« 2011年10月 | トップページ | 2011年12月 »

2011年11月30日 (水)

『すてきなあなたへ』が『地域新聞』に紹介されました

私が参加しているミニコミ誌「すてきなあなたへ」が地域新聞(12月2日号)に紹介されました。11月初旬にスタッフ2人で、取材を受けました。場所は志津コミセンでしたが、折しも、集団検診のさなか。騒然としたなかでのインタビューでしたが、きちんとまとめていただき、ありがとうございました。記事は最終頁でした。

Gedc2203

| | コメント (0)

中学校国語教科書の中の近代・現代歌人と短歌作品~しきりに回る「観覧車」

二〇一一年六月、来年度から使用される検定済みの中学校教科書の展示会に出かけた。その後、あらためて、五社による「国語」教科書に目を通し、近代・現代短歌歌人と作品がどのように登場し、扱われているかについて、平成一八年度から二三年度(二〇〇六~一一年度)まで使用されている教科書と平成二四年度(二〇一二年度) から使用される教科書を比較してみることにした。今回は、国立国会図書館分館の国際子ども図書館(二〇〇二年以降の教科書)と教科書研究センター付属図書館(明治以降の教科書を網羅的に所蔵)で閲覧・複写した。

 指導要領改訂は一〇年ごと、教科書検定は四年ごと、ということで、タイムラグが生じる。たとえば、平成一四年度(二〇〇二年)の指導要領改訂によって平成一二年度検定がなされ、原則的に四年ごとに検定がなされる。しかし、この間、検定申請がなされなかったので、中学校国語の場合は、今年度まで、六年間同じ教科書を使用していたことになる。指導要領改訂を踏まえた検定済み教科書について、各県は、採択のための参考資料として各社教科書の分析報告を作成することになっている。東京都の場合、その報告は東京都教育委員会のサイトで見ることができ、整理や確認に利用できる。以下、今回作成した下記の「中学校国語教科書平成18年度・24年度比較表」をもとに概観したい。

 
①学校図書
 
作品一五首の中に、土岐善麿と平井弘、荻原裕幸が並び、中学校教科書に岡井隆が登場するのは珍しい。与謝野晶子が登場しないのも、この教科書だけである。旧版に登場する草地宇山(母逝くと吾子のつたなき返しぶみ読みて握りて耐へてまた読む)という名の作者は、私は今回初めて知ったのだが、辺見じゅん『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』(一九八九年)で紹介された作品であった。新版で入れ替わった植田多喜子(一八九六~一九八八)(顔よせてめぐしき額撫でにけりこの世の名前今つきし児を)は、植松寿樹に師事し、『沃野』同人、ベストセラーとなった私小説『うづみ火』の作者でもある。教材が著名歌人の作品に限る必要はないが、いずれもマイナーな作者ではないかと思う。掲載の意図はどの辺あるのだろうか。また、三年用に登場する俵万智(「あいみてののちの心の夕まぐれ君だけがいる風景である」)が、古典和歌、藤原敦忠「逢ひ見ての後の心にくらぶれば昔はものを思はざりけり」との出会いから、「歌の源流へ(万葉集・古今和歌集・新古今和歌集)」といざなう解説導入文になっている。現代の中学生と古典和歌との懸け橋としての俵万智の登場は編者の苦心のしどころだったかもしれない。

②東京書籍
 晶子、茂吉、啄木、修司、万智の五首は新・旧変更がないが、道浦母都子の書下ろしエッセイでは鑑賞作品を変えた。旧版は、俵万智は別として、大口玲子、永井陽子という、ややマイナーな選出から与謝野晶子、寺山修司、栗木京子というポピュラーな人選となった。

③三省堂
 タイトルも「現代の国語」から「中学生の国語」に変更され、短歌の単元の編成も変え、作者・作品の入れ替えも行った。旧版の島木赤彦、近藤芳美が消え、新版に釈迢空、佐佐木幸綱、穂村弘が加わった。新版には、編集部による鑑賞文のなかに、晶子、修司、牧水、子規、茂吉が取り入れられた。新・旧版ともに収載の李正子「〈生まれたらそこがふるさと〉うつくしき語彙にくるしみ閉じ行く絵本」と、穂村弘「シャボンまみれの猫が逃げ出す午下がり永遠なんてどこにも無いさ」の二首が他社にない特色と言えるだろうか。前者は在日コリアン二世としての苦渋と穂村のアンニュイというか刹那主義を中学生にどう理解させるのかが、教師の指導力にかかってくるのだろう。

④教育出版
 短歌に関して、やや編成を変えた。近代短歌五首の作者・作品に変わりはない。穂村弘のエッセイが三年から二年に移動した。三年に佐佐木幸綱の書下ろしによる、古典・現代の歌の鑑賞の手引きが収録された。「恋の歌」として、万葉集から天武天皇(「我が里に大雪降れり大原の古りにし里に降らまくは後」)と藤原夫人(「我が岡のお上に言ひて降らしめし雪のくだけしそこに散りけむ」)との相聞から現代の恋歌として、栗木京子(「観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生」)と俵万智(「『寒いね』と話しかければ『寒いね』と答える人のいるあたたかさ」)が登場する。さらに「季節の歌」として、古今和歌集の凡河内躬恒(夏と秋と)、藤原敏行(秋来ぬと)を引用する趣向は、学校図書版の三年「言葉との出会い」同様の試みだろう。現代の中学生には、ストレートに古典和歌に入るのは難しいのかもしれない。

