『ポトナム』4月号、90周年記念特集に論稿を発表しました
少し長い文章を書きました。関心のある方はお読みいただければ幸いです。
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『昭和萬葉集』に見る『ポトナム』の歌
~第五巻・第六巻(一九四〇~一九四五年)を中心に
選歌協力の経緯
選歌の基準と採録の基準
昭和15年(選歌73首、採録7首ほか20首)
昭和16年(選歌77首、採録9首ほか4首)
昭和17年(選歌73首、採録3首ほか1首)
昭和18年(選歌73首、採録3首ほか1首)
昭和19年(選歌19首、採録無し)
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選歌協力への経緯
一九七〇年代の前半、私は『昭和萬葉集』の選歌に協力していた。昭和期、一九二六年(昭和元年)から一九七五年(昭和五〇年)までの『ポトナム』から、『昭和萬葉集』への収録にふさわしい短歌作品を選ぶという仕事だった。講談社の『昭和萬葉集』の刊行が始まったのは一九七九年二月で、『昭和萬葉集』の企画が記者発表されたのは、一九七六年三月一七日だった(木俣修「『昭和萬葉集』メモ」第六巻月報「まんよう」、別巻年表参照)。顧問の三人(土屋文明・土岐善麿・松村英一)と選者一〇人が集まった第一回の会議は一九七五年一二月という。私がその企画を聞いたのは、それ以前で、勤務先に訪ねて来られた阿部正路国学院大学教授からであった。「これはまだ口外してもらっては困るのだが、講談社創業七十周年記念事業として『昭和萬葉集』の刊行が決まったので、協力をしてほしい」と重々しく語るのだった。当時、私は国立国会図書館に勤務していたので、資料面での協力・便宜をはかってほしいという依頼と理解した。ところが、私は、翌夏の出産を控え、夫の赴任地へ転居するため、翌年三月の退職を決めていた。職場や東京を離れてしまうので直接的な協力は難しいという返事をした覚えがある。退職後、名古屋での新しい職場で、慌ただしく過ごしていた矢先、『昭和萬葉集』編集部から『ポトナム』の選歌協力の依頼があった。昭和期の『ポトナム』の所蔵機関の最終的な確認と複写はすべて講談社が行い、選歌担当者は網羅的に読んだ上での選歌を基本とするもので、本格的なアンソロジー編集の意気込みを感じたのだった。国立国会図書館でも『ポトナム』の所蔵は欠巻が多く、手元の複写には、立命館大学白楊荘(苳三)文庫、九州大学図書館、東洋大学図書館などの蔵書印が入り混っていた。それにしても、仕事と子育てでせわしくしていたさなか、ドン、ドンと大きな段ボールで『ポトナム』の複写が届き始めたのだ。一九四五年以降、『くさふぢ』時代を含めて、私がポトナム短歌会に入会する一九五九年までは、篠山の義姉の醍醐志万子に選歌の担当を依頼することになった。
選歌の基準と採録の基準
最近、物置から、この『ポトナム』と提出した選歌用紙の複写もあらわれた。雑誌の複写は、作業終了後、私が個人的に依頼した複写の複写である。こんな依頼をも快諾、編集部の度量に感謝した。しかし、見開き二頁のB4版での薄い表紙の仮製本、あるいは固い黒い台紙を付けての紐綴じもある。どちらも、持ち運びや保管には苦労が多い。選歌用紙の複写を眺めていると、私が毎年ポトナムの全国大会に参加していた一九六〇年代から十数年の間にお会いしている人たち、あるいはお名前しか存じ上げない人、ポトナムを離れたかつての同人たち、ポトナムの有名・無名の先人たちが次々と立ち現れ、語りかけてくる。すでに多くの方々が故人になられた。まだ三十代だった私の選歌力に疑問は多いものの、多くを学びながら選んだ作品であった。
