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2011年10月29日 (土)

続く交通事故に、ドクターヘリが飛ぶ~安全な道路とは

 先週は、近隣で、二日続けて交通事故が発生した。一つは、新聞やテレビでも報道された。26日(水)午後、ユーカリが丘1丁目の市道で、幼稚園送迎バスで帰宅の長女を迎えに出た母親を庭から追ってきた次女がバスの下に潜り込み、発進時に轢かれたという。病院に搬送されたが、後死亡したという事故だ(「朝日新聞」20111027日)。北総病院のドクターヘリは小竹小学校から飛び立ったという。我が家では気づかなかった。

27日(木)の4時過ぎ、救急車や消防車がけたたましいサイレンとともに、我が家方面に近づいてきた。どこへ向かうのか分からなかったが、煙が見えるわけではないし、と一度は家のなかに引っ込んだ。だいぶ経った、4時半過ぎだろうか、今度は、「ただ今、ドクターヘリが井野中に着陸するのでご協力ください」というマイクの声が流れた。井野中の西門近くまで出て、道を隔てて見ていると、校庭には消防車や救急車が停まっている。やがてあらわれたヘリが着陸し、救急車周辺に人の動きは見えるが、ヘリはいっこうに飛びたたない。昨日のことがあるので、どういう病人なのか分からないながら、無事であってほしいと願うなか、10分は経っただろうか、救急車の後部から担架が運び出されたと思ったら、あっという間にヘリは飛び立って行った。450分にはなっていただろうか。家で購読している新聞のうち、1紙だけが小さく報じていた。事件発生は355分だったというから、ヘリが飛び立つまで1時間近くかかっていることになる。事故現場は、西ユーカリが丘1丁目の交差点での事故だった。10歳男児の自転車と女性会社員の軽自動車の接触で、男児は肝臓破裂の重傷だったが、命に別状はなかった。男児もドライバーも事故現場に近い住まいだったらしい(「毎日新聞」20111028日)。西ユーカリが丘1丁目は、私たちの町と隣接し、井野東土地区画整理事業によって開発された第2工区域で、「ビューガーデン」と銘打って売り出されている戸建て住宅の街である。100戸ほどの家が建ち、空き地には建設中の家もある。今年の6月に新たに西ユーカリが丘1丁目と町名変更がなされたばかりである。

その翌日、私が受け持っているミニコミ誌の配布がてら、事故現場の近くらしい街区に行ってみた。周辺は建売住宅の建設が盛んで、工事車が並びクレーン車も動いている。建設現場で車の整理にあたっている人に、事故のことを聞いてみたが、知らないとあっさり断られてしまった。道一本を隔てると、もう私たちの町内で、ちょうど花壇の手入れをしている知り合いに声をかけられた。負傷した男児は、最初どこのお宅のお子さんかも分からなかったし、ようやくわかった家もお留守だったそうよ、とのこと。新しい住宅街では、そんなこともあろうかと思った。坂道と緩いカーブの交差点近くには、白墨でのしるしがいくつか残っていた。

記事では、事故の原因の一つとして、見通しの悪さがあげられていたが、少なくとも新しい住宅街は、法律さえ満たせばよいというスタンスから抜け出してほしい。宅地いっぱいに家を建てるのではなく、交差点での隅切り、曲がり角のお宅の石塀や生垣・シンボルツリーなる植樹もやめてほしい、傾斜のきつい道路もやめてほしいと、開発業者や都市計画行政の担当者に願わずにはいられない。

同じ井野東土地区画整理事業で建設された傾斜10度に近い跨線橋と通学路が交差する横断歩道で、私は、見守りボランティアに参加して3年目だ。信号機がないので、児童も私たちも怖い思いをすることが何度かあった。建設当時、私たち近隣住民は、その危険性を指摘し続けたが、開発業者も行政も、法律や特例をタテに危険性の認識を拒んだことが思い出される。