⑤光村図書   
 今回の検定で、最も変更が大きかった教科書である。二年の鑑賞のためのエッセイの執筆者が玉城徹から馬場あき子に変わり、子規、晶子、茂吉、白秋の近代歌人に加えて、寺山修司、俵万智の現代歌人が採録された。「短歌十二首」では、作者・作品が入れ替わる。伊藤左千夫、島木赤彦、長塚節、前田夕暮、佐藤佐太郎、塚本邦雄が消え、窪田空穂、木下利玄、岡本かの子、前川佐美雄、斎藤史、佐佐木幸綱、高野公彦、河野裕子の九人が加わる。左千夫、赤彦、節、夕暮、佐太郎、空穂、利玄、かの子、佐美雄などは、私自身も中学校や高校で出遭ったような歌人の登場を懐かしく思うのだった。近代・現代短歌にかなりのこだわりを持つ人選に思われた。
 以上のように、新・旧版で劇的な変更した教科書はなかったといえるが、全体的に見れば、登場歌人の「世代交代」が徐々に進んでいるのは確かだろう。
 
五社の新版における収載の歌人・作品の上位は次のようになった。五社すべてに収載された歌人は、石川啄木、斎藤茂吉、栗木京子、俵万智の四人で、その収載作品は以下の通りだ。括弧内の数字は収載出版社数であり、未記載のものは一社である。栗木京子の一首、旧版では三社であったが、新版では五社すべてが収載した。俵万智は四社から五社へ、啄木と茂吉の作品数は変わらないが、作品に入れ替わりがあった。茂吉の「死に近き」は、四社から三社となった。茂吉や啄木などの作品一首一首の解釈や鑑賞は、ある程度定着してきている。しかし、たとえば、栗木京子の「観覧車」について、比較表④「伝え合う言葉3」新版において、佐佐木幸綱は「(前略)一緒に並んで乗っていながら、二人の心の中は同じではない。対立仕立てになっている下の句が、対照的な二人の心を描き出しています。失恋の歌です。せつないですね」と断定的に説く。作者自身は、学生時代にゼミ仲間で遊園地に遊んだ折に「すんなりできてしまった一首」であって、深刻でもない、哀切な歌でもないと明かしている(『短歌を楽しむ』岩波書店 一九九九年一〇七頁)のは興味深い。他に、俵万智や松村由利子の「読み」も微妙に異なっていたのを読んだことがある。

 小学校では、短歌は六年で学習するが、与謝野晶子「金色の」の収載が圧倒的に多い。俵万智の場合は、各社各様の選出である。啄木、茂吉、牧水など中学校と重なる作品も見受けられるが、どのように発展させていくのだろうか。高校では、テキストの数も多いし、スペースも多いので、実に多種多様な作者・作品が収録されている。今ここでは触れない。

<資料―掲載作品と収録教科書数>
栗木京子

観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生(五)
斎藤茂吉
死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞こゆ(三)
みちのくの母のいのちを一目みん一目みんとぞたたにいそげる(二)
のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり
蚊帳のなかに放ちし蛍夕さればおのれ光りて飛びそめにけり
石川啄木
不来方のお城の草に寝ころび空に吸はれし十五の心(三)
やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに
ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく
誰が見てもわれをなつかしくなるごとき長き手紙を書きたき夕べ
俵 万智
「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ(二)
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
白菜が赤帯しめて店先にうっふんうっふんかたを並べる
思い出の一つのようでそのままにしておく麦わら帽子のへこみ
あいみてののちの心の夕まぐれ君だけがいる風景である

 さらに、与謝野晶子(五首)と寺山修司(四首)が四社に登場、若山牧水(四首)と正岡子規(三首)は三社に登場していることがわかる。以下は二社で収載している作品である。
与謝野晶子
なにとなく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな(二)
若山牧水
白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ(二)
正岡子規
くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる(二)


比較表は下記をクリックしてください。↓

中学校国語教科書平成18年度・24年度比較表

(『ポトナム』201112月号所収)

| | コメント (0)

2011年11月29日 (火)

20世紀メディア研の研究会、いつもながら刺激的な

 大隈講堂脇の大銀杏のみごとな黄葉に、カメラを持ってくるのを忘れていたのに気付く。ケイタイでしか取れなかったのが残念。研究会の案内が届くたびに、行きたいと思いながら見送ることも多い昨今、今回は以下のような報告だったが、参加することができた。この研究会は、主として占領期メディア研究の報告が多いが、多岐にわたり、刺激的で興味深い。メデイア研の研究員でもあるY氏は院ゼミの“先輩”でもあり、久しぶりにお会いできた。お子さん二人はまさに受験生の由、ご自身は海外での学会発表や二つの新著に向けて、お忙しそうだった。

以下は、私の関心、理解の限りの要約にて、至らないところはご容赦を。

20111126141707

<第64回研究会>

  ・ 日時  1126日(土曜日)午後230分~午後5

  ・ 場所  早稲田大学 早稲田キャンパス 1号館

                      現代政治経済研究所会議室 2階

  ・ 発表者:テーマ

  ①土屋礼子(早稲田大学):

   朝鮮戦争における心理戦に関する小考

  ②趙新利(中国伝媒大学広告学院 講師 中国察哈爾学会研究員):

   日中戦争期における中国共産党支配地区の日本人反戦組織について

  ③川崎賢子(文藝評論家・日本映画大学):

   占領期における日本「古典」概念の変容とGHQ検閲

  ・司会:小林聡明

 ①土屋氏は、『対日宣伝ビラが語る太平洋戦争』(吉川弘文館 201112月)を刊行されたばかりで、私もこの日の会場で購入したのだが、その研究の流れで進めているのが今日のテーマだった。朝鮮戦争における米国や米軍の心理戦がどのように展開されたのか、日本はその心理戦の基地となったが、日本・日本人はどのようにかかわったか。心理戦の対象は、北朝鮮及び中ソほかの共産主義陣営向けと韓国及び日本・国連加盟国ほかアジア諸国向けであって、日本は、心理戦の重要な対象であった。

