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2012年2月27日 (月)

議事録作成・公開は民主主義の根幹のはずなのに

日本では、「原子力災害対策本部」ほか関連の重要な10ほどの組織が会議録を残していなかったという事実が、NHKの情報公開請求によりあらためて明らかになったことだ(2012122http://www3.nhk.or.jp/news/genpatsu-fukushima/20120122/index.html)。昨年来、国会やメディアの間では、原発関連の公文書の散逸が懸念されていた(「原発対策関連の公文書散逸の怖れ」『毎日新聞』20111217日、「米に見る会議公開のあり方 『日本型』は無責任助長」『東京新聞』2012128日、「震災『議事録』なし 政治の透明化どこへ」『毎日新聞』201224日)。 

上記、最近の「毎日新聞」(24日)で、ジャーナリストの政野淳子さんは「正確な記録は責任の所在を明らかにする。公開の精神を徹底してほしい」と提言している。とくに以下の3点の重要性を強調する。 

①会議の公開(傍聴)のルール(傍聴の規定は厳格だが、全員は排除しない) 

②会議メンバーの利益相反のルール(メンバーへの寄付・出所・金額を明示、公開する) 

③議事録作成および発言者特定の義務付のルール 

日本における公文書の作成、情報公開の在り方に不備があるのは、私自身も千葉県、佐倉市の場合を通じて種々体験させられた。その体験の一部は本ブログでも何回か記事にしているので、関心のある方はご覧ください。キーワードの「情報公開」をクリックいただければ幸いである。 

①は、個人情報保護を理由に必要以上に、組織当事者、委員会の裁量で非公開となることが多い。②については、国の場合も同様であるが、委員選定のプロセスや選定理由があいまいで、行政の恣意的な選任になることが多い。有識者委員、公募委員といいながら、常連の御用学者、御用市民が長期間起用されているのが実態である。③については、議事録が抄録や議事概要であることも多い。そして、私が数年前、佐倉市の情報公開審議会の公募委員になったとき提案した「発言者が特定できる議事録」は、賛成なしで否決され、現在でも委員長の発言のみが明記され、他の発言はすべて「委員」のみの表記である。その理由が、委員の自由な発言、会議の活性化に支障があるから、というものである。会議が公開の場合でも議事録は匿名にして欲しいというのだ。情報公開の審議会がこんな有様だから、他の審議会や委員会も右へ倣えというわけで、発言者が明記されているのは、ごく一部の議事録だけである。報酬や手当てをもらって委員に就任する以上は、発言者の特定は当然の義務だし、名無しの発言など無責任極まりないと思うのだが、選任の恣意性とともになかなか改まらないのが現状である。

また、行政にとって都合の悪いことは議事録、会議録不存在という抜け道も横行していることも、無視できない。私はかつて、身近な土地区画整理組合事業による開発の過程で千葉県が業務代行の業者との協議で決められていく「公共施設管理者負担金」の金額がある日突然、自明の金額として浮上していることに疑問を抱いた。どこでどのように決められた数字なのか不明なことから、情報公開請求をしたが、文書不存在だった。電話ででも決まったのだろう、と関係者は言ってのけた。大事なことは、電話やメールで決めるに限る?「公共施設管理者負担金」とは、開発区域の道路などの用地買収を開発事業者側に委ねるために自治体などが負担する費用のことだ。行政の言い分は、その金額の正当性は、複数の土地価格鑑定で検証されるから問題ないとも。しかし、鑑定所の人間が、協議の場に出席していたことも明らかになった。これって?

 役所のやることには不思議なことがたくさんあるのだ。私たちの税金がどのように使われているのか、監視を怠ってはならない。

 

 

 

 

 

 

 

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「ベン・シャーンの絵は福島には貸さない」って、なぜ?

