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2011年8月24日 (水)

佐倉市はどうする!~放射能汚染問題と市民と(3)市役所は“はかるくん”か~その先がない

私たちの市民グループが、佐倉市の放射線量対策について、市長への面談を申し入れたが、市長は担当部課長に任せると逃げた。まず8月5日、教育長との面談をするが、7月末に、6台の放射線測定器がようやく納入されたので、8月8~10の3日間で市内のすべての幼稚園、小中学校の放射線量を測定する、と胸を張る。これまでの測定結果でも、年間1ミリシーベルト(0.19マイクロシーベルト/時間)を基準にすれば、これを超えない施設の方が少ない。その上、民間の私たちが測定した結果では、1マイクロシーベルト/時間に近い数値やところによっては超えた場所もある中で、教育委員会は、文科省が4月19日の福島県下の学校への通知における暫定的な基準の1~20ミリシーベルト/時間の上限である20ミリシーベルトを「死守」するかのように、その数値を換算した3.8ミリシーベルト/時間を超えないから、格別の対策はとるつもりはない、と言い切る。

8月10日の経済環境部長、環境保全課長、公園緑地課長面談でも、佐倉市の数値は、3.8マイクロシーベルト/時間を下回っているから、特段の対策をとるつもりはない、同様の対応だった。「頻度、場所とも、きめの細かい測定をして、ホームページ上、公開します」の一点張りである。私たちの体験や他の自治体の試みでも除染の効果は大きいのだ。「除染をすれば必ず数値は低減しますから、その手立てを考えてください」とアイデアを提供しても、耳を貸そうともしない。ただ、「計ります!計ります!」のみの大合唱。“はかるくん”という簡易測定器があるが、計ればいいというものではない。市役所は“はかるくん”では済まないはずだ。他の自治体が、独自の測定と同時に、独自の基準の下で、立入禁止表示、除染や土壌の入れ替えを実施しているというのに、見向きもしないのが佐倉市である。

先の、8月8~10日の測定結果が、2週間もたった8月23日になっても公表されていなかった。これまでの測定結果発表は、測定の翌日に公表されたこともあったのだ。10日間以上も何をやっているのだろう。途中で問い合わせると、決済にまわっているとか。翌日に公表できたものがなぜ?決裁者が長期の盆休みでもとっていたのか、都合の悪い数値でも出てきたのか、疑問や憶測が深まるばかりだ。そして、8月24日の朝になって、ようやくホームページ上で公表された。佐倉市各所の高い数値は、相変わらずであった。福島県下の文科省の暫定的な数値が、なぜ佐倉市にまかり通っているのか。文科省がそれらの数値が他の県の自治体の基準値になっていることを看過している責任も大きい。とくに、文科省ですら、5月27日の通知で目標値として年間1ミリシーベルトを掲げているとというのに。

以下、佐倉市のホームページより

これまでの測定結果
  第1報(5月30日まで実施分)の結果はこちら 

  第2報(6月14日及び16日実施分)の結果はこちら 

  第3報(7月7日から14日実施分)の結果はこちら 

  第4報(7月26日から27日実施分)の結果はこちら 

≪今後の予定≫

 佐倉市では現在、関係職員を対象に測定手法の習熟を兼ねた測定をおこなうとともに、測定計画を策定しております。
 測定計画につきましては、決まり次第、お知らせいたします。
 なお調査結果につきましては、ホームページにより随時公表をおこないます。

<リンク>
  
福島県内の学校等の校舎・校庭等の利用判断における暫定的考え方について(文部科学省へのリンク)   福島県内における児童生徒等が学校等において受ける線量低減に向けた当面の対応について(文部科学省へのリンク)

  日常生活と放射線(文部科学省へのリンク)

  放射線に関する各種情報(独立行政法人放射線医学総合研究所へのリンク)

  放射線関連情報(千葉県へのリンク)

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佐倉市はどうする!~放射能汚染問題と市民と(1)3回目の放射線量測定会、相変わらず高い数値を示す

