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2012年6月28日 (木)

最近の女性歌人評伝について~『ポトナム』7月号「短歌時評」に書きました

 最近読んだ女性歌人による女性歌人研究の中で、力作と思われたものに今野寿美による『山川登美子歌集』の「解説」(岩波書店 二〇一一年一二月)があり、古谷鏡子著『命一つが自由にて~歌人・川上小夜子の生涯』(影書房 二〇一二年二月)がある。前者は文庫本の編者による解説なのだが、年譜・解題を含めると六三頁を超える評伝になっていた。後者の著者は小夜子の次女で詩人、身内ながら、節度のある筆致とその資料的な検証が確かな評伝であった。
 
ひるがえって、『ポトナム』の礎を築いた歌人たちの歌人研究や評伝といえる単著は少ない。記念号や追悼号に収録される伝記的な論稿やエッセイは、近・現代短歌の歩みが、より鮮明になって、親しみやすくなる。今、私の手元にあるもっとも古い記念号は、四五〇号(一九六三年一〇月)だが、昭和・平成初期のものと比べると、近年は、そういった論稿やエッセイが少なくなったように思う。他の結社誌ではどうだろうか。といっても、創刊した歌人や主宰の歌人のオマージュのみで埋め尽くされ、宗教団体か、株式会社かと思われる様相を呈することもあるし、身内や〈愛弟子〉の筆になるものは、身贔屓に過ぎることもあり、用心が必要な場合がある。
 
歌人の伝記や評伝とは何かと問われると、なかなか難しい。短歌という私性の強いジャンルだけに、歌人研究、作品鑑賞との境界が曖昧である。一〇〇〇号を前にして刊行された『ポトナムの歌人』(晃洋書房 二〇〇八年)は、佐佐木幸綱が記すように、ポトナム歌人列伝として好企画ではあったが(創刊九〇周年記念号)、さらに分け入りたい読者には参考文献などを示した方がよかった思う。
 近年、『ポトナム』誌上で、興味深く読んだのが、冒頭の記念号の松田和子による「歌人百瀬千尋の絵画的視線」(一〇〇〇号)「百瀬千尋の軌跡(二)」(創刊九〇周年記念号)であった。著者は、小泉苳三とともに京城でポトナム短歌会を創立した百瀬千尋の長女百瀬桂の子女で、千尋の孫にあたり、星陽子は叔母であるとの自己紹介がある。彼女は、美術史専攻の研究者で、近著に「シュルレアリズムと〈手〉」(水声社 二〇〇六年)がある。さらなる千尋探求を楽しみにしている。
 
やや旧聞に属するが、菅原千代(筆名青木千代乃)による『歌人・阿部静枝とその精神性―短歌作品に見る近代性について』(saga design seeds 二〇〇八年、放送大学修士課程論文とのこと)が出版された。阿部静枝研究の初めての単行本ではなかったか。 著者は、『綱手』の古くからの会員で四冊の歌集を持ち、宮城県栗原市に住む。彼女にとって郷土の歌人でもあった「歌人、随筆家、評論家、政治家として多才であった阿部静枝が、没後三十四年となる現在ほとんど顧みられないのは何故か」がその出発点であったという(同書三頁)。阿部静枝の短歌との出会いは、東京女子高等師範学校時代の尾上柴舟・『水甕』であったが、一九二〇年、仙台の高等女学校教師時代における石原純と『玄土』との出会いが短歌開眼であったと自筆年譜に記している。その『玄土』掲載作品を、私は本書により初めて読むことができた。本書の核心は「第四章歌人・阿部静枝の短歌に表白される精神性」(三七〇~三七三頁)であろう。第一歌集『秋草』への道を『玄土』『水甕』『ポトナム』『橄欖』の掲載作品から考証する部分は興味深いが、錯綜する。もう少しわかりやすい構成にならなかったか。また、先行研究文献の紹介・引用が明記されていないのが、本書の独自性を明確にするためにも残念なことだった。著者の次の課題、「林うた(阿部静枝当初の筆名)歌集・青春編」編集に期待したい。(『ポトナム』2012年7月号所収)

 

 

 

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2012年6月27日 (水)

初めての国立国会図書館関西館へ~小展示「日本の詩歌」

  最近は、OPACの機能も一段と拡充したので、東京の国立国会図書館へ出かけることもめっきり減った。その代り、ネットで複写申し込みをし、関西館からの複写送付も多くなった。東京本館への交通費もバカにならないからとても助かっている。といっても、出かけて調べたり、資料を実際に閲覧したりすることによって、情報がいっそう確かに、いっそう広がることを思うと、便利さを喜んでばかりいられない。
 私の参加しているポトナム短歌会の全国大会が神戸で開催されたので、約30年ぶりに参加、いろいろと感じるところもあったが、感想などはまた別の機会に譲ることにして、今回は、その帰りに京都近郊の精華町にある国立国会図書館関西館に寄ったときのレポートとしたい。図書館のHPで小展示「日本の詩歌」が始まったばかりなのを知った(621日~717日)。展示のイメージ、展示のコンセプトがわかりにくかったので、思い切って京都駅で途中下車、近鉄奈良線急行で約30分余。途中、桃山御陵前という駅があり、30年も前に連れ合いが単身赴任で3年間ほど住まっていた団地があった場所、私も娘と一緒に名古屋から何度か通ったのでなつかしい。宇治川と木津川を渡り、新祝園(「しんほうその」と読むらしい)で下車、バスの便があるというが、まずは車で980円。あたりに広がる田園風景の中に延びる広い道路、街路樹や緑地帯の樹木はまだみな若い。左右には点々と研究所や会社名を付した建物が車窓をよぎる。 

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 銀色の全面がガラスのように見える細長い建物、アプローチの左右には、片側に芝を張り付けた窓が大きな波を打つ。オープンして今年で
10年ということだ。カウンターでは、利用者カードの形式が今年の1月変更になったので、更新をとのことだった。分かりやすいパスワードを自分で自由に指定できるのがありがたい。従来は、検索や複写のたび、図書館から与えられた数字とアルファベットのパスワードを覚えられずに閉口していたから。