  

フクシマでの展示が断られる 

先月、葉山の神奈川近代美術館のベン・シャーン展に出かけたことは記事にもしたが、226日の朝日新聞を見て驚いた(http://www.asahi.com/national/update/0225/TKY201202250463.html)。現在は、名古屋市立美術館で開催中、その後は岡山県立美術館を巡回して、6月には、福島県立美術館での開催が決まっている。ところが、アメリカの7つの美術館が所蔵する69点の作品は、福島には出品しないという回答があり、福島県立美術館には、これらの作品が展示できないことになっていたという。69点中52点はハーバード大学付属フォッグ美術館所蔵の作品といえば、1930年代、ニューディール政策下のニューヨーク市、農村地帯の救済所や労働者らに焦点をあてた批判精神に貫かれた作品が多かった。また、「解放」「オッペンハイマー博士像」(ニューヨーク近代美術館)、「立っている少女」(メトロポリタン美術館)など、印象深かった作品も含まれていることになる。ビキニの水爆実験で被ばくした「第五福竜丸」の久保山愛吉さんを描いた「ラッキードラゴン」を所蔵している福島県立美術館としては残念だったに違いない。しかも、原発事故の被害や衝撃も大きかった福島での展示には、大きな意味があっただろうに。そして、ベン・シャーン自身だったら、どんな対応をするのだろうか。 

朝日新聞によれば、アメリカの美術館側の貸し出せない理由は、館によって微妙に異なるようだが、「スタッフと作品の安全を最優先した」「原発から80キロ圏内の旅行自粛の国務省勧告に従う」など、放射能への不安であったことがわかる。 

アメリカの美術館の対応を、アメリカが原爆や水爆の加害国でありながら、被害国日本への身勝手なふるまいと責められるかどうか、冷静に考えなければならないだろう。

 

危機認識の違い 

その「80キロ圏内」について、最近、222日のNHKほかの報道で、以下の事実を知らされていただけに、複雑な思いであった。アメリカの原子力規制委員会の議事録公開によって、日本の福島第1原発事故発生直後の会議の様子が明らかになった(http://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/0222.html)。報道によれば、事故から2日後には、同委員会幹部から炉心溶融の可能性を理由に原発から50マイル(約80km)圏内の退避勧告を出すべきではないかという進言がなされていた。また、16日にはヤツコ委員長が同じ事態がアメリカで発生すれば50マイル圏内の避難勧告が妥当とする勧告を行うよう委員会に提起していたことが分かったという。今回の議事録は、電話会議を含め311日事故直後から10日間で3200頁にも及んだという。 

日米の対応の仕方が二つの点で、大きく異なっていた。一つは、日本では、20キロ圏内の退避指示と2030キロ圏内の屋内退避指示という非常に緩い対策しかとらなかったという事実だ。当時、東京在住の外国人や福島で働く中国人が日本脱出をしていたことと思い合わせ、大げさなと思っていた私自身も、今回ショックを受けたのが正直なところだ。一つは、アメリカにおける詳細な議事録の存在だった。 

日本は、原発事故発生の当事国であったにもかかわらず、危機管理と自国民保護の認識の違いをまざまざ見せつけられた思いだ。

 

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2012年2月17日 (金)

短歌ハーモニーの作品が「カルチャーのうた」に載りました

「短歌ハーモニー」の作品が、『短歌往来』3月号「カルチャーのうた」
に登場しました。ここでは、一人1首を紹介します。
全容は雑誌でご覧ください。 

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千葉市男女共同参画センター 短歌ハーモニー歌会 

亀鯉らいづこへゆきし液状化池水逃げて腐臭ただよふ 

                        海保秀子

もどかしい手元を見つめ冷やかな視線を浴びせる後ろの人々 

                      美多賀鼻千世

 

天地のいとなみのまま花の舞 老桜大樹人を集めて

                        大堀静江

 

夜更けより静かにおりくる初雪の咲く白梅を薄氷つつむ 

                        岡村儔子

 

(福島第一原発事故から九ヵ月)

放射能今も出続け鳥たちに不安広がる沈黙の春  藤村栄美子

 

 

冬花火松明を持つスキーヤー幻想的なまつりに酔いて   

                      加藤海ミヨ子

 

母とふたり門扉を閉ざしくらす夏 夫の畑の馬鈴薯とどく 

                        武村裕子

 

しろがねの糸の編み出す蜘蛛の巣の造形に息のむ朝もやのなか

                        内野光子          

 (『短歌往来』20123月号から)