この夏は、猛暑と放射線量測定に振り回された形だ。自分たちの会での2回の測定会と他のグループによる測定会にも参加した。やや旧聞に属するが、8月13日もかなりの猛暑だったが、私も参加している市民グループがお願いしていた、藤原寿和さんによる放射線量測定会に途中から参加した。7月19日に続く2回目の測定会である。今回の測定者である藤原さんは、1970年代、学生時代から水俣病や浜岡原発問題の取り組まれていて、東京都庁職員として環境行政に携わる傍ら、化学物質、産廃や残土などによる公害問題、環境問題における市民運動にもかかわってこられた方である。

お盆の入りとあって参加者はやや少なかったものの、三台の車で移動しながら、別表のように、地表の数値を中心に大きく3か所を測定した。私の家の近くの「宮の杜公園」は前回かなり高い数値を示したので、引き続き2回目の測定となった。測定は、2時から約2時間余。公園・広場の地表では0.26~0.27と比較的共通した線量だったが、五縄公園の側溝では0.38μSv/時、同公園のすべり台下では0.34μSv/時と高い値だった。また、前回の測定で、異常に高かった宮の杜公園の階段下の数値は、前回同様1μSv/時を超える数値で、その個所の砂や落ち葉を除去後、いわゆる「除染」をすると、数値は一挙に下がったのである。(1.06 → 0.29)。

測定終了後、近くの喫茶店で、藤原さんと懇談、東葛地域、市川市ほかの放射能線量測定の現況と行政の対策の現状について伺う。市川市の教育委員会も、当初、小学校内での市民の測定を拒否しましたが、父母の強力な要請で一部実現したこと、市主催の講演会で、8月、9月に2回の放医研の専門家をよぶことになったが、違う見解の講師もよぶように要請していることなどが報告された。佐倉市の対応の鈍さ、その佐倉市を動かすにはどうしたらいいかなどについても話し合い、市民の側のいろいろな形での測定や行政への働きかけが重要なことがわかった。また、藤原さんは「いつでも測定に来ますよ」とおっしゃってくださり、各市の市民の横の連携も強調されていたのが、心強かった。  

 

佐倉市内放射線量測定結果(813

測定者:藤原寿和(市川市在住、廃棄物処分場問題全国ネットワーク共同代表ほか)

測定器:日立アロカ製TCS-161  NAⅠ(ヨウ化ナトリウム)γシンチレーションサー

ベイメータ

測定方法:地上1m・地表05㎝、50㎝、1mを測定し、数値が安定した時点での値

を採る。

単位:マイクロシーベルト/時間

測定場所:千葉県佐倉市内 五縄公園(臼井)、たつのこむら広場(東邦大病院近く)、宮の杜公園(宮ノ台)、上谷津公園(宮ノ台)、宮ノ台マックスバリュ前広場

測定日2011813日(土)14 25分~1610

天候:晴、湿度4458

参加者:測定者を含み合計9

(単位はいずれもミクロシーベルト/時間)

時 刻

場 所

地 点

05cm

(7/19)

50cm

1m

気温

湿度

14:25

五縄公園

北角

0.27

0.21

0.18

31.6

(75)

東側側溝

0.38

0.13

0.14

34.0

58

広場中央

0.19

0.17

0.16

34.2

55

すべり台下(地表)

0.34

すべり台下(地下10cm

0.19

15:08

たつのこむら

広場中央(原っぱ)

0.26

0.21

0.18

33.8

48

広場中央(芝生地)

0.26

砂場

0.26

15:35

宮の杜

公園

すべり台下(マットの上)

0.15

0.13

0.13

0.13

32.5

44

すべり台下(裏側)

0.28

広場(草むら)

0.20

石段下左側(ゴミのたまり場)

1.06

1.11

(0.20)

33.4

48

同上(除染後)

0.29

同上の除染物

1.85

石段下左側(湿地)

1.30

石段下右側

0.60

15:59

マックスバリュ前

植え込み

0.18

16:03

上谷津

公園

側溝内部(ふたを開けて)

0.14

32.5

47

側溝のふたの上

0.18

公園外の道路わき側溝そば

0.34

0.21

0.17

同上 ゴミの中

0.71

下段、赤字の(  )内の数値は719日、当会による同じ場所・高さの測定数値です。

 