 朝鮮戦争に対する当時の認識が、内戦に干渉する米国帝国主義の侵略に対する朝鮮人民の祖国解放戦争か大韓民国への不法な北朝鮮の武力攻撃への平和回復戦争か、の対立のなかで、米国占領下にあった日本政府は、1950年、朝鮮戦争ぼっ発直後には、主要メディアでのレッドパージを強行、警察予備隊を創設している。1951年には、旧指導者・旧軍人の公職追放解除がなされ、9月にはサンフランシスコ講和条約・日米安保条約が調印され、米国の対共産圏戦略に組み込まれ、「逆コース」へと方向転換する時期であった。当時の外務省資料「朝鮮の動乱とわれらの立場」(1950819日)では、朝鮮動乱という局地的な問題ではなく民主主義と共産主義との対立であり、「思想戦の見地から見て」不介入や中立はありえず、「徒に共産主義世界の<反戦平和運動>に同調することは民主主義を崩壊させるに役立つだけである」と記している。

 報告では、米軍資料により、休戦交渉以降、日本メディアの朝鮮戦争の取材は、米軍から許可された記者のみに限られ、全国紙並びに主要地方紙の新聞社、通信社、NHKなどから一人ないし数人の名前が浮上する。数少ない先行研究ラインバーガー著『心理戦争』を参考にしながら、朝鮮戦争における心理戦の組織や実践とくにビラ制作の過程と内容や散布量、G-2(参謀第2)機密費で雇用されていた日本人スタッフのリストなどが明らかにされ、陸軍省の報道部長であったり、当時のソ連通だったり、最後のソ連駐在武官であったりした人物が登場する(馬淵逸雄、高谷覚蔵、矢部忠太)。心理戦の始まりやより具体的な状況はまだ不明な点が多いとされる。まかれたビラには、太平洋戦争下の日本人向けのビラとデザインが同じで、日本語を中国語や朝鮮語に替えたものもあったという。

 当時、小学生だった私が、映画好きの家族に連れられて行った映画館で、劇映画の前に必ず上映された「ニュース映画」が、政局や街の話題と共に必ず長々と上映された朝鮮での戦局や戦闘場面の映像、国連軍の反撃、攻勢を繰り返し、繰り返し映し出していたことが思い出される。竹脇昌作の歯切れの良いナレーションを聞いたこともある(パラマウントニュース?)。占領軍の言論統制下にあって、誰がどのように制作していたニュース映画だったのか、今になって知りたく思う。テレビのない時代、心理戦におけるニュース映画の効用は絶大であったに違いない。小学校高学年の社会科では「朝日年鑑」を毎日学校に持参し、サンフランシスコ講和条約により「ほんとうの平和」がやってきたみたいな気分でグル-プ発表をしたような思い出もある。

②趙氏は、早稲田大学で博士課程を修了、北京から8か月ぶりの来日だったそうで、久しぶりの日本語に戸惑ったということだったが、丁寧な日本語での報告だった。「日本人反戦組織」って何?というほどの私には、知らなかったことも多い。報告を聞いているうちに、敗戦直後、いわゆる「洗脳」機関などと呼ばれ、子供心に「コワい」イメージを抱いた言葉であったことも思い出した。日中戦争期の後半、それまでは処刑されることが多かった日本人捕虜を利用・活用する方針に基づいてプロパガンダを展開するようになった。その拠点として、1939年頃から各地に覚醒連盟が創設され、19415月、延安に日本労農学校が開校されている。その校長が岡野進の名を用いていた野坂参三だった。19458月には300人以上の生徒(捕虜)がいたという。報告者は、聯盟や学校の各所で発行されていた日本語の新聞などを利用しながら、「教育」の実態を探る。

 一般兵士にスローガンやハーモニカの「荒城の月」などで呼びかけたり、日本軍の中隊長に手紙を渡したり、ビラや小新聞を配布したりと様々な手法とともに、戦場の日本軍兵士の死体は埋葬し、墓標を建てたりすることも行ったという。また、捕虜に対しては、日本軍の指導者と一般兵士との階級意識を鮮明にして、いわゆる「2分法」として、一般兵士を戦争責任から解放し、娯楽などを通して融和策をとっていたという。その典型が野球大会などの催しで、その「伝統」は、近年来日の温家宝首相が訪問先で野球などに興じることにつながっているのではないか、とのことだった。

③川崎氏からは、占領期検閲の研究において、近代文学についての先行研究はあるが、古典について手つかずではなかったかとの問題提起があった。プランゲ文庫の図書資料の「古典」にかかわる検閲の傾向を明らかにし、そこには、文化ナショナリズムの根拠に「古典」を置くという思想そのものが検閲処分の対象にされていることを示唆する。「古事記」「日本書紀」などの検閲に際しては、文化的優位性の主張、伝統主義、日本精神、生命主義、祭政一致などの言説が対象とされた。「万葉集」にあっては、戦時下に軍歌や国策スローガンとして用いられた個所を再録したものが、それだけで問題視されているという。

明治以降の「万葉集」の位置づけについては『万葉集の発明』などの先行研究もあるが、とくに教科書における「万葉集」の扱いについては、、私もぜひたどってみたいところである。 

 20世紀メディア研究所の機関誌「インテリジェンス」は、すでに11号まで刊行されている。当日の受付ではバックナンバーも販売していたので、「占領期の<右翼>の短歌~歌道雑誌『不二』に見る影山正治の言説とGHQの検閲」(時野谷ゆり)収録の8号を購入した。帰りの電車で読み進めていると、引用文献の中に旧著『短歌と天皇制』があるのを発見、緊張が走るのだった。

| | コメント (0)

2011年11月21日 (月)

すてきなあなたへ64 号を発行しました

本日、印刷、発行の運びとなりました。
左側のマイリスト「すてきなあなたへ」64号をクリックしてください。

目次

なぜ、私は自転車だったのか~思い出したのは四十数年前の事件~
この夏の航空機騒音、佐倉の空はどうなる?~日本の空を返してほしい~
菅沼正子の映画招待席「サラの鍵~フランスよ、お前もか~」
編集後記

|

2011年11月20日 (日)