夕方、来宅した宅急便のドライバーとも事故の話になった。ユーカリが丘1丁目のお宅の家族は、顔をも知っているだけにやり切れない思いだと話していた。

私も自転車はよく利用する。やはり怖い思いをすることが度々ある。若い人の自転車に猛スピードで追い抜かれたり、道路の端の側溝や傾斜する路面を走るのでふらつくこともある。一方、車を運転する友人たちは、自転車の子どもと高齢者は怖いというのが一致した意見だった。気を付けなければいけない。自転車専用レーン構想が日本でもようやく論議され始めたが、デンマークのようになるのはいつの日だろうか。

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2011年10月26日 (水)

除染はいつから?「こうほう佐倉」臨時号は出たけれど

放射能汚染の佐倉市の対応は、すべてにおいて後手後手だ。測定を5月から始めたものの、測定器がないからと測定個所が少なかった。測定器が入荷して、本格化したのは8月からだ。市民による測定や除染要望、除染協力の申し出がありながら、無視し続けた。ようやく915日、除染計画が示されたものの、一向に実施計画が発表されない(『こうほう佐倉』(平成23年放射線情報臨時号】20111023日)。「ヤルヤル」何とやらではないか。千葉県下でのスポット的な高放射線量、放射能物質が次々に明らかになっている。私有地の除染にも配慮する自治体も出てきた。市民に測定器を貸し出す自治体もある。 佐倉市でも、私たちのグループで測定した個所で、1マイクロシーベルトを超える個所もあり、市にはすでに報告している。

また、測定する場所の選定もこれまではかなり恣意的で、私の住む近くの、利用者も圧倒的に多くて、広いユーカリが丘南公園、ユーカリが丘北公園の測定が一度もされていないので、市に問い合わせたところ、「きょう午前中に測定しました!」(1011日)といった結果が、ようやく、昨1025日ホームページに「第9報」の一部として、発表されていた。以下のとおりである。7月から8月にかけて、私が参加した測定会では、いずれの公園でも、もっと高い数値が記録されている。当時より数値が下がっていることは確かだが、2公園に限っても、市の基準値の毎時0.223マイクロシーベルトを超えている個所を赤字とした。その数値に限りなく近い数値もある。「もう浴びてしまった」ということだろうか。除染の実施がなぜこれほど遅れているのか。もっと、市民も協力できる体制を整えてほしい。

********

10月11日(火)調査分【天候:晴】

施設名
(住所)

調査場所

空間線量

地上50cm
μSv/h)

地上1m
μSv/h)

砂場5cm
μSv/h)

ユーカリが丘北公園
(宮ノ台4丁目)

広場(芝地)

0.247

0.219

---

エントランス(コンクリート)

0.192

0.177

---

遊具広場(芝地)

0.253

0.222

0.136

ユーカリが丘南公園
(ユーカリが丘6丁目)

広場(芝地)

0.231

0.221

---

遊具広場(土)

0.127

0.138

0.148

エントランス(コンクリート)

0.177

0.168

---

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2011年10月25日 (火)

『青葉の森へ』第2集が出来上がりました

 2002年にスタートしたサークル「短歌ハーモニー」は、今年6月に100回目の歌会を迎え、それを機に、2回目の作品集を出すことになりました。活動の根拠地でもある青葉の森公園前のハーモニープラザ「千葉市女性センター」が「千葉市男女共同参画センター」と名前を変えた年でもあります。最初の作品集『青葉の森へ』を刊行したのは2006年、双方に出詠している6名に2名が加わりました。第1集については、下記をご参照ください。サークルの由来や作品集の作成過程、作品の一部を掲載しています。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/tankahanonikasyuudekiagarimasita.pdf

 今回は、サーモン色の表紙の第2集が出来上がりました。各人50首前後とし、各表題紙には、お気に入りのカットや自分で描いたカットを配しました。苦労はしましたが、作品の推敲や編集を楽しんでいる様子がうかがえました。ほんの一部を掲載しますが、千葉市、佐倉市の図書館をはじめ、県下の幾つかの図書館にお送りしていますので、ご覧いただければ幸いです。