夥しい類歌の中から、時代ごとの事件や戦争・戦局に密着した短歌を選ぶこと自体難しかったが、当時の私は、むしろ、時代を問わず、人々の心に残る自然やいのちの大切さ、相聞や家族への愛などを詠んだ作品に心惹かれていたので、そんな思いが反映する選歌となった。だから、他の選歌協力者の場合を知らないが、採録率、収録率はけっして高くはないだろう。私の検索調査によれば、昭和一五年(一九四〇年)は七三首中の七首であり、一六年七七首中の九首、一七年七三首中の三首、一八年七三首中の三首、一九年一八首中ゼロという採録結果であった。労多くして実りの少ない仕事であったかもしれないが、私には忘れがたい人々の忘れがたい作品の数々であった。
まず、年ごとに、『ポトナム』から私が選んだ作品で、『昭和萬葉集』に採られた作品をすべて掲げた。他の選歌協力者による『ポトナム』誌上からの選歌か、本人の寄稿か、あるいは歌集などからの選歌によるものと思われる作品も掲載した。収載されなかったが、私としては、どうしても伝えておきたい作品の中から、一部ながら掲載してみた。その年の各月の『ポトナム』誌面の動向も紙面の許す範囲で伝えておこうと思う。掲載作品に居住地を付しているものは原誌面通りとした。かな遣いは原本のままとしたが、漢字は新漢字にした場合が多い。作品末尾に『昭和萬葉集』収録の巻数と頁を示している。表記は『ポトナム』の初出を優先した。
昭和一五年(一九四〇)(選歌七三、採録七、ほか二〇首)
①死ぬるべく召され征きたるわれ死なずわれを待ちゐし母
死ににけり(杉本茂・福井・二月)⑤246頁
②米内宰相いたくたしかに答ふれど戦ひ果つといつの日にいはむ
(平野紀久子・三月)⑤187頁
③日のなかの枯草原をあゆみあかぬ子の髪ときに光りて見ゆる
(栗林三次・四月)⑤252頁
④うちとりし首が吹きあぐる血の量をまざまざと言ふ友は戦ひを
(林翠・四月)⑤120頁
⑤昼の燈に曳く影もなき地下道の風がはかなき土のにほひす
(平松八重子・六月)⑤293頁
⑥購いし日を尋ねつつ次々に靴の切符をわたす放課後
(横山次夫・神戸・八月)⑤60頁
⑦幾度か人を征たすときききしうたいまわれがためうたひたまひぬ
(夏木孝明=斎藤孝明・一〇月)⑤76頁
紀元二六〇〇年にあたる一九四〇年、一一月には祝賀行事が続いた。『ポトナム』においては、小泉苳三が、四月に、従軍歌集『山西前線』(一九三八年一二月~翌年四月まで陸軍省嘱託として北支・中支に従軍)を刊行し、五月には立命館大学より国立北京師範大学教授の兼任となり、着任した。続いて『明治歌論資料集成』『近代短歌の性格』を刊行している。
四月に、編集所が福田栄一方に移り、栄一は七月刊行の『新風十人』に参加、歌壇への登場頻度は、他のポトナム同人に比して高くなり、女性では阿部静枝、板垣喜久子が、女性誌などへの活動の場を広げる。
『昭和萬葉集』第五巻には、私の選歌から上記七首が採録されたが、この年は、一月号からの採録が格別に多く、他の選歌協力者がかかわっていたのだと思うが、以下一六首に及んだ。
・総予算百三億の記事の上に夕刊売子が銅貨を置けり
(石川義広・一月)⑤44頁
・兵吾に捧銃してはばからぬ支那自警軍の歩哨を笑へず
(池之上哲志・一月)⑤170頁
・管制の病院の廊下あらあらと爆創の患者列なして行く
(南部繁三・一月)⑤166頁
・英霊車駅に入りつつ霧の底晒されて白き陽はありにけり
(林賢郎・一月)ほか計二首⑤106頁
・「土と兵隊」の映画見終へて帰る道なほ砲弾の音は遠くに
(池田富三・一月)⑤102頁
・胸部貫通にて血を吐く友のいやはての声はほそりつつ 天皇陛下万歳
(松山国義・一月)⑤13頁、ほか計三首
・幾万の精霊が瞼に顕ちかはりホロンバイルは初雪のふる
(鎌田純一・一月)⑤13頁ほか計三首
