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2012年1月26日 (木)

葉山の「ベン・シャーン展~クロスメディア・アーティスト」へ行ってきました~はじめての神奈川近代美術館葉山館(2)

 4)60年ぶりの葉山へ
 124日、千葉にも今年初めて降った雪の朝、道路はスリップ事故などで混乱しているとのことだったが、日本橋、金沢文庫乗換えの経路で新逗子まで行った。品川辺りまではうっすらとした雪景色が続いたが、多摩川を越えると、昨夜は雨だったのか、雪の名残もなかった。
 葉山といえば、明治29年生まれの父親が十代のとき通った明治薬科専門学校「メイヤク」時代の同期の友人が、「サンタ薬局」という名の店を開いているというのを聞かされていた。そして、その友人からのお誘いがあって、父親は、すでに同じ「メイヤク」を卒業していた長兄と高校生の次兄、小学生の私の3人兄妹で、その葉山に海水浴に行かせてくれたらしい。たしか葉山一色海岸のすぐそばにあったサンタ薬局のご一家から歓待を受け、その家から水着で海岸に飛び出して行ったのを思い出す。ほんとうに海の水がこれほどまでに透明なのかと、足裏で砂が舞い上がってもすぐに澄んだ水になるのが不思議だった。学校の遠足、母の実家への帰省以外に遠出などしたことがない時代だった。アルバムにわずかに残っている、小さなスナップ数枚。サンタ薬局前の兄たち、海岸の岩場、かなり込んでいる海水浴場(これは逗子海岸のようにも見える)私が映っている写真はない。たしか同じ年ごろの女の子がいらしたはずだったのに、店の名前だけで、お名前を失念している。昭和20年代半ばごろのことである。いまは、父や兄も故人となって確かめようもない。
 
新逗子からのバスは海岸周りの一色海岸行きで、15分ほどだったか。途中、垣間見る葉山の海は穏やかで、日影茶屋、渚橋、葉山マリーナー、森戸海岸、を経て、美術館前の三が岡で下車した。


↓新逗子駅前、案内板

(ポスターは、マルテの手記より「一篇の詩の最後の言葉」がデザインされている)

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5)そして、<クロスメディアな>ベン・シャーンへ
 駐車場も満車の表示、30個ほどのロッカーも空きがなかった。それでもゆったりした会場は、大きく第1章ドキュメンタリー、そして社会への告発、第2章「私」からの共感へ、第3章文字への愛、神話の力、第4章アジア、そして日本へ、の四つに分けられていた。
 第1章、1930年代後半、再入植局、農村安定局のプロジェクトにはカメラマンとして参加、アメリカ南部、中西部の下層労働者たちへ目を向けた。これらの写真は、後年、郵便局や公共施設の壁画の習作として、溢れるようなメッセージをモンタージュの手法で描き込んでいるし、さまざまな作品のイメージソースとして活かされているのがわかるような展示になっていた。 

↓1930年代、描き続けた労働者たち、画集より
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 第
2章には、小麦畑の一連の作品があった。「至福」(1952)と題される作品は、一面、実った小麦の穂が輝くなかに、農夫が一人、穂にふれて立っている。私は、1991年の展覧会で出会った、これらとは違う麦畑の作品を探してみたが見当たらなかった。人物の登場しない麦畑だけの作品、気に入って大きな複製画も買って部屋にも飾っていたものだった。帰宅後、カタログを読んでいたら、次のような個所に行き当たった。

↓「小麦畑」1991年展の絵葉書から

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   「今回は出品されていないが、1958年に人物のいないセリグラフ《小麦畑》が制作された。小麦の茎の線がリズミカルに並び、水彩がほどこされ、《至福》の重々しさを昇華したようなグラフィックな作品に展開している」(77頁) 

 ああ、なるほど、私が感じた魅力を、プロの学芸員はこんな風に分析しているのだ。このセクションには、ベン・シャーンの傑作の一つ「ワルシャワ」(1952)「ワルシャワ1943」(1965)もあった。労使交渉の席で机に腕を立て、握りこぶしで頭を抱える労働者の一人も映っている報道写真をモチーフに、前者は、両手の握り拳を、後者は頭を抱える両腕を描いたものである。

 

3章では、絵の中に、文字を、メッセージを 直接記し、描くポスターやレコードジャケットなど会場の壁いっぱいに展示されていた。ベン・シャーンの関心は音楽にしてもクラッシックからジャズまで、そして楽器、それを奏でる人間そのものへの愛着を描いたような作品も多かった。この部屋で、私にとって忘れがたいのは、収容所の高いレンガの壁を背に両手に鎖の黒い服の男は頭から布をかぶせられている「これがナチの残虐だ」(1942)であり、STOP H-BOMB TESTSの文字のなかSTOPHの文字が赤くて大きい「水爆実験を止めよ」(1960)であった。

↓「水爆家実験を止めよ」2012年展の絵葉書から

 

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 第4章では、やはり、1954年に起きた第五福竜丸被ばく事件の作品が、今日の日本にとっては衝撃的である。ベン・シャーンと第五福竜丸とのかかわりは、アメリカの原子物理学者の「ラッキードラゴンの航海」という雑誌連載エッセイへの挿絵を描いたことに始まるという。1957年から1965年にいたる間、描きつづけていたということだ。この間、1960年に来日し、各地を回っているが、第五福竜丸事件関係の取材をした形跡はいまだ見つからないらしい(荒木康子「1960年の日本旅行」『カタログ』161頁)。 

 会場を見終わった後、レストランへでもと思ったら、列ができていたのであきらめた。結局、そのままバスに飛び乗った。昼食抜きで、帰宅したのが夕方5時半という慌ただしい一日だった。60年も前にお世話になったサンタ薬局のことが気になり、ネット検索してみると、写真まで付した、次のような記事に出会ったのである。私たちが訪ねた「サンタ薬局」は、御用邸の前だったのだろうか。

 

「大正末期から昭和初期にかけて一色三ヶ岡の南麓(現・県立近代美術館の斜め右向側)にあった「サンタ薬局」。看板建築のハイカラな建物もまだ真新しい。背後に見える樹木は三ヶ岡の山肌。手前の道路は県道207号線(葉山-森戸海岸線)で、店前の側溝は菖蒲沢から流れる小川を整形したもの。この水は近美の横で滝のように落ち、一色海岸に注いでいた。店頭の人物は初代「サンタ薬局」のご夫婦か?店は昭和10年前後に御用邸に近い場所に移ったがもはや無く、現在は同地にカフェ・シリウスという店がある。」(「葉山環境文化デザイン集団 ミッキーの空間」200557日)

↓1920年代、こんな作品を描いていた、画集より

1920

 ↓画集、最後の頁 "IDENTITY"(1968 )

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 ↓葉山館の庭園の散策路より 

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