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2012年9月21日 (金)

緑陰の読書とはいかなかったが④断想「〈失われた時〉を見出すとき(102)(木下長宏) 

 ④断想「〈失われた時〉を見出すとき(102)(木下長宏 『八雁』519129月)

短歌同人誌『あまだむ』は『八雁』に引き継がれ、この連載が100回を超えたことに驚いている。大教室で聴く講義のような気楽さもあるのだが、難解なことの方が多いかもしれない。今回は、画家の戦争責任がテーマであり、分かりやすかった。私もこれまでの関心事でもあり、このブログにも、藤田嗣治や花岡萬舟の戦争画、国立近代美術館所蔵の戦争画展示などについて、折に触れて書いてきたので、興味深く読んだ。 

http://app.cocolog-nifty.com/t/app/weblog/post?__mode=edit_entry&id=55522523&blog_id=19023320081213日) 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2009/07/post-3f6e.html2009年7月1日) 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2009/09/post-5b23.html2009921日)

 

葉山の神奈川近代美術館で「生誕100年記念松本竣介展」が開かれていたそうだ(巡回後、11月からは世田谷美術館でも開催される予定)。竣介といえば、数年前、板橋区立美術館の新人画会展で、そのグループの一人として、初めて絵に接した。骨太の「抵抗の夭折画家」としてのイメージが強かったが、今回のエッセイでさらにいろいろなことを知ることになった。竣介は、13歳の時、かかった脳脊髄膜炎により聴覚を失っているが、このエッセイの著者は「彼の絵のなかには〈音〉が充満している」が、「そういう〈沈黙の音〉とでもいうべき音色に耳を傾けることは、戦後の近代化がより合理化されていった教育、社会制度のなかでは蔑ろにされていくしかなかった」という認識を示した。また、竣介が生きた戦後は短かったけれど、「彼が作り上げようとしてきた〈絵〉の世界の可能性」を再評価している。戦時下の『みづゑ』誌上の陸軍省情報部の軍人たち肝いりの座談会「国防国家と美術」(19411月)に竣介が反論(同年4月)し、それをもって「抵抗の画家」と称される所以ともなっている。  

しかし、著者は、続けて、上記の反論にもまして、敗戦直後の竣介がなした美術界への提言こそきちんと読み直すべきではないかと述べる。一つは、朝日新聞紙上において画家で医師の宮田重雄が、従軍画家として活躍した画家を名指しで、茶坊主画家、娼婦的行動と糾弾したのに対し、鶴田吾郎「戦争画家必ずしも軍国主義者に在らず」「戦争をいかに絵画にするかは画家の任務」、藤田嗣治「国民としての義務を遂行したまで」などと応酬した論争(19451014日、25日)を見ていた竣介は、藤田、鶴田両先生は体験も資料も豊かであろうから、戦争画を描きつづけてくださいという、反論を残している(ボツになったという朝日新聞への投稿)。さらに、美術家団体結成に先だっての194611日付「全日本美術家に諮る」という私文書での提言である。組合、組合常設画廊の民主的・開放的な運営や公募展の在り方、海外交流、材料研究や共同購入、資料室・研究所の設置などをあげ、最後に戦争責任に触れて「芸術家としての直感でこの戦争の裏面に喰ひ入り、敢然とした態度の取れなかったことは恥じていいことだ。戦争画を描いた描かなかつたといふやうな簡単な問題ではない」と自省する内容となっている。ここに提案されていることのほとんどが、今になっても日本美術界で実現されてないことを指摘する。 

私は、最近、戦時下の短歌雑誌や婦人雑誌を読むことがあるが、当時、これらの雑誌においても上記のような軍人が仕切る座談会は競うように掲載されたが、それに異を唱えるようなことをした歌人や評論家は見当たらない。また、歌人の戦争責任についていえば、敗戦直後に『人民短歌』を中心とした原初的な歌人の戦争責任追及はされたが、その後はかなり意識的に、写生論や第二芸術論、結社論にと拡散、戦時下に活躍した大家たちが悲傷や自然回帰の作品へと転じていくことにより、その責任論は後退していった。ただ、その間、例えば斎藤茂吉について、佐藤佐太郎の「戦争中国家に協力して国の要請に順応して戦力に寄与しようとした一面の作歌のあるのはこれも自然で当にさうあるべきはずのものである。そのことと自由人平和愛好者としての性格との矛盾は一見矛盾の如くで実は人間的調和のうちにある両面にすぎない」(「短歌散語」『アララギ』19461月)という発言は上記、藤田嗣治・鶴田吾郎の発言と同じ趣旨であることも知った。 

画家たちの戦争を語るには、針生一郎ほか編『戦争と美術』(国書刊行会2007年)が必須文献のようで、手元に置くべき本かもしれない。不案内ながら以下の文献を参考にした。

 

参考文献 

・宇佐美承:『池袋モンパルナス~大正デモクラシーの画家たち』集英社1990 

・種倉紀昭:「松本竣介における表現の自由について~絵画鑑賞教育に関連して」(『岩手大学教育学部教育実践研究指導センター紀要』7号 1997年) 