「生協」の民主的な運営とは~生活クラブ生協で体験したこと~

 私の生協歴

名古屋では、市民生協の日曜班に入っていた。千葉県に転居・転勤してからは、日曜配達は見受けられず、生協には加入できなかった。一駅先のスーパーまで、週に一回、自転車で買い物に出かけた時期が7年間。仕事を辞めてすぐに加入したのが、生活クラブ生協のご近所の班だった。1週間に1回、56人のお宅の持ち回りでガレージを提供し、購入品を分け合った。1か月に1回、これも持ち回りのメンバー宅で班購入の計画を立てながらおしゃべりしたものだった。そして、班長になったときは1か月に1回、近隣の班長が寄る班長会に出席、さらにその班長会の代表になると、支部の会議にも参加する。私は1年間その代表のサブを務め、理事も出席する支部の会議に出た。戸別配達が可能になると、いろいろな事情で班から一人抜け、二人抜けして、全員戸配に移動、班は解散した。

 千葉県での生協歴156年になる。この間、直近の駅近くにスーパーができたり、近年歩いて5分のところに小さな生鮮品スーパーができたりしたが、客数が伸びず、したがって品ぞろえも今一つで、主流は生協での調達で落ち着いた。

 ところが、支部の会議に出ていた頃からも感じていたのだが、安心な生鮮食品を共同購入するという、生協本来の原点から、だんだんと事業を拡大、「ゆりかごから墓場まで」の多様な事業展開の様相を帯びてきた。衣料・雑貨はまだしも、ジュエリー、サプルメント・書籍・旅行・チケット・葬祭などの斡旋、保険・介護事業への出資、そして今年はそれに風力発電への出資が加わったのだ。毎週届く膨大な宣伝チラシ、なんとかならないのかとチラシの選択制や印刷物の回収を提案したこともあったが、実現できていない。配達用の袋と指定のビン類の回収だけはほそぼそと続いているのが実態だ。他の生協では、回収に力を入れているところもある。

 

減資手続きから垣間見る、その閉鎖性

 今年、私は必要があって、すでに20万円ほどになった積立て出資金の一部の返還を申し出た。ところが、「出資金10万円は残してもらうことになっているので、それを割り込む減資はできない」と、受理してもらえなかった。なるほど、定例で配布された「減資手続要綱」の一行目に「積立出資金10万円を残し1万円単位で減資を行うことが出来ます」とある。これまで減資の必要がなかったので、読み過ごしていたらしい。しかし、これっておかしくない?と思い、総代会の傍聴の折の資料に載っていた「定款」を見たが、そんな記述はない。あるのは脱退時に出資金全額返還(13条)とやむを得ない理由があれば1年に1回、90日前の予告によって年度末に1000円を残しての減資が可能であること(17条)しか書いていなかった。「10万円を残して」という根拠を尋ねると、1992年の総代会の決議に拠る、という。私が加入する以前の話である。そんな昔の決議が生きているのかも疑問だったが、「減資手続要項」にもその根拠は明記されていない。現在の「加入申込書」にも出資積立金が10万円に達するまでは減資できないとも書いていない。「10万円を残して」は組合員へのお願いのレベルで強制力はないのではと思い、支部の事務局員、理事ともやり取りをしたが、「ルールはルールだから、守っていただく」の繰り返しだった。「どうしても減資額に見合うお金が欲しいなら、引落口座をゼロにして、引落不能にすればこれまでの出資金から相殺されますよ、そうでなければ脱退したら全額戻りますよ」と、脱退の意思がない組合員には、ちょっと信じられないことをいうのだった。

1992年の決議というのであれば、当時の総代会議事録のコピーをとり寄せてみた。「資金結集活動」の一環として、自己資金不足分は銀行借り入れを行うが、配送センター建設のために、土地250坪、建物250坪、各坪単価100万円というラフな計算で、総計5億が別途必要なので、「減資の際の最低積み残し額を5万から10万円に引き上げる」という文言があった。その根拠は「5億÷関係組合員500010万」として示されていた。それから19年間、年々減資の際はこの「縛り」が維持されてきたらしい。

出資金の行方は

「生活クラブ生協千葉」は2010年度実績で、組合員は約38400人、供給高83億、出資金34億、自己資本率80.2%、短期・長期の借入金なしで超健全経営は維持されている。さらに、貸借対照表によれば、負債・純資産合計の中の出資金の割合は、68パーセントであって、純資産/負債(399600万/98600万)比率が4.05であった。が、これが組合員全体に還元されるのではなく、他の事業拡大にまわされている傾向が強いのだ。近年、関連法人の社会福祉法人生活クラブと生活サポートクラブなどへの短期・長期の貸付金が膨れ上がって4億を超え、2011年度からは、生活クラブ風車建設のため、一般社団法人「グリーンファンド秋田」に500万の出資と17年間で元本返済の4800万融資を行う計画だ。この風車建設は、新しいエネルギー政策として注目されているが、日本での実態としては補助金目当ての事業も多いと取りざたされ、低周波公害などの問題もあり、事業として成功するのはかなり難しい状況にあり、決してバラ色ではない。今回の首都圏生活クラブによる建設計画は、最後となる補助金制度にすべり込んだ形だ。ともかく、これだけのゆとりがある生活クラブ生協ながら、まだ、なぜ、最低積み残し金10万円をうたわなければならないのか。出資金を何が何でも確保して置きながら、事業拡大を手掛けるのは、やはり、生協本来の姿からは乖離するのではないか。しかも、手続き的に、当初の一時的な事情が変更しているにもかかわらず、毎年、明確な説明もないまま「最低積み残し金10万」を「3号議案」の末尾に当然のように提案しているのは、定款に違反するのではないかと思った。

支部の理事や本部事務局の担当者は、顧問弁護士にも相談したが、毎年、総代会で議決されているのだから定款違反とはならない、の一点張りなので、ちなみにその弁護士の名前を尋ねてみた。組合員と直接話すことはできないし、その氏名は教えられないともいう。何のことはない、総代会の来賓リストに顧問弁護士の名は明記されている。この対応には少々呆れてしまった。生協運営の基本は組合員への情報公開ではなかったのか。生協の事務局や幹部はしっかりと「役人」になってしまったらしい。

