
新緑のフランス山
6月10日の会期末も迫り、どうしても今日しか行けないとあって、9時過ぎに家を出た。横浜は、今日から3日間港まつりとも聞いていたが、みなとみらい線も込みあってはいなかった。元町中華街で下車、何度も何度もエスカレーターでひたすら登り、地上に出る。登りついでにフランス山の階段を経て、港の見える丘公園に出る。薄曇りで、港の景色はクリアではない。霧笛橋を渡ると、神奈川近代文学館、「茂吉再生」の文字が大きい看板が見えてきた。
茂吉展の看板やポスター、チラシにも「茂吉再生」とある。この茂吉展の編集者は神奈川県内に住む尾崎左永子と三枝昂之があたっている。「再生」のコンセプトはどの辺にあるのだろうか。茂吉が現代に「再生」したのか、茂吉自身の生涯における、どの時点でのことを言うのかなど、という思いが馳せる。会場は、大きくは4部構成で、序章「生を写す歌―『赤光』『あらたま』の衝撃」、第1部「歌との出会い」、第2部「生を詠う」第3部「茂吉再生」となっている。カタログや会場の解説などを読んでも、第3部「茂吉再生」のタイトルにしか「再生」の文字がみあたらない。展示会全体を「茂吉再生」と名付けた意図は不明なままだが、東日本大震災被害の復旧・復興を目指す「再生」と掛けるのだったらやや強引でもあるし、あまりにも時流に乗って政策的過ぎるのかな、と思う。