・近藤史人『藤田嗣治「異邦人」の生涯』(文庫)講談社 2006 

・神坂次郎ほか編『画家たちの「戦争」』新潮社(とんぼの本) 2010年 

2012年9月19日5時過ぎ、二重になった虹

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2012年9月19日 (水)

「すてきなあなたへ」66号を掲載しました。左のマイリストから66号をお選び下さい。

すてきなあなたへ66号

<目次>  
夏の終わりに~アクティブレストを取り入れてみては
荒谷直之介展へ~この絵に見覚えありませんか
志津地区上空の航空機騒音~ようやく調査が・・・ 
菅沼正子の映画招待席38『ソハの地下水道』

ここをクリックしても読むことができます。
http://dmituko.cocolog-nifty.com/sutekinaanatahe66.pdf

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2012年9月18日 (火)

緑陰の読書とはいかなかったが ③『歌う国民~唱歌、校歌、うたごえ』(渡辺裕)

③『歌う国民~唱歌、校歌、うたごえ』(渡辺裕著 中公新書 20109月) 

本書は、最近店頭で見つけた。帯には「芸術選奨文部科学大臣賞受賞」とある。この賞の受賞作となると、私などつい「ああ、あの論調なのだな」という「偏見」をもってしまうのだが、ここは、白紙で臨もう。「はしがき」によれば、本書が目指すは二つ。一つは、明治政府が編み出した唱歌の国民国家形成のツールとして、背負わされた政治性を照らし出すこと。一つは、唱歌の孕んだ様々な要素が、その後の変化の中で換骨脱胎されながらしぶとく生き延びている事実を知ること。さらに、その相互の思わぬつながりを見ていくことにある、という。 

つぎのような章立てだった。1~6章までは、これまでの調査や研究の集大成のように思われた。第12章が、国民国家形成、「国民づくり」のツールとしての音楽、すなわち「国民音楽」が、西洋音楽導入であったり、唱歌であったりしたことに焦点があてられていた。卒業式の歌の変遷をさまざまなエピソードで綴るのであれば、大方の卒業式ではセットで歌われたり、演奏されたりする国歌「君が代」との関係についても言及してほしかったし、国歌との関係だけでなく、スポーツの場で歌われる校歌や県歌はどうなのだろうか。また、先に紹介した『詩歌と戦争』で浮き彫りにされた「童謡」「国民歌謡」はどうだったのだろうか。「歌う国民」という以上、日本独特の文化とも言われた、様々な場のカラオケ装置で1970年代以降の「歌う国民」をも照射してほしかったと思う。また、各章で若干は言及されている昭和初期から19458月の敗戦にいたるまでの「唱歌」の在り様にも触れてほしかったと、注文の多い読者となってしまう。もっとも知りたい時代が飛ばされて戦後・戦後の「労働者の歌」で終ってしまうのはいかにも残念だった。 

1.「国民音楽」を求めて 

2.「唱歌」の文化  

3.「唱歌」を踊る  

4.卒業式の歌をめぐる攻防  

5.校歌をめぐるコンテクストの変容  

6.県歌をめぐるドラマ  

7.「労働者の歌」の戦前と戦後  

 

私がもっとも関心を持って読んだのは、第7章の「うたごえ運動」と「うたごえ喫茶」について書かれている部分である。ともに私の学生時代に重なる現象でもあったので、雰囲気的には理解しているつもりである。手元にある数冊の「青年歌集」にまつわる記事も書いたことがある。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/04/post-cc4d.html

「うたごえ運動」のバイブルでもあった「青年歌集」の10冊、そこには西欧の革命歌・労働歌、ロシア民謡、戦前からの愛唱歌、日本民謡などが収められている。私は、「うたごえ運動」に距離を置いて、のめりこめなかった者だったから、「郷愁」というものも持ち合わせてはいない。本書の「うたごえ運動」の記述について、素朴な感想を述べておきたい。 

著者は、「青年歌集」について、「左翼イデオロギー的な要素はたしかに見られるものの、それが歌集全体の性格を規定している最大の要素と言えるかどうかは微妙」といって、「〈うたごえ運動〉のかなりの部分、一見正反対に見える戦前の音楽文化の遺産によって成り立っている」と指摘する。そのように統一的に捉えるときの切り札になるのが「国民音楽」という概念だという。さらに、次のように述べる。 

 「これらの音楽はすべて、近代国家にふさわしい〈国民〉が共有できる〈健全〉な文化はいかなるものであるべきかということを考え、それに見合った音楽を創出するという基本的な意図から出たものなのである。そこでどのような〈国民〉を想定し、何を〈健全〉と考えるかという違いあるにしても、そういう基本的な方向性自体は戦前と戦後の違いをこえて、また、様々なイデオロギー上の立場の違いをこえて一貫していたのではないか、そう思うのです。」(253頁)  

 

