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2012年1月27日 (金)

『地域新聞』(千葉市各版、1月27日号)に「短歌ハーモニー」が紹介されました

 昨年末、私たち地域のミニコミ誌『すてきなあなたへ』への取材を受けた折に、千葉市男女共同参画センターでの短歌サークルの合同歌集『青葉の森へ』第2集を記者の「けやき」さんにお渡ししていたところ、思いがけず、そちらの方の取材も受けることになりました。それではということで1月の歌会にお出かけいただくことになりました。ご都合で、歌会の前半のみの取材となりましたが、つぎのような紹介記事を書いてくださいました。ありがとうございました。 

なお、『みらい』(2010年当時千葉市女性センター広報紙)20号8 p.にも「短歌ハーモニー」が紹介されています。

http://www.chp.or.jp/danjo/research/pdf/%E3%81%BF%E3%82%89%E3%81%8420%E5%8F%B7.pdf

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~青葉の森から~短歌ハーモニーの会

 

 20023月、千葉市女性センター(現・千葉市男女共同参画センター)主催ハーモニーセミナー入門講座「短歌に挑戦」の終了後、受講生有志が『短歌ハーモニー』を立ち上げ、担当の内野光子さん(歌人)も引き続き指導にあたり、月一度の歌会が始まった。 

 そして10年、昨年暮れに105回目の歌会を迎えた。 

 会員はひと月の間に2首を提出する。そのお披露目は第3木曜日の歌会。目前には青葉の森公園が広がる部屋の中、四季の風情を感じながらそれぞれの歌が詠まれていく。 

・三部制の高校生か急ぎ足こがらし落葉からころと追う(大堀静江) 

「時は夕刻のよう。」 

「冬の落葉は乾いた音がしますね。」 

「夜に舞う落葉の音は特別です。」

 

・波の花砕け散らして白き泡寒さに凍る曽々木海岸(岡村儔子) 

「曽々木海岸という名称は惹かれますね。」 

「波の華は冬にしか見られません。」

 

・コサージュを胸元に付け高らかに歌う女性ら花の美術館(美多賀鼻千世) 

「コサージュの華やかさがとても印象的です。」

 

 一首一首に個々の思いを重ねて感想を述べる。 

 この会の特徴は、しばりのない気軽さ。自由に詠み、すべての歌を自分の目線で受け止めて楽しむ。 

「特に添削をしないので技術的な上達はわかりませんが、互いの歌からさまざまな言葉と物事の見方や捉え方などを学び得ています。来るもの拒まず、去るもの追わず、歌にも人にも寛容であることが10年継続の秘訣かもしれません。」と内野さんと会員のみなさんはにこやかに話す。 

 この度、2006年の第1集に続き、短歌ハーモニー歌集「青葉のへ」・第2集が出来上がった。(千葉市と佐倉市の各図書館で閲覧可)歌はもとより、用紙・印刷・製本・装丁・レイアウトなど常にみなで話し合いながらの完成に、その過程も宝としている。 

 11年目、少し休んでいた歌人の研究も再開。季節の風に吹かれ、青葉の森での吟行も待ち遠しい。(けやき)

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2012年1月26日 (木)

葉山の「ベン・シャーン展~クロスメディア・アーティスト」へ行ってきました~はじめての神奈川近代美術館葉山館(2)

 4)60年ぶりの葉山へ
 124日、千葉にも今年初めて降った雪の朝、道路はスリップ事故などで混乱しているとのことだったが、日本橋、金沢文庫乗換えの経路で新逗子まで行った。品川辺りまではうっすらとした雪景色が続いたが、多摩川を越えると、昨夜は雨だったのか、雪の名残もなかった。
 葉山といえば、明治29年生まれの父親が十代のとき通った明治薬科専門学校「メイヤク」時代の同期の友人が、「サンタ薬局」という名の店を開いているというのを聞かされていた。そして、その友人からのお誘いがあって、父親は、すでに同じ「メイヤク」を卒業していた長兄と高校生の次兄、小学生の私の3人兄妹で、その葉山に海水浴に行かせてくれたらしい。たしか葉山一色海岸のすぐそばにあったサンタ薬局のご一家から歓待を受け、その家から水着で海岸に飛び出して行ったのを思い出す。ほんとうに海の水がこれほどまでに透明なのかと、足裏で砂が舞い上がってもすぐに澄んだ水になるのが不思議だった。学校の遠足、母の実家への帰省以外に遠出などしたことがない時代だった。アルバムにわずかに残っている、小さなスナップ数枚。サンタ薬局前の兄たち、海岸の岩場、かなり込んでいる海水浴場(これは逗子海岸のようにも見える)私が映っている写真はない。たしか同じ年ごろの女の子がいらしたはずだったのに、店の名前だけで、お名前を失念している。昭和20年代半ばごろのことである。いまは、父や兄も故人となって確かめようもない。
 
新逗子からのバスは海岸周りの一色海岸行きで、15分ほどだったか。途中、垣間見る葉山の海は穏やかで、日影茶屋、渚橋、葉山マリーナー、森戸海岸、を経て、美術館前の三が岡で下車した。


↓新逗子駅前、案内板

(ポスターは、マルテの手記より「一篇の詩の最後の言葉」がデザインされている)

