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2011年11月 1日 (火)

原子力発電と安全神話~原発PR映画を見る

表題のテーマで、原発PR映画を検証するワークショップに出かけた。記録映画アーカイブ・プロジェクトによる、このワークショップ通いも3回目になる。次のようなプログラムだったが、私は、4時半過ぎに会場を出たので、吉見さんの報告は聞けなかった。

日時:20111030日(日)午後130分~530

場所:東京大学本郷キャンパス

     福武ホール・ラーニングシアター


 
映画上映:

①「東海発電所の建設記録」

1966年 46分 企画・日本原子力発電株式会社

 製作・岩波映画製作所)

②「原子力発電所と地震」

1975年 20分 企画・資源エネルギー庁 
   製作・鹿島映画)
  ③「海岸線に立つ日本の原子力発電所」

1987年 27分 企画・日本立地センター 
    製作・岩波映画製作所)

④(参考上映)「いま原子力発電は・・・」

1976年 24分 企画・放送番組センター 

  製作・岩波映画製作所)

討論:羽田澄子(映画監督)

      藤本陽一(早稲田大学名誉教授)

吉見俊哉(東京大学)
 
(総合司会) 二羽美之(東京大学)

  短編とはいえ、続けて4本見るのはかなりきつかった。というのも、この日の午前中は、近くの公園で市民グループの放射線量測定会があった。その公園は、調整池を利用した土地区画整理内にできた新しい公園で、公園に接して300戸のマンションも建った。幼い子を連れた家族も何組か遊んでいたが、「高いんですか」と心配そうにのぞく。しかし、意外とこの地区がホットスポットであることを知らないし、市の広報なども読んでないことが分かった。別のグループで8月に測定した値よりも、また、市が測定した値よりも、今回が全般的に高くなっていることもわかった。7か月も経つというのに。

上映の①~③に共通して言えるのは、“自信に満ちた”原発関係者の発言、自然や地域との共生を謳い上げたナレーション、美しい風景や安全な原発施設を強調すればするほど、しらじらしく、ただただむなしく、やりきれない思いが、増幅することだった。④は、前回のワークショップでも上映されたので、私には2度目だったが、いくつか再確認することができた。今日の現実を前にしても、当時の作品の根底に流れる批判精神は色あせていなかった。インタビューアーも兼ねていた演出の羽田さんは若々しかったが、討論の部で前に着席した今の羽田さんも高齢を感じさせなかった。招待席には羽仁進夫妻も見えているようだったが、上映が終わると帰られた。

①は、石油資源の少ない日本は、原子力に依存するしかない、という国家的エネルギー政策を実現するために1957年、東海村に原子力発電所の建設が決まってから、1966年運転開始までの建設記録である。核分裂による発電の原理から立地調査、原子炉各部の構造や機能と安全性がダイナミックな映像、力強いナレーション、BGMによって強調されるのだった。この原子炉は、イギリスの会社GECから輸入したコールダー・ホール型のもので、原子炉としては問題が多く、1998年に運転を終了しているし、イギリスでは2003年に廃炉、2007年に爆破解体されているそうだ。日本では稼働から30年余り、1998年には運転を終了している。いったいどのくらいの電力を供給しえたのか。建設のものものしさと、投入された資金と人的資源、建設現場の映像に散見する清水建設、川崎重工、fujidenki・・・などのロゴ。ほんとうに安価で安全なエネルギーだったのかが疑問に思えるのだった。なかでも、ほんの一瞬ではあったが、忘れられない、印象的な場面があった。日立港に陸揚げされた熱交換器を積んだカサ高いトラックが画面いっぱいに迫り、木造の民家の前で、土埃を浴びながら、怯えるような表情で車を見送るカットであった。「人間の英知がとらえた新しいエネルギーは、着実に第一歩を開いたのであった」のナレーションで終る。

 ②1964年の新潟地震、1968年の十勝沖地震の映像でその破壊力が示され、家もビルも押し流される津波の映像もあった。一方、超高層ビルの耐震構造を説きながら、種々の調査の結果、「日本列島に発生する地震はマグニチュード8.5以内という限度がわかった」と明言する。その上、硬く深い岩盤と原子炉の格納基盤は密着固定させるので、地震が発生しても「地球と一体となって、小さく揺れるだけ」とも解説、「日本の宿命と言われた地震をここに克服した」がラストのナレーションだった。「津波」の語は一度も登場しなかった。

 ③は「鳥の見た島国のエネルギー」とのサブタイトルが付く。要するに、空撮による映像を中心に、日本各地に建設された原子力発電所をめぐり、美しい海岸線、白い砂、海に迫るだんだん畑やクロマツの森・・・の自然とその土地の人の暮らし、伝統行事や芸能といかに共存、共生しているかを印象づける構成であった。

 映画は、今回の原発事故の被災地となった「大熊町」の「エネルギー・フェア」の賑わいから始まる。フェアを盛り上げたという「野馬追い」のシーンが続き、「原子力発電は、エネルギーの中心的役割を果たし、地域の住民と共に発展してきました」とのナレーションがかぶり、「日本のチベットとも呼ばれた福島の浜通りは、賑わい、豊かになり人々と共に発展しているのです」と念を押す。伊方、玄海、福井、そして下北半島の大間、東通村の原発建設計画、六ヶ所村の核燃料再処理工場建設の計画が語られ、「日本における核燃料リサイクルが、ここで完結するのです」と。

 ①②の製作年代には、「原子力の平和利用」が強調され、「夢のエネルギー」として喧伝されていたかもしれない。しかし、④のような作品も確実に作られていたのである。一部の研究者たちは、原発の危険性を危惧し、発言も続けていた。さらに、1980年代になると、原発建設地周辺の住民たちの間からも原発への疑問や反対意見が噴出するようになったのにもかかわらず、③においては、まったく触れられていない。まさに「鳥の眼」からの眺めにしか過ぎず、「人間の眼」の確かさや「心」をくみ取ろうともせず、日本は、原発推進まっしぐらの道を歩むことになってしまった。なぜこんなことになったのか、そんな悔しさと自分の至らなさをかみしめながら、帰路につくのだった。

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