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 目当ての展示「日本の詩歌」、チラシやポスターには、例の正岡子規のあの横顔の写真が大きく配され、右側に「古今集はくだらぬ集に有之候」、左側に「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」とある。展示は、1階の窓側にガラスケースとテーブルに並べられていて、細長い。リストによれば展示資料は
101点、すでにデジタル化した資料はガラスケースに、新しい資料は、手にとってみられる展示になっている。大きく短歌・俳句・漢詩・近現代詩というジャンル別になっているが、デジタル化された古い資料はケースの中だから、ジャンルでつながるわけでもないし、展示の順序がわかりにくい。資料の刊行年でもないし、初版、復刻版、全集などが入り乱れている。ジャンルの通史に沿うものでもない。


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現代短歌では、中城ふみ子、塚本邦雄、寺山修司、岡井隆、馬場あき子、奥村晃作、永田和宏、河野裕子、俵万智の歌集などが登場、筑摩の『現代短歌全集』、『昭和萬葉集』『角川現代短歌集成』、『アララギ』の終刊号、短歌総合誌『短歌』『短歌研究』『歌壇』が並ぶ。これをどう受け取るべきか。
 「詩歌」で括るより、やはり、ジャンル別の方がわかりやすい。また資料に付された、刊行年が、西暦と元号表示が入り混じっているのはどうしたわけだろう。

 時間があれば、最上階のカテフェリアなどでゆっくりしたかったのだが。

「日本の詩歌」については以下を参考に。 http://www.ndl.go.jp/jp/event/exhibitions/1194813_1376.html

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2012年6月17日 (日)

「高橋由一展」に行ってきました

 東京への所用ついでに、東京芸大の美術館で開催中の「高橋由一展」に寄った。動機は、きわめて個人的なものだが、やはり再会したい作品があった。
 
きょうは、日暮里で下車して、紅葉橋をわたり、紅葉坂を進み、ゆっくりお参りしたいお墓もあるのだが、谷中墓地の桜並木の道を通りぬけた。残念ながらカメラを忘れていることに気づき、ケータイしかない。上野桜木町も味わいのある街なので、いずれゆっくり回りたいが、きょうは急ぐことに。
 
東京芸術大学の左右の音楽学部・美術学部の正門には国旗が立っているが。きょうはなんの日? 近辺は、もう「鮭」尽くしのチラシやのぼりや看板で賑わう。展示は、プロローグのほか5つのコーナーで、2会場に分かれている。やはり圧倒的に高齢者が多い。


①油絵以前
②人物画歴史画
③名所風景画
④静物画
⑤東北風景画

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門を入って正面の案内板 

 私たちの小中学校時代の図工の教科書に高橋由一の鮭の絵は載っていたか。まだ、カラーの教科書ではなかったし、記憶が定かではない。手元の私が使った日本史の教科書には、黒田清輝「読書」はあるが、「鮭」はない。今回は、④コーナーで芸大所蔵、重要文化財の「鮭」(1877年頃)のほか2枚が展示され、人垣ができていた。そのリアルな克明さに、当時の人々の間でも評判だったらしい。山形県、現在の村山市の在の「伊勢屋」の「鮭」が出品されている。制作年がはっきりしないが、由一が1887年に伊勢屋に滞在していたことははっきりしているとのことである。東京芸大の新巻き鮭は右向きだが、後者は反対向きにつるされ、同様に片身の頭部寄りが削いであるが、前者の方は皮が銀色、後者は金色のためか、全体が明るく見えた。

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入場券にレイアウトされた、重要文化財、東京芸大所蔵の「鮭」

 きょうの目当ては、山形県令三島通庸が高橋由一に描かせたという栗子隧道開通の絵だ。コーナーの③にあるのか、⑤にあるのか。名所風景画のコーナーには、なじみのある名所が明治時代の実景を彷彿とさせて興味深い。「国府台真景」(1872年)は、1873年のウィーン万国博覧会に出品したというし、江の島や隅田川もそれぞれ複数あって、当時の様子がよくわかる。「愛宕山より品川沖を望む」(1877年)では、かなたに姿は見えない蒸気船の煙だけが細く描かれ、「芝浦夕陽」(1877年)には、帆を畳んだ小舟のシルエットが右手前面に大きく描かれ、沖の夕映えを際立たせていた。埋立ての始まる前の光景である。
 
目当ての作品は「栗子山隧道」と題され、トンネルの中から、そのおおきな開口部の向うに見える山なみと隧道を出て行く人々の後ろ姿をシルエットで描いたものだ。そうだ、これだったのだ。私が若いころ勤めていた国立国会図書館の書庫の壁に無造作に立てかかられたのを見たのだった。1970年代だったか、私が属していた課の「憲政資料室」で整理中だった「三島通庸文書」の中に、この作品も入っていて、図書館としては、その保管に苦慮していたらしい。詳しい経緯は、もう思い出せない。私たちの課の課長と東京国立博物館の担当課長が何度かの話し合いの結果、博物館に引き取られることになった。
 