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ふたたびの田中一村

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(チラシの中の「アダンの海辺」と「杉林暮景」)

 2月のハーモニー歌会(千葉市男女共同センター)の帰りには、市立美術館に田中一村を観に行くことにしていた。3年前にも、たしかこの歌会の日に、お世話役のMさんと一緒だった。Mさんは盆石を教えられているし、きょうは、絵を描くTさんも加わった。なんと千葉市民60歳以上、千葉県民65才以上は入場無料というので、いずれも該当者だねと3人は気をよくして入場、それというのも「寄贈・寄託作品展」だからということだった。 

 3年前の千葉市立美術館の「田中一村展」以降、市の内外から寄贈や寄託の申し出が相次いだという。一村は、市内の千葉寺付近に20年以上住んでいた縁もあったのだろう。今回の展示は、40点ほどの寄贈・寄託作品のお披露目なのだ。前回の一村展の折の当ブログ記事もご覧ください。 

 ・「田中一村~新たなる全貌」に行ってきました(20109月) 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/09/post-54e0.html

 

 前回のカタログは購入しなかったが、会場のあちこちで閲覧することができる。今回と重なる作品もあった。前回、私が気に入った、ヤマボウシを描いた「白い花」、それ自体の展示はないのだが、テーマは同じ、欄間額の横長の「白い花」に出会うことができたのがうれしかった。また、千葉寺付近の田園風景、いまのマンションや広い都市計画道路、青葉の森公園辺りからは想像のつかない「春林」や「杉林暮景」はあくまでもやさしい。また、地元の軍鶏師のもとに通って描いたという幾枚かの「軍鶏図」には圧倒された。克明なその貌と精悍な眼、一枚一枚の羽根の表情が、その軍鶏の個性を表しているようだった。生計のためにも描いたという、そんな一枚だろうか、遺影となった一枚の写真から、鉛筆だけで描いた肖像画は、写真より生々しく人間が立ちあがって見えた。田中一村の傑作として、よく紹介される「アダンの海辺」、今回は、寄託作品として展示されていた。あらためて眺めてみると、縦長の絵の左手に大きく立ちはだかる一本のアダンの木と大きな実は、南国、奄美大島そのものなのだ。そのアダンの木が根ざしている海辺の砂礫の一つ一つが放つ光と影、前回は気が付かなかったのだが、その精密さが迫ってきた。1969年名瀬市有屋で描かいたときのことを、買い手への送り状にしたためられていた言葉に、一村のこの絵への思い入れを知るのだった。自分が描きたかったのは、夕雲であり、白黒の砂礫であったと断言している。この絵にサインがないのは、5秒もあればできるサインだったが、書き上げたときには「もうその気力がなかった」と記す。目を奪われがちな、クローズアップされたアダンの木の幹と葉、異様に大きな南国の果実は人間が食すものではなく、鳥などのえさになるものだという、添え書きもあった。一生に一度でも「もうその気力がない」といえるほどの仕事をしてみたいと思うのだったが。

 

 同じ会場には、もう一つの寄託コレクション「小泉癸巳男《昭和大東京百図絵》」の展示があった。版画家小泉癸巳男(18931945)が自ら述べるように“昭和の広重”を目指しての名所東京百景ともいえるもので、多くは関東大震災後の昭和初期の東京がいきいきと描かれていた。私の記憶にもある敗戦直後の数寄屋橋、聖橋、(赤坂)離宮、日本橋などは懐かしかった。現在もその風情は変わらない日枝神社、愛宕山放送局、柴又帝釈天、鬼子母神並木、皇居周辺、上野博物館周辺などの何枚かは、私の生まれる前から変わってはいないと感動も覚える楽しいひとときだった。

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(落款の位置が楽しい「柿図」と無料入場券)

 

 

 

 

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2012年2月 8日 (水)

「ユーカリが丘地域まちづくり協議会」はなぜ不認証になったのか(2)