作曲家の箕作秋吉や芥川也寸志を例に、戦前・戦後を通じて活動していた当人たちも自分のやっていることが正反対になっているとは考えていなかったかもしれない、そのことと「戦時協力」の責任とは別問題なので、彼らを弁護するという気は毛頭ない、という趣旨のことも述べている。まったく別の「国民」や「健全」を想定しながら、「それに見合った音楽を創出する」という「基本的な意図」で括り、「一貫」していたと捉える(252頁)というのは、どういうことか。このあたりになると、私にはわかりにくい。  

さらに、「おわりに」における「音楽という一つの素材から出発していますが、その背後にある文化の広がりを多面的に捉えてゆく試みを通して、文化に向けるわれわれのまなざしのあり方自体を問い直そうとするものです。」(282頁)には異論はないけれど、「健全」な「国民音楽」は、「そこに関与する人々のおりなす力学によって、権力側が想定したのとは違う形で物事が進んでゆき、思わぬ展開をみせるようになる」(273頁)という面白さや人々のたくましさにのめり込んでしまうと、権力側の本来の意図や横暴を曖昧にし、基本的な抵抗の姿勢を見失うことにならないか。結果的に、時局便乗や一貫性のない権力周辺の当事者やメデイアの責任回避や免責に傾くことにならないか。

2012年9月、残暑にいささかダウン気味・・・

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2012年9月16日 (日)

緑陰の読書とはいかなかったが②『詩歌と戦争~白秋と民衆、総力戦への「道」』(中野敏男)

 ②『詩歌と戦争~白秋と民衆、総力戦への「道」』(中野敏男 NHKブックス 2012 6月) 

この著者を知ったのは、NHK-ETV特集番組改ざん事件の判決が出る前後、関連の書物の著者やシンポジウムのパネリストとしてであった。なんでNHK ブックス?と単純に反応してしまった。著者も、「あとがき」では、この事件があったので、出版はとん挫しかかったけれども担当者の熱意でこぎつけたとある。「番組改竄事件そのものはいまだに解決されたわけではありませんが」と断りながら。また、オピニオン誌『前夜』(20042007年)にも連載されていた(私も天皇制の特集などの号を購入していたが、12号で突然終刊となってしまったようだ)。 

歌人としての北原白秋について、手元の歌人による作品鑑賞や評伝、文庫解説など幾冊かに、眼を通してみた。各時代の作品鑑賞の手立てとしての伝記的背景や各時代の社会状況と歌壇における白秋の位置づけへの言及はある。また、文芸にかかわる表現者たちがかかわらざるを得なかった、当時の政府や軍部、情報・教育統制機構、メディアの実態や意図を資料から解明する研究も進んできている。しかし、本書のように、短歌・詩のジャンルを超えた北原白秋作詞の童謡・民謡・国民歌謡、校歌や社歌など作品が、広く人々にどのように受け入れられていたかについての言及する論考は少ないのではないか、の思いで読み進めた。 

「序章」の記述によれば、著者の意図は、次のようであった。一つは、関東大震災から戦争に向かう時代の精神を童謡運動の中心にいた北原白秋の軌跡を通して考察することであり、一つは、この時代をともにした民衆の心情の回路、民衆側の生と詩歌曲に寄せる思いや願い、そこから生成してくる歌い踊る民衆の文化運動の広がりを検証し、戦時における民衆の詩歌翼賛に連続する道を確認することである、と(21頁)。もう少し平たく、カバーの折込みの「宣伝文句」には次のようにも書かれている。  

「拡大の一途をたどりつつ公民に奉仕を求める国家、みずから進んで協力する人々、その心情を先取りする詩人、三者は手を取りあうようにして戦時体制を築いてゆく。〈抒情〉から〈翼賛〉へと向かった心情の回路を明らかにし、戦前・戦時・戦後そして現在の一貫性をえぐりだす瞠目の書」            

 本書は、章を分けて、白秋の童謡の「郷愁」というモチーフを通してナショナリズムを、白秋の私生活の危機・小笠原体験の評価とその影響を、地方の新民謡運動とその背景としての植民地主義を、さらに国民歌謡による「詩歌翼賛」への道を考察する。最終章では、19458月敗戦以降も形を変えた自発的文化運動の中でとらえる「詩歌翼賛」、その根底にある民衆の植民地主義の継続を指摘する。
しかし、通読をしていながら、どこかで突っかかる違和感は、なんなのだろうと考える。私は歴史研究や哲学の専門家ではないが、本書において、しばしば遭遇する用語に拠るのではないか、と思い当たるのだった。「民衆」「国民」「ナショナリズム」「本質主義」「植民地主義」、「総力戦」などが自在に瀕用されていながら、明確さに欠けるのもその要因ではなかったか。
 著者は、白秋が「日本の童謡は日本の童謡、日本の子供は日本の子供である」(「童謡私論」1923年)として日本の風土、伝統を、童心を忘れた小学唱歌に抗し、また、「日本には日本の伝統がある。日本に日本の言葉がある」(「民謡私論」1922年)を引用し、楽天的な現状肯定的な明治20年代の民謡ブームが近代日本のナショナリズム形成に参与していたのに比べ、「山野の声」としての新たな民謡の創作によって「本質主義の性格を持ったナショナリズム」いわば「純粋なナショナリズム」へと転回した、と捉える。ここに、「日本の民衆レベルに連なるナショナリズム本質主義の登場を目撃しています」とまとめている(106111頁)。
 
