白樺派の足跡を訪ねて~我孫子へ
我孫子の市立図書館に行くけれど、ついでに、ちょっと歩いてみない、との連れ合いからの誘いで出かけた。我孫子市も県下では放射線量が高いホットスポットの一つで、佐倉市も同様の数値を示していながら、その対策は一向にはかどらない。そんなことを考える昨今だが、きょうは、放射能を忘れて歩こうと思う。常磐線などめったに乗ったことがないのだが、船橋、柏と乗換えて、我孫子駅南口下車、駅前のインフォメーションセンターで、一応の資料を取りそろえ、名産品展示にある「白樺派のカレー」はぜひと、土産の目星も付けた。公園坂通りを下り始めると、すぐに右手に八坂神社の鳥居が見えてくる。狭い歩道は、すれ違いができないほどだが、やがて正面に木立とその向うにわずかな水面が見えてきた。手賀沼公園である。渡った左手は図書館だが、先に白樺文学館へと手前の道を左折する。
天神坂へ
すぐに、三樹荘と天神坂の案内板があって、石段が見える。鬱蒼たる樹木の枝が坂を覆い、足元を照らす灯りもある。左手のお宅の石塀をはみ出した巨樹の根が迫ってくるが、上り切るとそこが、民芸運動家の柳宗悦(1889~1961)の旧居跡、三本の椎の古木があるので三樹荘と命名したそうだ。柳夫人の兼子(1892~1984)は声楽家としても著名で、ドイツ歌曲の紹介に努め、日本の合唱史を開いた人でもある。その旧居はすでにないが、現在は、後の所有者、村山正八氏と家族がお住まいで、門の外から当時の趣を伺うことになる。その向かいの木立が、柔道家の嘉納治五郎(1860~1938)別荘跡地で、その後の所有者が2005年に我孫子市に寄贈し、市の管理になっている。建物は建て直されているが、嘉納は、この地を別荘地として、甥の柳宗悦を始め、多くの白樺派の文学者たちを招じたらしい。さらに、嘉納は、沼に近い白山に学園創立の夢を持って2万坪の土地を購入したともいわれていたが、その土地は「嘉納後楽農園」となった。東京高等師範学校長を長く務めた嘉納の学園創立の夢は、大阪に灘学園創立に参画することにもつながる。晩年は、国際オリンピック委員として1940年開催の東京招致に尽力するが、その直後に他界し、開催中止を知る由もない。農園は、戦後、住宅分譲地となり、ベッドタウンのさきがけにもなった。
楚人冠公園
天神坂をくだって、さらに左手に進むと、楚人冠公園への道があるはずなのだが、なかなか見つからない。道すがら、たまたま植木の手入れをしていた職人さんが塀の上に見えたので、思わず尋ねてしまう。「そこの坂を上がればすぐですよ」とのこと。さまざまな雑誌の編集を手がけた後、1903年朝日新聞社に入り、編集・経営に手腕を振るったジャーナリスト、杉村楚人冠(1872~1945)は、関東大震災後から、この地に居を定め、広大な庭園造りも楽しんだという。その跡地が公園となり、旧邸も我孫子市に買い取られ、整備を進めている。来月11月1日には、杉村楚人冠記念館としてオープンするそうだ。工事中なのでまだ立ち入れない。石段を登ってみると、「冬晴れの筑波見ゆ供いなる空に」の句碑があった。四阿には、ホームレスらしき男性が寝転んでいたので、早々に降りてきてしまったのだが。そういえば、私の最後の職場で、非常勤でマスコミ論を担当されていたのが、楚人冠のご子息であったはずである。
白樺文学館、志賀直哉邸跡地へ
さらに、もと来た道を進むと、白樺文学館と志賀直哉邸跡地が向かい合っている。大きな白いモニュメントがある白樺文学館は、いま「武者小路実篤展」が開催中である。この文学館は、2001年、元日本オラクル社社長の佐野力氏の私設文学館としてスタート、志賀直哉関係のコレクションを中心に、広く白樺派関係の資料収集や展示を積極的に進めるようになった。オーナーと我孫子市の共同運営の期間を経て、2009年には市へ寄贈された。雑誌『白樺』の全巻をはじめ、生原稿や書簡、白樺派の研究書が集められている。連れ合いは、「大逆事件」関係の資料として、ここで展示された管野すがの「針文字文書」関係の資料が見たかったという。収監中の管野すがが、当時のジャーナリスト楚人冠に宛てたとされる「針文字文書」については諸説があるらしいが、ここでは省略。