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5)そして、<クロスメディアな>ベン・シャーンへ
 駐車場も満車の表示、30個ほどのロッカーも空きがなかった。それでもゆったりした会場は、大きく第1章ドキュメンタリー、そして社会への告発、第2章「私」からの共感へ、第3章文字への愛、神話の力、第4章アジア、そして日本へ、の四つに分けられていた。
 第1章、1930年代後半、再入植局、農村安定局のプロジェクトにはカメラマンとして参加、アメリカ南部、中西部の下層労働者たちへ目を向けた。これらの写真は、後年、郵便局や公共施設の壁画の習作として、溢れるようなメッセージをモンタージュの手法で描き込んでいるし、さまざまな作品のイメージソースとして活かされているのがわかるような展示になっていた。 

↓1930年代、描き続けた労働者たち、画集より
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 第
2章には、小麦畑の一連の作品があった。「至福」(1952)と題される作品は、一面、実った小麦の穂が輝くなかに、農夫が一人、穂にふれて立っている。私は、1991年の展覧会で出会った、これらとは違う麦畑の作品を探してみたが見当たらなかった。人物の登場しない麦畑だけの作品、気に入って大きな複製画も買って部屋にも飾っていたものだった。帰宅後、カタログを読んでいたら、次のような個所に行き当たった。

↓「小麦畑」1991年展の絵葉書から

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   「今回は出品されていないが、1958年に人物のいないセリグラフ《小麦畑》が制作された。小麦の茎の線がリズミカルに並び、水彩がほどこされ、《至福》の重々しさを昇華したようなグラフィックな作品に展開している」(77頁) 

 ああ、なるほど、私が感じた魅力を、プロの学芸員はこんな風に分析しているのだ。このセクションには、ベン・シャーンの傑作の一つ「ワルシャワ」(1952)「ワルシャワ1943」(1965)もあった。労使交渉の席で机に腕を立て、握りこぶしで頭を抱える労働者の一人も映っている報道写真をモチーフに、前者は、両手の握り拳を、後者は頭を抱える両腕を描いたものである。

 

3章では、絵の中に、文字を、メッセージを 直接記し、描くポスターやレコードジャケットなど会場の壁いっぱいに展示されていた。ベン・シャーンの関心は音楽にしてもクラッシックからジャズまで、そして楽器、それを奏でる人間そのものへの愛着を描いたような作品も多かった。この部屋で、私にとって忘れがたいのは、収容所の高いレンガの壁を背に両手に鎖の黒い服の男は頭から布をかぶせられている「これがナチの残虐だ」(1942)であり、STOP H-BOMB TESTSの文字のなかSTOPHの文字が赤くて大きい「水爆実験を止めよ」(1960)であった。

↓「水爆家実験を止めよ」2012年展の絵葉書から

 

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 第4章では、やはり、1954年に起きた第五福竜丸被ばく事件の作品が、今日の日本にとっては衝撃的である。ベン・シャーンと第五福竜丸とのかかわりは、アメリカの原子物理学者の「ラッキードラゴンの航海」という雑誌連載エッセイへの挿絵を描いたことに始まるという。1957年から1965年にいたる間、描きつづけていたということだ。この間、1960年に来日し、各地を回っているが、第五福竜丸事件関係の取材をした形跡はいまだ見つからないらしい(荒木康子「1960年の日本旅行」『カタログ』161頁)。 

 会場を見終わった後、レストランへでもと思ったら、列ができていたのであきらめた。結局、そのままバスに飛び乗った。昼食抜きで、帰宅したのが夕方5時半という慌ただしい一日だった。60年も前にお世話になったサンタ薬局のことが気になり、ネット検索してみると、写真まで付した、次のような記事に出会ったのである。私たちが訪ねた「サンタ薬局」は、御用邸の前だったのだろうか。

 

「大正末期から昭和初期にかけて一色三ヶ岡の南麓(現・県立近代美術館の斜め右向側)にあった「サンタ薬局」。看板建築のハイカラな建物もまだ真新しい。背後に見える樹木は三ヶ岡の山肌。手前の道路は県道207号線(葉山-森戸海岸線)で、店前の側溝は菖蒲沢から流れる小川を整形したもの。この水は近美の横で滝のように落ち、一色海岸に注いでいた。店頭の人物は初代「サンタ薬局」のご夫婦か?店は昭和10年前後に御用邸に近い場所に移ったがもはや無く、現在は同地にカフェ・シリウスという店がある。」(「葉山環境文化デザイン集団 ミッキーの空間」200557日)

↓1920年代、こんな作品を描いていた、画集より

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 ↓画集、最後の頁 "IDENTITY"(1968 )

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 ↓葉山館の庭園の散策路より 

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葉山の「ベン・シャーン展~クロスメディア・アーティスト」へ行ってきました~はじめての神奈川近代美術館葉山館(1)

