最近の女性歌人評伝について~『ポトナム』7月号「短歌時評」に書きました
最近読んだ女性歌人による女性歌人研究の中で、力作と思われたものに今野寿美による『山川登美子歌集』の「解説」(岩波書店 二〇一一年一二月)があり、古谷鏡子著『命一つが自由にて~歌人・川上小夜子の生涯』(影書房 二〇一二年二月)がある。前者は文庫本の編者による解説なのだが、年譜・解題を含めると六三頁を超える評伝になっていた。後者の著者は小夜子の次女で詩人、身内ながら、節度のある筆致とその資料的な検証が確かな評伝であった。
ひるがえって、『ポトナム』の礎を築いた歌人たちの歌人研究や評伝といえる単著は少ない。記念号や追悼号に収録される伝記的な論稿やエッセイは、近・現代短歌の歩みが、より鮮明になって、親しみやすくなる。今、私の手元にあるもっとも古い記念号は、四五〇号(一九六三年一〇月)だが、昭和・平成初期のものと比べると、近年は、そういった論稿やエッセイが少なくなったように思う。他の結社誌ではどうだろうか。といっても、創刊した歌人や主宰の歌人のオマージュのみで埋め尽くされ、宗教団体か、株式会社かと思われる様相を呈することもあるし、身内や〈愛弟子〉の筆になるものは、身贔屓に過ぎることもあり、用心が必要な場合がある。
歌人の伝記や評伝とは何かと問われると、なかなか難しい。短歌という私性の強いジャンルだけに、歌人研究、作品鑑賞との境界が曖昧である。一〇〇〇号を前にして刊行された『ポトナムの歌人』(晃洋書房 二〇〇八年)は、佐佐木幸綱が記すように、ポトナム歌人列伝として好企画ではあったが(創刊九〇周年記念号)、さらに分け入りたい読者には参考文献などを示した方がよかった思う。
近年、『ポトナム』誌上で、興味深く読んだのが、冒頭の記念号の松田和子による「歌人百瀬千尋の絵画的視線」(一〇〇〇号)「百瀬千尋の軌跡(二)」(創刊九〇周年記念号)であった。著者は、小泉苳三とともに京城でポトナム短歌会を創立した百瀬千尋の長女百瀬桂の子女で、千尋の孫にあたり、星陽子は叔母であるとの自己紹介がある。彼女は、美術史専攻の研究者で、近著に「シュルレアリズムと〈手〉」(水声社 二〇〇六年)がある。さらなる千尋探求を楽しみにしている。
やや旧聞に属するが、菅原千代(筆名青木千代乃)による『歌人・阿部静枝とその精神性―短歌作品に見る近代性について』(saga design seeds 二〇〇八年、放送大学修士課程論文とのこと)が出版された。阿部静枝研究の初めての単行本ではなかったか。 著者は、『綱手』の古くからの会員で四冊の歌集を持ち、宮城県栗原市に住む。彼女にとって郷土の歌人でもあった「歌人、随筆家、評論家、政治家として多才であった阿部静枝が、没後三十四年となる現在ほとんど顧みられないのは何故か」がその出発点であったという(同書三頁)。阿部静枝の短歌との出会いは、東京女子高等師範学校時代の尾上柴舟・『水甕』であったが、一九二〇年、仙台の高等女学校教師時代における石原純と『玄土』との出会いが短歌開眼であったと自筆年譜に記している。その『玄土』掲載作品を、私は本書により初めて読むことができた。本書の核心は「第四章歌人・阿部静枝の短歌に表白される精神性」(三七〇~三七三頁)であろう。第一歌集『秋草』への道を『玄土』『水甕』『ポトナム』『橄欖』の掲載作品から考証する部分は興味深いが、錯綜する。もう少しわかりやすい構成にならなかったか。また、先行研究文献の紹介・引用が明記されていないのが、本書の独自性を明確にするためにも残念なことだった。著者の次の課題、「林うた(阿部静枝当初の筆名)歌集・青春編」編集に期待したい。(『ポトナム』2012年7月号所収)
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