当時の博物館の担当課長が、「かな」の書、古筆学の研究者でもあった小松茂美氏で、その風貌にも接することができたのだった。いよいよ博物館に引き取られる日が決められたので、私たちの課の職員は、書庫の隅で初めて、この作品に出会い、そして見納めることになった。ただ、この一枚でなく、もう一・二点あったように思うのだが、どんな絵だったかが思い出せない。今回、東京国立博物館から出品されている「最上川舟行」であったような気もするが、これも定かではない。「最上川舟行」は、険しい崖が切りたつ川に一艘の小舟が配される、日本画のような構図である。右側の崖の中腹には、開通した新道が筋となって描かれている。説明を受けないと分からないほどだった。由一がほんとうに描きたかったのは、最上川の小舟の方ではないか、との解説もあった。記録としての絵画の域を超えたメッセージが込められているのも、今回の⑤コーナーに見るような夥しい数の写生や石版画下絵などの営為があったからこそとも思う。
 「栗子山隧道」は、1881年、明治天皇の栗子山隧道開通式への巡幸の際、飾られた絵の一枚で、この年、暗殺された大久保利通の肖像画もあったという。今回、「大久保甲東像」として、②コーナーに展示されていた。
 三島通庸(18351888年)は、栃木、福島、山形の県令を歴任、いまでいう県知事となり、相当強引な「鬼県令」として有名で、警視総監の在職中に亡くなっている。土木工事に力を入れたが、重税・労役で県民の抵抗にも遭う。加波山事件の河野広中を投獄、自由民権運動を弾圧したことでも知られる。
 道路建設は、江戸以来の最上川経由の船運依存から陸路を開き、東京との物流に貢献したが、19世紀末、鉄道の開設により一時衰退した道路も、自動車の普及により、1930年代の昭和の大改修、1960年代の高速道路建設を経て、現在に至っている。

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上野桜木町の和菓子屋さん

 

作品「栗子山隧道」は、次のサイトで見ることができます。

http://correlative.org/exhibition/antinomie/zuidou.html

ANTINOMIE展

http://www.jice.or.jp/jishu/kokudo/200806160/product/012.html

財団法人国土技術研究センター

http://www.pref.yamagata.jp/ou/shokokanko/110001/him/him_13.html
山形県のホームページ

 

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2012年6月15日 (金)

副市長辞任と航空機騒音と~佐倉市6月定例市議会傍聴記~

  市議会の一般質問は4日間続く。市議会ウオッチの市民グループの方々は、すべての傍聴を続けている。私にはその体力も気力もなく、申し訳ないけれど、時折出かける程度だ。今議会における私の関心事は次の2件。 

1.副市長辞任の真相 

どうしても気になったのは、あまりにも突然だった鎌田副市長の辞任の経過であった。530日の本ブログ記事にも書いたとおりである。蕨市長は、自らの提案で、条例を改正してまで市長二人制を成立させた直後に、任期3年を残しながら「一身上の理由」での辞職願をあっさり受理した件である。それだけでも理解しがたいのに、辞職願提出の5月1日前後に、そういえば、一市民の私にもいろいろな情報が入ってきた。これは噂ではなく、鎌田前副市長と市民グループとの懇談の席では「辞任は私の本意ではない」と発言している(私はこの会には出ていないが、レポートが届いている)。直接話した複数の市議会議員たちの発言からは、副市長二人制の市長提案自体に、鎌田副市長は反対し、2期目に入った蕨市長からは疎まれるようになったという事実が明らかになった。 

一般質問の初日には、3人の議員がこの辞任経過について質問している。私は、二人の少数会派の議員の質疑を聴いた。市長は、すでに全員協議会で「一身上の理由での辞職願が出されたとき、慰留に努めたが、辞意は固かった」という説明をしたという。O議員は、今年の41日から、文書決裁の内規の変更により、従来からあった副市長決裁を不要としていた事実を通知文書により指摘した。また、51日 の辞職願提出の記事が5月3日の朝日新聞だけが報じた経緯についても質問した。前者への答弁は、結局明確ではなく、辞職願提出前の「副市長排除」が明らかになった。新聞報道については、新聞社はニュースソースを明らかにしないので、市としてもどこから漏れたか調査中である、という総務部長の答弁だった。受理は59日なのだから、「辞職願」が出た段階で知りうる人間が朝日新聞にリークした構図は明らかで、辞職の既成事実を固めたかったのだろう。しかも連休中に。 

もう一人のK議員は「鎌田副市長は5月末日辞職、二人目のはずの国交省の天下り副市長は7月就任予定で、6月は副市長ゼロの空白である。それでも市役所は十分回っているではないか、副市長はそもそも不要でスリム化できるのでは」と切り出した。また、「一身上の理由」とは「都合のいい、わけありの理由で、いろいろな噂も飛び交っているが、真実はいずれ判明するだろう」ということで、おそらく、市議のほとんどは承知している、市職員の多くは知っている事実を明らかにしないままだった。どうしてそうした事実をもって、市長や部長たちを質さないのだろう。「行儀のよい質問」ではあるが、それが私にはもどかしかった。

ある多数会派の市議は、自らのブログで「男と男の別れ方はむずかしい?」との疑問を投げかけているが、茶化すような問題なのか見識を疑う。鎌田副市長の行政マンとしての評価とは別の問題で、市役所というところは、一人の人間を明確な理由なしで辞任に追い込むことができるおそろしい組織だということが分かった。

 

2.佐倉市上空の航空機騒音について 

 これも、一昨年、20101021日の羽田空港の国際化に伴い、佐倉市上空を通過する航空機騒音が増幅した問題である。佐倉市上空を通過する航空機は、北陸・東北・北海道からの着陸便で、とくにうるさいのは、4000フィート(約1300m)での通過である。ルートは、風向きと天候によって異なり、春から秋にかけて、南風の時は、この低空で飛ぶ。さらに、悪天候のときは、南・西方面からの着陸便が加わり、朝の6時から夜の11時まで200機以上が通過する。少ないときでも120機前後が通過する。昨年同様、今年も節電を余儀なくされ、夏の夜の10時~11時まで、窓を開けて就寝という人も多いだろう。20機近く飛ぶということは、3分に1機、騒音の絶える時がない。真上に来たときは相当の轟音になり、テレビの音が聞こえなくなることもある。これは羽田空港事務所の調査と私自身の目視調査・体験によるものなのだ。なお、北風の時は、高度が8000フィートだから、屋外ではかなり聞こえるが、家の中だと気にならない程度である。だから、高度を上げることと、コースの分散化が急務と言えるのだ。 