『青葉の森へ(二)』(短歌ハーモニー編刊 201110月)から

大堀静江「夕茜雲」

 武蔵野のハケの小径をたどりきて水琴窟の音色涼しき

 検閲印おされし軍事郵便の束みつかりぬ姑の遺品に

 確かなる信仰心はなけれども束の間写経の静けさにいる

岡村儔子「道の辺のほたる草」

 はじめての誕生日の孫テーブルに指一本の支えに立れり

 母となる喜びもあり病める日々病院への道の辺ほたる草咲く

 襲いくる驟雨に煙る永平寺屋根を走れり一連の滝

海保秀子「日照雨そばへ」

 砂山の陰にうす紅ひるがほのはにかみてをりはつなつの道

『大漢和』親しみ来たる日常をいとほしみつつデジタル排す

 部屋内に紐を渡して衣掛けひと日かかりてたたみて納む

加藤海ミヨ子「ふる里」

 延々として進まぬ原発対応に苛立ち覚ゆ福島の里

 おはようの声かけすると涙する語れぬ母は聞こえて居るか

 淡雪に消え入る様に咲いている小さき鉢の白梅の花

藤村栄美子「伝える」

 味覚・視角・聴覚を研ぎいざ君は桜前線北上を待つ(四カ月)

 手つき良くドングリシチュウーかき混ぜる森は優しく時はゆるりと

(一歳九か月)

 風を切り急な斜面を駆け降りるその目は真っすぐ我に向かいて

(一歳一一か月)

美多賀鼻千世「シンフォニー」

 道端をよろよろ歩く老犬を連れてゆく人もまた老いている

 話したい 言葉を忘れた母がいて返事を待って口もと見つめる

ひたすらに手元みつめてハープ弾く迷える心音色にうつす

武村裕子「連珠」

 嵐すぎし午後を少年とバスで来てプラネタリウムの椅子を倒せり

 気を張りて声の明るき母が立つ睦月の午後の父の枕辺

 ジキタリス梅雨入りの雨に打たれおり「ガッシュ医師像」頬杖浮かぶ

内野光子「街、揺らぐ」
 病む犬に添い寝をしつつ年を越し遠き寺鐘のはつかに届く
「敗戦後の日本は」の声に振りむけばテレビのサッカー終盤に入る
 残りたる雑木林に鳥発てばニセアカシアの花房揺らす

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なお、千葉市の「男女共同参画まつり」が12月10日(土)~11日(日)に開催されます。

私たちの「短歌ハーモニー」は、例年のように展示室では短歌作品展示をします。また、昨年と同様1211日(日)午後1時より公開歌会を開催します。メンバーの方々で下のようなチラシを作りました。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/ha-monitirasi.pdf

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2011年10月18日 (火)

思いがけずに、東陽小学校で

 教科書研究センターでの調べものが必要になって、また出かけることになった。地下鉄東陽町駅前には、大正時代に短期期間ながら、母が務めたという東陽小学校がある。このたびは、せめて門の前から覗いてみようと、四ツ目通りから深川高校との間の道を入った。通用門へどうぞの表示に従って西側に回ると、真新しい看板があって、少し奥まったところに門はあるが、しっかりと閉ざされていた。ちょうど給食の時間なので、惣菜の匂いがただよってくるだけで、昇降口も暗くてよく見えない。永代通りに面した角の公園の方からは、校庭も「東陽小学校」という屋上の看板もよく見えた。門から引き返そうとしたとき、自転車で戻ってこられた先生だろうか、女性が門扉を開けている。思わず声をかけてしまった。