霧笛橋のポスター

文学館入口の看板
それはともかく、私が印象深かった作品や気になった展示などをいくつか記録にとどめておきたい。
1.本よみてかしこくなれと戦場のわが兄は銭を呉れたまひたり
茂吉の書画は小学生のころからすぐれていたらしい。漢字とカタカナで書かれた日記などは、とても子どもとは思えないほどで、老成しているといった感じで、生家、そして一族の期待を担った少年時代を過ごしていたことがわかる。展示の短冊「本よみてかしこくなれと戦場のわが兄は銭を呉れたまひたり」のキャプションには、1904年長兄広吉、次兄富太郎がともに応召していたときの作とあった。岩波文庫で読んだ『赤光』の作品と少し違わなくない?と思って、持参した文庫本を開いてみると、冒頭「折に触れ 明治三十八年作」の3首目に「書(ふみ)よみて賢くなれと戦場のわが兄は銭を呉れたまひたり」とあった。文庫は、改選第3版(1925年)を定本としている。巻末に収録された初版(1913年)は、伊藤左千夫の追悼歌「悲報来」で始まり、最近作を冒頭に置いた編集であった。
当時の心境を、茂吉自身、当初の作品は「具合の悪いのが多い。併し同じく読んでもらふうへは自分に比較的親しいのを読んでもらはうと思つて、新しいのを先にした」と跋で記している。後、その初版は、1921年の大幅な削除や訂正・改作により「改選」され、編年体に改められた。今回、その「改選」時の書き込みのある「赤光」が展示されていた。改選第3版には「これをもつて定本としたい」旨の跋も今回あらためて読み直したのだった。第1歌集『赤光』の成り立ちに思いを馳せる短冊であった(小倉真理子「初版『赤光』の特異性」『短歌』2012年5月、参考)。
2.墓はらのとほき森よりほろほろとのぼるけむりに行かむとおもふ
この1首は、伊藤左千夫の選を経ずに、初めて『アララギ』(1910年9月)に掲載された5首の冒頭作品であり、「木のもとに梅はめば酸しをさな妻ひとにさにづらふ時たちにけり」と並ぶ。『赤光』にはともに「明治四十三年 2をさな妻」(表題歌の「のぼる」は「上る」に「のぼる」の振りがなが付せられている)に収録されている。茂吉は、東京帝大医科大学入学後の1906年左千夫に入門し、左千夫選によって『馬酔木』に初めて載ったのが1906年2月であり、新聞『日本』の左千夫選歌壇にも投稿している。1908年『馬酔木』廃刊後は、『アカネ』を経て、10月には、左千夫創刊の『アララギ』に参加している。
来て見れば雪げの川べ白がねの柳ふふめり蕗のとも咲けり
(『馬酔木』(根岸短歌会)1906年2月)
(『赤光』には「折に触れて明治三十九年作「来て見れば雪消の川べしろがねの柳ふふめり蕗の薹も咲けり」とある)
大き聖(ひじり)世に出づを待つとみちのくの蔵王高根に石は眠れり
(『日本』伊藤左千夫選1907年7月)
医師としての業績は、長崎医専教授、ヨーロッパ留学を経て、研究というよりは、養父の脳病院の医師として経営に奔走することになる。昭和期に入り、40代半ばとなった茂吉は、『アララギ』の編集発行人となると共に歌壇の論客としても活発な活動を続ける。日中戦争下では、妻との別居・永井ふさ子との出会いなどを背景に、作歌とともに柿本人麿研究などに打ち込み、太平洋戦争下においては、種々のメディアへ夥しい数の戦意昂揚歌を発表するに至っている。
3.決戦をまのあたりにし国民(くにたみ)の心ゆるびは許さるべしや
1944年10月17日『朝日新聞』に掲載の「戦運」5首のうちの1首。未刊の幻の歌集だった『萬軍』にも収録。第3部「茂吉再生」の冒頭の展示には、戦時末期の上記新聞掲載作品、『萬軍』の原稿などが展示され、「(作歌)手帳55」における次のような敗戦直前の作品に着目して、不安や迷いを吐露していたと説く。
川はらの松の木したにひそみゐるわれの生(いのち)のいくへも知らず
(1945年4月21日)
勇まむとこころのかぎり努むれど心まよひてこよひ寝むとす
(1945年7月26日)
4.沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ
1945年10月『短歌研究』に掲載「岡の上」の1首、「こゑひくき帰還兵士のものがたり焚火を継がむまへにをはりぬ」などと並び、敗戦後の茂吉<第一声>としても名高い。今回の茂吉展の編集者三枝は、カタログにおいて、この「岡の上」は、戦時下の検閲と占領軍の検閲のはざまで困惑し切っていた短歌ジャーナリストの木村捨録のもとに、茂吉みずからが1945年9月下旬に送付してきたもので、木村の「その高い調べに頭を下げて感激、敗戦後の短歌に確信を持った」との発言を引用する(45頁)、同趣旨のことを別の場所でも述べている(『短歌』2012年5月、84頁)。
5.峰つづきおほふむら雲ふく風のはやくはらへとただいのるなり
(昭和天皇1942年歌会始作品)
上記2・3・4の作品の展開のなかで、その解説において、気になる点があった。次のようなくだりがある。
「戦時下、短歌には、国民の心情を結束する役割を求められていた。その責務を重く受け止めていた茂吉は、ラジオや新聞の求めに応じ、夥しい数の戦意昂揚歌を作る」(46頁)
一方、上記4にあるように、敗戦直後、茂吉が(みずから)短歌雑誌に送付してきたことが美談のように語られていることである。このように作歌の背景を展開する構図はかつて、どこかで、見たような・・・。思い起こすのは、1989年1月、昭和天皇の追悼記事や番組で、つねに国民を思い、平和を願っていたことを証する短歌をさかんに引用し、天皇の戦争責任を相対化する風潮であった。1942年の短歌は、軍部に押し切られやむなく開戦に踏み切り、1945年の短歌は、周囲を押し切って終戦の「聖断」を下したという経緯が史実とは別次元で、心情的に語られるのであった。
峰つづきおほふむら雲ふく風のはやくはらへとただいのるなり
(1942年歌会始「連峰雲」)
爆撃にたふれゆく民のうへおもひいくさとめけり身はいかならむとも
(1945年「終戦時の感想」)
<いずれも『おほうなばら―昭和天皇御製集』(読売新聞社1990年)から>
6.ふたたび「再生」について
なお、こだわるようだが、「再生」の文字は、カタログをよく読むと、「敗戦後の苦悩」と題して、「敗戦の日を故郷で迎えた茂吉は、再生の兆しを探すように、実りの季節を迎えた野山を歩き回った」(48頁)と一か所だけ記されていた。また、神奈川近代文学館のホームページに、「茂吉再生―困難を超える歌の力」と題して本展編集委員三枝は「展覧会の趣旨」として、その末尾には次のように記している。
「2012年、生誕130年の記念すべき年に開催する本展では、幾多の辛苦を克服し、大きく再生をはたした茂吉の生涯と、歌の数々を展観する。その生涯を支えた「困難を越える歌の力」は今日の日本人の共感を得るものと確信する」
なお、茂吉展の準備で、生前の北杜夫の協力を得たことは分かるが、茂吉展に北杜夫のコーナーはなくてもよかったのではないか。他の文学館などで、別の企画もあるようなので、今回は、茂吉に集中すべきではなかったか。その分、やはり私は、戦時下に歌人として「求めに応じ」どんな活動や足跡を残したのかを、もう少し丁寧に追跡すべきではなかったか。その圧倒的な物量が、敗戦後の茂吉の心身にどんな影を落としたのかを解明してほしかった。そこからの「再生」の意味も重さも立ちのぼってくるかもしれない、そんな思いが残った。
行きつ戻りつしながら、2時間近くかかっただろうか。外に出ると、雲行きあやしく、遠くで雷も鳴っている。あわててアメリカ山公園を抜け、リフトでみなとみらい線の駅頭に降りると、雨が降り出した。元町の商店街の軒下を伝って石川町駅まで、少し雰囲気の変わった、久しぶりの元町、それはそれで楽しみながら家路についた。

アメリカ山公園、雷が遠くで鳴りはじめた
最近のコメント