 一人会派のT議員は、議長の指名に元気よく「ハイ」とまるで小学校1年生みたいに手を上げて答えるには閉口した。そう、彼は1年生議員だったのだが。「私も調べさせていただいたところでは」と妙なところで丁寧なのだが、その調べがまだ甘い。おそらく、他の議員や関心のない傍聴者には分かりにくい。前述のような実態を踏まえて、市民の安全と生活を守るべきだとの主張が弱い。T議員は、とりあえず佐倉市独自の騒音実態調査を迫るのだが、「そのつもりはありません」とにべもない。年2回の周辺市町村による協議会で佐倉市は国交省に何を主張してきたか。市の担当者と話したこともあったが、まるで他人ごとであった。これらの構図は、佐倉市の放射能対策にも共通するものではないか。 

 佐倉市は、いまは、成田空港の飛行ルートからは外れているが、新聞報道によれば、成田空港周辺の航空機部品の落下が増加しているという。また、佐倉市(志津地区)上空には、自衛隊の下総航空基地からの訓練機数機が週末以外は毎日房総沖への往復で、さらに低空の500mで通過する。多くの市民と多くの議員にも関心を持ってもらって、佐倉市に目を覚ましてもらいたい! 

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6月14日写す。数年前、鉢でいただいたアマリリス二株を地植えにしたところ、

毎年、美しい花を見せてくれます。


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2012年6月10日 (日)

「セザンヌ~パリとプロヴァンス」展にかつての旅を重ねて

  会期の終わり611日が迫ってから見に行くことになった。「セザンヌ・パリとプロヴァンス」展は、数年前パリと南仏を旅した折、エクス・アン・プロヴァンスからのバス旅行「セザンヌ、サント・ヴィクトワールの旅」にぶらりと参加したこともあって、見逃したくはなかった。この時は英語とフランス語に分かれてのガイドで、英語コースに入ったものの多くは聞き取れなかった!?
今回のセザンヌ展は、制作場所のパリとプロヴァンスに着目しているとのことだった。展示の構成は、初期・風景・身体・肖像・静物・晩年の6部構成であった。セザンヌは、生涯パリとプロヴァンスを数十回往復しているらしい。展示の作品には制作場所の別がオレンジと青色の〇記号が付けられている。
私は、さまざまな場所から、季節や朝夕を違えて描き分けられたサント・ヴィクトワールを確かめたかった。それにいつも何となく不機嫌そうな?セザンヌ夫人にも会いたかった。

赤いひじ掛け椅子のセザンヌ夫人、1877年(国立新美術館ホームページより)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/sezannuhujinnzou.pdf

今回は、サント・ヴィクトワール山の絵は4枚ほどで、

初期の部の①「サント・ヴィクトワールと水浴女たち」(1870年)

風景の部の②「サント・ヴィクトワール山」(188687年)

③「トロネの道とサント・ヴィクトワール山」(189697年)、

晩年の部の④「サント・ヴィクトワール山」(1902年頃)だった。

 

①は、いわゆる水浴図の一つである。

②は、エクスの北、アトリエに近い「レ・ローブの丘」からの新緑に映える山の姿が美しい一枚。セザンヌは晩年、この丘からこの山を好んで描き続けたということで、私たちの「セザンヌの旅」でも立ち寄った。アトリエから少し登ると辺りは公園になっていて、見覚えのある絵が、画家が描いただろう、その位置の三脚に飾られているという親切さであった。また、②は、少年時代から友人であったエミール・ゾラの好きな作品だったという。絵の近景として両端に松の木が配されているのは、セザンヌとゾラの友情の証、みたいな解説を聞いたことがあったが(「美の巨人たち」?)、そんな深読みをしなくても、十分魅力的な一枚だと思う。

サント・ヴィクトワール山1886-87年(国立新美術館のホームページより)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/nihonnmatu.pdf

 

③は、サント・ヴィクトワール山のかなり近いふもとの「トロネ」から描いていて、紅葉と緑の木々の向うの白い山の存在感に圧倒される。「セザンヌの旅」では、さらに山に接近した「メゾン・サント・ヴィクトワール」という新しい博物館と休憩所を兼ねたようなところで小休止したことを思い出した。

トロネの道とサント・ヴィクトワール山

http://dmituko.cocolog-nifty.com/toronekaranoyama.pdf

 

④は、その山の姿から、「レ・ローブの丘」での作品で、山の西側がやや陰りを帯び、山まで続く森は秋の気配がただよう一枚である。

 

また、少年時代の遊び場でもあった石切り場があるのは山の西側のビベミュス、今回の絵の中に「ビベミュスの岩と枝」(19001904年)というのがあり、赤い巨岩が重なり合っていて、晩年の作品ながら力強いタッチで、キュービズムの趣向が見えた。

2004年初秋の「セザンヌの旅」のスタートは、エクス・アン・プロヴァンスのド・ゴール広場で、最初に下車したのは、ここでも多くの作品を残している「ジャス・ド・ブッファン(風の館)」で、家族の別荘として利用していた屋敷である。その後人手に渡っているので、中には入れなかったが、庭園といい、館といい、立派なお屋敷だった。父の仕事を継がなかったセザンヌが、この別荘のために装飾画としての「四季」4枚を残していて、今回、初めて見たが、初期とはいえ、作風の違いが印象的だった。次に下車したのがアトリエで、観光客も多く、アトリエが雑然として、埃っぽかったことが印象に残っている。静物画に登場する壺やビンなどが並べてあり、卓上には、リンゴなどのレプリカがころがり、白いテーブルクロスなどがあしらわれていた。その庭園には、イスとテーブルが置かれ、木陰で一休みしていると、もう何匹かの猫がアトリエ出入り自由、テーブルの真中で好き放題の有様・・・。今回の展覧会では、このアトリエを再現したコーナーがあったが、なんか整い過ぎた感じがしないでもない。

 

約半日の「セザンヌの旅」だったが、その日は、アビニヨンのホテルに戻った。翌日は、マチス美術館に行きたくて、ニースまで日帰りという強行軍、あの頃はやはり少しは若かったと、近頃思う

 