さらに、白秋の提案する「国民歌謡」には、その機能から、皇室・日本頌歌、軍歌、市町の歌・社歌・会歌などの団歌、校歌、国民の生活感情にまつわる生活讃歌に区分され、作歌動機としても自己の感激、委嘱、応募などさまざまで、いずれも「民族精神」につながっていくという構想が見られる。とくに自分の居場所を自覚し、日々の職務や生活に励む姿を讃える生活讃歌は「国民の士気を昂揚する」ことに有効だとする(221223頁)。
 
加えて、19417月に刊行された朗読詩集『詩歌翼賛~日本精神の誌的昂揚のために』第1輯には、白秋の、「今だ今だ今こそ祝はう。紀元二千六百年、ああ遂にこの日が来たのだ」のフレーズがある、実に勇ましい甲高い調子の「紀元二千六百年頌」、佐藤春夫の「送別歌」とともに、島崎藤村「千曲川旅情の歌」、室生犀星「小景異情」などが並ぶ。直接には愛国や戦争を歌ってはいない抒情詩として人々の情感に深く訴え、「民衆の心情を精一杯動員して戦争翼賛に向かわせる」という、いわば「詩歌曲の総力戦」だった(247頁)、とする。
「あとがき」においては、「(日本の)民衆の継続する植民地主義への翼賛やそれと表裏をなす(アジアの)民衆による植民地主義への持続する抵抗から歴史を捉える観点」の欠落を生んできた従来の歴史認識を組み替えたことを強調し、つぎのように述べる。
「これまで現れた〈戦争責任論〉が、日本の近現代に生起した暴力や加害に対する責任という問題の所在を〈戦争〉の時期に限定し、行為主体の責任を問う場合でも国家や軍の指導者及びそれに追随した指導的知識人たちについてだけそれを語っていたことに、意識的に異議を唱えるものとなっています。(中略)このように民衆の責任を考えることは、国家や指導者たちの責任をあいまいにするわけではなく、むしろさまざまなレベルで問われるべき行為責任の問題をそれぞれ特定し、また他方では、行為責任者の交替などによって消滅するわけではない継続する責任の存在をも明確にするはずのことです。責任の清算という問題は、諸個人にとって単に抽象的な倫理の事柄であるだけでなく、現実の行動につながる具体的な実践課題になるだろうとわたしは思っています。」(313314頁)
 
この「あとがき」は、著者の全貌を、全著作を知ることもない一般読者には不親切ではないか。本書のように、「民衆」の責任を「民衆」の心情に分け入って分析しようとすることだけに終始すると、国家や指導者たちの責任がまったく浮上しないし、北原白秋による「詩歌翼賛」への評価も伝わってこない。「あとがき」にある「さまざまなレベルで問われるべき行為責任の問題をそれぞれ特定」することが、本書における「民衆の責任」であったことになるが、このように特定、特化することは、責任の相対化につながり、それこそ、国家・軍部・指導的知識人の責任の軽減する役割をはたし、彼らの救済につながる懸念を払しょくできないでいる。「民衆」「ナショナリズム」「総力戦」ということばのリフレインによって、いっそう曖昧にされることに違和感を覚えたのかもしれない。
 
1896年生まれの私の父は、母は早逝、中学生時代に父を失い中退した。当時は検定で取れた薬剤師の資格をもって、一人朝鮮に渡り、釜山や京城の薬局に勤務していたらしい。朝鮮で20歳を迎え、現地で入隊したらしい。兵役を終えた後は、上海、シンガポールと転々とし、1920年代初めにジョホールのゴム園の診療所の薬剤師となっていたらしい。30歳近くなって、ひとり気ままの暮らしを現地の人々に、当時の平均年齢を思ってか、「結婚しないうちに死んじゃうよ」と言われ、帰国して母と結婚した、ということらしい。一方、1903年生まれの母は、地元の高等女学校を出て、千葉市師範女子部で1年間の教育を受けて小学校教師になっている。父とはもちろん見合いで、そのいきさつはこのブログのどこかで書いたような気もする。長兄の生れる1926年の前年まで勤務していたというから、母のわずかな教師生活、3年間余は、まさに大正自由教育のさなかであったと、よく聞かされた。新しい音楽教育、絵画教育、体育などが導入され、しばしば研修会などに参加したとも語っていた。1940年代、父は、その年齢から兵役を免れ、町内の警防団に参加、長兄は19459月薬専の繰り上げ卒業で兵役に就く予定だったという。当時の肉親のことを思い起こしながら、本書の「民衆」の責任とはなんだったのかを考えるのだった。

2012年9月19日5時過ぎ、わが家の生け垣越しにGedc295_2

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2012年9月 7日 (金)