  昨年126日の本ブログ記事の<続き>になる。(1)は、下のURLでお確かめいただければと思う。昨年3月末に、ユーカリが丘周辺のかなりの広域で地域の種々の団体を構成員とする「ユーカリが丘地域まちづくり協議会」が設立されて、5月「佐倉市市民協働の推進に関する条例」に基づくところの認証申請をおこなった。ところが、佐倉市は「不認証」とし、先の条例に基づく「地域まちづくり協議会」ではなく、まったく任意団体となったことが明らかになった。ある議員が市議会で「不認証」決定について疑問を呈し、その8月議会での質疑と私自身から担当課への問い合わせで分かったことをレポートした。 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2011/12/post-673d.html

 

なぜそれほどこだわるのか 

 さらにその後、私は、情報公開制度により、いくつかの文書を入手の上、精査してみることにした。 

私は、なぜそれほどこだわるのだろうか。大きくいえば、二つの理由がある。 

前回の記事でも少し触れたが、私には、「まちづくり協議会」自体を「市民協働」の根拠地のように位置づけ、地域の力や意欲の活用を標榜し、「まちづくり」から生じるさまざまな面倒を地域で調整したり、行政の邪魔にならないような「ガス抜き」をさせたりするための、行政主導の施策ではないか、という不信感がある。 

それにもう一つ、以下のような「地域まちづくり協議会」認証申請と行政とのやり取りを知って、ますます感じることは、そこでは、肝心の地域住民、各自治会会員の意向や意思が問われることなく進められていることだった。少なくとも、私の住んでいる町内の自治会は、自治会会員に、自治会として参加するかどうかを問うた形跡がない。下記の⑦⑧にも、対象地域の自治会は自動的に協議会に参加しているかのような報告しかない。おそらく自治会協議会に参加している自治会長たちとせいぜい役員たちが承知していたことで、どこの自治会も似たりよったりではないか。

*自治会協議会に参加している一自治会(井野東2区)だけが、地域まちづくり協議会への不参加を表明し、名簿には未加盟となっている。

 

設立以降の経過は 

今、私の手元にある以下の資料から、これまでの経過をたどってみよう。 

①「地域まちづくり協議会認証申請書」 表題の申請書に別紙1~10が付せられている(ユーカリが丘地域まちづくり協議会名 2011519日付及び受理) 

②「地域まちづくり協議会認証歌碑決定通知表」(市長名 2011615日) 

③「まちづくり協議会申請不認証に関する質問書」(ユーカリが丘地域まちづくり協議会会長名 722日受理) 

④「まちづくり協議会申請不認証に関する質問書について(回答)」(市長名 2011729日) 

⑤「平成23年度第3回市民協働推進委員会会議録」(2011831日開催) 

⑥「平成23年度8月定例市議会会議録」(2011927日橋岡議員の質疑と答弁部分) 

⑦「ユーカリまちづくり」1~3号(ユーカリが丘地域まちづくり協議会広報委員会編 2011516日、7月1日、1213日) 

⑧「自治会協議会だより」1~3号(ユーカリが丘地区自治会協議会編刊  2011720日、117日、2012115日) 

*これらの文書の内、①②③④⑤は、私は情報公開制度により入手したが、現在は、情報開示済み文書として市政資料室で閲覧できる。⑤の非公開部分を除いては、市のホームページで、⑥は市議会のホームページから会議録検索により閲覧できる。⑦⑧について、自治会の回覧で閲覧した。

 

ユーカリが丘地区における「地域まちづくり協議会」設立に向けての準備は、平成18年度、2006年からユーカリが丘地区自治会協議会で始まっている。当初は、佐倉市担当課からの説明を何度も受けている。上記①の申請書類の別紙8には、「市民協働の推進に関する条例施行規則第8条第1号」に規定する事項(活動地域内の自治会等の3分の2以上が構成員となっていること)を証する書類として、設立準備の経過をユーカリが丘地区自治会協議会等で協議された折の議事録などが添付されていた。それによれば、この間も、佐倉市との協議は何度もなされ、その焦点は、「地域まちづくり協議会」の趣旨と規模についてであったことがわかる。端的には、②の書類の理由の別紙では、市が考える規模は、おおむね小学校校区を基準としているけれど、もし複数学区を活動範囲とする場合でも「人口5000~10000人、世帯数は約4600世帯」としているので、申請では「23658人、8066世帯」であって、大きく基準を超えている、というのが理由である。 