扉を開ける、少しは変わる

仕方なく、私は「定款」による減資を申出ると、初めてのケースなもので、まだ、その書式ができていない!?というではないか。え?いままで、定款による減資の前例がないということらしい。そういえば、「定款」も手続きも一切広報を受けた記憶がない。減資には定款による方法もあることを組合員に周知させるべきではないかと、私は提案した(99日)。すると、驚いたことに、その回答(920日)には、10万円を残す年度途中の減資は「組合員に有利な期中減資を認めるものである」とあった。さらに、「定款」の周知については「定款34条第1(1)により定款は組合の事務所に備え置くことになっており、同条3項により、組合員から定款の閲覧謄写の請求があったときは、正当な理由のない限り、これを拒んではならないとされています。定款の周知方法としてはこれにより必要かつ十分と理解しております」というではないか。

しかし、1015日付で、生活クラブ千葉(虹の街)の機関誌「コルザ」の別冊は、「定款」ほか総代会運営規約、総代選挙規約、エッコロ(共済)制度規約など諸規則集を収録し、保存版として発行された。これまで共済制度の規約と案内チラシは何度か見ているが、諸規則がまとまって見られるは初めてだ。それというのも、今年6月の総代会の折、総代の選出、議長の選出など運営についてかなりの緊急動議が出されたのを踏まえてなのだろうか。ともかく、こうした諸規則が全組合員に配布されたのは、総代会でもめたことの成果の一つであり、私の質問も、「定款」は事務所に備え置いて閲覧・謄写の請求に応えれば「必要かつ十分」としか回答しなかった固い扉を少しこじ開けるのに役立ったかな、とも思う。生協運営が当初の生協活動や組合員の初志を忘れ、まるで役所みたいな様相を帯びてきたのには、ただ、目先の便宜だけで、運営には無関心な組合員が多くなってきたことにも原因があるのではないかと思う。

11月になって、定款による減資の申請書が届いた。支部の機関誌の11月号の半頁に「出資金の減資について」という小さな「お知らせ」が載り、「定款」による減資も小さく報じられたのも、ひとつの成果か。それにしても、出資金をつかんで離さないばかりか、それをしっかりした説明や討議が曖昧なまま、事業拡大に使われるリスクは誰が負うのだろうか。

| | コメント (3)

2011年11月 8日 (火)

佐倉市上空、飛行の可能性のすべて~やはり、実態調査が必要なのでは

 佐倉市上空の航空機騒音が気になり出し、半年がたった。本ブログでもこれまで3回ほど触れた。ウォーキングの折など自分でカウントした結果や市・県の担当課に調査を依頼した結果は、すでに報告した。しかし、羽田再拡張後1年間の、佐倉市上空を飛行した便数の調査は、国交省羽田空港事務所、環境・地域振興課でも無理で、最終的には佐倉市上空を「飛行した可能性のある」便数の算出は可能ということで調査を依頼した。いったい佐倉の上空に何機が、どのくらいの高度で飛んでいるのだろうか。

 この春以来、短時間ながらの断続的に黙視した結果の一部は報告済みだが、その後も細々続けているものの、データとはなりにくい。そこで、上記のような依頼となったのだが、届いた報告から、次の表を作成した。

羽田空港着陸便(201010月~20119月)

佐倉市上空を飛行していた可能性のある機数(月別・天候別)

天候別

合計

月合計

天候別

日合計

2010

10

北風

3661

3772

101

117

117

南風悪天

0

0

南風好天

111

0

11

北風

3052

3619

111

57

104

南風悪天

123

0

南風好天

444

47

12

北風

2737

3551

121

112

112

南風悪天

66

0

南風好天

741

0

2011

1

北風

3334

3459

11

111

111

南風悪天

0

0

南風好天

125

0

2

北風

2840

3261

21

79

107

南風悪天

103

0

南風好天

316

28

3

北風

2569

3691

31

108

108

南風悪天

98

0

南風好天

1024

0

4

北風

1712

4385

41

36

127

南風悪天

924

0

南風好天

1749

91

5

北風

2195

3927

51

0

223

南風悪天

379

148

南風好天

1353

75

6

北風

2062

4141

61

118

118

南風悪天

753

0

南風好天

1326

0

7

北風

1184

4345

71

40

131

南風悪天

690

0

南風好天

2471

91

8

北風

2006

4193

81

116

116

南風悪天

436

0

南風好天

1751

0

9

北風

1707

4035

91

117

117

南風悪天

451

0

南風好天

1877

0

年間

総計

北風

29059

46379

南風悪天

4023

南風好天

13297

6時~2259分。23時~559分は海上ルートになる)

①北風:C滑走路使用の北方面からの着陸便で、

佐倉上空を北から南に飛行、高度60008000フィート

②南風悪天:B滑走路使用の南方面からの着陸便で、

 佐倉上空を南から北に飛行、高度4000フィート

③南風好天:D滑走路使用の北方面からの着陸便で、

 佐倉市上空を北から南に飛行、高度4000フィート

この調査結果で、年間総計をみると、この1年は、高度の高い北風仕様飛行が62%を占め、高度の低い南風仕様飛行が38%を占めている。当初、私は、春夏季は南風、秋冬季は北風が圧倒的に多いという認識だったが、それほど単純ではないことがわかった。羽田空港付近の天候・風向きに左右されるとのことだから、この仕様は季節を越えて混在している。また、同じ羽田への着陸便は北方面からの便と聞き、そう思い込んでいたが、南風悪天候時の南方面からの着陸便も、佐倉市上空を南から北へと全く逆方向に飛ぶことがわかった。

さらに、各月1日の飛行ルートも調べてもらった。100130便の間を推移するが、例えば51223便は突出している数字だが、こういう日も時々ある様で、ちなみに私の手帳には、「風が強く暑い」とあった。

といっても冬に向かえば、相対的に、高度の高い北風仕様の飛行が多くなり、騒音はやや緩和されるのは事実だ。だからと言って、あの夏の低空飛行から受ける騒音を忘れてはいけない。今朝の新聞報道によれば、117日、千葉市熊谷市長は、市民からの強い要請を受けて、飛行ルートの変更、分散化、高度の引き上げという具体的な改善策を、国交省松原副大臣に面談、要望したとある(東京新聞、千葉日報など)。