緑陰の読書とはいかなかったが①「俳人蛇笏・龍太と戦争」(有泉貞夫)

猛暑ゆえ、緑陰の読書とはいかなかったが、この夏は、冷房を調節しながら、少しばかりの本や論文を読んだ。 

①有泉貞夫「俳人蛇笏・龍太と戦争」『私の郷土史・日本近現代史拾遺』(山梨ふるさと文庫 19126月) 

私が8年ぶりに第3歌集『一樹の声』を出し、身近な知人に家から送り始めた頃、国立国会図書館時代の先輩、有泉貞夫氏から『私の郷土史・日本近現代史拾遺』(山梨ふるさと文庫 19126月)を頂いた。発行日は、ともに、615日と同じであった。1960年、学生だった私は、ノンポリながら当たり前のように、国会議事堂付近へはよく安保反対のデモや集会のために足を運んでいた。615日は、大学自治会の列から早めに離れて地下鉄議事堂前から赤坂見附乗換えで、当時通っていた霞町のシナリオ研究所に出かけていた。その帰路の店頭のテレビで樺美智子さんの死を知った。私の615日はそんなだったが、有泉氏の615日にはどんな思いがあったのだろうか。 

氏は、憲政資料室で日本近現代史の種々の資料、主に明治期の政治家たちの文書・書簡などの考証にあたり、その後、大学に移られ、数冊の専門書を出されている。その傍らの郷土史研究で出会った郷土の俳人飯田龍太(19202007)の少年時の戦意高揚標語をめぐるエッセイを読んだことがある。今回の著書には、初めて知ることも多く、興味が尽きない論稿が収められているが、先の龍太に関するエッセイをさらに改稿された論考が収録されていた。いまは、これに限っての紹介と感想をと思う。 

「熱き銃後の真心あれば 満州吹雪もなんのその」 

「銃後固けりゃお国のために 心置きなく花と散る」 

この二つの標語は、1937年、帝国軍人後援会山梨県支会が在満郷土出身将兵の激励と家族援護の機運を盛り上げるために標語を募集、入選20作中の2作で、ともに県立甲府中学校の4年生の飯田龍太の作だったことがわかる。時局迎合の月並みな出来でしかない。龍太は、中学1年生の時の火災予防の標語については、自らも書き残し、弟子にも話すが、先の標語には終生触れることはなかった。そのことが龍太の文業にどう関係したかを探る。旧家の地主で風土に根ざした俳人として評価の高かった父飯田蛇笏との軋轢、不本意ながらの進学、カリエス手術による兵役免除などの負い目があった。四男でありながら、兄たちには病死、戦死で先立たれ、長兄の未亡人と結婚、遺児を引き取るという家族関係、さらに25歳で迎えた戦後は、農地改革による生家の衰退、父蛇笏の老いと落胆という環境の中で、蛇笏の俳句雑誌『雲母』発行を手伝ったり、県立図書館に就職したりして、村に留まった。1954年、最初の句集『百戸の谿』は、伝統的な有季定型を尊重しながらも、前衛、社会性俳句の詠み手を含む俳壇には、好意的に迎えられ、『雲母』への参画も本格化する。 

「野に住めば流人のおもひ初つばめ」「露の村恋ふても友のすくなしや」「露の村墓域とおもふばかりなり」などから窺われる立場から、俳人として注目される存在になっていった。その過程で、龍太は意識的に、先の標語の一件を葬り通したのではないかと推論する。

 

 論考には、父蛇笏の生き方との対比などにふれている部分もあり、興味ぶかいところだったが、要旨として上記のようにまとめてみた。文学、文芸全般の表現者たちの戦時下の著作や活動について、敗戦直後の一時期、戦争責任の問題として論じられてきた。分野によって、その論じられ方の方向や濃淡・精粗が見られる。一時は、ある程度の決着を見て終息したかのようであっても、細い底流となって、今日に至っている。自分に不都合な言動を隠ぺいするのはどうも人間の習性であるかもしれない。しかし、それが公的機関、公的な組織、表現を業とする者である以上は、過去の著作・記録や言動には社会的な責任が生じるのではないか。一俳人のことだけではないような気がする。 

 「原子力明るい未来のエネルギー」の標語が福島県双葉町の街中のアーケードに掲げられているのは、テレビで何度か見た。1987年、あの標語が入選して、街中に掲げられ、誇らしげでもあった少年が、今は妻子とともに他県へ避難し、あの映像を見るたびに胸を痛め、悔恨の念と共に反原発の意を強くしているという新聞記事を読んだ(『東京新聞』2012718日)。 

 過去は水には流せない、過去から学んでこそ、と思うこと頻りであった。

2012年9月19日5時過ぎ、久しぶりの虹Gedc2958 

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2012年9月 6日 (木)

8月市議会傍聴、航空機騒音について

  8月市議会と言っても、一般質問は、93日からであった。6月議会では一人会派民主党のT議員が質問したことは、このブログでも記事にした。http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2012/08/post-bd02-1.html 

