暗くて長い地下壕の不気味さ~館山、戦跡ツアーに参加して(2)
「噫 従軍慰安婦」石碑
次に訪ねたのが、自衛隊基地の南の高台にある女性のための長期保護施設「かにた婦人の村」(館山市大賀旧海軍砲台跡、社会福祉法人「ベテスダ奉仕女母の家」により1954年設立、約3万㎡、収容定員100名)の一番高いところにある表題の石碑である。この施設の入居者の一人が1984年、自らの従軍慰安婦体験を日本人としては初めて告白、戦後40年経っても、アジア各地で亡くなった仲間たちは弔われもしない現実を前に、慰霊をしたいということで、建てられた碑だった。「日本人で初めて」の苦しくて重い決断が「噫(ああ)」につまっている。遺骨さえ収集されない兵士だけでなはなく、空襲の被害者にも、原爆の被害者にも、そして「名もなき女の被害者たち」にも、国は、政府は、どういう対応をしているのだろうか。原発被害者たちへの補償も遅々として進まない現在がある。
高台の樹林の間からは、館山湾の静かな海と現在の海上自衛隊二十一航空部と沖ノ島が見渡せた。
一二八高地地下壕
「かにた婦人の村」のある砲台跡下の地下壕にも寄った。本土決戦が現実味を帯びた1944年12月には、急遽完成したと思われる地下壕である。赤山地下壕との大きな違いは、その構造にあり、掘った岩石の表面を金属製の網などを張らずに直接コンクリートを打っている部分が多く、逆に、壁の部分が軟弱で、今回の地震でもはがれたと思う個所があるということだった。赤山壕とは岩盤自体の違いもあるのか、むき出しの部分には、大きな断層が各所に見られ、水の浸出も多く、足元は滑りやすかったのだ。
「戦闘指揮所」「作戦室」というコンクリート製の額が部屋の入り口に掲げられたまま残っている。作戦室隣の控の小部屋の天井には、精巧な龍の彫刻が残されているが、誰が何のためにとは、不明とのことだった。
はがれおちた壁
あちこちに見られる大きな断層
アリカ占領軍本土初上陸地点
館山が戦略上重要な地点であることは、先にも触れたが、太平洋戦争敗戦直後にアメリカ軍が館山にアメリカ占領軍の上陸地点があったことを私ははじめて知った。1945年9月2日東京湾上のミズリー号において降伏文書調印式が行われ、9月3日朝、カニンガム准将下のアメリカ陸軍第8軍大112騎兵隊約3500名が上陸用舟艇により、館山空港基地高ノ島、水上飛行機滑走台に上陸したのだった。だがそれに先立ち、8月31日には第8軍のクロフォード少佐下の先遣海兵隊235名が東側岸壁から上陸していることもわかった(「戦争遺跡」2010年、愛沢伸雄『足もとの地域から世界を見る』2006年、いずれもNPO法人安房文化遺産フォーラム刊)。
上陸地点は、いまは一部造船所になり、前の海にはカツオ漁の餌のイワシが飼われている筏用のものが広がり、夥しい数のトンビが舞う、変哲もない海岸である。残されている上陸時の写真はまるで映画の一場面のようだが、対岸の遠景の山なみの姿だけが変わっていない。
「戦争遺跡」(NPO法人安房文化遺産フォーラム編刊 2010年)
花は、こころの食べ物~南房の花を守った女の力
話は前後するが、ツアーのオリエンテーションの会場で、昼食をとった幸田旅館の女将が、和田町の出身で、ご実家の祖母が、太平洋戦争末期、花畑をイモや麦の食料の畑に転換せよとの命令に納得できず、山奥の畑で、ひそかに花づくりを続け、その種を守り続けたという女性だった。昼食後、田宮虎彦の小説「花」、映画「花物語」のモデルにもなった「りつさん」の生前のエピソードを聞かせてくださった。花畑が消えていくのを「花は心の食べ物」なのにと悔しがっていたそうだ。
帰りには、富良里や市原のパーキングエリアで思い思いのお土産を選び、渋滞もなく佐倉へ。近頃、何かと心配もあったバス旅行だったが、運転手さん、一日ご苦労様でした。
| 固定リンク
コメント