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2011年11月29日 (火)

20世紀メディア研の研究会、いつもながら刺激的な

 大隈講堂脇の大銀杏のみごとな黄葉に、カメラを持ってくるのを忘れていたのに気付く。ケイタイでしか取れなかったのが残念。研究会の案内が届くたびに、行きたいと思いながら見送ることも多い昨今、今回は以下のような報告だったが、参加することができた。この研究会は、主として占領期メディア研究の報告が多いが、多岐にわたり、刺激的で興味深い。メデイア研の研究員でもあるY氏は院ゼミの“先輩”でもあり、久しぶりにお会いできた。お子さん二人はまさに受験生の由、ご自身は海外での学会発表や二つの新著に向けて、お忙しそうだった。

以下は、私の関心、理解の限りの要約にて、至らないところはご容赦を。

20111126141707

<第64回研究会>

  ・ 日時  1126日(土曜日)午後230分~午後5

  ・ 場所  早稲田大学 早稲田キャンパス 1号館

                      現代政治経済研究所会議室 2階

  ・ 発表者:テーマ

  ①土屋礼子(早稲田大学):

   朝鮮戦争における心理戦に関する小考

  ②趙新利(中国伝媒大学広告学院 講師 中国察哈爾学会研究員):

   日中戦争期における中国共産党支配地区の日本人反戦組織について

  ③川崎賢子(文藝評論家・日本映画大学):

   占領期における日本「古典」概念の変容とGHQ検閲

  ・司会:小林聡明

 ①土屋氏は、『対日宣伝ビラが語る太平洋戦争』(吉川弘文館 201112月)を刊行されたばかりで、私もこの日の会場で購入したのだが、その研究の流れで進めているのが今日のテーマだった。朝鮮戦争における米国や米軍の心理戦がどのように展開されたのか、日本はその心理戦の基地となったが、日本・日本人はどのようにかかわったか。心理戦の対象は、北朝鮮及び中ソほかの共産主義陣営向けと韓国及び日本・国連加盟国ほかアジア諸国向けであって、日本は、心理戦の重要な対象であった。

 朝鮮戦争に対する当時の認識が、内戦に干渉する米国帝国主義の侵略に対する朝鮮人民の祖国解放戦争か大韓民国への不法な北朝鮮の武力攻撃への平和回復戦争か、の対立のなかで、米国占領下にあった日本政府は、1950年、朝鮮戦争ぼっ発直後には、主要メディアでのレッドパージを強行、警察予備隊を創設している。1951年には、旧指導者・旧軍人の公職追放解除がなされ、9月にはサンフランシスコ講和条約・日米安保条約が調印され、米国の対共産圏戦略に組み込まれ、「逆コース」へと方向転換する時期であった。当時の外務省資料「朝鮮の動乱とわれらの立場」(1950819日)では、朝鮮動乱という局地的な問題ではなく民主主義と共産主義との対立であり、「思想戦の見地から見て」不介入や中立はありえず、「徒に共産主義世界の<反戦平和運動>に同調することは民主主義を崩壊させるに役立つだけである」と記している。

 報告では、米軍資料により、休戦交渉以降、日本メディアの朝鮮戦争の取材は、米軍から許可された記者のみに限られ、全国紙並びに主要地方紙の新聞社、通信社、NHKなどから一人ないし数人の名前が浮上する。数少ない先行研究ラインバーガー著『心理戦争』を参考にしながら、朝鮮戦争における心理戦の組織や実践とくにビラ制作の過程と内容や散布量、G-2(参謀第2)機密費で雇用されていた日本人スタッフのリストなどが明らかにされ、陸軍省の報道部長であったり、当時のソ連通だったり、最後のソ連駐在武官であったりした人物が登場する(馬淵逸雄、高谷覚蔵、矢部忠太)。心理戦の始まりやより具体的な状況はまだ不明な点が多いとされる。まかれたビラには、太平洋戦争下の日本人向けのビラとデザインが同じで、日本語を中国語や朝鮮語に替えたものもあったという。

 当時、小学生だった私が、映画好きの家族に連れられて行った映画館で、劇映画の前に必ず上映された「ニュース映画」が、政局や街の話題と共に必ず長々と上映された朝鮮での戦局や戦闘場面の映像、国連軍の反撃、攻勢を繰り返し、繰り返し映し出していたことが思い出される。竹脇昌作の歯切れの良いナレーションを聞いたこともある(パラマウントニュース?)。占領軍の言論統制下にあって、誰がどのように制作していたニュース映画だったのか、今になって知りたく思う。テレビのない時代、心理戦におけるニュース映画の効用は絶大であったに違いない。小学校高学年の社会科では「朝日年鑑」を毎日学校に持参し、サンフランシスコ講和条約により「ほんとうの平和」がやってきたみたいな気分でグル-プ発表をしたような思い出もある。

②趙氏は、早稲田大学で博士課程を修了、北京から8か月ぶりの来日だったそうで、久しぶりの日本語に戸惑ったということだったが、丁寧な日本語での報告だった。「日本人反戦組織」って何?というほどの私には、知らなかったことも多い。報告を聞いているうちに、敗戦直後、いわゆる「洗脳」機関などと呼ばれ、子供心に「コワい」イメージを抱いた言葉であったことも思い出した。日中戦争期の後半、それまでは処刑されることが多かった日本人捕虜を利用・活用する方針に基づいてプロパガンダを展開するようになった。その拠点として、1939年頃から各地に覚醒連盟が創設され、19415月、延安に日本労農学校が開校されている。その校長が岡野進の名を用いていた野坂参三だった。19458月には300人以上の生徒(捕虜)がいたという。報告者は、聯盟や学校の各所で発行されていた日本語の新聞などを利用しながら、「教育」の実態を探る。

 一般兵士にスローガンやハーモニカの「荒城の月」などで呼びかけたり、日本軍の中隊長に手紙を渡したり、ビラや小新聞を配布したりと様々な手法とともに、戦場の日本軍兵士の死体は埋葬し、墓標を建てたりすることも行ったという。また、捕虜に対しては、日本軍の指導者と一般兵士との階級意識を鮮明にして、いわゆる「2分法」として、一般兵士を戦争責任から解放し、娯楽などを通して融和策をとっていたという。その典型が野球大会などの催しで、その「伝統」は、近年来日の温家宝首相が訪問先で野球などに興じることにつながっているのではないか、とのことだった。

③川崎氏からは、占領期検閲の研究において、近代文学についての先行研究はあるが、古典について手つかずではなかったかとの問題提起があった。プランゲ文庫の図書資料の「古典」にかかわる検閲の傾向を明らかにし、そこには、文化ナショナリズムの根拠に「古典」を置くという思想そのものが検閲処分の対象にされていることを示唆する。「古事記」「日本書紀」などの検閲に際しては、文化的優位性の主張、伝統主義、日本精神、生命主義、祭政一致などの言説が対象とされた。「万葉集」にあっては、戦時下に軍歌や国策スローガンとして用いられた個所を再録したものが、それだけで問題視されているという。

明治以降の「万葉集」の位置づけについては『万葉集の発明』などの先行研究もあるが、とくに教科書における「万葉集」の扱いについては、、私もぜひたどってみたいところである。 

 20世紀メディア研究所の機関誌「インテリジェンス」は、すでに11号まで刊行されている。当日の受付ではバックナンバーも販売していたので、「占領期の<右翼>の短歌~歌道雑誌『不二』に見る影山正治の言説とGHQの検閲」(時野谷ゆり)収録の8号を購入した。帰りの電車で読み進めていると、引用文献の中に旧著『短歌と天皇制』があるのを発見、緊張が走るのだった。

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