「スイマセーン」とオバサンの図々しさである。「昔、大正時代末に、私の母がこの小学校に勤務していたと聞いていたので、訪ねてきました。古い資料、古い職員名簿のようなものがありましたら、もし、母の痕跡など見つけられたらと思いまして・・・」と一気にしゃべると、意外にも、「ちょっと待ってください」とおっしゃって校舎に入って行かれた。思いがけず、「お入りください、年表などご覧になりますか」と2階に案内された。校長室の横の壁いっぱいに年表が貼られていた。創立は、明治33年、1900年だった。先ほどの先生は、校長室から古い年報のようなものを数冊と記念誌をもって来られた。いちばん古いものが昭和5年、第三号となっていた。母が在職していたのは、正確なところは分からないが、大正15年(19261月生まれの長兄を身籠ってから、池袋からの通勤が大変で退職したと聞いていたので、大正14年までだと思う。結婚後に前任校の千葉県佐原小学校から東陽小学校に転勤したとも聞いているから、わずかな期間であったと思う。母の名前を告げて、その先生と一緒に調べたが、まず、大正時代の記録は出て来なかった。「余部がありますので、参考までに」と70周年と90周年の記念誌を頂戴した。百周年を記念してできた「資料室」が3階にありますと案内もしてくださった。広い教室分がそっくり資料室になっていて、年表や写真などは壁に、ガラスケースには、アルバムや教科書などさまざまな資料がおさめられ、オルガン、ミシンなども展示されていた。年表によれば、1923年関東大震災で焼出、19253月近隣民家出火による類焼、19448月新潟県への集団疎開、1945310日の東京大空襲で全焼、19499月のキティ台風で床上150㎝の浸水の被害に見舞われていることがわかる。資料・記録へのダメージは壊滅的であったこともわかった。

50回忌も過ぎた母への思い入れから、当方の勝手な感傷から突然訪ねた東陽小学校であったが、思いがけず、親切な先生にお会いできて幸運だった。お昼休みをそっくりつぶしてしまった申し訳なさでいっぱいだった。「いえ、お昼休みだったからご案内できました。お役に立てなくて・・・」ともおっしゃって、校門で別れる際に、名乗ってくださったK先生、ありがとうございました。

真新しい校名の看板は、裏から見ると「創立110周年記念」とあった。昨年建てたものらしい。

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2011年10月15日 (土)

白樺派の足跡を訪ねて~我孫子へ

 我孫子の市立図書館に行くけれど、ついでに、ちょっと歩いてみない、との連れ合いからの誘いで出かけた。我孫子市も県下では放射線量が高いホットスポットの一つで、佐倉市も同様の数値を示していながら、その対策は一向にはかどらない。そんなことを考える昨今だが、きょうは、放射能を忘れて歩こうと思う。常磐線などめったに乗ったことがないのだが、船橋、柏と乗換えて、我孫子駅南口下車、駅前のインフォメーションセンターで、一応の資料を取りそろえ、名産品展示にある「白樺派のカレー」はぜひと、土産の目星も付けた。公園坂通りを下り始めると、すぐに右手に八坂神社の鳥居が見えてくる。狭い歩道は、すれ違いができないほどだが、やがて正面に木立とその向うにわずかな水面が見えてきた。手賀沼公園である。渡った左手は図書館だが、先に白樺文学館へと手前の道を左折する。

天神坂へ

すぐに、三樹荘と天神坂の案内板があって、石段が見える。鬱蒼たる樹木の枝が坂を覆い、足元を照らす灯りもある。左手のお宅の石塀をはみ出した巨樹の根が迫ってくるが、上り切るとそこが、民芸運動家の柳宗悦(18891961)の旧居跡、三本の椎の古木があるので三樹荘と命名したそうだ。柳夫人の兼子(18921984)は声楽家としても著名で、ドイツ歌曲の紹介に努め、日本の合唱史を開いた人でもある。その旧居はすでにないが、現在は、後の所有者、村山正八氏と家族がお住まいで、門の外から当時の趣を伺うことになる。その向かいの木立が、柔道家の嘉納治五郎(18601938)別荘跡地で、その後の所有者が2005年に我孫子市に寄贈し、市の管理になっている。建物は建て直されているが、嘉納は、この地を別荘地として、甥の柳宗悦を始め、多くの白樺派の文学者たちを招じたらしい。さらに、嘉納は、沼に近い白山に学園創立の夢を持って2万坪の土地を購入したともいわれていたが、その土地は「嘉納後楽農園」となった。東京高等師範学校長を長く務めた嘉納の学園創立の夢は、大阪に灘学園創立に参画することにもつながる。晩年は、国際オリンピック委員として1940年開催の東京招致に尽力するが、その直後に他界し、開催中止を知る由もない。農園は、戦後、住宅分譲地となり、ベッドタウンのさきがけにもなった。