今回は、T議員と最大会派のH議員も質問するという。質問通告を知って、その後どのくらい調査を進め、対策は進んでいるだろうか。ともかく私のこれまでの資料を2議員には送付しておいた。  

 今回は、H議員の質疑しか傍聴できなかったが、私が資料の中で強調したかったことは、いくつかあった。

 

①佐倉市も議員も積極的には調べようとしない、羽田空港拡張後20101021日以来の風向き天候別による「佐倉市上空を飛行する可能性のあった羽田着陸便数」調査を国交省  東京航空局に依頼、その調査結果をともかく入手したので、それ自体を行政も議員も認識すること。 

②その上で、佐倉市における騒音の実態を国交省に測定させ、それを補完する佐倉市独自の測定を強く要望すること。季節、時間を問わず、場所も1か所と言わず通年の調査を目指すこと。今回、志津浄水場の国交省による1週間の臨時測定に甘んずることなく、測定結果の広報はもちろん、独自測定に取り組むこと。 

③千葉市や浦安市は、早くより航空機騒音についての情報を市民に広報し、その軽減策を、市長が市民と共に取り組んでいる姿勢が見える。千葉市は、試験的とはいえ、8月から千葉市上空の飛行高度を一部4000ftからともかくひきあげることを取り付けた。佐倉市の現地視察・調査はいまだ皆無である。佐倉市における関係情報は、まるで隠ぺいするかのような対応で、ホームページ上での検索は分かりにくい。関係の「市民の声」の件数もわからないし、おざなりの回答、その公表も恣意的、9か月遅れの公表もある。すべてが航空機騒音対策の市政の表れである。今後は、市民にも航空機騒音の実態を知らせ、その対策を市民と共に考える流れを作ること。飛行便数が確実に増えることは分かっているのだから。 

④羽田空港の滑走路拡充にあたっての経過説明が佐倉市HP「航空機について」においてなされているが、これを読む限りでも、沿岸部の千葉市、浦安市、船橋市など14市は、少なくとも飛行ルート決定の相談にあずかったが、影響が出る、佐倉市を含む他の12市町村については、決定後の26市町協議会に参加を呼びかけられたことになる。年に2回しか開かれないこの協議会を唯一の窓口としてしか、佐倉市は動いていないこと。 

⑤これは佐倉市の問題というより、国レベルの話になる。なぜ千葉県内陸に羽田空港発着便の低空飛行が増加したのか、の根源は、横田基地の存在にあるからだ。すなわち羽田空港の西側の東京湾、神奈川県上空が米軍の制空権下にあり、日本の航空機が飛行できないとする条約があるからである。日米安保条約に基づくもので、日本の空であって、日本の空ではないという実態からくる。だから、日本の航空機の飛行が千葉県上空に集中し、羽田空港、成田空港の拡大・拡充の途上にあるなか、根本の問題を解決しない限り、千葉県上空の飛行状況、騒音その他のリスクは深刻になるばかりである。この点を、佐倉市、議員、市民も認識すること。

 

 H議員の質問は淡々として行儀はいいものの迫力に欠けていたのが、残念だった。しかし、低空飛行の12001300メートル を実感するための東京スカイツリーの2倍ほどの高さでしかないという例えなど、私など思いつかないことだった。また、ユーカリが丘駅前の高さ100mのマンションの住人の恐怖感などは実感がこもっていた。また、横田基地の件、26市町村(現在は25市町)協議会の欺瞞性などについても若干触れていたが、経過を知らない議員、現在の行政担当者にどのくらい届いたか。答弁は、その重要事項については一切触れなかったし、多数会派からの質問と見てか、緊張感のないおざなりの答弁しかしていなかった。

<お詫びと訂正>上記低空1200~1300フィートは、メートルの間違いでした。お詫びして訂正いたします。コメントの「くう」さん、ご指摘ありがとうございます。

<追補> この夏、犬の散歩や夜のウオーキングの際に、飛行便数の目視調査を実施しています。その中で、国交省羽田事務所から聞いている羽田空港着陸便の飛行ルートとは異なる東から西へ、比較的高い高度で飛び航空機があることがわかりました。羽田事務所に問い合わせると、成田空港の離陸便ではないか、とのことでした。成田空港の発着便は佐倉市の東側を飛行しているものとばかり思っていましたので、成田空港に問い合わせました。さっそく佐倉市上空の飛行便数のデータをお願いしましたところ、羽田空港のようなシステムをとっていないので、簡単には出ないということでしたが、概数は出るかもしれないとのこと。届きましたらお知らせします。高度は高いとはいえ、成田を発って中国などに向かう離陸機が一度太平洋側に南下した後、再び北上するときに佐倉上空を飛行するとのことでした。(9月7日記)

<追補2>成田空港事務所から依頼した調査の回答が届きました。それによると1日約60便ですから、羽田空港着陸便の約半数近い便が飛んでいるわけです。多いときは1時間に8機ぐらい飛んでいます。調査では約2万フィート、約6000メートルの高度とのことですが、かなり気になる騒音でもっと低いようにも感じられます。(9月17日記)

 