1) ベン・シャーンと出会った頃

 まだ先だと思っていた会期が129日で終わるのに気が付いた。再放送のNHK日曜美術館を途中から見ていて、やはりどうしても見ておかねば、もう二度と大きな展覧会は見られないという気がしてきた。私がベン・シャーンを知ったのは、1969年に亡くなってからで、19705月、東京国立近代美術館での回顧展で初めて出会い、衝撃を受けたのだった。アメリカ文学を専攻し、中学校の英語教師をしていた次兄の影響だろうか、当時、サンドバーグの「シカゴ詩集」にも思い入れが深く、所属する短歌誌に文章を書いたりしている。この詩人と画家の告発にも近い、社会への鋭い視角が共通していたからだろうか。
 私の美術展記録のファイルの1頁が、なんと、ベン・シャーンのこの回顧展だった。といっても、絵葉書の数点と新聞切り抜きが貼ってあるだけなのだが、いまとなってはなつかしい。絵葉書の封筒には、「B」と記されているから、Bの絵葉書セットを選んだのであろう。当時、カタログというものを購入しておらず、数年後、同じ職場のKさんからそのカタログを見せてもらって、羨ましく思ったものだった。
 ファイルに残っていた絵葉書は、「松葉杖の女」「テレビアンテナ」「イタリア風景」の3枚で、「松葉杖の女」(1940 ~42 )は、ワシントンDCの連邦社会保障ビル壁画の習作の一つで、今回も見ることができた。
 また、当時、午後からの勤務がない土曜日は、よく神田の古書店を回っていたのだが、ベン・シャーンの画集が新しく出たのを知って、随分迷った末、大枚をはたいて購入したのが、夫人の編集による“BEN SHAHN”(by Bernarda Bryson Shahn, H.N.Abrams New York 1972 ) だった。19759月には、南天子画廊の30点ほどのベン・シャーン展にも出かけ、フランス装丁のカタログは買ったらしい。ベン・シャーンが晩年たどり着いたという「マルテの手記」のシリーズの小品(1968)が中心だったことがわかる。これらのリトグラフは今回、「麻生三郎コレクション」として見ることができる。中でも私の気に入っている、ペンを握る手だけを描いた力強い「一篇の詩の最初の言葉」、墨絵のようなシルエットの群像を描いた「多くの人々を」、やさしげにそよぐ「小さな草花のたたずまい」などにも遇うことができた。

↓「小さな草花のたたずまい」南天子画廊1975年展カタログより

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(2) 思い出したように画集を眺めていた日々

 1976年に名古屋に転居・転職、育児が始まると、美術展どころでなくなり、1981年には、パルコでの「ベン・シャーン展」や「国吉康雄/ベン・シャーン展」は、もはや遠い存在になってしまった。そんな折、かつての職場のKさんから、国吉との二人展でのベン・シャーンの絵葉書「エブリマン(あらゆる人」)が届き、「あなたがベン・シャーンを好きだったのを思い出して」というたよりをいただいたのはうれしかった。しかし、その続きには、夏のさなか、かなり突然に定年までの数年を残して「私にもやりたいことがあるし」と退職されたことにも触れていた。また、この年、神田で買った画集の翻訳本がリブロポートから刊行されたのを知ったが、あえて買うことはせず、ときどき重い画集を取り出しては、気になる作品があると辞書を引きながら楽しんだ。数年後、Kさんが病死されたこと、こまめに収集されていた展覧会カタログのコレクションは、元の職場の図書館に寄贈されたことも後から知ったのだった。

ドレフュス事件、トム・ムーニー事件、サッコとヴァンゼッティ事件などの冤罪事件への深い関心と作品に込められた不正義告発の強いメッセージは、現代においてもその意義は大きい。また、1930年代のニューヨークや農村地帯のドキュメンタリーな作品、1940年代の戦時情報局や産業別労働組合のポスターにも、力強いタッチの衝撃的な作品が多く、心をとらえるものだった。

 

 

3)引越しの度に、段ボールの底に入れた

 

ことのほか重いベン・シャーンの画集は、引越しの度に、段ボールの底に入れられ、1988年、名古屋から船橋へ、そして現在の当地に運ばれた。1991年新宿・伊勢丹(1979~2002)でのベン・シャーン展には、出かけた。まだまだ、バブルが漂っていて、デパートのメセナは花盛りで、池袋にはセゾン美術館(1975~1999)と東武美術館(1992~2000)もあった時代である。この展覧会も、残された絵葉書などから、記憶をたどってみると、当時心惹かれたのは、1950年代の大量消費と情報への急速な傾斜を、林立するアンテナを描いた「テレビアンテナ」(1953)「美しきものすべて」(1965)、重なり合うスーパーマーケットのカートだけを描いた「スーパーマーケット」(1957)などにより象徴的に表現されていた作品だった。今回の展示では「テレビアンテナ」(1958)という木製の工作物となった作品を見ることもできた。アンテナへのこだわりが見えるようだった。アメリカから数十年遅れでやってきて、日本を変えてきたもの、日本の未来を暗示するように思えたからだ。さらに、私が驚いたのは、ベン・シャーンの中に、私が気になる画家の一人、ピエト・モンドリアンのカラーのモザイク模様を取り入れたような作品を見出したことだった。「パターソン」(1953)「プレアデス星団」(1960)など。今世紀に入ってからは、2006年、夢の島へ行った折、第五福竜丸展示館で、ベン・シャーンの一連の作品の一部には会っている。アーサー・ビナードの絵本も買った。丸沼芸術の森や多摩美術大学の所蔵にかかる展覧会は気になりつつも見逃してきただけに、今回のベン・シャーン展ははずすわけにはいかなかった。(続く)

↓「美くしきものすべて」

上段:2012年展絵葉書から(ニュージャージ州立美術館蔵)

下段:1991年展絵葉書から(姫路市立美術館蔵)

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神奈川近代美術館葉山館のホームページです。↓

http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/exhibitions/2011/benshahn/

 

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2012年1月16日 (月)