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楚人冠公園

天神坂をくだって、さらに左手に進むと、楚人冠公園への道があるはずなのだが、なかなか見つからない。道すがら、たまたま植木の手入れをしていた職人さんが塀の上に見えたので、思わず尋ねてしまう。「そこの坂を上がればすぐですよ」とのこと。さまざまな雑誌の編集を手がけた後、1903年朝日新聞社に入り、編集・経営に手腕を振るったジャーナリスト、杉村楚人冠(18721945)は、関東大震災後から、この地に居を定め、広大な庭園造りも楽しんだという。その跡地が公園となり、旧邸も我孫子市に買い取られ、整備を進めている。来月111日には、杉村楚人冠記念館としてオープンするそうだ。工事中なのでまだ立ち入れない。石段を登ってみると、「冬晴れの筑波見ゆ供いなる空に」の句碑があった。四阿には、ホームレスらしき男性が寝転んでいたので、早々に降りてきてしまったのだが。そういえば、私の最後の職場で、非常勤でマスコミ論を担当されていたのが、楚人冠のご子息であったはずである。

白樺文学館、志賀直哉邸跡地へ 

 さらに、もと来た道を進むと、白樺文学館と志賀直哉邸跡地が向かい合っている。大きな白いモニュメントがある白樺文学館は、いま「武者小路実篤展」が開催中である。この文学館は、2001年、元日本オラクル社社長の佐野力氏の私設文学館としてスタート、志賀直哉関係のコレクションを中心に、広く白樺派関係の資料収集や展示を積極的に進めるようになった。オーナーと我孫子市の共同運営の期間を経て、2009年には市へ寄贈された。雑誌『白樺』の全巻をはじめ、生原稿や書簡、白樺派の研究書が集められている。連れ合いは、「大逆事件」関係の資料として、ここで展示された管野すがの「針文字文書」関係の資料が見たかったという。収監中の管野すがが、当時のジャーナリスト楚人冠に宛てたとされる「針文字文書」については諸説があるらしいが、ここでは省略。

 今回の展示で、最も興味深かったのは、志賀直哉(18831971)の小林多喜二(19031933)宛て書簡であった。「オルグ」「蟹工船」「三・一五」などの作品を読んだ直哉が、懇切にしたためた感想である。『オルグ』は感心できないけれど「『蟹工船』が中で一番念入りによくかけてゐると思ひ、描写の生々と新しい点感心しました」「私の気持ちからいへばプロレタリア運動の意識が出て来る所が気になりました。小説が主人持ちである点好みません。プロレタリア運動にたづさわる人として止むを得ぬ事のやうに思はれますが、作品として不純になり、・・・」と、いかにも直哉らしい感想であった。1931年というから1933年多喜二が獄死する少し前のことである。これらのコレクションのオーナーであった佐野力氏は、母校が小樽商大であったことからも、多喜二関係の資料も収集していたという。