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佐倉市はどうする!~放射能汚染問題と市民と(2 )﨑山比早子さんの「原発事故と健康」の話を聞いた

818日、佐倉市ミレニアムホールで、高木(仁三郎)学校出身、元放医研の医師の﨑山さんの話を聞いた。レジメにある放射線の生物影響、放射線によるDNA損傷その修復とがんの発生、被ばく線量と発がんの関係、原発事故と放射性セシウム、原発事故とヨウ素剤という流れで、パワーポイントを使用しての話だった。ムダのない慣れた話ぶりで分かりやすかった。私は、放射線によるDNA損傷については、改めてその恐ろしさを認識したし、また、高線量被ばくと停戦量被ばくの医学的影響、とくに甲状腺がんの発生などの関係が、ようやく腑に落ち、さらに、福島第1原発事故により、報道の中で話題になった「ヨウ素剤の服用」の意味や「SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測)が全く機能してなかった事実」の意味を今になってようやく理解したようなことだった。そして、﨑山さんは、日本の国や自治体は、研究者や他の国際機関から甘いとまで言われている国際放射線防護委員会(ICRP)の「年間1ミリシーベルト」の基準だけでも守ってほしいと強調した。

自分たちで放射線量を測定することも、こうした学習会に参加することもとても大切なことと思う。

しかし、いまの私たちが測定や学習に甘んじていていいものか。低線量被ばくは、この佐倉市でも収まることはない。そのリスクを少しでも食い止めるのはどうすればいいのか、の視点で、私たち市民も動かなくてはいけないのではないか。ちょっとやそっとのことでは、行政は動かない。市議会の保守派は、ともかく市民派と言われる議員たちや会派も、放射線量の測定や除染を行政に一応「申し入れ」るが、その後の動きが見えない。

福島県下向けの文科省の年間20ミリシーベルトという上限の数値を金科玉条のように、それを「下回っています」と繰り返す佐倉市、放射線量対策検討委員会を立ち上げたというものの、連絡調整の会を重ねるばかりで、何もやろうとしない。市民と連携してこうした行政への姿勢を質す議員や会派はどこへ行ったのだろう。

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2011年8月18日 (木)

書評・阿木津英著『二十世紀短歌と女の歌』

著者の阿木津さんとは、10年ほど前に、『扉を開く女たち―ジェンダーから見た短歌史

<1945―1953>』(砂子屋書房 2001年)の共著がある。その時の執筆論文が本著にも収録されている。当時の研究会のことや助成金申請のために東京女性財団の面接を受けたりしたことなどが思い出される。結局、共著は、財団最後となった出版助成金を得ることができたのはありがたかった。その後、阿木津さんは、歌集や数冊の評論集を出している活躍ぶりである。彼女の新著『二十世紀短歌と女の歌』(学芸書林 2011年4月)の機会を与えられ、かなり真面目に読んでみたのだが。

             

冒頭の「『サラダ記念日』―消費社会に馴致された感性」では、歌集としては珍しく出版戦略に従い、二百万部を超えるベストセラーとなる経緯が、新たな取材も加え、より鮮明にされてゆく。商品名が頻繁に登場する俵万智作品における「幸福感や恋の哀歓をかきたてる」商品・イメージに取り囲まれた生活に馴らされてゆく「感性」と「保守性」を看過できないとする問題提起が重い。

本書は、逆年順に、Ⅰ一九七〇年前後から八〇年代後半~女歌論議の時代、Ⅱ一九五〇年前後~女性解放の時代、Ⅲ大正末期から昭和初期~「母性」誕生の時代、Ⅳ明治末期から大正中期~「新しい女」の時代、Ⅴ明治中期、二十世紀初頭代~初期「明星」の時代、に分けて、一九九七年以降発表の論文を収録する。行間からは「女の歌は女が論ずるしかない」との気概が滲み出ている。

Ⅲの「『母性』再考―翻訳語の『母性』『母性愛』の生成過程と定着まで」において、著者は、従来の短歌史の記述や女性歌人の作品評にも多用されてきた「母性」という言葉に着目する。翻訳語としての受容から、批判語としての使用を経て、優生学思想からは保護の対象とされる「母性」、やがては「国家の母」「軍国の母」であることへと変容する意味をたどり、男性に絡めとられていく過程でもあったことを示唆する。