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2012年9月 5日 (水)

「荒谷直之介展~人へのまなざし」、佐倉市立美術館へ

  今回は個展なので、90点余りの作品を、ぜいたくな空間で鑑賞することができた。見かけた入館者は45人とまばらであった。今年3月、佐倉市立美術館で出会った荒谷の水彩画については、すでにブログ記事にもしているので、あわせてご覧いただければありがたい。
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2012/03/index.html
 まず、今回のカタログの解説「昭和の水彩画家、荒谷直之介(19021994年)」を参考に、その生涯を私の恣意的な年表で簡単にたどってみよう。

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1914年(大正3年):1902年、富山市に生まれ、高等小学校を中退、12歳で画家を目指して上京、働きながら、一時は帰郷、病気静養を続けながら何人かの師に私淑、修業をし、16歳で再度上京。

1920年(大正9年):18歳で東京葵橋洋画研究所に入り黒田清輝に師事、第7回日本水彩画会展で「夜の自画像」が入選する。以降、美術・出版関係の仕事の傍ら作品制作を続け、日本水彩画会展への出品を続ける。

1925年ごろ:水彩画に行き詰まりを感じ、から透明感のある水彩画から重厚感を求めて、一時油彩に転じる。結婚、1936年までに5男児に恵まれる。

1935年前後:不透明色を併用することによって、重厚感を与え、力強さが表現できるよう研究を重ね、水彩画に復帰する。

1939年:第3回一水会展に「版画家K氏の像」(翌年昭和洋画奨励賞を受賞)「少女立像」入選。春日部たすく、小堀進らと水彩連盟結成する。池袋に転居。

1940年:紀元二千六百年奉祝美術展に「少年立像」出品、第1回水彩連盟展に人物画5点出品。「婦女界」(194210月・11月・19431月)など表紙絵を手掛ける。

1945年:富山市に疎開、被災。一水会会員となる。翌年県内大門町に転居(~1948年)

1950年:第6回日展委嘱として出品。

1962年:4月より半年間、小堀進とのヨーロッパ旅行

1964年:有島生馬門下、東郷青児の再興による、海老原喜之助、児島善三郎らの「黒門会」に田崎広助らと参加、1976年まで、黒門会展に出品。

1967年:NHKテレビ「婦人百科」の「水彩画の描き方」に出演

1968年:佐倉市上志津にアトリエを移し、東大崎より転居する。この頃、日動画廊、三越などでの個展開催。

1985年:眼を患い、恒例だった水彩連盟展、日展、一水会展などへの出品を中断。

1986年:第45回記念水彩連盟展に「憩う裸婦」と旧作「三人の像」(1951年)出  品、1987年第49回一水会展に「母子静日」、日展に「チョッキの娘」を出品、以降、新作は、新春佐倉美術展への出品のみとなり、晩年は市内、茨城県、富山県などでの回顧展、美術展への出品が続く。1994年、佐倉市内で肺炎のため死去。

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人物画のいろいろ

 今回の展示は、編年体だったので、流れがよくわかった。もちろん制作年の不明なものもあるが、そこは総合的に考証してくれたものだろう。展示の副題にあるように、人物画が圧倒的に多く、どれも、描く人物への愛情がにじみでている、その穏やかさは格別である。自画像に始まり、師や友人・知人、そして家族、モデルの裸婦のポーズや表情にも優しさがあふれている。「水彩では、静物や風景は描きやすいけれど、人物は難しいんですよ」と、会場の出口でアンケートを並んで書いたご縁で、言葉を交わした年配男性の言葉だ。「とくに肌の色が難しい」と心得のある方らしい。東京からわざわざお出かけだったとのこと。

私が着目した人物画は、友人、師たちへのまなざしであった。先の3月のブログ記事でも触れた「版画家K氏の像」(1939年)であり、今回の展示ではじめて観る、敗戦後に描かれた「小堀進像」(1950)「三人の像」(1951)には、志を共にした、小堀、春日部たすくへの信頼感とその個性の存在感を十分描き切っているようだった。また、「柏亭先生像」(1952)後年の「有島先生像」(1970)には、荒谷の石井や有島への畏敬の念とそれに自然と応えているわだかまりのない表情が、細部にわたって、とても魅力的に描かれていた。家族やモデルたちへの眼とは、これらとは少し違うのかもしれない。「癒される」という言葉は好きではないので使わないが、何かほっとする感じである。

 

 

戦時下の作品をみる

 

