴史を調べていたのを何度か聞かされていた。定年後まもなく病に倒れ、亡くなったが、元気だったら、今日のような機会をどんなにか喜んだことだろう。私の映画好きも、この兄の影響が大きかったと思うのだ。
夏至も近い休日の本郷の街、スタバも満席だったし、若者の多い街だ。地下鉄駅に急ぐ路上で、大きなチラシをもらった。あす、京都に本店のあるK堂という和菓子店が開店するそうだ。近江屋というケーキ屋さんの隣りになる。私は、道を渡って、千鳥屋でカステラまんじゅうを買っていた?店員からは、足利市の織姫神社に奉納する七夕の短冊をとペンを差し出され、書いたのはやはり脱原発への願いだった。
福武ラーニングシアター会場入り口
最前列の吉野家ご家族
岩波映画OBの方々、右端羽田さん
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