「除染」はどのように実施されているのか~佐倉市の場合

   昨年12月初旬から、友人とのウオーキングを再開した。寒いさなかなので、午後2時ごろからということで、気ままに近くを4050分、私は朝の犬の散歩と合わせるとちょうど1万歩を超える程度だ。少し足を延ばすと、13000歩前後になる。1月に入ると、佐倉市の公園の除染工事期間と重なったので、まるで除染工事見回りの様相を呈した。実施予定は公表されていないので、偶然に出会った工事といえる。この季節のウオーキングならば、生垣の山茶花や千両の実を愛で、公園の木洩れ日の下を、あるいは寺や社の落ち葉を踏みしめ、街路樹の梢の先の青空を見上げつつ、冬の風情を存分に満喫したいところだが、今年はちがった。参加したいくつかの測定会で、ここは0.3μ㏜、ここはなんと1μ㏜を超えたところ、あの辺りは、市の基準値の0.223μ㏜以下だった・・・などなどと。
 市の計画によると、放射線量の数値が高い、最優先施設13施設、優先施設17公園が順次実施予定だが、前者で、1月中に完了するのは半分ほどだし、宮ノ台近辺の8公園については1月20日頃までに完了予定ということである。
 

18日(日)子の神公園:ここの作業員は、公園内の側溝の清掃で除染工事ではないと明言していたが、市役所の調べで除染工事の一環とわかった。除染工事中、立入禁止の看板もなかった。
 

19日(祝)青菅大塚公園:隣接の青菅小学校とともにかなり放射線量の高いスポットのはずである。除染工事中と立入禁止の看板は掲げていた。公園の中央での作業がよく見えない。表土を掃いているような、削っているような、数人の手作業にしか見えなかった。市の作業マニュアルでは、3~5㎝削り取ることになっているという。

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112日(木)西谷津公園:優先的な除染リストに入っていた公園だが、まだ工事は始まっていなかった。私たちが公園に立ち入ると、中年の男性が車からおりて、公園の写真を撮り始めた。工事関係者?市役所職員?「まだ除染が始まらないのですか」の問いに「今日は、そのことで回っているのではないんです」というではないか。しばらく話しているうちに思い出したのだ。市議会のT議員だった。地元でもないのになぜ?「こんな立派な公園なのに、子どもも、先輩たちのような方もいらっしゃらないし、利用されていないのがもったいない」という。どんな遊具があって、どんな風に利用されているかを調べているという。「だって、放射能が高いと言われて、ここで遊ばせる気にならないのでは」というと「どのくらいだったら危ないのか、専門家によって意見が違いますよね。正しく知って、正しく怖れないと・・・」とどこかで聞いたようなセリフ。そう、この人は佐倉市議会最大会派の1年生議員だった。子どもたちの低線量被ばくについて、この程度の認識なのかな、とも思う。「ときどき傍聴にも出かけてますよ。1年生議員に頑張ってもらわないと、なかなか市政も変わらないですから」と釘を刺しておいたが。
 

113()北門原公園:青菅小の通学路にもなっているところだ。重機の社名と除染中の看板の入札工事業者の名前が異なる。作業は下請け業者なのだろう。私たちが覗いたときは、山をなしている土をショベルカーに積んではばらまいている最中だった。表土を削った後、「きれいな土」を撒いているのか、「削った土」を撒いているのか。放射線量は、表面の土をかき混ぜるだけでも放射線量は確実に低減するらしい、とは聞いている。そんな手抜きはまずないと業者を信じてその場を離れた。

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北門原公園



114()15日(日)上谷津公園:モノレールの線路沿いの細長い公園である。通学路に面した、跨線橋側の側溝が、私たちの測定会では2回とも高い数値が出たところである。重機で表土を削っているさなかのようであった。いったいどこに穴を掘って埋めるのだろうか。
 

116日(月)西谷津公園:12日にも訪ねたが、この日は、工事のさなかであった。公園外周を歩いてみると、一連の除染工事の様子が少しわかった。公園の平らなところの芝生や表土を削りとった跡は、白茶けて見えた。周辺の凹凸のある、木立の下の芝は熊手のようなもので引っ掻き枯草を集めて、あちこちと小山をなしていた。平らな広場の端には、大きな穴が掘られ、まさに大きな黒いシートが2枚その穴の底に敷かれようとしていた。

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西谷津公園 

 これらの作業を見ていて思うのは、大変な労力を費やす割には、その効果の覚束なさである。115日「こうほう佐倉」には、除染を完了した3施設、児童センター・保育園・中学校の除染前後の数値が示されていたが、0.261μ㏜⇒0.1220.399μ㏜⇒0.2000.377μ㏜⇒0.201という結果だった。こんな作業がいつまで続くのかと思い、いや、福島県下の原発による汚染を思うと気が遠くなる。このような負担を国民や自治体に強いながら、いまだ脱原発が打ち出せない政府は、何を考えているのかと思う。「除染」という「移染」に過ぎないと揶揄されながらも、それでも、除染は必要最小限度の対策と考えなければならないのだろう。まだまだ、続く気の重いウオーキングではある。

 

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2012年1月15日 (日)

今年の歌会始、ふたたび~国家と文芸

 

 大げさなサブタイトルなのだが、いま、書き留めておきたい、今年の歌会始の報道を見ての感想である。「召人」として堤清二の短歌作品が「披講」、読み上げられたときの何とも言えない違和感だった。

「召人」という、すでに「死語」とも思えるよう古色蒼然とした言葉が生きていることも驚きなのだが、宮内庁ホームページの「用語集」によれば「召人」とは<天皇から特に召されて短歌を詠む者(その歌を「召歌」(めしうた)という>ということだ。堤清二は、セゾングループを率いた財界人であったし、辻井喬という名を持つ、詩人・小説家でもある。さらに、彼は東大在学中に全学連の活動家でもあったことが、エピソードとして喧伝されている。そして、近年は、20054月に発足した「マスコミ9条」の発起人やまた、世界平和アピール委員会の7人委員の一人として、憲法擁護の活動に熱心になった。宮内庁は、天皇・皇后サイドからの要請もあって、実現したのではないかな、など憶測できる選任に思えた。すでに2000年に小説『風の生涯』で芸術選奨文部科学大臣賞受賞、2007年には芸術院会員を受けているので、断られる心配もなかったのでは。
 