続く「五島美代子―その近代母性」では、与謝野晶子はじめ三ヶ島葭子、若山喜志子ら多くの女性歌人たちが「母であること」の束縛、そして葛藤を必死に歌っている中で、五島美代子の第一歌集『暖流』に、「母であること」に充足と幸福を感じ取る「母性」と平等概念を併せ持つ「近代母性」を発見する。その背景には、美代子自身の母親との軋轢、プロレタリア短歌運動の経験を見据える。さらに、敗戦後の新憲法下では長女とともに大学で学ぶという母子密着の実生活の中で、突然長女を自死で失うという不幸に見舞われ、母としての慟哭と長女への追慕が次女に深い影を落とし、一転「母性喪失」という歪んだ関係へと向かう現実、をも直視する。さらにその後、美代子は歌会始選者への道をたどるのだが、皇室への傾斜をどう評価するのかもあわせて触れて欲しかったと思う。

これまで、短歌史や歌壇では「点景」としてしか語られなかった女性歌人、いまでは顧みられなくなった女性歌人、一九四九年に発足した「女人短歌会」に拠った女性歌人群像に光をあてた功績は大きい。各論考の分析の緻密さと重厚さは、従来の些末に陥りがちな評伝や印象批評が多い作品研究に一石を投じよう。

なお、論考により年代表記が不統一なのがやや気になった。明治・大正・昭和という元号を使用する「便利さ」は、若い読者にはなじまず、混乱を招きかねないのではないか。「二十世紀短歌」という視野が継承されるためにも、と思う。

(『短歌研究』2011年8月号所収)

                       

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2011年8月 8日 (月)

『短歌往来』8月号に 「今月の視点」書きました

機会詩と持続性  

短歌総合誌の八月号には、毎年どこかで「戦争と短歌」の特集が組まれていた。「八月ジャーナリズム」と称される所以でもある。それは、日常的に、「戦争」という重いテーマを敬遠している表れかもしれない。しかし、二十一世紀に入って、その八月特集ですらもあまり見かけなくなった。

短歌総合誌五誌を調べてみると、『短歌研究』は、「短歌でたどる<あの戦争>への思い」(二〇〇一年)、「女性が戦いをどう歌ってきたか」(二〇〇五年)、同年一二月号『短歌年鑑』のアンケート調査「太平洋戦争とのつながり~遭った、遭わなかった、生まれていなかった」、さらに「読みつがれるべき戦争歌」(二〇〇七年)、「今、伝えておきたい戦争の歌・戦争なんて知らないけれど」(二〇一〇年)という特集を組んできた。

『歌壇』では、「いま読み直す戦争詠」(二〇〇八年)、「戦後65年―短歌が詠み継ぐあの夏」(二〇一〇年)が組まれ、「戦後」に焦点をあてた「短歌、戦後55年を詠う」(二〇〇〇年)「短歌で読み解く戦後史」(二〇〇一年)、「戦後短歌60年短歌史のエポック」(二〇〇五年)などの特集も散見される。

『短歌』『短歌往来』『短歌現代』には、八月号の「戦争」特集は見あたらないが、竹山広特集に充てている年があった。二〇〇二年の『短歌』、二〇〇一年、二〇〇八年の『短歌往来』がそれである。『短歌現代』には、遡れば『歌集八月十五日』(一九九八年七月号別冊)という好企画もあった。

一九四五年八月の敗戦で終わった戦争を振り返り、その歴史や文芸を読み直す作業は、持続することに意味があると思う。

一九九一年から開催の「815を語る歌人のつどい」(今年の岡野弘彦氏の講演、近年の「夏祭り」的傾向の是非については改めて考えたいが)、『短詩形文学』『新日本歌人』の八月特集、『掌』の連載「戦争を語ろう」等の持続への努力を大切にと思う。

東日本大震災を詠んだ短歌は、種々のメディアに溢れ、特集も組まれた。機会詩として、その衝撃を歌い残すことも大事だが、拠って来るところを見据える持続性に期待したい。(『短歌往来』2011年8月号所収)

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