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エクス・アン・プロヴァンスの朝市

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「セザンヌの旅」参加者配布パンフレット

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「セザンヌの旅」地図 参加者配布パンフより

 http://dmituko.cocolog-nifty.com/sezannunotabitidu.pdf

サント・ヴィクトワール山の岩肌迫る(アルバムから)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/yamasemaru.pdf

 

 

 

 

 

 

 

 

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近年のアンソロジーはどうなっているか~『ポトナム』6月号に書きました

 『短歌』四月号に「アンソロジーの功罪―短歌史に残すべき歌」という篠弘と永田和宏の対談がある。篠は、いくつかのアンソロジーの編集にかかわっている。刊行する以上は、まず売れなければならない、学生やカルチャーセンター受講生などのテキストとして利用されるには、価格も手頃でなければならない。選歌は、大方、故人は編者、存命であれば自選という方法が多いが、この自選は、作者の思い込みが強く、代表作が選ばれなかったり、改作がなされたりする場合もある、との話には興味深いものがある。
 アンソロジーといえば、近年では、朝日新聞に一九七九年~二〇〇七年に連載され、一九冊の岩波新書としてまとめられた大岡信の『折々のうた』、項目別や用語で検索できる『現代短歌分類集成―20世紀“うた”の万華鏡』(千勝三喜男編 おうふう 二〇〇六年)、『角川現代短歌集成』(全五冊 角川学芸出版 二〇〇九年)なども入るだろう。
筆者は、女性歌人の位置づけが知りたくて、アンソロジーを比較し、その一部を一覧としたことがある。いずれも収録歌人は編者が選ぶが、①は、収録歌人の生死にかかわらず、編者ないし他の歌人による他選が特色である。たとえば、岡井は斎藤茂吉・近藤芳美・玉城徹らの、篠は土岐善麿・大野誠夫らの選歌を担当し、他に菱川善夫、来嶋靖生、宮地伸一、大島史洋らが選出者として名を連ねる。収録歌人が六一名と少ないのに、他には見られない明石海人(篠選出)・伊藤保・滝沢亘(岡井)、相良宏(大島)らが登場する。女性歌人も一三人と数少ない中に生方たつゑ、三国玲子が収録されていることなどにも着目したい。編者の意図が明確に出ていると言えよう。また、収録歌人が世代的に幅広いのが④である。③は、姉妹篇「近代短歌の鑑賞七七」(二〇〇二年)と合わせると、収録歌人が最も幅広く、多い。改訂版『現代の歌人一四〇』では歌人を入れ替え、人数も増やし、小暮政次(一九〇八年生)から永田紅(一九七五生)まで、全員一律に各人二頁三〇首というのが特色でもある。この点、①②④では、歌人を三ランクに分け、三〇、六〇、九〇首前後としている。①は三段組みで活字が小さい分、さらに歌数は多い。
筆者は、少人数の歌会での現代歌人や短歌鑑賞に③を利用しているが、これらのアンソロジーは、読者にとって、短歌入門の一つの手がかりとして利用していけばよいと思う。
④も二〇一二年に出版社を変えて新版が出た。玉城徹が島田修二と入れ替わっただけで、窪田空穂(一八七九年生)から梅内美華子(一九七〇年生)まで変更はない。作品については、一部新たな歌集からも収録なされている。いずれのアンソロジーについても、編者の好み、結社・出自などが収録歌人や選歌を大きく左右している事実は当然ではある。それらは、いずれ短歌史上において評価されるだろうし、「歌壇事情」に流されない見識も問われよう。 

近年のアンソロジー一覧 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/kinnennnoannsorojiitirann.pdf

(『ポトナム』2012年6月号所収)

 

 

 

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2012年6月 9日 (土)

暗くて長い地下壕の不気味さ~館山、戦跡ツアーに参加して(2)

 「噫 従軍慰安婦」石碑 

 次に訪ねたのが、自衛隊基地の南の高台にある女性のための長期保護施設「かにた婦人の村」(館山市大賀旧海軍砲台跡、社会福祉法人「ベテスダ奉仕女母の家」により1954年設立、約3万㎡、収容定員100名)の一番高いところにある表題の石碑である。この施設の入居者の一人が1984年、自らの従軍慰安婦体験を日本人としては初めて告白、戦後40年経っても、アジア各地で亡くなった仲間たちは弔われもしない現実を前に、慰霊をしたいということで、建てられた碑だった。「日本人で初めて」の苦しくて重い決断が「噫(ああ)」につまっている。遺骨さえ収集されない兵士だけでなはなく、空襲の被害者にも、原爆の被害者にも、そして「名もなき女の被害者たち」にも、国は、政府は、どういう対応をしているのだろうか。原発被害者たちへの補償も遅々として進まない現在がある。 

 高台の樹林の間からは、館山湾の静かな海と現在の海上自衛隊二十一航空部と沖ノ島が見渡せた。

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一二八高地地下壕 

 「かにた婦人の村」のある砲台跡下の地下壕にも寄った。本土決戦が現実味を帯びた194412月には、急遽完成したと思われる地下壕である。赤山地下壕との大きな違いは、その構造にあり、掘った岩石の表面を金属製の網などを張らずに直接コンクリートを打っている部分が多く、逆に、壁の部分が軟弱で、今回の地震でもはがれたと思う個所があるということだった。赤山壕とは岩盤自体の違いもあるのか、むき出しの部分には、大きな断層が各所に見られ、水の浸出も多く、足元は滑りやすかったのだ。 

「戦闘指揮所」「作戦室」というコンクリート製の額が部屋の入り口に掲げられたまま残っている。作戦室隣の控の小部屋の天井には、精巧な龍の彫刻が残されているが、誰が何のためにとは、不明とのことだった。