 一方、堤は、革新政党や組合の機関誌などにも、登場するようになった。いつかネット上でも見たことのある「国家と文芸」との関係についての発言、今回あらためて検索してみると、次のようなくだりがあった。

  「小説、詩集、評論と次々話題作を発表する辻井喬氏。九条の会の講演では安倍政権の改憲路線を厳しく批判しました。新作の『萱刈(かやかり)』(新潮社)はカフカ的世界を通じて近代日本の矛盾にせまった異色作。新作刊行を機に東京・銀座の事務所をたずねました。

 「芸術は体制を批判するから成り立つ。体制べったりの芸術は三流です」 そう言いきる辻井さん。かつてセゾングループ代表として経済同友会の副代表幹事もつとめた人だけに、ドキリとします。」

(月曜インタビュー「作家辻井喬さん・家父長制に抵抗して精神形成 近代化と伝統の矛盾描く新作」 『しんぶん赤旗』200772日)

「芸術は体制を批判するから成り立つ。体制べったりの芸術は三流です」という明確な発言と一連の国家的褒章、栄誉との間に齟齬はなかったのか、というのが私の違和感の要因ではなかったか。国家と文芸をめぐって危うい関係にある文学者を、国は取り込むのに余念がない。一方、「憲法9条を守る一点で」「啄木を評価する一点で」「…する一点で」という共通項で包摂し、広い度量で登場させるルーズな風潮を、いささか苦々しく思うのだ。その人間のトータルな活動や評価に目を覆うことにもなりはしまいか。「宣伝」になればと割り切ってどんなメディアにも登場する芸人やタレントたちに抵抗がないのと同じなのだろうか。それを受け入れ、助長するメデイアや受け手たる国民の認識にも問題があることは確かなのだ。

 

 

 

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2012年1月14日 (土)

今年の歌会始~「震災詠」が果たす役割

 112日、ここ数年、見ることもなかった「歌会始」のテレビ中継を見た(1030分~1145分?12時近かったかもしれない)。今年のお題は、「岸」。入選作は、年の順で若い人から詠み上げられていた。作品は、独特な節回しで2回詠み上げられ、テレビの画面では、散らし書きの文字でも映し出される。一首づつ、作者の紹介と作品への思いなどがNHKアナによって語られる。召人の堤清二、選者永田和宏の作品が続き、皇族では常陸宮妃、皇太子妃、皇太子、皇后、天皇の順に詠み上げられた。今年の歌壇の特徴ともいえた「震災詠」が歌会始でも多かった。天皇、常陸宮妃の作品はそれとすぐ分かるが、皇后、皇太子妃の作品は、中継時のNHKのコメントや宮内庁の資料による解説がないと分かりにくい。他に、秋篠宮、秋篠宮妃の作品も東日本大震災にかかるものだった。
詠み上げられた作品は、10首の入選作と次の堤清二の以下の作品だった。入選作の中からは、最年少と最年長の入選者の作品と「震災詠」のみを掲げた。(宮内庁の資料では、皇族の作品には数行のコメントが付されている。また選歌入選者の年齢は記されていないが、新聞記事などにより補った。敬称はすべて略した)

岸辺から手を振る君に振りかへすけれど夕日で君がみえない
      
大阪府 伊藤可奈(17

 

巻き戻すことのできない現実がずつしり重き海岸通り 

      福島県 沢辺裕栄子(39

 

相馬市の海岸近くの避難所に吾子ゐるを知り三日眠れず 

                                    奈良県 山崎孝次郎(72

 

いわきより北へと向かふ日を待ちて常磐線は海岸を行く 

                      茨城県 寺門龍一(81

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雲浮ぶ波音高き岸の辺に菫咲くなり春を迎へて 

              (召人・堤清二) 

舫ひ解けて静かに岸を離れゆく舟あり人に恋ひつつあれば 

     (選者・永田和宏)

 

被災地の復興ねがひ東北の岸べに花火はじまらむとす 

         (常陸宮妃) 

春あさき林あゆめば仁田沼の岸辺に群れてみづばせう咲く 

        (皇太子妃)

 

朝まだき十和田湖岸におりたてばはるかに黒き八甲田見ゆ 

        (皇太子)

 

帰り来るを立ちて待てるに季(とき)のなく岸とふ文字を

歳時記に見ず                                      (皇后)

 

津波来(こ)し時の岸辺は如何なりしと見下ろす海は青く 

静まる                                              (天皇)

 

儀式そのものが、かつてより短く思えたのは、天皇はじめ皇族方の高齢化を配慮してのことだろうか。天皇・皇后には熱心に耳を傾けている表情が伺え、入選者たちの緊張した面持ちは伝わってきた。ただ、大写しされる常陸宮の表情には、正直、少しばかりハラハラさせられた。かなりの負担のようにも思われた。療養中ということで、雅子さんの欠席も続いている。

 

今年の応募歌数は18830首、これは、宮内庁のホームページで「最近のお題と詠進歌数」というサイトを見ると分かるように、平成への代替わりの再開直後、1991年(平成3)、1992年(平成4)は、約1390018900首とかなり減少しながら、その後はともかく2万首前後を推移して、2005年(平成17)には27000首余に及んだこともあった。今年は、明らかにガクンと減った感じである。
 
ここにも東日本大震災の影響がみられるのだろう。

 