・国債購入に満たぬ代金は貯金通帳作れと勧むる己一途に
(田辺恒・一月)⑤43頁
・藁をあつめ寝ねたる宵の明け方に水漬きて久しき敵屍を見たり
(山根堅=酒井俊治・一月)⑤152頁
・いくばくを大陸へ輸送するトラックは土色に塗りて路上に構内に
(蟹谷栄一郎・一月)⑤182頁
・商ひの道にかへるははた何日ぞ職工としてあけくれをりぬ
(牛尾荒雄・一月)⑤212頁
・管制燈つけたるバスが昏れきらぬ舗道をゆけりいくだいとなく
(増田文子・一月)⑤241頁
さらに、二月号以降の『ポトナム』からの採録は、以下の八首であった。一〇月号、一二月号から採録されている斎藤孝明は、一九四六年福田栄一らが創刊した『古今』に参加しているが、ポトナム時代は夏木孝明(一九一三年生)の名であった。『昭和萬葉集』には、おそらく自ら応募されたのだろう。
・北支那の果の守りに故郷のさらら粉雪恋ひてかあらむ
(鈴木琴三・二月)⑤100頁
・面会をゆるさるる身の身の冷えは営庭に子を抱きあげていま
(中村芳夫・二月)⑤129頁
・子を遠く征かしめ給ふここの家戸口調査に来て長居しつ
(坂本清八・二月)⑤189頁
・スパイ展観て来し我等屋上より防波堤にしぶく荒潮を見ぬ
(田辺善雄・四月)⑤182頁
・読み終へし召集電報は食膳にのせ置きしまま夕餉を終る
(斎藤孝明・一〇月)ほか計三首⑤76頁
・耳鳴りを残して空に裂くるまで唸りゆく弾丸の信管二十四秒
(斎藤孝明・一二月)⑤145頁
昭和一六年(一九四一)(選歌七七、採録九、ほか四首)
①戦盲の面晴ればれとあゆませりおそるるごとくわれの行き過ぐ
(井関君枝・二月)⑤115頁
②二月尽る日のひとときの日本橋川に海苔運びたる舟並らび居り
(蟹谷栄一郎・四月)⑤293頁
③みもしらぬ鮮人と吾と車室にてひとつ世ごとを語りてをり
ぬ(矢部潔・五月)⑤187頁
④ノモンハンの砂丘を駆けし甥が今畳の上にて静かに語る
(本間龍二郎・六月)⑤12頁
⑤谷路を吾に代りて父のみが担ひて登る吾が児の柩
(田辺恒・八月)⑤253頁
⑥勝ちたるものがきびしく疲れゐて喜々とする捕虜の群を守り佇つ
(西海愛彦・八月)⑤152頁
⑦征く夫と夜汽車にひと夜めざめゐてあかときとほき街に降りたり
(川崎京子・鹿児島・九月)⑤78頁
⑧この駅に夜を明かすなる軍馬らは夜更けて貨車の床蹴り止まず
(上村悟郎・新宮・一二月)⑤90頁
⑨軍人に導かれ来る一隊の遺族の群をつつしみて避く
(薩摩光三・一二月)⑤106頁
この九首のほか『ポトナム』からは次の四首が採録された。
・黄塵の中行く馬車の鈴の音とはげしき鞭の音遠ぞく
(林田壽・一月)⑤233頁
・身の冷えを山小屋の炉に温めつ霧濃くなりぬ今号の峰は
(首藤清・一月)⑤241頁
・汽車の窓にあさのひかりはさしてきぬ英霊をいだくわが手にとどき
(桑原一・三月)⑤106頁
・血を売らん人等相寄る病室の窓に明るき陽かげ動かず
(中村静子・四月)⑤241頁
この年の四月号は、創刊二〇周年記念号で、「思い出のアルバム」を掲載、夕潮賞新設、苳三歌集『夕潮』鑑賞の連載が開始する。一月号「ポトナム前線譜」には酒井充実、只野幸雄、馬場久枝がエッセイを寄せ、七月号では合同歌集『戦線の夫を想ふ歌』、『歌集・朝鮮女流六人集』を阿部静枝、板垣喜久子が紹介している。また、二月号には、福田栄一を中心とする若手・中堅の同人たちによる「青芽会」の発足が報じられている。この年の六月号まで、表紙の女性像を描いた荒谷直之介は一九九四年亡くなるまでの二四年間、私の住まいのある佐倉市に住んでいた画家で、二〇一二年には、市立美術館で彼の水彩画展が開催されるという。