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はがれおちた壁

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あちこちに見られる大きな断層

アリカ占領軍本土初上陸地点 

館山が戦略上重要な地点であることは、先にも触れたが、太平洋戦争敗戦直後にアメリカ軍が館山にアメリカ占領軍の上陸地点があったことを私ははじめて知った。194592日東京湾上のミズリー号において降伏文書調印式が行われ、93日朝、カニンガム准将下のアメリカ陸軍第8軍大112騎兵隊約3500名が上陸用舟艇により、館山空港基地高ノ島、水上飛行機滑走台に上陸したのだった。だがそれに先立ち、831日には第8軍のクロフォード少佐下の先遣海兵隊235名が東側岸壁から上陸していることもわかった(「戦争遺跡」2010年、愛沢伸雄『足もとの地域から世界を見る』2006年、いずれもNPO法人安房文化遺産フォーラム刊)。 

上陸地点は、いまは一部造船所になり、前の海にはカツオ漁の餌のイワシが飼われている筏用のものが広がり、夥しい数のトンビが舞う、変哲もない海岸である。残されている上陸時の写真はまるで映画の一場面のようだが、対岸の遠景の山なみの姿だけが変わっていない。

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「戦争遺跡」(NPO法人安房文化遺産フォーラム編刊 2010年)
 

花は、こころの食べ物~南房の花を守った女の力 

話は前後するが、ツアーのオリエンテーションの会場で、昼食をとった幸田旅館の女将が、和田町の出身で、ご実家の祖母が、太平洋戦争末期、花畑をイモや麦の食料の畑に転換せよとの命令に納得できず、山奥の畑で、ひそかに花づくりを続け、その種を守り続けたという女性だった。昼食後、田宮虎彦の小説「花」、映画「花物語」のモデルにもなった「りつさん」の生前のエピソードを聞かせてくださった。花畑が消えていくのを「花は心の食べ物」なのにと悔しがっていたそうだ。

 

帰りには、富良里や市原のパーキングエリアで思い思いのお土産を選び、渋滞もなく佐倉へ。近頃、何かと心配もあったバス旅行だったが、運転手さん、一日ご苦労様でした。

 

 

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2012年6月 6日 (水)

暗くて長い地下壕の不気味さ~館山、戦跡ツアーに参加して(1)

  地元の9条の会で、佐倉の戦跡めぐりを2回ほど実施したが、運悪く私は参加できなかった。今度は少し遠くに出てはどうだろうかと、館山へ出かけることになった。貸し切りのマイクロバスは15人以上の参加者がないと少し高めにつくと、幹事さんは苦労されたが、何とかそれもクリア、15名参加となった。現地でのガイドは、意欲的に戦跡保存・ガイドに取り組んでいるNPO法人「安房文化遺産フォーラム」にお願いすることになり、連絡や名簿提出なども幹事さんの手を煩わせた。 63日、予報では、怪しかった空模様も、薄日がさすほどになった。 

館山といえば、晩年の父と養老渓谷へ行ったときに国民宿舎鳩山荘に1泊した。娘の小学校卒業記念ということで、家族でマザー牧場を経て、館山の富崎館に泊まっている。近年では、地域の友人たちに誘われ、勝浦のビッグひな祭りに出かけ、車を出してくれた友人のお連れ合いの実家が館山ということで、寄らせていただいたこともある。しかし、「戦跡」とは思いもよらず、無縁な旅であった。

 

房総沖大地震~ 

館山駅近くの幸田旅館で、ツアーのオリエンテーションがあった。先のNPOの池田事務局長は、パワーポイントを使って、房総半島と館山、南海トラフと太平洋プレートを地図上で示し、近いとされる房総沖地震の話から始めた。元禄地震、関東大地震の教訓を受け継ぐ住民の知恵にも触れ、知恵の詰ったサイカチの木の効用も初めて知った。

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NPO法人安房文化遺産フォーラムの池田さんの座学始まる

 

逆さ地図~ 

富山県が作成したという「環日本海諸国図」が示された。大西洋を中心にした地図で、極東の島国という由縁を見たことはある。が、この地図は、日本海と大陸を下に、日本列島が太平洋につき出しているような「逆さ地図」である。私はこうした地図は初めて目にした。九州と朝鮮半島、北海道と樺太はいまにも繋がりそうだし、日本海はまるで大きな内海、入江のようにも見える。太平洋に突き出している房総半島南部、「館山」なのである。

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アジア諸国との友好の足跡~ 

 この地の利と海上交通の要地であることは、昔の大名や漁師、軍関係者は早くより認識していたというさまざまな証拠を歴史的な事実をあげながら語るので、つい引き込まれてしまう。たとえば、 

1780年清国の貿易船「元順号」が漂着座礁した折、千倉の漁民が全員救助したことを記念して、1980年日中友好の碑が千倉に建てられた。 

・館山の大巖院の四面石塔は、1624年が文禄の朝鮮侵略からの三十三回忌にあたり、戦没者供養のために建立されたもの。各面に「南無阿弥陀佛」と漢字、中国篆字、インド梵字、朝鮮ハングルで書かれている。 

・館山で訓練していた水産講習所の練習船「快鷹丸」が朝鮮海域で遭難、東海岸の浦項の漁師たちに救助され、記念碑がたてられた。一時反日感情から倒されたが、今では再建され守られている。 

・房総のアワビ漁師たちが、アメリカのモントレーにわたりその技術とともに食文化も伝え、財を成した漁師もいた。

 

軍事拠点としての館山~ 

このオリエンテーションの核心は、このあとからか。 

館山には山城が点在するが、群としての山城、稲村城・岡本城が2012年埋蔵文化財として国の指定になったとのことで、これらの山城が、太平洋戦争期の戦跡と重なるそうだ。日清戦争後、国防上の必要からということで、1899年「要塞地帯法」「軍機保護法」が公布され、東京湾要塞の建設も本格化する。東京湾の入り口に砲台を設置し、攻略を防ごうというものだ。一方、1923年関東大震災で館山湾の海底と沿岸は大きく隆起して、遠浅となり、湾内は穏やかだったところから、1930年館山海軍航空隊が開設された。長い滑走路の要らない空母からの発着ができる戦闘機や水上偵察機のパイロット養成に力を入れた。1941年には海軍初の落下傘部隊が組まれ1500名が参加したという。ここで訓練を受けたパイロットたちは「渡洋爆撃」と称して中国の都市の無差別爆撃に向かい、館山湾を真珠湾に見立てたような想定訓練も実施したという。太平洋戦争期には、1943年隣接して洲ノ埼海軍航空隊も開設、さらに戦争末期になると、房総南部には7万の兵力を配備、本土決戦に備え、住民や朝鮮人たちを動員、地下壕などの工事を進めた。しかし、1945219日硫黄島上陸作戦に先だって、米軍は216日南房総に1000機を投入、館山の軍事施設と周辺は機銃掃射や空爆を受け、大打撃を受けていた。