市の決定に納得できなかったためか、協議会会長名による質問書③を提出、協議会は規模だけで判断されるべきでなく、その地域の特色もあり、一小学校区域を超える、生活圏中心の取り組み課題が多いことを強調している。市の回答書④では、協議会は、地域住民の身近なコミュニティとして理解が得られる圏域を条件とし、民主的な運営を確保し、区域・構成団体・役員選任・事業・予算なども含め十分周知・理解されることを前提としている世帯数は基本的な要件であると、ここでも繰り返し述べている。 

また、会議録⑤によれば、2011831日の市民協働推進委員会においても、事務局からの「不認証」決定の経過説明と委員らによる意見交換がなされている。これを読むとさらに、問題点が浮き彫りになってくる。事務局は、規模に関して、申請の協議会の地域内には現在も開発が進行中でさらに2000世帯近くが見込まれ、規模の肥大化は避けられない、人数が多いとトップダウンになりやすい、ともしている。現に、設立総会後、成立したばかりの自治会が参加した例もある(ビオ・ウィング)。委員の意見もまちまちで率直である。ただ、会議録では発言者が特定できない記録の仕方なのが残念ではある。市の委員会や審議会の情報公開はなぜ進まないのだろう。 

・条例・規則が想定している顔が見える範囲であることが重要である 

・自治会による温度差があるので、小規模での意見交換や助け合いが大事なのではなか 

・この地区は、山万の影響力が強いので、トータルとして考えた方がいいのではないか 

・山万が強く関与していることは確かで、山万からすれば、一つにすれば面倒くさくないという考え方があったのではないか 

・ユーカリの場合は山万が主導しているというより、役員が懸命に山万を巻き込んでいるという印象、その特殊性を配慮してもいいのではないか

 

 再び「まちづくり協議会」は必要なのか 

さらに事務局は、この会議で、まちづくり協議会については、まちづくりにおけるソフト事業を想定するもので、ハード面でのまちづくりはもっぱら行政がやるべきものだという基本的な考え方を強調する。であるならば、私は、冒頭にも述べているように、「まちづくり協議会」の必要性自体に疑問を呈したい。ハード面はもっぱら行政と断定するところにも大きな間違いがある。大型の予算を伴う都市政策こそ、民意が活かされなくてはいけないのではないか。また、「まちづくり」における「ソフト」事業という規定も曖昧ながら、ソフト面における発想や構想、実践においては、地域住民の価値観の多様性、活動の柔軟性、人材の活性化などが最も優先されるべきことではないか。そこに生まれる多種多様な活動母体が動きやすいような支援をするのが行政であって、最初から役割を固定して、束ねることはないはずである。そういう意味で、「まちづくり協議会」が地域住民の自由な発想や要望の調整役や行政への御用聞きになってしまわないかの疑問が残る。

 

一歩譲っても、役員名簿をみると・・・ 

  一歩譲って、現制度下における「まちづくり協議会」を認めるのなら、少なくとも、広域化、効率化が優先するのではなく、民主的な運営を目指すものであってほしい。今回の大規模まちづくり協議会では、構成メンバーに、各自治会は入らず、自治会協議会となっていることが最大の欠陥である。25を超える自治会の地域を対象としていることに、問題があったわけである。それに、役員の肩書を見ると自治会協議会におけて固定的な「特別理事」が幅をきかす。毎年、流動的な各自治会会長の指南役というか、仕切り役の、要するに「ムラのボス」的存在の人たちである。さらに、商店会、地区社協、地元ディベロッパーの幹部社員、各学校のPTA会長・・・。いつでもどこでも、地域ではおなじみの人たちである。議員の一人でも担ぎ出そうという気配さえ感じる。 

  現在、任意団体の「ユーカリが丘地域まちづくり協議会」は、今後も、「活動実績」なるものをもって、法規を変えてしまうか、特例によってか、「認証せよ」との攻勢を強めるかもしれない。佐倉市はどう出るのだろうか。 

  ちなみに、「ユーカリが丘地域まちづくり協議会」の事務所は、山万グループの建物内に置かれ、会議などもここで開かれている。

 

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