一九四〇年、一九四一年を対象とする『昭和萬葉集』「第五巻・昭和十五年・十六年」には、『ポトナム』誌以外の雑誌や歌集などから二一首、森岡貞香、片山貞美(未刊歌集『手鉤と鉛筆』)、小泉穂村(『相模野』)、落合実子、松山国義、(『ポトナム歌文集』)、石黒清介(『樹根』)、福田栄一(『時間』)、小泉苳三(『くさふぢ以後』)、湯川良武(『紙の椅子』)らの作品が採録されていた。
昭和一七年(一九四二)(選歌七三、採録三、ほか一首)
①冬のうちに盛りたる壕の陵線ははや限りなき草けぶるいろ
(夏木孝明・中支○○部隊・五月)⑥133頁
②夕茜淡く残れる濠の面水雛は岸にかたよりて見ゆ
(瀧菁子・東京・八月)⑥274頁
③ジョホール水道の岸に憩へる住民等すでに釣糸などを垂せる
(熊沢義太郎・一〇月)⑥31頁
前年一二月の真珠湾攻撃による開戦を踏まえて、一月号の巻頭の「誓」では「十二月八日、畏くも米英に対する宣戦の大詔が渙発せられた。・・・短歌行動の一切は聖戦目的の貫徹にあることを更に深く決意するものである。ポトナム短歌会」と述べられ、「職域挺身隊 歌と感想」と題して、各所の行政現場、各種の教育現場、工芸家など同人からの「現況と覚悟」が語られていた。二月号の「職域宣言」へと続く。三月号には「萬歳、シンガポール陥落」の特集として四六人の同人が一・二首寄稿している。巻頭には小泉苳三「シンガポール今ぞ陥ちたり日本のゆく手さへぎる一つとてなし」がある。四月号は、創刊二〇周年を記念した「夕潮賞」と「ポトナム賞」の受賞発表がなされている。夕潮賞には”支那事変短歌”歌集『大黄河・酒井俊治篇』(弟、酒井充実との合同歌集)が、ポトナム賞には増田文子作品が選ばれた。『大黄河』研究号と表題紙に刷り込まれ、同人九名の批評がある。
・船艙に佇ちあぐみたる軍馬の背一つひとつがあはれにおもふ
(酒井俊治)
・花ならばくづれをれしまま咲きてをり秋風より勁からむとす
(増田文子)
五月号には、「戦線の友に送る手紙」の特集が組まれ、国崎望久太郎(吉田英夫へ)、片山貞美(佐藤謙へ)、下條寛一(酒井充実へ)堂山京子(夏木孝明へ)井関君枝(原五男へ)、矢部潔(井上常吉へ)、田辺善雄(白井通へ)、東田喜隆(池之上哲志へ)、栗林繁行(中俣潮へ)が登場している。また、ポトナム人初めての戦死者ということで「陸軍軍曹 水田晶昭和一六年一二月一二日 ○○戦線にて戦死されました」の訃報が掲載され、七月号を追悼号とし、未刊歌集『「素材」抄』が一挙収録されている。以降も翌年まで毎月遺作の掲載が続いた。五月号には、入会されて間もない唐津ふじさん(釜山)が国崎選歌で「ひたぶるに斜面を駆ける兵ありてやがて大きく信号旗振りぬ」を発表している。
この年になると、『ポトナム』誌上の余白には「戦ひ抜かう大東亜戦」「国を護つた傷兵守れ」「貯蓄は兵器だ 浪費は敵だ」などの標語が掲載されるようになり、六月号には、頴田島一二郎が「短歌部会の構想」と題して、大日本歌人会が発展的解消をして「大日本文学報国会短歌部会」となった経緯を記している。
二〇一一年七月に亡くなられた中村寛子さん(一九二三年生) が、旧姓の美浦寛子の名で入会された旨が、この年の九月号の社告に報じられている。紹介者は「(君島)」と記され、未成年の若さであったことがわかる。以降、京城支部歌会には毎回、名を連ね、作品も小島、国崎、田辺らを選者として発表されている。その当時の作品をここに留め哀悼の意を表したいと思う。当時の京城支部には、百瀬千尋、掛場すゑ、君島夜詩がいらして、政原峻が事務方を担当していたようで、十数人の名前が見える。中村さんには、一九六〇年代、私の学生時代から東京を離れるまでの十数年、東京ポトナム、『閃』で文字通りお世話になった。理知的で、行動力のある大先輩として親しくさせていただいておりながら、私が東京の歌会に出ることがなくなって、最近では、電話や手紙のやり取りだけになってしまっていた。