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 斜め向かいの志賀直哉邸跡地には、書斎だけが再移築され、面影をとどめている。ここで、小説「和解」「城の崎にて」「小僧の神様」「暗夜行路」を執筆、代表作誕生の地である。1915年から住み始め、8年の間に、23女をもうけ、かつての敷地は崖の上にも続き、合わせて1500坪もあったそうだ。いま、その崖下の母屋の跡地が市の所有となり、母屋の間取りがそのままコンクリート面に刻されている。かつてはここからも手賀沼が見えて、直哉は、船戸にあった武者小路実篤(18851976)邸とは舟で行き来していたという。現在は道路を隔ててマンションが建てられ、視界はさえぎられてしまっている。

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船戸の武者小路邸跡へはここから歩けば40分はかかるとのこと、内部は非公開ということなので、今回はパスすることに。白樺文学館の「武者小路実篤展」の展示では、我孫子時代(191618)は短いが、「新しき村」構想誕生の地でもあることを知った。白樺派の相関図や写真、年表、武者小路家の家系図、などにより、学生時代で止まってしまった直哉・実篤の読書歴がよみがえり、白樺派の知識も少しは濃いものになった思いがした。

 行きがけに、気になっていた、この道で1軒の店屋さん「大正煎餅木川商店」の看板、ガラスの格子戸がしっかり閉まってはいるが、各種の煎餅がガラスケースにおさまっている。この葉の形をした「けやき」、一袋に2枚入っている「短冊」、この店お勧めという揚げ餅に醤油を絡めた袋詰めのあられなど、少しずつ買ってみた。思い返せば、結局土産はこれだけで、大急ぎで電車に乗る羽目になった。

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我孫子市民図書館アビスタ本館

 生涯学習センター「アビスタ」に併設のカフェで、遅いランチを済ませた。なんと白樺派のカレーは、ライスが一人分しかないということで、私がカレー、連れ合いがパスタということになった。図書館は平日なのに閲覧席が満席に近い。向かった郷土資料のコーナーは充実していて、市政資料の棚もあり、県内の近隣の市の広報などが手に取って見られるようになっているのはさすがだと思った。佐倉では市役所内の市政資料室にも、図書館でも見られない。逆に、ディべロッパーのPR雑誌が市政資料に混じって配架されていたこともあったっけ。そして、書架の911の「短歌」のところで所蔵具合を眺めていたら、自著『短歌に出会った女たち』に巡り合えたではないか。

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夕ぐれの手賀沼、高校生が、先生引率で清掃に現れた

 再訪の折は、完成が近い杉村楚人冠記念館と歴史学者の村川堅固、堅太郎家の旧別荘もぜひ訪ねたい。村川堅太郎は、たしかに、山川世界史の教科書で見覚えのある名前であった。

 インフォメーションセンター作成の案内チラシと地図には世話になり、白樺文学館の副館長さんには、ご案内と写真撮影までしていただいた。以下の冊子とサイトも参考にさせていただいた。ありがとうございました。

・「あびこ歴史散歩」我孫子市教育委員会編刊 20113

http://www.shirakaba.gr.jp/genesis/index.html

白樺文学館創成記・白樺文学館開館顛末記126 古林治・武田康弘20002月~20011

白樺文学館創成記・誕生秘話17 武田康弘 20094月~20106

           (2011年10月13日)

http://blogs.yahoo.co.jp/yuzan9224/40238413.html?type=folderlist

我孫子の嘉納治五郎1~5 2006年8月16日  

    

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2011年10月 9日 (日)

久しぶりの国際子ども図書館と初めての教科書研究センターへ

台風が過ぎたので

6月に検定済みの中学校教科書の展示会に出かけたことは前に書いた。来年度から使用する教科書と現在使用中(平成18年度、2006年~)の 教科書の両方を閲覧した。国語、なかでも近代・現代短歌や古典和歌がどう扱われているかが、気になったので、その後もネットで調べたりしたが、いま、一度全出版社の教科書の旧版・新版を現物で確かめたかった。できれば、私が使用した教科書の一部が物置から出てきたり、娘が置いて行った教科書もあったりしたので、国語教科書の変遷も調べたいと思った。