 今年の歌会始の中継や新聞記事を見て思うのは、その見出しでも明らかのように「被災地思い『岸』を詠む」(『朝日新聞』夕刊112日)、「被災地に思い重ね歌会始」(『毎日新聞』朝刊113日)「歌会始、お題は『岸』・・・東北多く詠まれる」(YOMIURI ONLINE 1121333分)という具合で、全体として「大震災の被災地への思い」という強いメッセージが発信されているのがわかる。今年は、歌会始が一体となって、一つのメッセージを発していたので、むしろわかりやすかったのだが、 例年同じようなことが繰り返されていたのではないか。 私はかつて、以下のように指摘したことがある。 

   「近年の歌会始の天皇・皇后はじめ皇族たちの作品を一覧してみると、年ごとの天皇家の家族異動、皇室行事、国家的・国際的行事、事件・災害などにふれ、理想的な家族像、世界平和、環境保全、福祉増進、文化振興」への期待が語られ、全作品あわせた総体として、さまざまな配慮、バランスをもって構成されていることがわかる。歌会始の皇族たちの作品がこのような傾向を持つことは、敗戦後の(歌会始が再開した)1947年からの大きな流れであった。」(「昭和天皇の短歌は国民に何を伝えたか―象徴天皇制下におけるそのメッセージ性と政治的機能」『象徴天皇の現在』五十嵐暁郎編 世織書房 20086月、所収)

 

 とくに、大震災後、天皇・皇后をはじめとする皇族方の発言や被災地訪問、そしていくつかの短歌作品が折に触れて発表されることによって、大震災の被害地対策・被害者対策において、政府や企業、あるいは自治体の後手、後手の情けない対応の足りない部分の補完をしていたのではなかったか。根本的な復旧や復興、問題解決の困難から一時的にでも逃避させる機能を担ってはいなかったか。これは、皇族方個人の善意とは全くかかわらないところでの政治的役割を果たしているにちがいない、とも思う。

 

 また、「歌会始」について、皇室と国民を結ぶ「文化的な架け橋」のような評価をする人たちがいる。しかし、選者の在り様や応募者(入選者)たちを見ていると、短歌の熟達者あるいは素朴な短歌愛好者であり、皇室を敬慕する国民の一人というというイメージとは結びつきにくい。選者や入選者たちについて報道されるエピソードなどを知るにつけ、そのイメージからは遠のくのである。最近はとくに10代の中学生や高校生などが入選者に混じる。その多くは、学校ぐるみで、国語の一環としての作歌された一首を応募させたりしている例が多く、いくつかの「名門校」があるらしい。また、「応募何十回の悲願の入選」というややマニアックなエピソードもある。まるで、クイズのような様相を呈してはいないか。そんなことを考えていると、文芸や文化とはどんどんかけ離れて行ってしまうような気がするのだが。そもそも「遊び」ならばそれらしく、と思う。

 

平成二十四歌会始御製御歌及び詠進歌 

http://www.kunaicho.go.jp/culture/utakai/pdf/utakai-h24.pdf 

最近のお題及び詠進歌数等 

http://www.kunaicho.go.jp/culture/utakai/eishinkasu.html

 

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2012年1月12日 (木)

放射能汚染物質の「仮置き場」がない?佐倉市は“困ったさん”か(2)

 17日、宮ノ台地区を測ってみると 
 
暮に、町内自治会の回覧板で「除染“低減”工事」のお知らせが回ってきた。近隣公園8公園が図示されていた。それを見ると、すぐ近くの、私も毎朝太極拳に集まるユーカリが丘北公園が工事対象となっていない。おかしいぞ、市内300近い公園の中で、数値の高い48公園の一つとして、優先除染対象になっていたはずだが。公園緑地課に聞いてみると、数値が下がったので、今回の対象にはなっていないというのだ。この公園については、私も何度かの測定に参加していて、決して低いということはない。高いという認識だった。私たちの測定会でも、今回ぜひ測定の対象にしてもらいたいとして、実現した。P1000244_2

ユーカリが丘北公園、早く安心して散歩したいヨ

 
 ユーカリが丘北公園については、11のポイントで5㎝、100㎝を測定した上で、その外周を、かなりの地点の側溝、植込み、生垣、石積みで測定した。公園の内外で、市の基準値0.223より低いところを探すのが難しいくらいなのだ。やはりというか、放射線量の自然低減があり得ないことがわかる。その他、井野中学校の給食室近くの通用門の門扉下の細いグレーチング上5㎝の高い数値にびっくりした。早く除去してあげたい。それには、普通のごみのルートとは異なる除去物回収 ルートと仮置き場が必要なのである。

2012
17日(晴れ)
数値は、測定地点数か所、高さ5㎝・100㎝を含めての最低・最高値とした。
(この数値の採り方は佐倉市の除染状況の結果報告に倣った)
単位はμ㏜/h
宮ノ台地区測定結果の一部
(詳細データから作成)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/miyanodaisokuteikekka.pdf

P1000226_3

ユーカリが丘北公園、二つの測定器で


P1000244

 

110日、市役所関係担当者との面談、要望・質問書を手渡したが

 今回の測定も要望も道路・公園内外の側溝の除染に関する事項が多いことから、また、測定器なども絡み、自治会との協働を提案していることもあったので、道路管理課、公園緑地課、自治人権課などの担当者の話を聞きたかった。あらかじめ要望骨子は渡していたからか、面談の会議室には、市役所側に156人は座っていたのに驚いた。当方8人、対面の中央にS土木部長がいる。数年前、井野土地区画整理組合による開発事業に伴う道路について、自治会の対策協議会が市役所と交渉を持った際、総務の法規関係者として、しばしば顔を出していた人物で、法律を持ち出しては、見当はずれの話を得意げに話すのに閉口したのを思い出す。どうも、今日は彼の呼び出しで、上記3課に加えて、環境保全課、下水道課も来ていた。それ自体、当方にとってはありがたいことだっ

