緑陰の読書とはいかなかったが①「俳人蛇笏・龍太と戦争」(有泉貞夫)
猛暑ゆえ、緑陰の読書とはいかなかったが、この夏は、冷房を調節しながら、少しばかりの本や論文を読んだ。
①有泉貞夫「俳人蛇笏・龍太と戦争」『私の郷土史・日本近現代史拾遺』(山梨ふるさと文庫 1912年6月)
私が8年ぶりに第3歌集『一樹の声』を出し、身近な知人に家から送り始めた頃、国立国会図書館時代の先輩、有泉貞夫氏から『私の郷土史・日本近現代史拾遺』(山梨ふるさと文庫 1912年6月)を頂いた。発行日は、ともに、6月15日と同じであった。1960年、学生だった私は、ノンポリながら当たり前のように、国会議事堂付近へはよく安保反対のデモや集会のために足を運んでいた。6月15日は、大学自治会の列から早めに離れて地下鉄議事堂前から赤坂見附乗換えで、当時通っていた霞町のシナリオ研究所に出かけていた。その帰路の店頭のテレビで樺美智子さんの死を知った。私の6月15日はそんなだったが、有泉氏の6月15日にはどんな思いがあったのだろうか。
氏は、憲政資料室で日本近現代史の種々の資料、主に明治期の政治家たちの文書・書簡などの考証にあたり、その後、大学に移られ、数冊の専門書を出されている。その傍らの郷土史研究で出会った郷土の俳人飯田龍太(1920~2007)の少年時の戦意高揚標語をめぐるエッセイを読んだことがある。今回の著書には、初めて知ることも多く、興味が尽きない論稿が収められているが、先の龍太に関するエッセイをさらに改稿された論考が収録されていた。いまは、これに限っての紹介と感想をと思う。
「熱き銃後の真心あれば 満州吹雪もなんのその」
「銃後固けりゃお国のために 心置きなく花と散る」
この二つの標語は、1937年、帝国軍人後援会山梨県支会が在満郷土出身将兵の激励と家族援護の機運を盛り上げるために標語を募集、入選20作中の2作で、ともに県立甲府中学校の4年生の飯田龍太の作だったことがわかる。時局迎合の月並みな出来でしかない。龍太は、中学1年生の時の火災予防の標語については、自らも書き残し、弟子にも話すが、先の標語には終生触れることはなかった。そのことが龍太の文業にどう関係したかを探る。旧家の地主で風土に根ざした俳人として評価の高かった父飯田蛇笏との軋轢、不本意ながらの進学、カリエス手術による兵役免除などの負い目があった。四男でありながら、兄たちには病死、戦死で先立たれ、長兄の未亡人と結婚、遺児を引き取るという家族関係、さらに25歳で迎えた戦後は、農地改革による生家の衰退、父蛇笏の老いと落胆という環境の中で、蛇笏の俳句雑誌『雲母』発行を手伝ったり、県立図書館に就職したりして、村に留まった。1954年、最初の句集『百戸の谿』は、伝統的な有季定型を尊重しながらも、前衛、社会性俳句の詠み手を含む俳壇には、好意的に迎えられ、『雲母』への参画も本格化する。
「野に住めば流人のおもひ初つばめ」「露の村恋ふても友のすくなしや」「露の村墓域とおもふばかりなり」などから窺われる立場から、俳人として注目される存在になっていった。その過程で、龍太は意識的に、先の標語の一件を葬り通したのではないかと推論する。
論考には、父蛇笏の生き方との対比などにふれている部分もあり、興味ぶかいところだったが、要旨として上記のようにまとめてみた。文学、文芸全般の表現者たちの戦時下の著作や活動について、敗戦直後の一時期、戦争責任の問題として論じられてきた。分野によって、その論じられ方の方向や濃淡・精粗が見られる。一時は、ある程度の決着を見て終息したかのようであっても、細い底流となって、今日に至っている。自分に不都合な言動を隠ぺいするのはどうも人間の習性であるかもしれない。しかし、それが公的機関、公的な組織、表現を業とする者である以上は、過去の著作・記録や言動には社会的な責任が生じるのではないか。一俳人のことだけではないような気がする。
「原子力明るい未来のエネルギー」の標語が福島県双葉町の街中のアーケードに掲げられているのは、テレビで何度か見た。1987年、あの標語が入選して、街中に掲げられ、誇らしげでもあった少年が、今は妻子とともに他県へ避難し、あの映像を見るたびに胸を痛め、悔恨の念と共に反原発の意を強くしているという新聞記事を読んだ(『東京新聞』2012年7月18日)。
過去は水には流せない、過去から学んでこそ、と思うこと頻りであった。
2012年9月19日5時過ぎ、久しぶりの虹
| 固定リンク
コメント