たしかに、佐倉市は千葉市ほどではないが、私が断続的、断片的にカウントしたメモや感触からは、上記の数字より多いのだ。「可能性がある」数字より多いということはどういうことだろう。夕刻から午後8時台の30分間で7機前後、多いときは9機を数える。佐倉市でも、何とか飛行実績を明確にしてほしい(118日)。

| | コメント (0)

2011年11月 7日 (月)

ようやく「ミツバチの羽音と地球の回転」を見る

草枕旅行く人を伊波比島幾代経るまで斎ひ来にけむ

 

福島原発事故以降、全国54基の原子炉と設置予定の場所が、地図で示されるようになった。「上関原発」の名は聞くがどこなのか、「祝島」の反対運動の話も聞くが、私は、正直、無知にも等しかった。

 映画は、山口県上関町祝島の三浦湾でのヒジキ漁から始まる。岩の間から海草を刈るように採っている青年がこの映画の中心人物のひとり「山戸孝クン」であることが後でわかる。やわらかくて、良質のヒジキはこの島の特産である。人口500人、平均年齢75歳の祝島から3.5キロの対岸、田ノ浦湾に、中国電力による上関原発の建設計画が持ち上がったのが1982年。以来、祝島の人々の暮らしそのものと漁業やビワ・ミカン生産などに与える影響の大きさに、島民は原発反対の活動を続けていた。中国電力、行政による島民への様々な嫌がらせや妨害が続き、島の人々も分断されてゆくなか、山戸親子を中心に島の人々は、原発に頼らなくとも暮らせる自立の道をさぐりつつ、声を上げた。毎週月曜日の原発反対のデモを続けられ、1000回にも及んでいる。中国電力は、反対住民との話し合いに応じないばかりか、工事区域を示すブイを配するためにやってきた作業船の上から、抗議行動をする船や島民に向かって「今後の102030年先の繁栄を考えております。発電所をつくることによって、確実な雇用の場が生まれます」「ほんとうは皆さんの中にも反対運動をやめてしまいたいと思っているかともいらっしゃるはずです」「このまま、ほんとうに農業とか第1次産業だけで、この島がよくなるとお考えですか。人口は年々お年寄りばかりの町になるっていうことはみなさんが一番よくお分かりでしょう」という定番のセリフを社員が叫ぶのだ。こうした攻勢へ応える島民の表情と言葉は重い。こう書いてみても、このドキュメンタリーに登場するする人々の知恵やしたたかさ、あたたかさやユーモアも伝わらないし、これまで守られてきた生態系の貴重さが伝えられないのがもどかしい。見ていただくしかない。

 また。この映画では、スウェーデンのエネルギー政策の転換~持続可能な地域自立型エネルギーを目指した地域の、その過程を丹念に追い、数々の提言をしているのも特色になっている。スウェーデン最北の町、オーバートーネオの風力発電、廃材チップ利活用による変革、ストックホルムの電気自動車と電力自由化の仕組み、ヨッテボリの太陽熱、波力活用など・・・。学ぶ点はたくさんありそうだ。第一、日本では、無駄な電気の消費を抑えるだけでも、原発の必要性には歯止めがかけられ、脱原発が目指せるようにも思った。今回の福島原発事故による「計画停電」なる鳴り物入りの大騒ぎは何であったのか、とも思う。

 祝島の原発反対の島民代表が、経済産業省に61万の署名を手渡すシーンもあるが、この署名は現在すでに100万筆を超えているという。

昨年来、神奈川県に住む娘から、この映画をぜひ見るように勧められていた。彼女自身が「今年1月の上映会で見たあと、311の原発事故に遭遇し、かなりのショックを受けた」といっていた意味がようやく分かった。この映画は20104月完成していて、順次上映されていたのである。映画が懸命に発信していた警告が、今回の上映中も鑑賞後の今も胸に突き刺さる。映画の題名が、やや<文学的>過ぎて、伝わりにくい一面があったのではなかったか。鎌仲ひとみ監督は「ミツバチの羽音はどんなに小さくても、地球の回転にすら影響を与えているかもしれない そう、小さな命のざわめき、いのちのエネルギーにこそ希望の種はまかれている」(「希望に至たる道」映画パンフレット)と語っている。

冒頭の短歌は『万葉集』巻十五の祝島をうたった8首のうちの1首である。地図を見てもわかるとおり、祝島は、伊予灘と周防灘に挟まれた室津半島の先の長島に続く突端の島であり、近畿や本州から九州にわたる最短距離の航路の寄港地だったという。船旅の安全を祈るうただ。島には「神舞(かんまい)」という伝統行事があり、九州の国東半島から神官を迎え、もてなし、神楽を奉納、見送るまで、5日間かけて行う。映画でも、とくに入船・出船の勇壮な場面が収められている。国東の人々と島の人々との古くからの交流や信頼関係を示す、4年に一度の行事、原発問題で、近年、2度も流れたというが、次回は20128月に行われるという。(2011113日)

「ミツバチの羽音と地球の回転」公式ホームページ

http://888earth.net/top.html

| | コメント (0)

2011年11月 4日 (金)

羽田空港の国際化から1年、佐倉上空の騒音は

 羽田空港にD滑走路が増設され、国際化の一歩を踏み出したのが昨年1021日、ちょうど一年が経つ。今年の春頃から、佐倉市、とくに志津地区の上空の航空機騒音が顕著になった。窓を開けていると、騒音でテレビの音声が途切れることもしばしば。また、夜10時を過ぎても赤い灯をともした機影が幾度となく爆音を響かせる。騒音が気になって寝つけないという友人もいる。私は、佐倉市の担当部署である企画政策課に、まず佐倉市における航空機騒音の実態を調査するよう要望したが、騒音という認識を拒もうとする。それでも苦情が多くなったせいか、822日「航空機(飛行ルート等)について」というお知らせをホームページ上に掲載した。ここでは、昨年10月の「羽田空港再拡張」後の飛行ルートの変更や再拡張に伴う近隣市町村と国交省との交渉経過などの概略をまとめているが、佐倉市上空における飛行実態や騒音についての独自の調査は一切おこなっていない。類似地区の「うるささ指数」を流用し、70デシベルという基準以下だという説明があるだけである。これもどこかで見てきたような役所仕事の構造である。放射能汚染問題の佐倉市の対応と似ている。