  たのだが、その話の中身に内容がなく、今後への意欲も感じられないのだ。

  私たちは、学校、公園、道路の除染は、当然キメのこまかい測定が前提ではあるが、同時に、低線量被ばくを食い止めるための除染は、一刻も争うのだ。私たちの会からも6月から早急な除染を提案していたが、当時は、国の年間20ミリシーベルトの基準を掲げ、除染には一切反応しなかった。8月下旬にその基準が年間1ミリシーベルトに変更されると急遽、佐倉市も独自の0.223μ㏜/hという基準と除染計画は9月初旬に公表された。以来4か月、いったい何をやっていたのか。測定とその結果発表には熱心だが、その発表も決して検索しやすいものではないし、除染工事も施設ごとの入札で、除染による除去物の保管は施設内と限定されていた。もっと広範囲になる道路の側溝除染工事による除去物の保管処理だって、とっくに考えておかなければならないはずではなかったか。年が明けても、仮置き場がない、国の特措法でも確保してくれない、どこに決めても周辺の市民の反対に遇う、「困った」「困った」の大合唱なのである。遊休の公有地が、塩漬けの市有地がないのか。施設跡がないのか、利用のない施設がないのか。一か所でも周辺住民に打診したのか。    担当者の話を聞いていても、危機感がないし、意欲が感じられないのだ。

   やる前から、やらないためのガードを固めるのが市役所のやり方だ。公園除染工事後の除去物埋立場所の表示と立入禁止表示について、私が担当課に尋ねたとき、担当者は、「そういう表示を嫌う市民がいる」「周辺の土地の資産価値が下がるから、表示するなという市民の声がある」などと確かに答えていた。不動産業者ならいざ知らず、多くは、終の棲家として暮らしている市民は、資産価値と健康被害のどちらを選ぶだろうか。今回の面談で、そういう市民の声は、具体的にあったのですか、と問えば「なかった」ということで、単なる憶測にすぎなかったのだ。もっとも、国からの指導で埋立場所の表示・立入禁止表示は実施することになったそうだ。いやはや。

   1月8日、除染工事対象の公園「子の神公園」に差し掛かると、公園内で清掃をしている人たちがいた。公園内には泥の山も見受けられる。作業員に思わず「除染工事ですか」と聞けば、「いや、普通の側溝清掃です、だいぶ泥がたまっていました」という。公園内の側溝と言えば、今回測定のユーカリが丘北公園内のやや細い幅の側溝はもちろん基準値を超えていた。除染の前に、側溝掃除?なんか腑に落ちないので、面談の折、尋ねてみると、「いや、今入った情報だと、子の神公園は除染工事を始めているということなので、それは除染工事です」という。「除染工事中」「立入禁止」などの看板は一切なかったし、少なくとも作業員は除染工事の自覚がないわけだ。駐車中の工事会社の名前だけは記憶にとどめたのだが、「その業者は入札業者の名前でないから下請けだろう」ということで、「業者に徹底させます、申し訳ありません」という顛末だった。ことほど左様と言ってもいいかもしれない。

    これまでの原発事故による放射能汚染についての本ブログ記事も本数が増えた。年の初めでもあり、読み返してみると、繰り返しも多いが、自分が居を置く自治体のふがいなさがいっそう身に沁みる。関心のある方はどうぞ閲覧下さい。

 

 

630日:佐倉市もホットスポットです、ただちに対策を!

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2011/06/index.html

79日:佐倉市、近くの小学校では~放射線量、数値の究明を

http://app.cocolog-nifty.com/t/app/weblog/post?__mode=edit_entry&id=68978718&blog_id=190233

718日:佐倉市、ようやく第3回空間放射線量測定~依然として高い放射線量

http://app.cocolog-nifty.com/t/app/weblog/post?__mode=edit_entry&id=69092457&blog_id=190233

722日:近くの公園の放射線量を測定してみました~やはり、まだ高い

http://app.cocolog-nifty.com/t/app/weblog/post?__mode=edit_entry&id=69145125&blog_id=190233

722日:佐倉市から回答が届きました、難しいからやりたくない?

http://app.cocolog-nifty.com/t/app/weblog/post?__mode=edit_entry&id=69148946&blog_id=190233

729日:放射線量測定器に参加して~佐倉市は落葉や汚泥の早急な除去を

http://app.cocolog-nifty.com/t/app/weblog/post?__mode=edit_entry&id=69234350&blog_id=190233

824日:佐倉市はどうする!放射能汚染問題と市民1・2・3

http://app.cocolog-nifty.com/t/app/weblog/post?__mode=edit_entry&id=69550495&blog_id=190233

http://app.cocolog-nifty.com/t/app/weblog/post?__mode=edit_entry&id=69550470&blog_id=190233

http://app.cocolog-nifty.com/t/app/weblog/post?__mode=edit_entry&id=69552739&blog_id=190233

98日:佐倉市、放射線対策、ようやく除染に踏み切るか~その基準0.223μ㏜/h

http://app.cocolog-nifty.com/t/app/weblog/post?__mode=edit_entry&id=69727414&blog_id=190233