今回の展示で、最も興味深かったのは、志賀直哉(1883~1971)の小林多喜二(1903~1933)宛て書簡であった。「オルグ」「蟹工船」「三・一五」などの作品を読んだ直哉が、懇切にしたためた感想である。『オルグ』は感心できないけれど「『蟹工船』が中で一番念入りによくかけてゐると思ひ、描写の生々と新しい点感心しました」「私の気持ちからいへばプロレタリア運動の意識が出て来る所が気になりました。小説が主人持ちである点好みません。プロレタリア運動にたづさわる人として止むを得ぬ事のやうに思はれますが、作品として不純になり、・・・」と、いかにも直哉らしい感想であった。1931年というから1933年多喜二が獄死する少し前のことである。これらのコレクションのオーナーであった佐野力氏は、母校が小樽商大であったことからも、多喜二関係の資料も収集していたという。
斜め向かいの志賀直哉邸跡地には、書斎だけが再移築され、面影をとどめている。ここで、小説「和解」「城の崎にて」「小僧の神様」「暗夜行路」を執筆、代表作誕生の地である。1915年から住み始め、8年の間に、2男3女をもうけ、かつての敷地は崖の上にも続き、合わせて1500坪もあったそうだ。いま、その崖下の母屋の跡地が市の所有となり、母屋の間取りがそのままコンクリート面に刻されている。かつてはここからも手賀沼が見えて、直哉は、船戸にあった武者小路実篤(1885~1976)邸とは舟で行き来していたという。現在は道路を隔ててマンションが建てられ、視界はさえぎられてしまっている。
船戸の武者小路邸跡へはここから歩けば40分はかかるとのこと、内部は非公開ということなので、今回はパスすることに。白樺文学館の「武者小路実篤展」の展示では、我孫子時代(1916~18)は短いが、「新しき村」構想誕生の地でもあることを知った。白樺派の相関図や写真、年表、武者小路家の家系図、などにより、学生時代で止まってしまった直哉・実篤の読書歴がよみがえり、白樺派の知識も少しは濃いものになった思いがした。
行きがけに、気になっていた、この道で1軒の店屋さん「大正煎餅木川商店」の看板、ガラスの格子戸がしっかり閉まってはいるが、各種の煎餅がガラスケースにおさまっている。この葉の形をした「けやき」、一袋に2枚入っている「短冊」、この店お勧めという揚げ餅に醤油を絡めた袋詰めのあられなど、少しずつ買ってみた。思い返せば、結局土産はこれだけで、大急ぎで電車に乗る羽目になった。
我孫子市民図書館アビスタ本館
生涯学習センター「アビスタ」に併設のカフェで、遅いランチを済ませた。なんと白樺派のカレーは、ライスが一人分しかないということで、私がカレー、連れ合いがパスタということになった。図書館は平日なのに閲覧席が満席に近い。向かった郷土資料のコーナーは充実していて、市政資料の棚もあり、県内の近隣の市の広報などが手に取って見られるようになっているのはさすがだと思った。佐倉では市役所内の市政資料室にも、図書館でも見られない。逆に、ディべロッパーのPR雑誌が市政資料に混じって配架されていたこともあったっけ。そして、書架の911の「短歌」のところで所蔵具合を眺めていたら、自著『短歌に出会った女たち』に巡り合えたではないか。
夕ぐれの手賀沼、高校生が、先生引率で清掃に現れた
再訪の折は、完成が近い杉村楚人冠記念館と歴史学者の村川堅固、堅太郎家の旧別荘もぜひ訪ねたい。村川堅太郎は、たしかに、山川世界史の教科書で見覚えのある名前であった。
インフォメーションセンター作成の案内チラシと地図には世話になり、白樺文学館の副館長さんには、ご案内と写真撮影までしていただいた。以下の冊子とサイトも参考にさせていただいた。ありがとうございました。
・「あびこ歴史散歩」我孫子市教育委員会編刊 2011年3月
・http://www.shirakaba.gr.jp/genesis/index.html
白樺文学館創成記・白樺文学館開館顛末記1~26 古林治・武田康弘2000年2月~2001年1月
白樺文学館創成記・誕生秘話1~7 武田康弘 2009年4月~2010年6月
(2011年10月13日)
・http://blogs.yahoo.co.jp/yuzan9224/40238413.html?type=folderlist
我孫子の嘉納治五郎1~5 2006年8月16日
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