・かげりゆく夕映の空仰ぎつつ坂のぼるとき街灯つきぬ
(九月・小島清選六首)
・秋の真昼白々と広き道の上を揺れ来るバスは影ひきにけり
(一一月・国崎望久太郎選五首)
・まろやかにすみ声合せ子らの歌ふけふの君が代十二月八日
(昭和一九年三月・田辺杜詩花選四首)
昭和一八年(一九四三)(選歌七三、採録三、ほか一首)
①死のきはの兵が微笑に光りたちやさしき母の声よばはりぬ
(渡辺直吉・三月)⑥152頁
②八月の荒き光り耀ひつつ風野の中を砲車進みぬ
(花岡辰男・九月)⑥137頁
③兵我れが別るるまでの三日間は少女にやさしき想よせけり
(佐藤謙・一〇月)⑥148頁
私の選歌では以下のような作品が採録されていなかった。
・ふつと馬が耳をふるはせてそばだてぬあやふく弾は過ぎにけらしも
(吉田英夫・中支○部隊・一月)
・野面吹く夜の風いたし背負ふ子の咳続くるをききたへてをり
(田中元治・二月)
・片時もとどまらぬ意欲に育つ子の言葉とならぬ声を立てをり
(松田加代・二月)
・一椀を軽くよそひし黍の飯こよなき味をかみしめて食ふ
(陳幸男・朝鮮・二月)
・モンペはける児もまぢりをる教室にフリージヤの香のただよひてをり
(畑間イヨ子・小倉・三月)
・あかあかと宿舎どよめくは今宵又少年工の兵となるらし
(大平三次・一〇月)
・征旅なる夫を思へば心清く木炭バスに吾がゆられをり
(小口稔子・一〇月)
・軍列の草踏みゆける道にまだ兵のにほひがほのかにただよふ
(唐津ふじ・一〇月)
福田栄一の編輯便では、「決戦の年である」「短歌は武器である」といった「檄」が飛ばされるが、八月号などは、紙質が悪いのか、コピーでは判読しがたい頁が続く。九月号の消息欄には、大井次家、由藤清戦死の報が載る。そして、一一月号は、全体で八頁、作品は小泉苳三、福田栄一、頴田島一二郎三人一頁のみ。編輯便は「待望の国内決戦態勢が確立された。一億すべてが決戦配置につく秋が来た」で始まり、最後には、本号の体裁は「紙の都合、印刷の都合、その他の都合による」とあり、風雲急を告げる編集ぶりが伝わってくる。
一二月号の編輯便には国崎望久太郎、松山国義、片山貞美、林翠が「光栄ある任務に就いた」とも記されていた。
昭和一九年(一九四四)(選歌一八、採録無し)
「昭和萬葉集」へ一首の採録もなかったが、私の選歌からその一部を記しておきたい。
・ほのぼのと胸に沁みゐる夕つ陽よわれも戦ひの中にある身で
(大井文代・一月)
・学園もすでに兵舎ときほいつつ今朝学生の起居さやけし
(奥村三舟・一月)
・風中に痛みすがしくのこるとき海に近づく街昏るるなり
(三宅あき子・一月)
・そら色は嘆きをもたず反転の機翼光りて雨に飛翔す
(水谷富美子・東京・二月)
・戦ひの中にめとられ嫁くわれか胸熱くして縫ひつづけたり
(堂山京子・東京・二月)
・民われを生かすと賜はる配給の肉も喰い得ぬわれの衰へぬ
(叶多重雄・奉天・二月)
・折々にくづれし壕をいたはりて厳しきくにの護りに答ふ
(島田融吉・大垣・二月)
・木づれ音身近くあれば再び職につかせし妻おもひ居り
(只野幸雄・東京傷療・三月)
・未帰還機の轟きこえくるがに映えゆるぎなしもみじくれなゐ
(高橋鈴之助・東京・三月)
・弾痕にくぼみし大地のそのままに草萌えにつつ季移ろひぬ
(内藤淑之・濠北派遣・三月)
・いづ方の戦野に振らるる日の旗か名を記しつつまみ熱くす
(内山喜三郎・新潟・三月)
・張りかへし明り障子に月影のしづけき夜を国は戦かふ
(吉川紀美枝・大阪・三月)
・忙しき嫁の務に熱高き子をみとりせず逝かせけるはや
(鈴木治子・千葉・三月)
