ふたたびの田中一村
(チラシの中の「アダンの海辺」と「杉林暮景」)
2月のハーモニー歌会(千葉市男女共同センター)の帰りには、市立美術館に田中一村を観に行くことにしていた。3年前にも、たしかこの歌会の日に、お世話役のMさんと一緒だった。Mさんは盆石を教えられているし、きょうは、絵を描くTさんも加わった。なんと千葉市民60歳以上、千葉県民65才以上は入場無料というので、いずれも該当者だねと3人は気をよくして入場、それというのも「寄贈・寄託作品展」だからということだった。
3年前の千葉市立美術館の「田中一村展」以降、市の内外から寄贈や寄託の申し出が相次いだという。一村は、市内の千葉寺付近に20年以上住んでいた縁もあったのだろう。今回の展示は、40点ほどの寄贈・寄託作品のお披露目なのだ。前回の一村展の折の当ブログ記事もご覧ください。
・「田中一村~新たなる全貌」に行ってきました(2010年9月)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/09/post-54e0.html
前回のカタログは購入しなかったが、会場のあちこちで閲覧することができる。今回と重なる作品もあった。前回、私が気に入った、ヤマボウシを描いた「白い花」、それ自体の展示はないのだが、テーマは同じ、欄間額の横長の「白い花」に出会うことができたのがうれしかった。また、千葉寺付近の田園風景、いまのマンションや広い都市計画道路、青葉の森公園辺りからは想像のつかない「春林」や「杉林暮景」はあくまでもやさしい。また、地元の軍鶏師のもとに通って描いたという幾枚かの「軍鶏図」には圧倒された。克明なその貌と精悍な眼、一枚一枚の羽根の表情が、その軍鶏の個性を表しているようだった。生計のためにも描いたという、そんな一枚だろうか、遺影となった一枚の写真から、鉛筆だけで描いた肖像画は、写真より生々しく人間が立ちあがって見えた。田中一村の傑作として、よく紹介される「アダンの海辺」、今回は、寄託作品として展示されていた。あらためて眺めてみると、縦長の絵の左手に大きく立ちはだかる一本のアダンの木と大きな実は、南国、奄美大島そのものなのだ。そのアダンの木が根ざしている海辺の砂礫の一つ一つが放つ光と影、前回は気が付かなかったのだが、その精密さが迫ってきた。1969年名瀬市有屋で描かいたときのことを、買い手への送り状にしたためられていた言葉に、一村のこの絵への思い入れを知るのだった。自分が描きたかったのは、夕雲であり、白黒の砂礫であったと断言している。この絵にサインがないのは、5秒もあればできるサインだったが、書き上げたときには「もうその気力がなかった」と記す。目を奪われがちな、クローズアップされたアダンの木の幹と葉、異様に大きな南国の果実は人間が食すものではなく、鳥などのえさになるものだという、添え書きもあった。一生に一度でも「もうその気力がない」といえるほどの仕事をしてみたいと思うのだったが。
同じ会場には、もう一つの寄託コレクション「小泉癸巳男《昭和大東京百図絵》」の展示があった。版画家小泉癸巳男(1893~1945)が自ら述べるように“昭和の広重”を目指しての名所東京百景ともいえるもので、多くは関東大震災後の昭和初期の東京がいきいきと描かれていた。私の記憶にもある敗戦直後の数寄屋橋、聖橋、(赤坂)離宮、日本橋などは懐かしかった。現在もその風情は変わらない日枝神社、愛宕山放送局、柴又帝釈天、鬼子母神並木、皇居周辺、上野博物館周辺などの何枚かは、私の生まれる前から変わってはいないと感動も覚える楽しいひとときだった。
(落款の位置が楽しい「柿図」と無料入場券)
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