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2012年1月26日 (木)

葉山の「ベン・シャーン展~クロスメディア・アーティスト」へ行ってきました~はじめての神奈川近代美術館葉山館(1)

1) ベン・シャーンと出会った頃

 まだ先だと思っていた会期が129日で終わるのに気が付いた。再放送のNHK日曜美術館を途中から見ていて、やはりどうしても見ておかねば、もう二度と大きな展覧会は見られないという気がしてきた。私がベン・シャーンを知ったのは、1969年に亡くなってからで、19705月、東京国立近代美術館での回顧展で初めて出会い、衝撃を受けたのだった。アメリカ文学を専攻し、中学校の英語教師をしていた次兄の影響だろうか、当時、サンドバーグの「シカゴ詩集」にも思い入れが深く、所属する短歌誌に文章を書いたりしている。この詩人と画家の告発にも近い、社会への鋭い視角が共通していたからだろうか。
 私の美術展記録のファイルの1頁が、なんと、ベン・シャーンのこの回顧展だった。といっても、絵葉書の数点と新聞切り抜きが貼ってあるだけなのだが、いまとなってはなつかしい。絵葉書の封筒には、「B」と記されているから、Bの絵葉書セットを選んだのであろう。当時、カタログというものを購入しておらず、数年後、同じ職場のKさんからそのカタログを見せてもらって、羨ましく思ったものだった。
 ファイルに残っていた絵葉書は、「松葉杖の女」「テレビアンテナ」「イタリア風景」の3枚で、「松葉杖の女」(1940 ~42 )は、ワシントンDCの連邦社会保障ビル壁画の習作の一つで、今回も見ることができた。
 また、当時、午後からの勤務がない土曜日は、よく神田の古書店を回っていたのだが、ベン・シャーンの画集が新しく出たのを知って、随分迷った末、大枚をはたいて購入したのが、夫人の編集による“BEN SHAHN”(by Bernarda Bryson Shahn, H.N.Abrams New York 1972 ) だった。19759月には、南天子画廊の30点ほどのベン・シャーン展にも出かけ、フランス装丁のカタログは買ったらしい。ベン・シャーンが晩年たどり着いたという「マルテの手記」のシリーズの小品(1968)が中心だったことがわかる。これらのリトグラフは今回、「麻生三郎コレクション」として見ることができる。中でも私の気に入っている、ペンを握る手だけを描いた力強い「一篇の詩の最初の言葉」、墨絵のようなシルエットの群像を描いた「多くの人々を」、やさしげにそよぐ「小さな草花のたたずまい」などにも遇うことができた。

↓「小さな草花のたたずまい」南天子画廊1975年展カタログより

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(2) 思い出したように画集を眺めていた日々

 1976年に名古屋に転居・転職、育児が始まると、美術展どころでなくなり、1981年には、パルコでの「ベン・シャーン展」や「国吉康雄/ベン・シャーン展」は、もはや遠い存在になってしまった。そんな折、かつての職場のKさんから、国吉との二人展でのベン・シャーンの絵葉書「エブリマン(あらゆる人」)が届き、「あなたがベン・シャーンを好きだったのを思い出して」というたよりをいただいたのはうれしかった。しかし、その続きには、夏のさなか、かなり突然に定年までの数年を残して「私にもやりたいことがあるし」と退職されたことにも触れていた。また、この年、神田で買った画集の翻訳本がリブロポートから刊行されたのを知ったが、あえて買うことはせず、ときどき重い画集を取り出しては、気になる作品があると辞書を引きながら楽しんだ。数年後、Kさんが病死されたこと、こまめに収集されていた展覧会カタログのコレクションは、元の職場の図書館に寄贈されたことも後から知ったのだった。

ドレフュス事件、トム・ムーニー事件、サッコとヴァンゼッティ事件などの冤罪事件への深い関心と作品に込められた不正義告発の強いメッセージは、現代においてもその意義は大きい。また、1930年代のニューヨークや農村地帯のドキュメンタリーな作品、1940年代の戦時情報局や産業別労働組合のポスターにも、力強いタッチの衝撃的な作品が多く、心をとらえるものだった。

 

 

3)引越しの度に、段ボールの底に入れた

 

ことのほか重いベン・シャーンの画集は、引越しの度に、段ボールの底に入れられ、1988年、名古屋から船橋へ、そして現在の当地に運ばれた。1991年新宿・伊勢丹(1979~2002)でのベン・シャーン展には、出かけた。まだまだ、バブルが漂っていて、デパートのメセナは花盛りで、池袋にはセゾン美術館(1975~1999)と東武美術館(1992~2000)もあった時代である。この展覧会も、残された絵葉書などから、記憶をたどってみると、当時心惹かれたのは、1950年代の大量消費と情報への急速な傾斜を、林立するアンテナを描いた「テレビアンテナ」(1953)「美しきものすべて」(1965)、重なり合うスーパーマーケットのカートだけを描いた「スーパーマーケット」(1957)などにより象徴的に表現されていた作品だった。今回の展示では「テレビアンテナ」(1958)という木製の工作物となった作品を見ることもできた。アンテナへのこだわりが見えるようだった。アメリカから数十年遅れでやってきて、日本を変えてきたもの、日本の未来を暗示するように思えたからだ。さらに、私が驚いたのは、ベン・シャーンの中に、私が気になる画家の一人、ピエト・モンドリアンのカラーのモザイク模様を取り入れたような作品を見出したことだった。「パターソン」(1953)「プレアデス星団」(1960)など。今世紀に入ってからは、2006年、夢の島へ行った折、第五福竜丸展示館で、ベン・シャーンの一連の作品の一部には会っている。アーサー・ビナードの絵本も買った。丸沼芸術の森や多摩美術大学の所蔵にかかる展覧会は気になりつつも見逃してきただけに、今回のベン・シャーン展ははずすわけにはいかなかった。(続く)

↓「美くしきものすべて」

上段:2012年展絵葉書から(ニュージャージ州立美術館蔵)

下段:1991年展絵葉書から(姫路市立美術館蔵)

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神奈川近代美術館葉山館のホームページです。↓

http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/exhibitions/2011/benshahn/

 

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