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2011年10月 9日 (日)

久しぶりの国際子ども図書館と初めての教科書研究センターへ

台風が過ぎたので

6月に検定済みの中学校教科書の展示会に出かけたことは前に書いた。来年度から使用する教科書と現在使用中(平成18年度、2006年~)の 教科書の両方を閲覧した。国語、なかでも近代・現代短歌や古典和歌がどう扱われているかが、気になったので、その後もネットで調べたりしたが、いま、一度全出版社の教科書の旧版・新版を現物で確かめたかった。できれば、私が使用した教科書の一部が物置から出てきたり、娘が置いて行った教科書もあったりしたので、国語教科書の変遷も調べたいと思った。

国際子ども図書館は、国立国会図書館の分館でもあり、かつての帝国(上野)図書館を全面改修して2000年にスタートしている。私が国立国会図書館に勤めていた頃の同僚であり、大学の後輩でもあった友人が、数年前まで仕事をされていたところだったが、つい最近、そのお連れ合いから半年間の闘病の末、亡くなったことを知らされた。たしか今年の年賀状には、名古屋の大学で図書館学を講じているとの近況が書き添えられていたはずである。いまだに信じられないまま・・・。

樋口一葉や斎藤茂吉も通った帝国図書館、その雰囲気も一部に残されている螺旋階段を上ると、閲覧室で、児童書・児童文学の研究書の開架の端に教科書コーナーはあった。ここは、新しい教科書、平成14年度以降の教科書しか所蔵していないとは聞いていたが、開架ということもあって、何回かコピー依頼をしているうちに、時間が惜しくなって、とうとうランチ抜きで頑張ってしまった。今にも雨が落ちそうな空模様に、留守番の飼い犬が気になり、上野駅まで急ぐ。博物館の裏側のイチョウ並木は、昨夜までの台風15号で、たくさんの葉を落とし、まだ舗道に重なり合っているありさまだった。博物館の正門付近は、「空海と密教美術展」に並ぶ中高年の列、動物園方面からは、大きなバッグを肩にかけ、駅へとダッシュする修学旅行生たち、いずれもいつか見てきたような光景であった。

朝夕の寒さが身にしみて

朝から晴れ上がったことでもあり、深川の教科書研究センター付属図書館に出かけることにした。

東西線の東陽町から錦糸町駅行バスで三つ目のはず。にぎやかな街を通り抜けてゆく。すぐ右手には、江東区役所と防災センターの文字が見える。やがて、渡る橋は停留所名にもなっている井住橋、渡る川は横十間川、イースト21という高層のビル群、ホテルやショッピング街になっているらしい。さらに左手には、釣り堀が見えてきて、河岸が公園のようになっていた。千石2丁目で下車、交差点で迷って、不動産屋に飛び込み、道を尋ねてしまう。なんと、カウンターデスクに座っていた人が出てきて、センターのビルが見えるところまでと案内してくれるではないか。

 この図書館は、開館日が週の前半だけで木曜から日曜までが休館である。吹き抜けのわきの階段を上がると2階が閲覧室、まず、見取り図で、各時代の教科書の位置を確かめる。そして、ここでのコピーは、申込書記載は必要だが、自分でとれるのがありがたい。ただし、1枚30円!高いと思っていた国立国会図書館の25円よりさらに高い。それでも開架なので、ついついコピー個所が増える。私の時代の教科書は、現物ではなく、コピーを綴じたものもだいぶあった。当時の教科書は、ほとんどが、A5であって、紙質も頁の端からくずれて来そうな感じである。 いまのカラフルな豪華さは、まるで絵本のようでもあり、カタログのようでもあって、重いのではないかとさえ思える。また、最近、知人から教示された、当時にしてはかなりリベラルな内容であり、編集だったという岩波書店が昭和9年(1934年、復刻1988年)発行した「国語」10巻を見ることができた。今回、調べた内容や分析については、これから少しまとめたいと思っている。

 この日も、ランチ抜きのまま、4時近くまで、コピーを繰り返した。帰りは、バスを待つよりはと歩いてみた。すると、下校時の高校生が歩道に溢れ始めた。大通りに面した校門には都立深川高校とあった。まだ地下鉄の東西線がなかった頃、父と、母がわずかな期間だったが、大正時代に勤めていた東陽小学校を探したことを思い出した。あわてて地図を見ると、なんと深川高校の裏手が東陽小学校だったのである。結婚が決まると母は、実家のある千葉県の佐原小学校から東陽小学校に転勤したという。病院に薬剤師として勤務していた父が、やがて池袋の地に薬局を開くのだが、母は、池袋からこの東陽小学校に通勤していたという。当時の交通事情からいえば、気の遠くなるような話だ。やがて、長兄を身籠ると、母は教師を辞めざるを得なかった、という話は何度も聞かされていた。大正時代の自由教育の風に吹かれながら、若き教師の母が仕事に励んでいた地である。街の様子こそ激変しているだろうが、私もいま、その地を歩いているという感慨は格別だった。母は早逝して50年以上が経ち、父もその10年後に亡くなった。そして、大正15年生まれの長兄の七回忌も今年の夏にすませたところであった。この界隈、もう一度ゆっくりと訪ねてみたい。 

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帰路、小松橋通りの奥に見えるスカイツリー

 

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