前後するが、私が、第1室の入り口の脇にある年譜をしばし眺めていると、会場の女性係員が「順路はこちらからです」と注意してくださるのだが。その年譜を見ながら、20世紀を駆け抜けてきた太平洋戦時下の荒谷はどうであったのかも気になっていた。私が50年ほどかかわっている短歌結社誌『ポトナム』の1942年の表紙絵にも「新進」荒谷の女性像を見出したからである。また、今、私が検索のさなかである婦人雑誌『婦人界』の1942年~43年の表紙も飾っていることが分かったが、今回展示の絵とも違うので、何回か登場しているのだろうか。今回は、参考図版としてカタログ内の白黒の写真でしか見られないのだが、荒谷の描いた数点がある。「紀元二千六百年奉祝美術展」に出品した「少年立像」は、ご覧の通りで、息子さんの一人だろうか、剣道着を身に着けた、きりりとした少年の姿だった。また、当時の家庭や子どもたちの風景として着目した作品に「模型飛行機で遊ぶ二人の男の子」(1943)がある。それに、「職場の娘たち」(19436回新文展)「工場風景」 「福岡の工場」「綿内銅山」(いずれも1943年頃)は、どこで発表されたか定かでないものがあるが、時代の要請を受けたと思われる。だが、そこに働く人々の群像が遠景としてしか描かれていない。「福岡の工場」には、人影すら見えない。当時、荒谷がほかにどんな作品を残したか、いまの私にはわからないが、これらの作品を通じても、ほっとした感慨を覚えるのはなぜなのだろうか。同じ頃の作品に、大きな岩崖を背景にボートに相寄って天草をとる海女たちを描いた「天草をとる海女」(1943)という作品がある。ミュージアムショップにあった数少ない絵葉書の中から選んだ1枚だったのだが、不覚にも、この絵の裏が、先の「模型飛行機で遊ぶ二人の男の子」(1943)であったことを、家へ帰ってから知ったような有様だった。1943年、このような人の心に残る絵を惜しげもなく裏表に描いていたなんて・・・、用紙に不自由していたわけでもないだろうに、と妙に感動してしまった

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「模型飛行機で遊ぶ二人の男の子」佐倉市立美術館HPより

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「天草をとる海女」絵葉書きより

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戦時下の作品 カタログの参考図版より

生い立ちをさかのぼると

 カタログの「解説」によると、「自伝草稿」なるものが遺族のもとに残されている。それには、「学歴もなく変則的な独学でどうやら今日あるのは多くの先生方のお引き立てとよき友人、それに後援者の方々の御好意の賜もので常日頃感謝の念が頭からはなれた事がないが人の二倍、三倍の努力をしたことも事実である」というくだりがある。こうした心持が、上記人物画には反映されているからであろう。

 とくに、1914年、12歳でひとり上京して、入った職場については、「神田で鏡台の卸商をやって」いたところで、「そこに先輩として働いていた人で啄木の崇拝者で後に生活派の歌人として名を成した渡辺順三さんが居ていろいろ相談にものって呉れ又文学の話しなど聞かせて貰い大いに啓発された」として、順三から講義録をもらったり、夜学に通えるよう心配してもらったりして有難かった、と記す。

 ここからが私の悪い癖で、渡辺順三の自伝「烈風の中を」(東邦出版社 1973年)を開くが荒谷に触れた部分はない。しかし、当時の職場の様子がかなり詳しい。富山市出身の鏑木松春が苦労の末、1906年に開業した家具製造卸の鏑木商会で、同じ富山市出身の順三は、母親と上京、1907年、13歳の時から住み込みで働き出し、母親は、別のお屋敷で女中として働いていたという。順三自身は、1923年までの16年間勤めた後、独立して印刷所を共同開業したが、その年、関東大震災に遭う。この家具卸商は、もちろん鏡台ばかりでなく、家具を手広く扱い、三越などにも出入りするようになったといい、順三は、社長夫妻には何かとかわいがられたと、なつかしむことが多い。荒谷は、1916年には病気で一時帰郷するので、短い間の職場であったはずだが、順三との出会いは、いい思い出であったようだ。

 1972年に没した渡辺順三には、会ってはいない。歌壇の賞には全く縁のない私だが、渡辺順三賞というのを頂いた記憶がある。あれは、私がまだ名古屋の職場にいた頃ではなかったか、1987年だったと思う。1988年『短歌と天皇制』の上梓を後押してもらったような気がしている。 

 

佐倉市との縁ほか

 

 佐倉市に長く住んでいる人は、次の絵には見覚えがあるのではないか。1972年日展出品の「孫との像」で、しばらくの間、自治会の回覧板のファイルの表紙絵となっていた。また、印旛沼の風景も何点かあるのか、今回、佐倉市民ホール所蔵の「静日印旛沼」(1985)が展示されていた。また、志津コミュニティセンターには「あに、いもと」(1964年、日展審査員として出品)が展示されている。

 なお、年譜によれば、1980年、伊東正明、左右木愛弼、前田正夫と共に「水彩秀作20人展」(日動サロン)を開催とあるが、一水会の伊東正明先生は、中学校時代1年次の担任でもあり、図工の先生だったのだ。私は、なんと先生率いる美術部に入部していた時期もがあった。1950年代のことで、だいぶ前のブログにも書いたことがあるが、その直後、伊東先生の縁者の方からコメントをいただくというハプニングもあった。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2007/04/post_69b9.html

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「孫との像」カタログより(回覧板ファイルの表紙)

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「あに、いもと」カタログより(志津コミュニティーセンター)

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入場券半券とチラシの裏(「有島先生像」が上段中央)

 

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