 

赤山地下壕跡~いったい何に使われたのか、使われようとしたのか 

 現在の海上自衛隊基地の南の標高60mの「赤山」に総延長2000mにも及ぶ、平面図で見れば、幅の違う梯子を二つ合わせたような、通路と細長の部屋が数十あり、奥まるほどにさらに複雑に入り組んでいる地下壕。天井も幅もかなり広い通路の両脇の部屋の天井はさらに高く、奥も深い。岩は凝灰岩質の砂岩で固いということだが、すべてツルハシによる手掘りであった。1930年頃から掘削を始め、その土砂は海岸の埋立に運ばれていたらしい。防衛省の記録にもないし、証言も少なく、その使用目的が定かではないが、兵舎、司令部、病院、発電所、通信所、実験所、各種の格納庫などの形跡が若干ながら残っているという。この壕一帯は、館山市の所有で、現在は市の施設として管理されているとのことだ。 

私たちは、ヘルメットと懐中電灯を渡され、ガイドさんに従いて250mほどの壕を往復したのだが、しっかりした上着を羽織るも首筋が寒いくらいひんやりしていた。延々と続く、先の見えない、がらんどうの暗闇に立っている不気味さには身震いするほどだった。

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その先が十字路になっている

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生誕130年斎藤茂吉展へ、「茂吉再生」とは

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新緑のフランス山

 610日の会期末も迫り、どうしても今日しか行けないとあって、9時過ぎに家を出た。横浜は、今日から3日間港まつりとも聞いていたが、みなとみらい線も込みあってはいなかった。元町中華街で下車、何度も何度もエスカレーターでひたすら登り、地上に出る。登りついでにフランス山の階段を経て、港の見える丘公園に出る。薄曇りで、港の景色はクリアではない。霧笛橋を渡ると、神奈川近代文学館、「茂吉再生」の文字が大きい看板が見えてきた。 

 茂吉展の看板やポスター、チラシにも「茂吉再生」とある。この茂吉展の編集者は神奈川県内に住む尾崎左永子と三枝昂之があたっている。「再生」のコンセプトはどの辺にあるのだろうか。茂吉が現代に「再生」したのか、茂吉自身の生涯における、どの時点でのことを言うのかなど、という思いが馳せる。会場は、大きくは4部構成で、序章「生を写す歌―『赤光』『あらたま』の衝撃」、第1部「歌との出会い」、第2部「生を詠う」第3部「茂吉再生」となっている。カタログや会場の解説などを読んでも、第3部「茂吉再生」のタイトルにしか「再生」の文字がみあたらない。展示会全体を「茂吉再生」と名付けた意図は不明なままだが、東日本大震災被害の復旧・復興を目指す「再生」と掛けるのだったらやや強引でもあるし、あまりにも時流に乗って政策的過ぎるのかな、と思う。

 

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霧笛橋のポスター

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学館入口の看板

 それはともかく、私が印象深かった作品や気になった展示などをいくつか記録にとどめておきたい。
 

 

1.本よみてかしこくなれと戦場のわが兄は銭を呉れたまひたり 

 

茂吉の書画は小学生のころからすぐれていたらしい。漢字とカタカナで書かれた日記などは、とても子どもとは思えないほどで、老成しているといった感じで、生家、そして一族の期待を担った少年時代を過ごしていたことがわかる。展示の短冊「本よみてかしこくなれと戦場のわが兄は銭を呉れたまひたり」のキャプションには、1904年長兄広吉、次兄富太郎がともに応召していたときの作とあった。岩波文庫で読んだ『赤光』の作品と少し違わなくない?と思って、持参した文庫本を開いてみると、冒頭「折に触れ 明治三十八年作」の3首目に「書(ふみ)よみて賢くなれと戦場のわが兄は銭を呉れたまひたり」とあった。文庫は、改選第3版(1925年)を定本としている。巻末に収録された初版(1913年)は、伊藤左千夫の追悼歌「悲報来」で始まり、最近作を冒頭に置いた編集であった。 

 

当時の心境を、茂吉自身、当初の作品は「具合の悪いのが多い。併し同じく読んでもらふうへは自分に比較的親しいのを読んでもらはうと思つて、新しいのを先にした」と跋で記している。後、その初版は、1921年の大幅な削除や訂正・改作により「改選」され、編年体に改められた。今回、その「改選」時の書き込みのある「赤光」が展示されていた。改選第3版には「これをもつて定本としたい」旨の跋も今回あらためて読み直したのだった。第1歌集『赤光』の成り立ちに思いを馳せる短冊であった(小倉真理子「初版『赤光』の特異性」『短歌』20125月、参考)。

 

2.墓はらのとほき森よりほろほろとのぼるけむりに行かむとおもふ 

 

この1首は、伊藤左千夫の選を経ずに、初めて『アララギ』(19109月)に掲載された5首の冒頭作品であり、「木のもとに梅はめば酸しをさな妻ひとにさにづらふ時たちにけり」と並ぶ。『赤光』にはともに「明治四十三年 2をさな妻」(表題歌の「のぼる」は「上る」に「のぼる」の振りがなが付せられている)に収録されている。茂吉は、東京帝大医科大学入学後の1906年左千夫に入門し、左千夫選によって『馬酔木』に初めて載ったのが19062月であり、新聞『日本』の左千夫選歌壇にも投稿している。1908年『馬酔木』廃刊後は、『アカネ』を経て、10月には、左千夫創刊の『アララギ』に参加している。

