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2011年8月 8日 (月)

『短歌往来』8月号に 「今月の視点」書きました

機会詩と持続性  

短歌総合誌の八月号には、毎年どこかで「戦争と短歌」の特集が組まれていた。「八月ジャーナリズム」と称される所以でもある。それは、日常的に、「戦争」という重いテーマを敬遠している表れかもしれない。しかし、二十一世紀に入って、その八月特集ですらもあまり見かけなくなった。

短歌総合誌五誌を調べてみると、『短歌研究』は、「短歌でたどる<あの戦争>への思い」(二〇〇一年)、「女性が戦いをどう歌ってきたか」(二〇〇五年)、同年一二月号『短歌年鑑』のアンケート調査「太平洋戦争とのつながり~遭った、遭わなかった、生まれていなかった」、さらに「読みつがれるべき戦争歌」(二〇〇七年)、「今、伝えておきたい戦争の歌・戦争なんて知らないけれど」(二〇一〇年)という特集を組んできた。

『歌壇』では、「いま読み直す戦争詠」(二〇〇八年)、「戦後65年―短歌が詠み継ぐあの夏」(二〇一〇年)が組まれ、「戦後」に焦点をあてた「短歌、戦後55年を詠う」(二〇〇〇年)「短歌で読み解く戦後史」(二〇〇一年)、「戦後短歌60年短歌史のエポック」(二〇〇五年)などの特集も散見される。

『短歌』『短歌往来』『短歌現代』には、八月号の「戦争」特集は見あたらないが、竹山広特集に充てている年があった。二〇〇二年の『短歌』、二〇〇一年、二〇〇八年の『短歌往来』がそれである。『短歌現代』には、遡れば『歌集八月十五日』(一九九八年七月号別冊)という好企画もあった。

一九四五年八月の敗戦で終わった戦争を振り返り、その歴史や文芸を読み直す作業は、持続することに意味があると思う。

一九九一年から開催の「815を語る歌人のつどい」(今年の岡野弘彦氏の講演、近年の「夏祭り」的傾向の是非については改めて考えたいが)、『短詩形文学』『新日本歌人』の八月特集、『掌』の連載「戦争を語ろう」等の持続への努力を大切にと思う。

東日本大震災を詠んだ短歌は、種々のメディアに溢れ、特集も組まれた。機会詩として、その衝撃を歌い残すことも大事だが、拠って来るところを見据える持続性に期待したい。(『短歌往来』2011年8月号所収)

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