一月号は全体で五〇頁という薄さである。四九頁には「大東亜戦争完遂を祈る」と九九人の同人が居住地とともに名を連ねる。所属部隊の所在が明記できない成迫今朝男、南部繁三、夏木孝明、片山貞美の四人、外地では、朝鮮・京城・釜山、大邱などの一〇人、北支、哈爾濱、中支、新京などから五人、樺太:工藤誠、台北・台南:樋詰正治、池之上哲志、長嶋實と各地に散らばる。三月号をもって『ポトナム』は予告もなく休刊、『アララギ』と合併する。消息欄には「苳三先生長男清君が一月上旬朝鮮の部隊に元気に入隊」とあるが、小泉清は翌一九四五年二月八日戦死したことは後に知らされる。
・再びはあるひはふまぬ百里のこれが土かもふみて歩むも
(小泉清・二月)
・甥一人すでに征かしめし戦列に今日亦吾が子をたちて征かしむ
(小泉苳三・二月)
・明らかにすすむ軍のさきがけとひそかに海を渡りおほしぬ
(森岡貞香・二月)
・街空の上のこごしき雲透し唄ふ軍列雪とどまらず
(唐津ふじ・二月)
『昭和萬葉集』「第六巻(昭和一六年~二十年))の対象範囲では、小林勝子、篠原杜子城(『兎の道』)、片山貞美(未刊歌集『手鉤と鉛筆』)小泉苳三(『くさふぢ以後』)石黒清介(『湘潭にて』)新津亨(『涓流』)福田栄一(『この花に及かず』)らの作品が一三首採録されていた。石黒清介さん(一九一六年生)は、一九五三年短歌新聞社を興し『短歌新聞』を創刊、後には『短歌現代』も創刊、戦後短歌ジャーナリズムの推進役となった。『ポトナム』には一九三四年に入会、本名石黒清作の名で活躍、一九三八年に出征されている。昨年末、短歌新聞社解散の報は、実に衝撃的であった。当時の作品は、青年期のみずみずしさと沈着さを併せ持つ作品に思えた。
・光りつつ河を渡りてくる雨の雨脚やさしつかれたる眼に
(石黒清作・栃尾・一九四〇年一月)
・続けざまに撃ちたりしかば砲身は手もふれがたく焼けにけるかも
(石黒清介・『湘潭にて』一九六七年)⑥128頁
今回の検索調査は、私が選歌を担当した一九四五年以前と一九六〇~一九七五年までの間の一九四〇~四五年までのわずか六年間にすぎない。『昭和萬葉集』編集方針として、結社誌の選歌が複数というのはむしろ例外で、個人歌集や合同歌集からの選歌、本人の応募などにより補完はされるものの、選歌者の責任は重大であった。一九四五年以前の昭和前期についていえば『アララギ』からの採録が圧倒的に多く、他結社の作品が添えられているといった印象すらあった。
今から思えば、私の選歌の姿勢が、『昭和萬葉集』の編集方針にもう少し寄り添ったものであったら、少しは採録率も違ったものになったかもしれない。しかし、当時の私は、太平洋戦争下の指導的歌人たちが、熱に浮かされるように戦意高揚の短歌に傾いていく中で、多くの短歌作者や短歌愛好者が詠んだ短歌、日常生活や自然の営みに根ざした作品、人間の感情や機微に突き動かされた作品に、着目したかった。「機会詩」としての要素がやや後退したような作品を選ぶ傾向にあったことは否めなかった。痛ましいものからは目をそらしたかったのではなかったか、忸怩たる思いも残る。
この時代の短歌を読んで思うのは、天皇や軍部、政治家やメディアの戦争責任は重大なものであり、一握りのりの指導的歌人たちの責めも同様に重かったということだった。しかし、多くの短歌作者たちが一様に誰もが一生懸命だったし、善意の国民の一人に過ぎなかったというだけで、ただちに責を免れるとも考えられない。
福島の原発事故を考えてみても、多くの国民が無関心であったことが、これまでのエネルギー政策、原子力発電行政を支えてきたに違いない。私自身も心は深く苛まれる。今からでは遅い。遅いかもしれないが、その悔しさをバネに、今の自分ができることを果たしていきたいと思う。
(『ポトナム』2012年4月号収載)
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