 すでに、この航空機騒音については、本ブログでも2回ほど書いている 。その記事へのアクセスは日ごとに増えているのは、騒音に対する住民からの苦情が殺到、千葉市などの自治体がようやく動き出したという報道がされるようになったからだろうか(『読売新聞』2011104日、21日、『朝日新聞』1021日、『毎日新聞』106日、21日『東京新聞』1022日などいずれも千葉版)。111日の朝、NHKテレビでも千葉市上空の騒音被害が報じられていたそうだ。9月末、私は、国交省東京空港事務所の環境・地域振興課に月別・時間別(毎月1日を当方から指定)の飛行便数調査を依頼していた。2週間たって届いた結果が千葉県から入手した数字と一部異なっていたので、再調査を依頼している。千葉県の数字がおかしいという。その調査の結果で、佐倉市上空の飛行便数や高度などの飛行状況の全貌がかなりつかめそうだ。

先の「航空機について」の説明にあるように、発着容量は現在の30.3万回/年から、3年後には44.7万回/年と1.5倍となる予定である。そもそも、羽田の再拡張が決まったのは、首都圏の第三空港建設案が「羽田空港再拡張」の方針に変更された20009月にさかのぼる。その後、国交省と周辺自治体との協議が続けられ、現在のような飛行ルートが決められた。この経過については、以下を参照してください。

http://www.city.sakura.lg.jp/010325000_kikakuseisaku/900kobetsu/030kotsu/index.html (佐倉市ホームページ「航空機について」2011822日)

 また、羽田空港のハブ化による便利さ・経済の国際競争力強化と住民の受忍限度とのバランスが問題だと思ったのだが、それだけではなく、飛行の安全性と日米の安全保障問題とも深くかかわっていることがわかってきた。住民がただ我慢すればいいという問題ではなかったのだ。

 昨年1021日の前日放送されたNHK時論公論「羽田国際化 安全の課題」(松本浩司解説委員)によると、新しくD滑走路ができて、図のように「狭い敷地に4本の滑走路が<井げた状>に並び、周辺に自由に飛べる空域も限られるため<世界でも例を見ない複雑な航空管制>つまり交通整理が求められている」ということで、南風仕様での着陸、離陸便が交差することが多くなり、300mの高度差の確保が求められているが、着陸のし直しなどでの若干の狂いで、ニアミスの危険性が増し、管制には高度な技術が要求されているというのだ。

 なぜ、そのような複雑な飛行になってしまったのかといえば、松本解説委員は、次のように述べている。

http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/63273.html

(NHKホームページ「時論公論・羽田国際化、安全の課題」20111020)

ふたつの理由があります。「空域」と「騒音」の問題です。羽田空港の西側にはアメリカ軍横田基地が使う広い空域があります。終戦後、連合軍が航空管制を掌握したのが始まりで、今も日米地位協定に基づいて米軍が管理し、民間航空機は事前に申請しなければ通ることができません。今回の羽田発着枠拡大に備えて2年前に全体の4割が返還され、民間機の飛行の自由度が大幅に高まりました。それでも伊豆半島から新潟県にまたがる広大な空域が残り、羽田を出発した航空機は東京湾で急上昇して、この空域の上を乗り越えて目的地に向かっています。着陸機は多くが東の千葉県側から進入していて、そもそも飛行コースを選択する幅が制約されているのです。

騒音の問題については、次のようにコメントする。

横田空域があることで航空機がはるか上空を通過するため、東京や神奈川などは影響が少なくて済んでいるという見方もできます。しかし着陸のコースにあたり騒音の多くを引き受けさせられてきた千葉県側の自治体は、発着回数が増えればさらに被害が大きくなるとして強く反対しました。千葉県などは国と10年に及ぶ協議を重ね、新しい滑走路の方向をずらしたり、上空を通過する際の高度をあげたり、さらに夜間は上空を通らないなどの騒音対策をとることを条件に、受け入れを決断しました。

 10年間、千葉県民は、このような経過は知らされないまま、過ごしてきたのではなかったか。少なくとも、上記各メディアの羽田空港拡張による騒音被害報道で、横田基地まで言及しているものは、NHK「時論公論」を除いては見当たらなかった。

 千葉県としては関係市町村の力を背景に国と交渉して、技術的に可能な限り通過高度を上げること、夜間海上ルート飛行枠を時間・便数とも拡大すること、そしてさらに横田基地全面返還を目指してほしいと思う。上空の飛行便数が確実に増加した佐倉市も、ぜひ独自にでも国と交渉をしてほしい。千葉市は少なくともそれを始めようとしている。しかし、佐倉市は、その前提として、まず、佐倉市上空通過の便数並びに高度・騒音の実態調査をした上で、現在は午後11時から朝6時までの夜間海上ルート飛行の時間帯の延長、便数の拡大を図ってほしい。そして、千葉県と言わず、国は、飛行ルートを分散するためにも、日米の安全保障関係を見直し、横田基地の全面返還を目指すための努力をすべきで、となると、佐倉市、市民としてなすべきこともおのずから明らかになってくると思う。

  これからの季節は、北風仕様が多くなり、高度は南風仕様の4000フィートから6000~8000フィートに上がるから、騒音は緩和されるが、この夏の騒音を忘れてはならない。

| | コメント (0)

2011年11月 1日 (火)

原子力発電と安全神話~原発PR映画を見る

表題のテーマで、原発PR映画を検証するワークショップに出かけた。記録映画アーカイブ・プロジェクトによる、このワークショップ通いも3回目になる。次のようなプログラムだったが、私は、4時半過ぎに会場を出たので、吉見さんの報告は聞けなかった。