国際子ども図書館は、国立国会図書館の分館でもあり、かつての帝国(上野)図書館を全面改修して2000年にスタートしている。私が国立国会図書館に勤めていた頃の同僚であり、大学の後輩でもあった友人が、数年前まで仕事をされていたところだったが、つい最近、そのお連れ合いから半年間の闘病の末、亡くなったことを知らされた。たしか今年の年賀状には、名古屋の大学で図書館学を講じているとの近況が書き添えられていたはずである。いまだに信じられないまま・・・。

樋口一葉や斎藤茂吉も通った帝国図書館、その雰囲気も一部に残されている螺旋階段を上ると、閲覧室で、児童書・児童文学の研究書の開架の端に教科書コーナーはあった。ここは、新しい教科書、平成14年度以降の教科書しか所蔵していないとは聞いていたが、開架ということもあって、何回かコピー依頼をしているうちに、時間が惜しくなって、とうとうランチ抜きで頑張ってしまった。今にも雨が落ちそうな空模様に、留守番の飼い犬が気になり、上野駅まで急ぐ。博物館の裏側のイチョウ並木は、昨夜までの台風15号で、たくさんの葉を落とし、まだ舗道に重なり合っているありさまだった。博物館の正門付近は、「空海と密教美術展」に並ぶ中高年の列、動物園方面からは、大きなバッグを肩にかけ、駅へとダッシュする修学旅行生たち、いずれもいつか見てきたような光景であった。

朝夕の寒さが身にしみて

朝から晴れ上がったことでもあり、深川の教科書研究センター付属図書館に出かけることにした。

東西線の東陽町から錦糸町駅行バスで三つ目のはず。にぎやかな街を通り抜けてゆく。すぐ右手には、江東区役所と防災センターの文字が見える。やがて、渡る橋は停留所名にもなっている井住橋、渡る川は横十間川、イースト21という高層のビル群、ホテルやショッピング街になっているらしい。さらに左手には、釣り堀が見えてきて、河岸が公園のようになっていた。千石2丁目で下車、交差点で迷って、不動産屋に飛び込み、道を尋ねてしまう。なんと、カウンターデスクに座っていた人が出てきて、センターのビルが見えるところまでと案内してくれるではないか。

 この図書館は、開館日が週の前半だけで木曜から日曜までが休館である。吹き抜けのわきの階段を上がると2階が閲覧室、まず、見取り図で、各時代の教科書の位置を確かめる。そして、ここでのコピーは、申込書記載は必要だが、自分でとれるのがありがたい。ただし、1枚30円!高いと思っていた国立国会図書館の25円よりさらに高い。それでも開架なので、ついついコピー個所が増える。私の時代の教科書は、現物ではなく、コピーを綴じたものもだいぶあった。当時の教科書は、ほとんどが、A5であって、紙質も頁の端からくずれて来そうな感じである。 いまのカラフルな豪華さは、まるで絵本のようでもあり、カタログのようでもあって、重いのではないかとさえ思える。また、最近、知人から教示された、当時にしてはかなりリベラルな内容であり、編集だったという岩波書店が昭和9年(1934年、復刻1988年)発行した「国語」10巻を見ることができた。今回、調べた内容や分析については、これから少しまとめたいと思っている。

 この日も、ランチ抜きのまま、4時近くまで、コピーを繰り返した。帰りは、バスを待つよりはと歩いてみた。すると、下校時の高校生が歩道に溢れ始めた。大通りに面した校門には都立深川高校とあった。まだ地下鉄の東西線がなかった頃、父と、母がわずかな期間だったが、大正時代に勤めていた東陽小学校を探したことを思い出した。あわてて地図を見ると、なんと深川高校の裏手が東陽小学校だったのである。結婚が決まると母は、実家のある千葉県の佐原小学校から東陽小学校に転勤したという。病院に薬剤師として勤務していた父が、やがて池袋の地に薬局を開くのだが、母は、池袋からこの東陽小学校に通勤していたという。当時の交通事情からいえば、気の遠くなるような話だ。やがて、長兄を身籠ると、母は教師を辞めざるを得なかった、という話は何度も聞かされていた。大正時代の自由教育の風に吹かれながら、若き教師の母が仕事に励んでいた地である。街の様子こそ激変しているだろうが、私もいま、その地を歩いているという感慨は格別だった。母は早逝して50年以上が経ち、父もその10年後に亡くなった。そして、大正15年生まれの長兄の七回忌も今年の夏にすませたところであった。この界隈、もう一度ゆっくりと訪ねてみたい。 

