緑陰の読書とはいかなかったが ③『歌う国民~唱歌、校歌、うたごえ』(渡辺裕)
③『歌う国民~唱歌、校歌、うたごえ』(渡辺裕著 中公新書 2010年9月)
本書は、最近店頭で見つけた。帯には「芸術選奨文部科学大臣賞受賞」とある。この賞の受賞作となると、私などつい「ああ、あの論調なのだな」という「偏見」をもってしまうのだが、ここは、白紙で臨もう。「はしがき」によれば、本書が目指すは二つ。一つは、明治政府が編み出した唱歌の国民国家形成のツールとして、背負わされた政治性を照らし出すこと。一つは、唱歌の孕んだ様々な要素が、その後の変化の中で換骨脱胎されながらしぶとく生き延びている事実を知ること。さらに、その相互の思わぬつながりを見ていくことにある、という。
つぎのような章立てだった。1~6章までは、これまでの調査や研究の集大成のように思われた。第1・2章が、国民国家形成、「国民づくり」のツールとしての音楽、すなわち「国民音楽」が、西洋音楽導入であったり、唱歌であったりしたことに焦点があてられていた。卒業式の歌の変遷をさまざまなエピソードで綴るのであれば、大方の卒業式ではセットで歌われたり、演奏されたりする国歌「君が代」との関係についても言及してほしかったし、国歌との関係だけでなく、スポーツの場で歌われる校歌や県歌はどうなのだろうか。また、先に紹介した『詩歌と戦争』で浮き彫りにされた「童謡」「国民歌謡」はどうだったのだろうか。「歌う国民」という以上、日本独特の文化とも言われた、様々な場のカラオケ装置で1970年代以降の「歌う国民」をも照射してほしかったと思う。また、各章で若干は言及されている昭和初期から1945年8月の敗戦にいたるまでの「唱歌」の在り様にも触れてほしかったと、注文の多い読者となってしまう。もっとも知りたい時代が飛ばされて戦後・戦後の「労働者の歌」で終ってしまうのはいかにも残念だった。
1.「国民音楽」を求めて
2.「唱歌」の文化
3.「唱歌」を踊る
4.卒業式の歌をめぐる攻防
5.校歌をめぐるコンテクストの変容
6.県歌をめぐるドラマ
7.「労働者の歌」の戦前と戦後
私がもっとも関心を持って読んだのは、第7章の「うたごえ運動」と「うたごえ喫茶」について書かれている部分である。ともに私の学生時代に重なる現象でもあったので、雰囲気的には理解しているつもりである。手元にある数冊の「青年歌集」にまつわる記事も書いたことがある。
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/04/post-cc4d.html
「うたごえ運動」のバイブルでもあった「青年歌集」の10冊、そこには西欧の革命歌・労働歌、ロシア民謡、戦前からの愛唱歌、日本民謡などが収められている。私は、「うたごえ運動」に距離を置いて、のめりこめなかった者だったから、「郷愁」というものも持ち合わせてはいない。本書の「うたごえ運動」の記述について、素朴な感想を述べておきたい。
著者は、「青年歌集」について、「左翼イデオロギー的な要素はたしかに見られるものの、それが歌集全体の性格を規定している最大の要素と言えるかどうかは微妙」といって、「〈うたごえ運動〉のかなりの部分、一見正反対に見える戦前の音楽文化の遺産によって成り立っている」と指摘する。そのように統一的に捉えるときの切り札になるのが「国民音楽」という概念だという。さらに、次のように述べる。
「これらの音楽はすべて、近代国家にふさわしい〈国民〉が共有できる〈健全〉な文化はいかなるものであるべきかということを考え、それに見合った音楽を創出するという基本的な意図から出たものなのである。そこでどのような〈国民〉を想定し、何を〈健全〉と考えるかという違いあるにしても、そういう基本的な方向性自体は戦前と戦後の違いをこえて、また、様々なイデオロギー上の立場の違いをこえて一貫していたのではないか、そう思うのです。」(253頁)
作曲家の箕作秋吉や芥川也寸志を例に、戦前・戦後を通じて活動していた当人たちも自分のやっていることが正反対になっているとは考えていなかったかもしれない、そのことと「戦時協力」の責任とは別問題なので、彼らを弁護するという気は毛頭ない、という趣旨のことも述べている。まったく別の「国民」や「健全」を想定しながら、「それに見合った音楽を創出する」という「基本的な意図」で括り、「一貫」していたと捉える(252頁)というのは、どういうことか。このあたりになると、私にはわかりにくい。
さらに、「おわりに」における「音楽という一つの素材から出発していますが、その背後にある文化の広がりを多面的に捉えてゆく試みを通して、文化に向けるわれわれのまなざしのあり方自体を問い直そうとするものです。」(282頁)には異論はないけれど、「健全」な「国民音楽」は、「そこに関与する人々のおりなす力学によって、権力側が想定したのとは違う形で物事が進んでゆき、思わぬ展開をみせるようになる」(273頁)という面白さや人々のたくましさにのめり込んでしまうと、権力側の本来の意図や横暴を曖昧にし、基本的な抵抗の姿勢を見失うことにならないか。結果的に、時局便乗や一貫性のない権力周辺の当事者やメデイアの責任回避や免責に傾くことにならないか。
2012年9月、残暑にいささかダウン気味・・・
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