書評・阿木津英著『二十世紀短歌と女の歌』
著者の阿木津さんとは、10年ほど前に、『扉を開く女たち―ジェンダーから見た短歌史
<1945―1953>』(砂子屋書房 2001年)の共著がある。その時の執筆論文が本著にも収録されている。当時の研究会のことや助成金申請のために東京女性財団の面接を受けたりしたことなどが思い出される。結局、共著は、財団最後となった出版助成金を得ることができたのはありがたかった。その後、阿木津さんは、歌集や数冊の評論集を出している活躍ぶりである。彼女の新著『二十世紀短歌と女の歌』(学芸書林 2011年4月)の機会を与えられ、かなり真面目に読んでみたのだが。
冒頭の「『サラダ記念日』―消費社会に馴致された感性」では、歌集としては珍しく出版戦略に従い、二百万部を超えるベストセラーとなる経緯が、新たな取材も加え、より鮮明にされてゆく。商品名が頻繁に登場する俵万智作品における「幸福感や恋の哀歓をかきたてる」商品・イメージに取り囲まれた生活に馴らされてゆく「感性」と「保守性」を看過できないとする問題提起が重い。
本書は、逆年順に、Ⅰ一九七〇年前後から八〇年代後半~女歌論議の時代、Ⅱ一九五〇年前後~女性解放の時代、Ⅲ大正末期から昭和初期~「母性」誕生の時代、Ⅳ明治末期から大正中期~「新しい女」の時代、Ⅴ明治中期、二十世紀初頭代~初期「明星」の時代、に分けて、一九九七年以降発表の論文を収録する。行間からは「女の歌は女が論ずるしかない」との気概が滲み出ている。
Ⅲの「『母性』再考―翻訳語の『母性』『母性愛』の生成過程と定着まで」において、著者は、従来の短歌史の記述や女性歌人の作品評にも多用されてきた「母性」という言葉に着目する。翻訳語としての受容から、批判語としての使用を経て、優生学思想からは保護の対象とされる「母性」、やがては「国家の母」「軍国の母」であることへと変容する意味をたどり、男性に絡めとられていく過程でもあったことを示唆する。
続く「五島美代子―その近代母性」では、与謝野晶子はじめ三ヶ島葭子、若山喜志子ら多くの女性歌人たちが「母であること」の束縛、そして葛藤を必死に歌っている中で、五島美代子の第一歌集『暖流』に、「母であること」に充足と幸福を感じ取る「母性」と平等概念を併せ持つ「近代母性」を発見する。その背景には、美代子自身の母親との軋轢、プロレタリア短歌運動の経験を見据える。さらに、敗戦後の新憲法下では長女とともに大学で学ぶという母子密着の実生活の中で、突然長女を自死で失うという不幸に見舞われ、母としての慟哭と長女への追慕が次女に深い影を落とし、一転「母性喪失」という歪んだ関係へと向かう現実、をも直視する。さらにその後、美代子は歌会始選者への道をたどるのだが、皇室への傾斜をどう評価するのかもあわせて触れて欲しかったと思う。
これまで、短歌史や歌壇では「点景」としてしか語られなかった女性歌人、いまでは顧みられなくなった女性歌人、一九四九年に発足した「女人短歌会」に拠った女性歌人群像に光をあてた功績は大きい。各論考の分析の緻密さと重厚さは、従来の些末に陥りがちな評伝や印象批評が多い作品研究に一石を投じよう。
なお、論考により年代表記が不統一なのがやや気になった。明治・大正・昭和という元号を使用する「便利さ」は、若い読者にはなじまず、混乱を招きかねないのではないか。「二十世紀短歌」という視野が継承されるためにも、と思う。
(『短歌研究』2011年8月号所収)
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