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帰路、小松橋通りの奥に見えるスカイツリー

 

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2011年10月 1日 (土)

佐倉市の除染はいつから実施されるのか?市議会を傍聴して ~計画と補正予算は決まったのだが

 822日、福島県の学校宛の国の放射線量の基準値が変更された。佐倉市も、915日、年間120ミリシーベルトという数値の下限をとって、年間1ミリシーベルト以下にすることとなった。国も、国際的な最低基準に合わせざるを得なくなった結果である。

佐倉市はこれまでも、いわゆるホットスポットとして、かなりの高い放射線量が測定されていたので、私の参加している市民グループとして、あるいは個人としても「市長への手紙」などで、除染などの対策を申し入れていた。しかし、このブログで何度も触れているように、国が示していた年間20ミリシーベルト、毎時3.8マイクロシーベルトという基準に照らして、佐倉市内の測定結果はすべてこれより下回っているので、測定以外の対策をとることはなかったのだ。

ようやくにして、佐倉市も重い腰を上げたわけだ。829日から市議会が始まって、関係常任委員会で、除染計画の一部が発表され、補正予算も議論しはじめたのだが、除染の日程などが一向にはっきりしない。多くの議員も放射能汚染対策に関する質問を通告していたので、少なくとも議会では明らかになるものと思い、時間の都合がついた3議員の質問時の傍聴をした。しかし、市長はじめ関係部長は、915日の除染計画の内容を繰り返すばかりで、絵に描いた餅である。議員もその辺の突込みが足りず、いら立つのだった。議場外では、佐倉市にしてはよく頑張っている方だとか、官僚上がりのK副市長は、何か情報を得ていて腹案があるのだろうとか、取沙汰される始末である。

929日、T議員が「測定値が高い幼稚園の運動会が迫っているのに、なぜその前に除染できないのか」という質問をしたところ、会場を近くの小学校に移したり、屋外活動を短縮したりして、しのいでいることも分かった。そして、10月に入っておもむろに業者の選定をし、契約をし、というのんきな構えであることも知った。さらに、市民や保護者の協力を求めては、の質問には「たとえ協力要請があっても、一切の協力は不要だ」と蹴ったのだった。「市民協働」の趣旨からいえば、まさに協力すべき事態なのではないかと思う。行政の施策をスムーズに進めたい時のみ「市民協働」というカラクリを利用する体質が垣間見えるではないか。どうしても一線を画しての隠ぺい対策ではないかと勘繰りたくなってしまう。

というのも、927日のW議員の質問で、いわゆる「市民の声」のホームページでは、放射能汚染問題について、市民からの意見や提案が今年度4月以降8月までに64件寄せられているのに、一切掲載していないことも明らかにした。その理由は何かとの質問には、「市民の声にはさまざまな意見が寄せられる。事態が流動的でもあるので答えにくいし、間違った事実に基づく意見や一方的な、主観的な、過激な提案なども多いので、ホームページへの掲載に至っていない」とのことだ。

これって、おかしくないですか。誰が、間違っているとか、一方的だとか、主観的だとかを判断するのだろう。「行政に都合のいい意見や答えやすい質問の回答」だけを掲載していることになる。「検閲」や「やらせ」にも通じるおそろしいことではないか。

以下の、本ブログ記事も参照してください。

「<市民の声>のその後、地方自治の基本も情報公開から」http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2011/09/post-ddc0.html

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