 

来て見れば雪げの川べ白がねの柳ふふめり蕗のとも咲けり

(『馬酔木』(根岸短歌会)19062月) 

(『赤光』には「折に触れて明治三十九年作「来て見れば雪消の川べしろがねの柳ふふめり蕗の薹も咲けり」とある) 

 

大き聖(ひじり)世に出づを待つとみちのくの蔵王高根に石は眠れり
 (『日本』伊藤左千夫選19077月)


 医師としての業績は、長崎医専教授、ヨーロッパ留学を経て、研究というよりは、養父の脳病院の医師として経営に奔走することになる。昭和期に入り、40代半ばとなった茂吉は、『アララギ』の編集発行人となると共に歌壇の論客としても活発な活動を続ける。日中戦争下では、妻との別居・永井ふさ子との出会いなどを背景に、作歌とともに柿本人麿研究などに打ち込み、太平洋戦争下においては、種々のメディアへ夥しい数の戦意昂揚歌を発表するに至っている。

 

3.決戦をまのあたりにし国民(くにたみ)の心ゆるびは許さるべしや 

 

 19441017日『朝日新聞』に掲載の「戦運」5首のうちの1首。未刊の幻の歌集だった『萬軍』にも収録。第3部「茂吉再生」の冒頭の展示には、戦時末期の上記新聞掲載作品、『萬軍』の原稿などが展示され、「(作歌)手帳55」における次のような敗戦直前の作品に着目して、不安や迷いを吐露していたと説く。

 

川はらの松の木したにひそみゐるわれの生(いのち)のいくへも知らず
1945421日) 

 

勇まむとこころのかぎり努むれど心まよひてこよひ寝むとす

1945726日)

 

4.沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ 

 

 194510月『短歌研究』に掲載「岡の上」の1首、「こゑひくき帰還兵士のものがたり焚火を継がむまへにをはりぬ」などと並び、敗戦後の茂吉<第一声>としても名高い。今回の茂吉展の編集者三枝は、カタログにおいて、この「岡の上」は、戦時下の検閲と占領軍の検閲のはざまで困惑し切っていた短歌ジャーナリストの木村捨録のもとに、茂吉みずからが19459月下旬に送付してきたもので、木村の「その高い調べに頭を下げて感激、敗戦後の短歌に確信を持った」との発言を引用する(45頁)、同趣旨のことを別の場所でも述べている(『短歌』20125月、84頁)。

 

5.峰つづきおほふむら雲ふく風のはやくはらへとただいのるなり 

     (昭和天皇1942年歌会始作品)

 上記234の作品の展開のなかで、その解説において、気になる点があった。次のようなくだりがある。

 

  「戦時下、短歌には、国民の心情を結束する役割を求められていた。その責務を重く受け止めていた茂吉は、ラジオや新聞の求めに応じ、夥しい数の戦意昂揚歌を作る」(46頁) 

 

一方、上記4にあるように、敗戦直後、茂吉が(みずから)短歌雑誌に送付してきたことが美談のように語られていることである。このように作歌の背景を展開する構図はかつて、どこかで、見たような・・・。思い起こすのは、19891月、昭和天皇の追悼記事や番組で、つねに国民を思い、平和を願っていたことを証する短歌をさかんに引用し、天皇の戦争責任を相対化する風潮であった。1942年の短歌は、軍部に押し切られやむなく開戦に踏み切り、1945年の短歌は、周囲を押し切って終戦の「聖断」を下したという経緯が史実とは別次元で、心情的に語られるのであった。

 

峰つづきおほふむら雲ふく風のはやくはらへとただいのるなり

1942年歌会始「連峰雲」) 

 

爆撃にたふれゆく民のうへおもひいくさとめけり身はいかならむとも
1945年「終戦時の感想」)

 <いずれも『おほうなばら―昭和天皇御製集』(読売新聞社1990年)から> 

 

6.ふたたび「再生」について 

 

なお、こだわるようだが、「再生」の文字は、カタログをよく読むと、「敗戦後の苦悩」と題して、「敗戦の日を故郷で迎えた茂吉は、再生の兆しを探すように、実りの季節を迎えた野山を歩き回った」(48頁)と一か所だけ記されていた。また、神奈川近代文学館のホームページに、「茂吉再生―困難をえる歌の力」と題して本展編集委員三枝は「展覧会の趣旨」として、その末尾には次のように記している。

 

 「2012年、生誕130年の記念すべき年に開催する本展では、幾多の辛苦を克服し、大きく再生をはたした茂吉の生涯と、歌の数々を展観する。その生涯を支えた「困難をえる歌の力」は今日の日本人の共感を得るものと確信する」

 

 なお、茂吉展の準備で、生前の北杜夫の協力を得たことは分かるが、茂吉展に北杜夫のコーナーはなくてもよかったのではないか。他の文学館などで、別の企画もあるようなので、今回は、茂吉に集中すべきではなかったか。その分、やはり私は、戦時下に歌人として「求めに応じ」どんな活動や足跡を残したのかを、もう少し丁寧に追跡すべきではなかったか。その圧倒的な物量が、敗戦後の茂吉の心身にどんな影を落としたのかを解明してほしかった。そこからの「再生」の意味も重さも立ちのぼってくるかもしれない、そんな思いが残った。

 

行きつ戻りつしながら、2時間近くかかっただろうか。外に出ると、雲行きあやしく、遠くで雷も鳴っている。あわててアメリカ山公園を抜け、リフトでみなとみらい線の駅頭に降りると、雨が降り出した。元町の商店街の軒下を伝って石川町駅まで、少し雰囲気の変わった、久しぶりの元町、それはそれで楽しみながら家路についた。


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アメリカ山公園、雷が遠くで鳴りはじめた

 

 

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