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2011年10月18日 (火)

思いがけずに、東陽小学校で

 教科書研究センターでの調べものが必要になって、また出かけることになった。地下鉄東陽町駅前には、大正時代に短期期間ながら、母が務めたという東陽小学校がある。このたびは、せめて門の前から覗いてみようと、四ツ目通りから深川高校との間の道を入った。通用門へどうぞの表示に従って西側に回ると、真新しい看板があって、少し奥まったところに門はあるが、しっかりと閉ざされていた。ちょうど給食の時間なので、惣菜の匂いがただよってくるだけで、昇降口も暗くてよく見えない。永代通りに面した角の公園の方からは、校庭も「東陽小学校」という屋上の看板もよく見えた。門から引き返そうとしたとき、自転車で戻ってこられた先生だろうか、女性が門扉を開けている。思わず声をかけてしまった。

「スイマセーン」とオバサンの図々しさである。「昔、大正時代末に、私の母がこの小学校に勤務していたと聞いていたので、訪ねてきました。古い資料、古い職員名簿のようなものがありましたら、もし、母の痕跡など見つけられたらと思いまして・・・」と一気にしゃべると、意外にも、「ちょっと待ってください」とおっしゃって校舎に入って行かれた。思いがけず、「お入りください、年表などご覧になりますか」と2階に案内された。校長室の横の壁いっぱいに年表が貼られていた。創立は、明治33年、1900年だった。先ほどの先生は、校長室から古い年報のようなものを数冊と記念誌をもって来られた。いちばん古いものが昭和5年、第三号となっていた。母が在職していたのは、正確なところは分からないが、大正15年(19261月生まれの長兄を身籠ってから、池袋からの通勤が大変で退職したと聞いていたので、大正14年までだと思う。結婚後に前任校の千葉県佐原小学校から東陽小学校に転勤したとも聞いているから、わずかな期間であったと思う。母の名前を告げて、その先生と一緒に調べたが、まず、大正時代の記録は出て来なかった。「余部がありますので、参考までに」と70周年と90周年の記念誌を頂戴した。百周年を記念してできた「資料室」が3階にありますと案内もしてくださった。広い教室分がそっくり資料室になっていて、年表や写真などは壁に、ガラスケースには、アルバムや教科書などさまざまな資料がおさめられ、オルガン、ミシンなども展示されていた。年表によれば、1923年関東大震災で焼出、19253月近隣民家出火による類焼、19448月新潟県への集団疎開、1945310日の東京大空襲で全焼、19499月のキティ台風で床上150㎝の浸水の被害に見舞われていることがわかる。資料・記録へのダメージは壊滅的であったこともわかった。

50回忌も過ぎた母への思い入れから、当方の勝手な感傷から突然訪ねた東陽小学校であったが、思いがけず、親切な先生にお会いできて幸運だった。お昼休みをそっくりつぶしてしまった申し訳なさでいっぱいだった。「いえ、お昼休みだったからご案内できました。お役に立てなくて・・・」ともおっしゃって、校門で別れる際に、名乗ってくださったK先生、ありがとうございました。

真新しい校名の看板は、裏から見ると「創立110周年記念」とあった。昨年建てたものらしい。

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