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2012年6月 6日 (水)

暗くて長い地下壕の不気味さ~館山、戦跡ツアーに参加して(1)

  地元の9条の会で、佐倉の戦跡めぐりを2回ほど実施したが、運悪く私は参加できなかった。今度は少し遠くに出てはどうだろうかと、館山へ出かけることになった。貸し切りのマイクロバスは15人以上の参加者がないと少し高めにつくと、幹事さんは苦労されたが、何とかそれもクリア、15名参加となった。現地でのガイドは、意欲的に戦跡保存・ガイドに取り組んでいるNPO法人「安房文化遺産フォーラム」にお願いすることになり、連絡や名簿提出なども幹事さんの手を煩わせた。 63日、予報では、怪しかった空模様も、薄日がさすほどになった。 

館山といえば、晩年の父と養老渓谷へ行ったときに国民宿舎鳩山荘に1泊した。娘の小学校卒業記念ということで、家族でマザー牧場を経て、館山の富崎館に泊まっている。近年では、地域の友人たちに誘われ、勝浦のビッグひな祭りに出かけ、車を出してくれた友人のお連れ合いの実家が館山ということで、寄らせていただいたこともある。しかし、「戦跡」とは思いもよらず、無縁な旅であった。

 

房総沖大地震~ 

館山駅近くの幸田旅館で、ツアーのオリエンテーションがあった。先のNPOの池田事務局長は、パワーポイントを使って、房総半島と館山、南海トラフと太平洋プレートを地図上で示し、近いとされる房総沖地震の話から始めた。元禄地震、関東大地震の教訓を受け継ぐ住民の知恵にも触れ、知恵の詰ったサイカチの木の効用も初めて知った。

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NPO法人安房文化遺産フォーラムの池田さんの座学始まる

 

逆さ地図~ 

富山県が作成したという「環日本海諸国図」が示された。大西洋を中心にした地図で、極東の島国という由縁を見たことはある。が、この地図は、日本海と大陸を下に、日本列島が太平洋につき出しているような「逆さ地図」である。私はこうした地図は初めて目にした。九州と朝鮮半島、北海道と樺太はいまにも繋がりそうだし、日本海はまるで大きな内海、入江のようにも見える。太平洋に突き出している房総半島南部、「館山」なのである。

Sakasamaps

 

アジア諸国との友好の足跡~ 

 この地の利と海上交通の要地であることは、昔の大名や漁師、軍関係者は早くより認識していたというさまざまな証拠を歴史的な事実をあげながら語るので、つい引き込まれてしまう。たとえば、 

1780年清国の貿易船「元順号」が漂着座礁した折、千倉の漁民が全員救助したことを記念して、1980年日中友好の碑が千倉に建てられた。 

・館山の大巖院の四面石塔は、1624年が文禄の朝鮮侵略からの三十三回忌にあたり、戦没者供養のために建立されたもの。各面に「南無阿弥陀佛」と漢字、中国篆字、インド梵字、朝鮮ハングルで書かれている。 

・館山で訓練していた水産講習所の練習船「快鷹丸」が朝鮮海域で遭難、東海岸の浦項の漁師たちに救助され、記念碑がたてられた。一時反日感情から倒されたが、今では再建され守られている。 

・房総のアワビ漁師たちが、アメリカのモントレーにわたりその技術とともに食文化も伝え、財を成した漁師もいた。

 

軍事拠点としての館山~ 

このオリエンテーションの核心は、このあとからか。 

館山には山城が点在するが、群としての山城、稲村城・岡本城が2012年埋蔵文化財として国の指定になったとのことで、これらの山城が、太平洋戦争期の戦跡と重なるそうだ。日清戦争後、国防上の必要からということで、1899年「要塞地帯法」「軍機保護法」が公布され、東京湾要塞の建設も本格化する。東京湾の入り口に砲台を設置し、攻略を防ごうというものだ。一方、1923年関東大震災で館山湾の海底と沿岸は大きく隆起して、遠浅となり、湾内は穏やかだったところから、1930年館山海軍航空隊が開設された。長い滑走路の要らない空母からの発着ができる戦闘機や水上偵察機のパイロット養成に力を入れた。1941年には海軍初の落下傘部隊が組まれ1500名が参加したという。ここで訓練を受けたパイロットたちは「渡洋爆撃」と称して中国の都市の無差別爆撃に向かい、館山湾を真珠湾に見立てたような想定訓練も実施したという。太平洋戦争期には、1943年隣接して洲ノ埼海軍航空隊も開設、さらに戦争末期になると、房総南部には7万の兵力を配備、本土決戦に備え、住民や朝鮮人たちを動員、地下壕などの工事を進めた。しかし、1945219日硫黄島上陸作戦に先だって、米軍は216日南房総に1000機を投入、館山の軍事施設と周辺は機銃掃射や空爆を受け、大打撃を受けていた。

 

赤山地下壕跡~いったい何に使われたのか、使われようとしたのか 

 現在の海上自衛隊基地の南の標高60mの「赤山」に総延長2000mにも及ぶ、平面図で見れば、幅の違う梯子を二つ合わせたような、通路と細長の部屋が数十あり、奥まるほどにさらに複雑に入り組んでいる地下壕。天井も幅もかなり広い通路の両脇の部屋の天井はさらに高く、奥も深い。岩は凝灰岩質の砂岩で固いということだが、すべてツルハシによる手掘りであった。1930年頃から掘削を始め、その土砂は海岸の埋立に運ばれていたらしい。防衛省の記録にもないし、証言も少なく、その使用目的が定かではないが、兵舎、司令部、病院、発電所、通信所、実験所、各種の格納庫などの形跡が若干ながら残っているという。この壕一帯は、館山市の所有で、現在は市の施設として管理されているとのことだ。 

私たちは、ヘルメットと懐中電灯を渡され、ガイドさんに従いて250mほどの壕を往復したのだが、しっかりした上着を羽織るも首筋が寒いくらいひんやりしていた。延々と続く、先の見えない、がらんどうの暗闇に立っている不気味さには身震いするほどだった。

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その先が十字路になっている

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コメント

大陸から見た日本地図・新宿「高麗博物館」壁面にも飾ってありました。現在・この国と「竹島」領有で問題が発生していますが①竹島は日本の領土です。②日本の領土とした時期は、日本の植民地として、外交権は奪われて発言権はなかった。③当時の事情や歴史的経過など両国の識者による研究に基づいて、領有関係を決定すればいい④したがって両国国民がいたずらに感情をあおるようなことは慎んだほうがよい・・・

投稿: 岩崎泰雄 | 2012年9月16日 (日) 13時55分

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