101日:佐倉市の除染はいつから実施されるのか~市議会を傍聴して~計画と補正予算は決まったのだが

http://app.cocolog-nifty.com/t/app/weblog/post?__mode=edit_entry&id=70014782&blog_id=190233

1026日:除染はいつから?「こうほう佐倉」臨時号は出たけれど

http://app.cocolog-nifty.com/t/app/weblog/post?__mode=edit_entry&id=70322474&blog_id=190233

 

 

 



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放射能汚染物質の「仮置き場」がない?佐倉市は“困ったさん”か(1)

放射線量、「測定納め」と「測定初め」で見えてきたもの
 
 いつにない、奇妙な年末年始だった。年内に年賀状は一枚も書かなかった、いや書けなかった。
 
今では、国民のだれもが不安を抱いている放射能汚染の問題、ホットスポットである佐倉市民は格別だろう。しかし、千葉県定点観測の市原市の0.020.04マイクロシーベルト/時間の数値のみ報じられているので、案外安心しきっている人も多い。さすがに乳幼児や小中学校生の母親は、関心はあるもののなかなか声を上げないのが現状である。一方で、すでに佐倉を離れている人たちの話も聞くようになった。新しいマンションに越してきたばかりのAさんは、夫を残して2歳になるお子さんと兵庫の自分の実家に避難、月の半分以上をそちらで過ごすという。Bさんは、お孫さんとお嫁さんを実家に避難させ、息子さんが行ったり来たりしているとのことだ。 

いま、佐倉市の放射能汚染対策は、教育施設、公園などの除染工事はとにもかくにも除去物を自施設内の埋立て保管の方針で進められているが、原発事故以来、早くより指摘されているのが、通学路、道路側溝の放射線量の高い数値だった。周辺よりどこでも高い側溝の除染が手付かずなのだ。今回、私たちも、これまでの活動を踏まえ、側溝の除染を早くせよ、と佐倉市に申し入することになった。7月、8月に続く3回目である。私個人としても、文書による要望、電話でも何度か問い合わせ、要望をし、回答も得ているのだが。


12
29日、臼井地区を測ってみたら 

 1229日、私たちの市民グループでは、知人の松戸のMさんにお越しいただいて、放射線量測定会を実施した。7月にもお願いしているので、2度目になる。Mさんは、高性能の測定器をもう一台購入したということで、30秒間の平均値が自動的に表示されるスグレモノだった。1地点5回測定でも3分ほどで済む。環境省の上空からのモニタリングでも高い数値を示す臼井地区を回ることにした。この地域一帯の高い数値が、佐倉市を「汚染状況重点調査地域」指定に踏み切らせたらしい。
 
 前回に引き続き、5㎝と100㎝の高さで測定した。印旛沼ボート乗り場付近の測定値は、安定していて0.0980.170μ㏜/h、間野台公園は、佐倉市の除染基準0.223μ㏜を超え、除染対象となっているが、まだ実施されていない。除染済みの2公園とも、広場は表土を削り取った形跡が見られたが、草地や樹木の下は、清掃をした程度なのだろうか、佐倉市の基準値0.223μ㏜を超えていた。最も驚いたのが、住宅街の真ん中にある、市営住宅跡の更地をめぐる側溝での数値だった。グレーチングの上でも極端に高かったのだが、グレーチングのない、汚泥がむき出しの箇所は34μ㏜を示した。単位が一ケタ違う。市役所に通報しなければならないだろう。さらに、西部自然公園は広いのだが、佐倉西高校グランドネット裏の向かいの台地を上ったところ、なんと木材チップの山がいくつもいくつも広がる。中にはゴミや土砂が混じるところもあって、これが軒並み0.5を超えるのだ。ここはゴミ捨て場?放射能汚染物仮置き場?状態なのである。鳴り物入りで、市が西部自然公園として、整備しようという公園なのである。

2011
1229日(晴れ)
 
数値は、測定地点数か所、高さ5㎝・100㎝を含めての最低・最高値とした。
 
(この数値の採り方は佐倉市の除染状況の結果報告に倣った)
 
単位はμ㏜/h
臼井地区測定結果の一部
(詳細データから作成)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/miyanodaisokuteikekka.pdf

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西部自然公園、木材チップの山、途方に暮れる



 

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2012年1月 2日 (月)

新春

 新しい春、と書き始めても、その後が続かず、とうとう、年内には年賀状が書けませんでした。元日にはと思いながらも、このブログも日付が変わってしましました。3・11大震災と原発事故のことを考え、被災地や被災者を思いますと、心が痛み、苛まれます。何ほどのこともできませんが、自分の住む町の在りようを探っていきたいと思っています。

12月29日、数人の市民有志で、松戸のMさんに指導を仰ぎ、臼井地区の数か所の放射線量の測定を行いました。印旛沼畔では、人懐こい、アヒルやカイツブリ、頭のてっぺんの白いオオバンなどが近づいて来ます。水面は、穏やかに青い空を映していました。除染済みの公園とても、佐倉市の基準値を超えていました。1月7日には、宮ノ台地区の測定会に参加の予定です。

 テーマが何とも散漫になりがちなブログですが、お訪ねくださり、ありがとうございます。短歌と地域、そしてメディアの問題からは眼を離さないように、と思っています。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

                           2012年1月     内野光子 

↓ 印旛沼畔、放射線量測定の合間に、オオバンの家族?

20111229_4

↓ 印旛沼、ボート乗り場、タイヤの隣に野良猫が

20111229_5

↓ 八社大神の新春、鳥居の上の部分が3・11に崩落、新しくなっている。
   2012年1月1日  
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