日時:20111030日(日)午後130分~530

場所:東京大学本郷キャンパス

     福武ホール・ラーニングシアター


 
映画上映:

①「東海発電所の建設記録」

1966年 46分 企画・日本原子力発電株式会社

 製作・岩波映画製作所)

②「原子力発電所と地震」

1975年 20分 企画・資源エネルギー庁 
   製作・鹿島映画)
  ③「海岸線に立つ日本の原子力発電所」

1987年 27分 企画・日本立地センター 
    製作・岩波映画製作所)

④(参考上映)「いま原子力発電は・・・」

1976年 24分 企画・放送番組センター 

  製作・岩波映画製作所)

討論:羽田澄子(映画監督)

      藤本陽一(早稲田大学名誉教授)

吉見俊哉(東京大学)
 
(総合司会) 二羽美之(東京大学)

  短編とはいえ、続けて4本見るのはかなりきつかった。というのも、この日の午前中は、近くの公園で市民グループの放射線量測定会があった。その公園は、調整池を利用した土地区画整理内にできた新しい公園で、公園に接して300戸のマンションも建った。幼い子を連れた家族も何組か遊んでいたが、「高いんですか」と心配そうにのぞく。しかし、意外とこの地区がホットスポットであることを知らないし、市の広報なども読んでないことが分かった。別のグループで8月に測定した値よりも、また、市が測定した値よりも、今回が全般的に高くなっていることもわかった。7か月も経つというのに。

上映の①~③に共通して言えるのは、“自信に満ちた”原発関係者の発言、自然や地域との共生を謳い上げたナレーション、美しい風景や安全な原発施設を強調すればするほど、しらじらしく、ただただむなしく、やりきれない思いが、増幅することだった。④は、前回のワークショップでも上映されたので、私には2度目だったが、いくつか再確認することができた。今日の現実を前にしても、当時の作品の根底に流れる批判精神は色あせていなかった。インタビューアーも兼ねていた演出の羽田さんは若々しかったが、討論の部で前に着席した今の羽田さんも高齢を感じさせなかった。招待席には羽仁進夫妻も見えているようだったが、上映が終わると帰られた。

①は、石油資源の少ない日本は、原子力に依存するしかない、という国家的エネルギー政策を実現するために1957年、東海村に原子力発電所の建設が決まってから、1966年運転開始までの建設記録である。核分裂による発電の原理から立地調査、原子炉各部の構造や機能と安全性がダイナミックな映像、力強いナレーション、BGMによって強調されるのだった。この原子炉は、イギリスの会社GECから輸入したコールダー・ホール型のもので、原子炉としては問題が多く、1998年に運転を終了しているし、イギリスでは2003年に廃炉、2007年に爆破解体されているそうだ。日本では稼働から30年余り、1998年には運転を終了している。いったいどのくらいの電力を供給しえたのか。建設のものものしさと、投入された資金と人的資源、建設現場の映像に散見する清水建設、川崎重工、fujidenki・・・などのロゴ。ほんとうに安価で安全なエネルギーだったのかが疑問に思えるのだった。なかでも、ほんの一瞬ではあったが、忘れられない、印象的な場面があった。日立港に陸揚げされた熱交換器を積んだカサ高いトラックが画面いっぱいに迫り、木造の民家の前で、土埃を浴びながら、怯えるような表情で車を見送るカットであった。「人間の英知がとらえた新しいエネルギーは、着実に第一歩を開いたのであった」のナレーションで終る。

 ②1964年の新潟地震、1968年の十勝沖地震の映像でその破壊力が示され、家もビルも押し流される津波の映像もあった。一方、超高層ビルの耐震構造を説きながら、種々の調査の結果、「日本列島に発生する地震はマグニチュード8.5以内という限度がわかった」と明言する。その上、硬く深い岩盤と原子炉の格納基盤は密着固定させるので、地震が発生しても「地球と一体となって、小さく揺れるだけ」とも解説、「日本の宿命と言われた地震をここに克服した」がラストのナレーションだった。「津波」の語は一度も登場しなかった。

 ③は「鳥の見た島国のエネルギー」とのサブタイトルが付く。要するに、空撮による映像を中心に、日本各地に建設された原子力発電所をめぐり、美しい海岸線、白い砂、海に迫るだんだん畑やクロマツの森・・・の自然とその土地の人の暮らし、伝統行事や芸能といかに共存、共生しているかを印象づける構成であった。

 映画は、今回の原発事故の被災地となった「大熊町」の「エネルギー・フェア」の賑わいから始まる。フェアを盛り上げたという「野馬追い」のシーンが続き、「原子力発電は、エネルギーの中心的役割を果たし、地域の住民と共に発展してきました」とのナレーションがかぶり、「日本のチベットとも呼ばれた福島の浜通りは、賑わい、豊かになり人々と共に発展しているのです」と念を押す。伊方、玄海、福井、そして下北半島の大間、東通村の原発建設計画、六ヶ所村の核燃料再処理工場建設の計画が語られ、「日本における核燃料リサイクルが、ここで完結するのです」と。

 ①②の製作年代には、「原子力の平和利用」が強調され、「夢のエネルギー」として喧伝されていたかもしれない。しかし、④のような作品も確実に作られていたのである。一部の研究者たちは、原発の危険性を危惧し、発言も続けていた。さらに、1980年代になると、原発建設地周辺の住民たちの間からも原発への疑問や反対意見が噴出するようになったのにもかかわらず、③においては、まったく触れられていない。まさに「鳥の眼」からの眺めにしか過ぎず、「人間の眼」の確かさや「心」をくみ取ろうともせず、日本は、原発推進まっしぐらの道を歩むことになってしまった。なぜこんなことになったのか、そんな悔しさと自分の至らなさをかみしめながら、帰路につくのだった。

| | コメント (0)

« 2011年10月 | トップページ | 2011年12月 »